時間は、もうすぐ日付が変わろうとしている頃。穹は一人、アヤメ宅の裏に広がる裏山を歩いていた。
別に気の迷いと言う訳ではなく、居なくなった猫を探すためだ。懐中電灯一つでは頼りないが、遠くに見えるアヤメ宅の光が見える範囲での捜索だ。
猫が居なくなっているのに気が付いたのは、穹が深夜に起きだしてからだった。
二人で騒がしく過ごして、結局は風呂から上がってすぐに眠りについた。その後、お手洗いに起きた穹だったが、ふと気になって、隣室で寝ているであろう猫の様子を見に行ったのだ。
だが、そこに猫の姿はなかった。
慌てて猫の入り込みそうな場所を探したのだが、見つけられなかったのだ。
上着を羽織ってから庭の方も探してみたが見つけられず、懐中電灯を片手に発見できたのは、裏山に続く門扉が開いていたくらいだった。
それだけなら、そこまでで捜索はやめていただろう。だが、その門扉を閉めようとしたとき、裏山に続く道に包帯を見つけたのだ。
微かに血が付着しており、捨てられてから間もないうえ、その長さもそれほどでもなかった。
あの猫が巻いていた包帯に間違いない。確信した穹は意を決して、追いかけてきたのである。
もちろん、こんな真っ暗な中で猫一匹を見つけるのは難しいだろう。
なので穹は、本気で見つけられるとは思っていない。探しに出てから、自分が怪我をしたでは笑い話にもならないからだ。
ある程度この近辺を探して見つからなければ、今日は諦めて一度戻り、明日改めてアヤメに相談しようと考えていた。
でも諦めるつもりもないため、家の光を見失わないぎりぎりの範囲を探索している。幸い、裏山と言っても標高があるわけでもなく、小高い丘と言った程度だ。危ない動物類は居ないので、足元さえ気を付けていれば大丈夫な範囲だ。
懐中電灯の明かりを右に左に動かしながら、穹は見逃しがないように目を凝らす。
「おーい、猫やーい。どーこー?」
時々立ち止まっては、どこか気の抜けた声をあげながら穹は声を上げる。下手に刺激してしまえば余計に逃げられてしまうので、出来るだけ声音を優しくするのも忘れない。
夜の空は晴れていて、雲一つない。半端に欠けた月はほぼ真上に来ていて、星が瞬いているのも見える。けれど視線をまた下に戻せば、鬱蒼と生え茂った木々が視界を狭めて、数メートル先は完全な闇だった。
気の弱い人なら、お化けや幽霊でも出るのではないかと怯えていただろう。
ただ残念ながら、穹はそういう物事には耐性があった。別に得意と言う訳でもないが、こういったシチュエーションで物怖じしてしまうような可愛げのある性格をしていなかった。
別に信じていない訳ではない。世の中にはいる所にはいるだろう程度には思っている。精々ここで思うのは、そういう存在と鉢合わせないと良いなぁ、という位である。
代わって、こういう雰囲気のある場所を嫌がるのはアヤメの方だ。アトラクションと分かっていても、お化け屋敷にさえ入りたがらないレベルだ。
たまたま流れた怖い話のテレビ番組を見たとき、アヤメちゃんは可愛かったなぁ
等と、暗い森を眺めても、穹はそんな風に思う程度だった。グループ探索なんかでは、アヤメを筆頭に女子全員が穹の後ろに隠れるのもよくある。
実際に出会ったら、幽霊なんかよりも、殺人鬼の方がよっぱど怖いだろうに。どこか達観した感想を抱きながら、穹は倒木を除けながら進んでいく。
なだらかな坂を上り、穹はまた足を止める。そうして懐中電灯を周りに照らしてみるが、やはり猫の姿は見えない。
代わりに思ったのは、山の中が妙に静かだということ。深い森と言う訳でもないので仕方ないかもしれないが、鳥の鳴き声も聞こえてこない。
更に言えば、虫の声も聞こえてこない。
「あ、いや。虫がいないのはいい事なんだけどね?」
疑問に対して答えを口にしながら、穹は身を震わせた。
幽霊だの心霊スポットだのに別段怖がらない穹だが、唯一苦手としているのは虫だった。
自然と触れ合うのには全く抵抗はないのだが、虫と触れ合うのは勘弁してほしかった。
