風使いー穹-

風に愛された少女
村上ユキ
村上ユキ

第三章 力を持った意味

012 少女の見た夢

公開日時: 2022年10月23日(日) 15:30
文字数:9,446

 今、夢を見ている。


 ぼんやりとしながら、穹は自覚していた。


 どこまでも続く青空。どこまでも広がる草原。凹凸も山もなく、雲一つない。まるで白い画用紙に、二色の絵の具で塗り分けたように味気ない。


 耳に痛い位に静かで、そよ風に吹かれて揺らぐ足元の草から音色が聞こえてきそうだった。


 夢だと分かるのは、ここがまるで見覚えのない場所だったからだ。世界中を探せばどこかにある場所かも知れないが、穹は間違いなく来た覚えのない場所だ。


 だからか、何となく落ち着かない。自分の今の気持ちを反映したかのような場所なのに、自分の意思が全く介入されていないという、ちぐはぐな印象を受けるからだろうか。


 それに、体が全く動かない。首や視線はある程度動かせるものの、それ以外は全く動かせない。腕を動かすどころか指も動かせず、足は棒になったかのように感覚がない。


 動かない体に不安を覚えそうだが、漠然と大丈夫と言う思いもあって、特に心配はしていなかった。


 気になるのは、どうしてこんな夢を唐突に見ているかだ。


 今までこんな夢は見ていない。もしくは見たかもしれないが、こうやって自覚しているのは初めてだ。


 ならば、何かあるのだろうか。自分の見る夢については気にしていないのだが、何かあると思ってしまうような状況だった。


 時々肌を撫でるそよ風を感じながら、穹は動けないながらも特に身構えるでもなく待ち続けた。


「……」


 物思いにふけっていた時だった。耳元で聞こえたような、遠くから聞こえたような、不思議な距離感で声が聞こえた。


 その声は、風の声によく似ていた。耳に心地よく、心穏やかにしてくれる声。不思議に思ったのは、いつもより鮮明に聞こえてきたからだ。


 声のした方に、顔を向けてみる。と言っても、視線を上から、正面に向けただけだが。


 視線を向けた先には、子供が立っていた。突然現れた自分以外の存在に、穹は動けないながらも驚いた。


 視線だけで周囲を見た限り、穹以外に人は居なかったはずだ。しかも子供は正面に唐突に表れた。驚きはしたが動けるわけでもないので、じっと、その子供を観察する。


 どうやら、その子は女の子のようだった。来ている服は生地の薄い白のワンピース。光の加減でシルエットが分かる程で、幼い少女特有の丸みを帯びた体を薄く映し出している。髪は地面に届きそうな程に長く、緑と青の交じりあった不思議な色合いをしている。


 顔は、何故かよく分からない。口元は分かるのだが、鼻から上は影が掛かったように判別できなかった。


 まるでそれがその子供との距離のような気がして、なんだか、穹は悲しくなってきた。


 けれど、穹はこの女の子を知っている気がする。記憶があいまいになる程遠い昔に、どこかで会っているような気がしたのだ。ただそこがどこだったのか、まるで記憶が切り抜かれたように思い出せない。


 話をしたい。言葉を交わしたい。そう思うのに、穹は口を開けなかった。どうやら、喋るのも出来ないらしい。


 そんな穹に気が付いたのか、子供は口元に笑みを浮かべた。目を見なくても分かる。とても悲しい、辛そうな笑みだった。


 余計に、穹は悲しくなる。


 きっと、子供と話を出来ないのは穹に何かしら原因がある。距離を取られているのではなく、穹の方から距離を取っているのだ。動けない体と喋れない今が、何よりの証拠のように思える。


 どうしようもない今に打ちひしがれていると、子供はまた、何かを喋った。


「……よ……る?」


 耳心地の言い透き通るような声なのに、単語は途切れ途切れでほとんど聞き取れなかった。穹がますます悲しく思っていると、子供にも伝わったのか、どこか辛そうに顔を伏せた。