芋虫やムカデと言った、大多数の人が苦手とする虫だけではない。トンボや蝶々も、穹はどうしても苦手だった。鈴虫の音や、コオロギが走り回っているのを見るだけでも、鳥肌が立つほどに苦手なのだ。
故に、今通っている学校の唯一の不満点はそこだった。山の中腹にあるのも相まって、季節によってはそれはもう毛虫が大量に湧く。玄関に大行列をなしていた時などは、もはや失神モノだった。
あの恐怖は今でも忘れない。
虫がいるかもしれないという恐怖はあるが、見えていないのなら有り難い。静かな夜と言うのは大助かりで、こうして山の中を歩けている。
しかし動物の声も聞こえないのはどうなのだろうか。流石に詳しい種類が分かるわけではないが、こういった雰囲気なら、何かしら鳥の主張する声が聞こえてもおかしくはないはずだ。
そよそよと風の吹き抜ける音と、時々葉の擦れる音が聞こえる。つまり、それほどまでに静かなのだ。
静けさが沈黙のように耳鳴りを訴え、穹が立てる足音がやたら大きく聞こえた。
加えて夜の裏山はかなり冷え込んでいる。寝巻の上からパーカーを羽織った程度では防げない。すでに、手や足の先が冷たくなっている。
流石に、そろそろ戻らないとならないだろう。これ以上寒空の下に居ては、風邪でも引いてしまうかもしれない。誕生日の翌日に寝込むのはごめんだった。
なのでそろそろ諦め時だろう。未練がましく大回りをして帰り、それでも見つからなければ捜索は夜が明けてからにしよう。
妙に明るい夜空を見上げてため息を吐いた穹は、来た道を戻ろうと振り返った。
ガサリ。
不意に背後から物音がしたのは、ちょうどそのタイミングだった。静かな山の中で急に聞こえた音に、穹は全身が強張るのを感じた。
足を止めた穹は深呼吸をして、ゆっくりと背後を振り返って懐中電灯を背後に向ける。
しかし、背後には誰も居なかった。灯りを向けた先は、光を遮るように木がならんでいるばかり。
首を傾げた穹は、懐中電灯の明かりを更に下に向ける。
かくして、探していた猫がそこにいて、照らした懐中電灯の中に納まっていた。
「ぬおっ!?」
流石にこれには穹も驚かされた。
艶やかな毛並みは相変わらずなので、光の中で輝いてさえ見える。
しかし覚悟を決めて照らしたわけではない、不意打ちの登場であるがために、穹の口から奇怪な声が漏れた。
思わず懐中電灯を取り落としそうになりながらも、瞬間的に早くなった鼓動を収めるために、穹は一度気持ちを落ち着かせる。
視線を外して何度か深呼吸を繰り返してから、落ち着くのを待って改めて猫に視線を向ける。
奇怪な声を出してしまったが、猫は逃げないでその場に留まっている。まるで、穹を品定めでもするかのようにじっと見つめていた。
お寺でもそうだったが、この猫は随分と人に慣れている。怯えている様子もない。むしろ見下しているかのような雰囲気に、流石猫だなと、穹は感心してしまった。
とはいえ、見つかったのなら一安心だ。
「えっと、急にいなくなっちゃダメだよ。さ、帰ろ?」
自分の意思で居なくなったのなら仕方がないが、こうして出てきてくれたのならば、まだついてくる可能性はあった。
ここでまた逃げ出したら、今度は仕方なく諦めよう。そう考えて、穹はその場にしゃがむと、そっと手を差し出した。
猫の方から来てくれると嬉しいなと思いつつ、淡い期待を込めながら待ってみる。
すると、
「……どうして、ここに来た」
猫が口を開いた。
「……ん?」
一瞬聞き間違えたかと思い、空の思考は完全に停止した。
今のは、何が起こったのだろうか。猫の小さな口が開いたと持ったら、やたらと流暢な日本語が聞こえた気がする。
中性的で性別のはっきりしない、高くも低くもなく、聞き取り安い凛々しい声。街角で聞いたら、思わず振り返ってしまいそうだった。
そう、目の前のこの猫が発したと思わなければだ。
「おい、聞こえているだろう。どうしてここに来たと聞いている」
停止した穹に、猫が再び尋ねてくる。答えがないのに苛立ったのだろう、声音にははっきりと怒気が含まれている。