 頬伝って透明な雫が流れ落ち、風にさらわれてキラキラと光を反射している。


 それは涙だ。穹と話が出来ないばかりに、子供は涙を流すほどに悲しんでいるのだ。


 泣いてほしくない。悲しませたくない。そう思うのに、穹は何もできなかった。


 思いとは裏腹に何もできない。それが悔しくて辛くても、あの子供に伝えらない。もどかしく思いながら、夢は進んでいく。


 言葉が伝わらないどころか、穹が答えらないと分かると、子供の姿が徐々に消え始めた。


 まるで風に流されていくかのように、子供の姿が不鮮明になっていく。待って欲しいと穹は叫びたかったが、やはり、穹は何も出来ないままだった。


 やがて穹の意思も覚醒の兆しを見せた。体の感覚が戻り始めて、この夢の世界があいまいとなり、現実の体の感覚が強くなり始める。


 結局、あの子供が誰なのか。分からないままだった。



 ☆




 微睡みから意識を取り戻して、穹はゆっくりと瞼を開けた。


 外からの光に照らされているのは、見慣れたいつもの部屋だった。昨日の内に準備した通学鞄も、ハンガーに掛けた制服も、寝る前の状態のままだ。


 あの夢は、なんだったのだろうか。あの子供は、誰だったのだろうか。ぼんやりと夢を思い出してみるが、これと言って思いつかなかった。


 目覚ましを確認してみると、起きるまでまだ時間があった。だが、もう少し寝ている気分にもなれなくて、穹は体を起こす。


 カッツェは、部屋の隅に敷いたクッションで丸くなっている。穹が起きたのには気が付いているようで、片方の耳がピクピク動いてる。ただ挨拶をするつもりはないのか、丸くなったままだ。


 寝続けるつもりのようなので、穹は起こさないまま手早く着替えを済ませて、顔を洗いに部屋を出た。


 一階に降りると、紅葉はもう起きていて、朝食の準備を始めていた。降りてきた穹には気が付いていないようで、料理を続けている。


 少し眺めてから、穹は特に挨拶はしないで洗面台に向かう。


 自分の酷い顔を見返してから、冷水を流し始める。両手にたっぷりと水を溜めて何度も顔を洗う。顔が冷やされて眠気は落ち着いたが、心に溜まったわだかまりは残ったままだった。


 ぼんやりと思い出させる、夢の中で見た子供と声。あの声は間違いなく風の声だったように思う。それに、何かを喋っていた。きっと穹に何かを伝えたかったのだろう。


 知りたい。夢の中で見た悲しい顔を思い出すたび、そんな思いが強くなっていく。


 なのに、何故だろう。その思いがあるのに、どことなく恐怖に似た感覚も強くなっているような気がした。


 どちらが強いかと言われると、知りたいと思う気持ちが強い。強いのに、同じように恐怖感も増していっている気がした。


 何かあるのかもしれない。あの子供と穹との間に、思い出せない何かがあるのだ。そして穹自身が、思い出すのを拒否してしまっている。


「はぁ」


 一つため息を吐いてから、穹はもう一度顔を洗う。冷たい水でも暗い気分は洗い流せるものでは無かったが、ともかく考えるのは後にする。


 これから三柴家との朝食がある。気まずい空気になるのは分かっているのだから、気を付けなければならない。


 時間をずらせばいいかもしれないが、元来の性格故か、一人だけ時間を分けて朝食を食べるのが出来なかった。寂しいと言う訳ではなく、時間をずらしたために発生する手間をかけされるのが嫌なのだ。


 基本的に、穹は三柴家は嫌いではない。小さい頃からお世話になっているし、家族同然のように扱ってくれているのでむしろ好ましく思っている。なので、一緒に食事をするのには抵抗はないのだ。


 ただ、負い目と言うのか。自分自身の感情の整理が出来ていない今は、どうしても距離を取りがちになってしまう。


 そうして自分に言い訳をしながら、今日も変わらない一日を過ごすのだ。


「おや。穹さん、おはよう」


 洗面所から出た所で、昭雄と遭遇する。


 不意の出会いに、穹は一瞬言葉に詰まった。


 昭雄はすでに仕事行きの装いだった。背広こそ着ていないが、穏やかな顔立ちに、白いシャツが良く映えている。穹に挨拶できたのが嬉しいのか、柔和な笑みを浮かべている。


 心中穏やかでない穹には、その笑顔が辛かった。言葉に詰まってから、穹は思わず顔を反らしてしまった。


「おはよう、ございます」


 そうして絞り出すように挨拶を返してから、昭雄の脇を急ぎ足で抜けて洗面所を後にした。


 昭雄の顔は、もう見られなかった。きっとあの笑顔を浮かべたままなのだと思うが、穹には確かめられなかった。


 逃げるようにダイニングに戻ると、朝食の準備はもう終わっているようだった。朝食の並べられたテーブルには海人がすでに座っていて、急ぎ足で現れた穹を驚いた顔で見ている。


 海人の反応に気が付いて、紅葉も穹の方に顔を向けた。紅葉は特に驚いた様子はなく、穹の顔を見られて嬉しそうに微笑んでいる。


「おはようございます、穹さん」


「おはよう、穹。なにかあったか?」


 二人がそれぞれ挨拶をして、海人が何があったのかを尋ねてくる。


 家族で食事をするのに穹が乗り気ではないのは、三柴家も理解している。なので、例え暗い雰囲気を出していても、あえて聞かないようにはしていた。だが、今朝の穹は普段以上に落ち込んでいるように見える。


 これには流石に、海人も不思議に思ったらしかった。気を使って会話を広げないようにしていたが、ただならぬ様子に聞かない訳にはいかなかったようだ。


 聞かないだけだったが、紅葉も気になっているみたいで、表情から穹を気にかけているのが伝わってくる。


 夢見が悪かっただけ。ただ一言そう答えて、愛想よく笑えば切り抜けられる話題なのだ。


 けれど、それすらも穹には答えられなかった。紅葉の顔を見ると、途端に言葉が出てこなくなる。暗かった顔を更に苦々しいものに変えて、目を反らしてしまう。


「なんでもない、おはよう」


 ややぶっきらぼうに返事をして、穹は用意されていた自分の席に腰かけた。何も言わなくても、これ以上話すつもりがないのを物語っていた。


 この反応にも慣れたもので、海人は仕方なしと肩をすくめ、紅葉は悲しそうな顔をして準備の続きを始めた。


 それから昭雄も合流して、いつもの三柴家と穹の朝食が進められる。海人が学校での出来事を話して、昭雄と紅葉が笑顔で頷いていた。


 それを横目に穹は黙々と食べ続けるのも、また同じだった。けれどいつもと違うのは、この団らんの気まずさでを感じていたのではなく、未だ頭から離れない夢の内容だった。


 食事を進めながらも、夢の景色が沸くように思い出される。二色しかない味気ない風景と、涙を流す女の子。記憶を辿ってみても、やはり穹にはそんな場所に覚えはなかった。


 カッツェなら何か知っているかな?


 たどり着かない思いをしていた時、穹はふと、部屋で寝ているカッツェを思い出した。


 自分から色々語らないカッツェではあるが、聞けば丁寧に答えてくれる。何も知らない穹よりも知識が多い。


 流石に恐怖感までは知っているとは思えないが、夢の内容について何か分かるかもしれない。


 この後カッツェの分の朝食を用意しなければならないから、その時に聞いてみた方がいいかもしれない。


 そう思うと気持ちが焦ったか、穹の食べる速度が心なしか早くなった。正面から見ていた紅葉は気が付いていたようだが、何も聞かないで、海人の話に意識を戻した。


 その間にも穹一人で食事を進め、一足先に食べ終えると食器を片付け始めた。


「ごちそうさまでした」


 挨拶をして、先んじてリビングを後にする。紅葉と海人は何か言いたそうな顔をしていたが、意識しないようにして自室に向かった。


 逃げるように自室に向かう足は速く、階段を踏む足は普段より荒々しかった。


 部屋に戻ると、カッツェはもう起きていた。クッションは空になっていて、カッツェは窓際に座って外を眺めている。


 黄昏ていると言う訳でもなく、ただ眺めていると言った感じだ。穹の入室に気が付いて、耳がピクピク動いている。


 どうにもここが落ち着ける空間になっている気がして、穹は一つ息を吐いてから、カッツェの朝食の準備を始める。


 用意するのは、商店街のペットショップで買った人も食べられそうなパック入りの物。冗談めかしにカリカリ系の餌も買うか聞いてみたが、本人が物凄く渋い顔で固辞したのだ。どうやら、本人のプライド的に許されなかったらしい。