これで間違いない。確実に、今この猫は喋っている。
「え、は、え?」
ようやく思考が動き出し、今猫が喋った事実を、穹はゆっくりと理解した。
だからと言って、受け入れられるかと言えばまた違う。余りにも現実味のない出来事に、穹は上手く言葉に出来ず、短い言葉を繰り替えずばかりだ。
「ちぃ!」
戸惑う穹をよそに、事態は更に進んでいく。
答えに詰まる穹を更に問いただそうとした猫だったが、舌打ちを一つすると、穹から見て右方向に体を向けた。
「大地よ! 我らを守る盾と成れ!」
前脚を一振り、地面に叩きつける。と言っても、猫の小さな体だ。勢いはあっても、見た目だけでいえば、軽く地面を叩いたようにしか見えない。
それだけなら、何とも微笑ましい姿だ。
しかし、緊迫した声と、直後に起こった出来事に穹は悲鳴を上げる。
「きゃ」
可愛らしい悲鳴と共に、穹は尻もちをついた。
それは仕方がない。なぜなら、猫が地面を叩いた直後、魔法陣に似た円形の陣が浮かび上がったのだ。そして直後に、穹の目の前に巨大な土の壁が出来上がったのだ。盛り上がりと共に地面は揺れ、さながら小規模な地震が発生したかのようだった。
突然の光と、地面が動いた振動に、しゃがんでいた穹は姿勢を維持して居られるはずもない。
臀部から伝わる痛みと、土から伝わる冷たい感触に、穹は瞬間的に思考がクリアになり、ようやく現状を理解する。
と言っても、到底信じられる状況ではない。土と石とが混ざり合った壁は、武骨で高くせり出している。立ち上がっても、穹の頭よりも高いかもしれない。
そんな物が一瞬で現れたのだ。これを理解しろ言われても、まず無理な話であろう。
それに、事態はそれだけでは終わらなかった。
「え、わ」
競り上がった土壁に驚く間もなく、向こう側で、何かがぶつかる音が響いた。力強く、何かが土壁を叩いているのだろう。
音が響くたびに土くれが飛び跳ね、振動で土壁が揺れている。壁の厚みを考えると、人が直接受ければ大けがを負いそうだ。
「長く持ちそうにないな。おい、さっさと逃げろ!」
冷静に観察していた猫は、この防御が長く持たないと悟ると、穹に逃走を促した。
何が起こっているか穹には分からない。分かるのは、ここに穹が居れば邪魔になると言う事だけだ。
ただ、すぐに動けるわけではない。急転する事態に穹はすっかり怯えてしまい、茫然と土壁を見上げ、削られていく様を見ているしか出来ていない。
「おい! 早く逃げろ!」
再び響く猫の声。かなり切羽詰まっているのだろう。その声に、流石に焦りの色が混じった。
ここまで言われても、普通の女子中学生なら腰を抜かしたままだっただろう。
けれど、穹はそれでも動ける人間だった。猫の声に意思を取り戻すと、先ほどまで腰を抜かしていた思えない軽やかさで立ち上がり、走り出した。
ただ、やはりまだ混乱していたのだろう。こんな状況なのだ。猫は一旦放置して、アヤメの家の方へと逃げるべきだったのだ。
そうして落ち着いてから、警察や動ける大人に連絡でもして、改めて対応するのが正しかった。きっと、猫もそうして欲しかっただろう。
下手に動けるからこそ、失敗したのだ。立ち上がった穹は、なんと、猫を抱えて走りだしてしまう。それも、アヤメの家とは反対の方向へと。
「あ、おい、こら!」
これは流石に予想外だったのだろう。抱えられた猫は、慌てた声を出した。
抱えられた直後、地面に描かれた陣は光を失い、土壁も力を失ったかのように脆く砕け散った。
派手な音を立てて、辺りに土くれがまき散らさせる。
猫のわめく声と、恐ろしい音に、穹は完全にパニックに陥っていた。
とにかく逃げないといけない。何が起こっているかはさっぱり分からないが、あの場に居ては絶対に危ない。
その一心で、穹は走り抜ける。余りにも無我夢中で、自分がどこを走っているか分からなくなり、懐中電灯も落としてしまっていた。