 これのいい所は、この容器のまま出せるところ。普通の猫なら皿などに移して食べさせるのだが、カッツェならその心配はいらない。と言うより、猫用の皿を購入しようとしたら断固拒否された。


「カッツェ、良いよ」


「ああ」


 準備と言っても、カバーを外してテーブルに置いただけである。


 声をかけると、カッツェは素直に返事をしてテーブルに移動してきた。


 しばし、何かを考えるかのようにキャットフードを眺めてから、顔を容器に突っ込んで一口。顔を上げてしばらく咀嚼してから、意を決して飲み込んだ。


 ここまでの工程で何かを持っていかれたのか、飲み込んでしばらく固まってから、どんよりと肩を落とした。


「何かを失った気がする」


「猫としては何かを得たんだからいいんじゃない?」


「ひどい言い草だな」


 どうやら猫の餌を食べたのに衝撃を受けてしまったようだ。味の感想は特になく、二口目からは何も言わないで食べ進めていく。


 こういった猫用の餌類は、別に人間が食べられないと言う訳ではない。実際に食べたと言う話がある通り、人間に害があるわけではなく、物足りなく感じる上に猫用の餌であると言う抵抗感が強いのが原因だろう。


 もっともカッツェの思う通り、人間が猫の餌を食べた時の何かしらの喪失感はあるのかもしれない。穹も初めてこういった餌類を購入したが、食べてみたいかも、と少し思ってしまった。


 が、もちろん食べたわけではない。カッツェが執拗に食べるよう言ってきたが、学校へ行く準備を理由に断っておく。


 何か悟りを開いたかのような表情をするカッツェを横目に、穹は出発の準備を始める。いつも通り道具類はもう入れてあるので、忘れ物がないかを軽く確認してから、上着を着るだけだった。


「ねぇ、カッツェ」


「ん?」


「使役者ってさ、夢、見るの?」


「夢?」


 穹の質問にすぐに思い当たるのがなかったのか、カッツェは首を傾げた。


 座布団に座りなおした穹は、改めて夢の説明をした。夜寝ていた時に見ていた夢の話を、覚えている中で細かく伝えていく。


 一応聞く姿勢をカッツェは見せていたが、所々でキャットフードを食べていたので、どうにも真面目になれなかったが。


 一通り説明を終えたころで、カッツェは出されたキャットフードを綺麗に食べ終わっていた。やはり猫の餌を食べるのに納得いかなかったのか、心持ち早く食べていたように思う。


 食べ終わってから少し、言葉を探すかのようにカッツェはしばらく何も言わなかった。口に残った餌を咀嚼しているのが何とも言えないが、真剣に考えてくれていると思いたかった。


「流石のボクでも、全容を把握できている訳ではないから絶対という訳ではないが」


 咀嚼していたキャットフードを飲み込んでから、カッツェは何かを探るように穹を見つめてきた。


 吸い込まれるような琥珀色の瞳に、穹は心持ち姿勢を正してカッツェを見つめ返した。


「おそらく、夢に出てきたと言う少女は自然の意思で間違いはない。が、自然の意思が自発的に使役者に干渉して夢に登場する、なんて話は初めて聞いたな」


「そう、なんだ」


 何やら諭すような言い方に、穹は返す言葉が思い浮かばずに頷くしかなかった。


 どうやら穹が想像していた通り、夢に出てきた少女は自然の意思なのだろう。ただ、この事態はカッツェでも分からなかったようで、詳しくは知らないらしい。


 しかし。


 カッツェは、何かを隠してる。


 穹はそう思った。


 質問には答えてくれている。納得のいく答えはなかったが、逆に言えば、穹自身が何かしら特殊な事情が発生しているのは理解した。しかもそれが、説明されても分からない何かであるのだろう。


 それでもカッツェは、何かしらの回答を持っているようにも思えた。


 多くを語らないのか、必要な内容しか話さないのかは分からない。でもカッツェには、この穹が抱いている違和感に何かしら答えを見出しているのではないかと、漠然と感じ取れるのだ。


 理屈はない。まだ数日の付き合いでしかない穹は、このカッツェと言う存在をそこまで深く理解している訳ではない。


 ゆえに、これは本当にただの直感でしかない。もしかしたら仮説程度なのかもしれないが、カッツェは穹の異変に何かしらの考えをもっている気がしてならない。


 そしてその考えを、カッツェは話すつもりが無いのだ。穹に対する気遣いかもしれない。あるいは、不確定な話をしたくないだけかもしれない。


 分かるのは、カッツェの中ではまだ、穹に話をする時ではないと判断しているのだろう。それでも話をしてもらいたいとは思ったが、何を言っても話しては貰えないとも思えた。


 そんな考えをカッツェはすぐに察したようだが、やはりそれ以上は語らなかった。


「さて、と」


 どこかわざとらしく、カッツェは声に出して穹から視線を外すと、不意に窓の方へと顔を向けた。


 思わずと言った様子で、穹も釣られて窓の方を向く。


「アヤメ、だっけ? あの女の子が外で待っているみたいだけど?」


「え、嘘!」


 カッツェの言葉に、穹は慌てて窓に近づいた。


 覗いて玄関を見てみると、確かに、門扉の所に寄り掛かるようにして見覚えのある少女の後姿が見えた。間違いなく、あの少女はアヤメだった。


 なぜ?


 と、穹の頭に疑問が浮かんだ。時々ではあるが、穹はアヤメと一緒に登校はしている。ただ、学校と家の方向が違うと言うのもあって、頻度はあまり多くない。加えて、もし一緒に登校する時には事前に連絡がくるはずだ。


 準備の時にも携帯を確認しているが、もちろん、アヤメからの連絡は来ていなかった。


 覚えている中でも、アヤメが事前連絡も無しに来たことはない。時々暴走しがちになるが、基本的に配慮の出来る子だ。事前連絡なしに来るにしても、ああやって外でただ待っていないで、それとなく到着の知らせを入れてくるはずだ。


 なにか緊急の知らせでもないだろうし、いつもと違うアヤメの行動に、穹は首をかしげるばかりだ。


 ともあれ、アヤメが来ていると言うのなら急がないとならないだろう。


「ごめん、私行くね」


 まだまだ気になる話はあったものの、穹は急いで出かける準備を整える。上着を羽織り、通学鞄を手に取った。


「はいよ。気を付けて」


「行ってきます」


 慌ただしく出ていく穹を、手を振る代わりに尻尾を振りながらカッツェは見送った。


 大きな音を立てて閉じられた扉を見てから、カッツェは窓の外が見られる場所に移動する。


 しばらく待っていると、駆け足で外に出る穹が見えた。アヤメと何度か話をして、二人で学校へ歩いていくのを、カッツェは部屋から見守っていた。


 二人の背中が見えなくなっても、カッツェはしばらく窓のそばから離れなかった。どこを見るでもなく見つめている先では、三柴家の人たちも次々と家を出て行っている。


「夢、か」


 時間が過ぎて、ポツリと、カッツェは呟いた。


 夢の話をされた時、カッツェは本当は驚いていた。


 基本的に、自然の意思と言うのは個人に対しては不干渉であるのがほとんどだ。自分たちの循環の手伝いをしてもらっているから、その見返りに力を貸しているのに過ぎない。


 使役者、という言葉そのものは人間側のエゴから生まれたようなものだ。実際には、自然の意思と言うのはそれほど人間には固執していない。精々が、自然の循環装置の一部であると言う認識でしかない。


 もちろん、自然の意思にも感情と言うものがあるために、会話が成立するくらいには興味を持ってもらっている。


 ただ、自然の意思による選別が発生するために、選択権は自然側にある。つまり、自分たちに不利益な存在と認識されてしまうと、自然は一切の協力をしなくなってしまう。


 自然は広大な存在の為、よほどな何かをしない限りは見限られたりしない。それこそこの地球のように、自然破壊が進んで科学が発展しない限りはだ。


 始め、カッツェがここを歩いたときは驚いたものだった。まるで生気を感じない石を敷き詰めて地面に蓋をして、標本のように木が植えられていた。街灯と呼ばれる灯りも無機質で、星が光らない空も初めて見た。


 この街が一つの自然博物館のように思えて、随分落ち着かなかった。


 これが科学の発展した世界なのかと、逆に感心までしてしまったくらいだ。


 それでも自然は動いていた。元の世界に比べると随分不安定で、ここ数日の自然の揺らぎも違和感だらけだった。思ったよりも捨てた物ではないのかもしれないと、カッツェは思うでもなく、一考したものだ。


 ゆえに分かる。この世界は使役者の居ていい世界ではない。複数の使役者が現れてここで力を行使しようものなら、急激な変化に世界が耐えられずに、一気に崩壊してしまうだろう。


 幸い、長い間他の使役者が現れなかったようで、カッツェが力を行使する分には蓄えはあった。


 ただ、もう元には戻らないだろう。使役者が力を使えば、消費はされるが回復は見込めない。使役者による力の行使に、世界が耐えられないだろう。


 いたずらに使役するつもりはないが、力を行使する際には、慎重にならざるを得ない。ましてや、『魔術』はともかく、『魔法』の行使は極力控えないとならないだろう。


 そうなると、やはり穹には疑問ばかりが浮かぶ。


 この世界の自然の意思は、人間に興味を持っていない。異物として認識し、徐々に数を減らそうとしているように思える。


 カッツェでさえ、その対象の中に居るように思える。猫の姿になっているとは言え、力の行使に抵抗があり過ぎる。どれほどの相手が来るかは分からないが、最低限、元の世界に戻るには外部からの手助けが必要になる程だ。


 かつ、元の姿に戻る手段も今のところはない。まるで靄が掛かっているかのように、自然が干渉して元に戻るのを拒絶されてしまっている。完全にカッツェは異物扱いだった。


 だが、穹は違う。


 先の戦いから見ても、穹は完全に素人だろう。見ていて危なかったし、完全に力に頼り切った動きだった。


 では戦闘ではなく、この世界の調律の為に居るのかと言えばそうでもない。魔法に関しての知識は全くなかったし、そもそも、リングの土台である循環器でさえ、数日前に手に入れたばかりだと言う。


 なのに、単純な力の行使だけを見れば、穹に問題は無いようだった。むしろ、自然の方から加減をして合わせているようにも思えた。


 もっとも、自然の意思が張り切り過ぎて、加減をしているとは言え、使役者に負担がかかる程の力を与えているようだったが。


 ただ裏を返せば、穹はそれだけ風の意思に関心を持たれていると言う証明でもある。


 同じ使役者でもあるカッツェにも分かる程、人間と言う存在が自然から嫌われている世界でだ。


 であれば、本来なら穹は力を行使できないはず。きちんとした契約も無しに自然の力を行使できるほど、自然の力は軽くはない。


 仮にカッツェが同じように力を行使しようとすれば、肉体が耐えきれず、最悪死もあり得る。


 自然から見放されたはずの世界で、自然の意思からの寵愛もあって、かつ、不完全契約でも力を行使できてしまう穹と言う少女。


 仮説は、ある。


 この不可思議な現象を、全て解決してしまう存在。実例もなく、机上の空論とも言うべき存在は、あるにはある。


 ただ、だからこそ。この世界でその存在があり得るはずがない。


「これは、まあ、思わぬ見つけものだったかなぁ」


 ただもし仮説通りなら、物珍しいだけの風の結晶よりも面白い話である。


 そんな存在であるかもしれない、高丘穹。今は見えないそんな少女を思い浮かべながら、カッツェは怪しく微笑むのだった。



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