月明かりで辛うじて見えているお陰で、木にぶつかるのは避けられた、だが、転がった木や草の塊までは避ける余裕はなく、何度も足を引っかけて転びそうになる。
元来の運動神経が幸いし、姿勢を崩しはしても、転ぶまでしなかったのは流石である。
どれくらい走っただろうか。数分しか走っていないはずだが、極度の緊張からか、何時間も走ったかのように息が切れ始める。
そうして改めて冷静になり、身を隠すのにちょうど良さそうな大木を見つけると、穹は転がるようにしてそこに身を潜めた。
体が酸素を求めていて、無意識に穹は短い呼吸を繰り返していた。異常に心音が響き、何が起こったのか整理したくても思考がまとまってくれない。
今は呼吸を落ち着かせよう。そう思って、穹はその場にうずくまる。地面から伝わる冷たさと、緑の香りが、今は妙にありがたかった。
「いやぁ、酷い目にあった」
そんな穹をしり目に、件の猫はどこかのんきだった。
穹が倒れこむのに合わせて腕から逃れると、その場でのんびりと伸びをし始める。
見た目はちょっと変わった猫なのに、その動きは妙に人間臭かった。
呼吸を落ち着かせて、穹はどこか人間臭いを動きをする猫を、何となく恨めし気に見る。
ある程度動きを確認したのだろうか。穹が視線を向けてから少しして、猫が穹を振り返る。
「落ち着いたか?」
呼吸の落ち着いた穹をみて、猫はどこかのんびりと尋ねてくる。
「いやいやいや! まだこれは夢なんじゃないかとか、さっき地面が光ったのは何なのとか、地面が壁になったとか、壁を叩いていたのは何なのとか、色々言いたいけど! まず! それよりも! 猫が、喋った!?」
まるで他人事のように喋る猫に、空は体を起こしてたまらず叫んだ。
生まれてこの方、今まで生きてきた中で、喋る猫なんて聞いたこともない。
片言の、しかも飼い主の惚気のように、喋っている風な猫の動画なら何度か見てはいる。全くそんな言葉には聞こえなかったが、可愛いから良しと、特に気にもしなかった。
だが、この猫は違う。
はっきりと単語を喋り、どころかきちんと会話が成立してしまっている。中性的で耳障りの良い声は、いつでも聞いていたい気持ちにさせる。
しかしである。それが猫から発せられていると思うと、違和感が凄かった。
詳しいと言う訳ではないが、穹もサブカルチャーに触れる機会はある。可愛いが、奇妙な生き物が喋るなんて、画面の向こうでは日常茶飯事だ。猫や犬だって当たり前に喋っている。
だが、いざ自分が目の当たりにすると、違和感が凄かった。
程度を超えると人間受け入れられない生き物のようで、決してあり得ない現象を目の当たりにすると、理解が追いついて来ないのだ。
喋る動物に会ってみたいとは思っていたが、これは思ったよりも受け入れにくい物だったらしい。
「はぁ? ボクのどこか猫だって言うんだよ」
そんな穹の心からの叫びに、猫は分からないと言った風に返した。
心底理解できないと言った様子で、変な物でも見るかのように穹を見返してくる。
これが普通の人間だったなら、眉根を寄せて首をかしげているだろう。猫であるがために、表情にあまり変化はない。雰囲気だけで表現しているのだから、随分器用な猫である。
ただ、穹の混乱は加速するばかりだ。
「いやいやいや! あんたどう見ても猫じゃんか!」
そんな猫の態度に慌てた穹は、場の状況と言うのも忘れて、猫を指さして叫ぶ。
確かに、妙に長くて色合いの珍しい毛。可愛いと言うよりも、凛々しいと言った顔つきは、田舎を徘徊する野良猫には見られない特徴だ。しかし、それでも猫であるのに違いはない。
猫が喋る? いざ目の前で喋られたとしても、到底、理解できる現象ではない。
穹の指摘は、至極まっとうな物だ。
まっとうなのだが、当の猫には当てはまらないらしい。訝しむ雰囲気を益々強くする。
「どう見てもって、いったいどこをどうしたら、ボクが猫に、見え」
再三に渡る穹の指摘に、流石に猫の方も、自分の姿に疑問を持ち始めたのだろう。
言葉尻は弱くなり、仕方がないと言った様子で、自分の姿を改めた。
そしてついに発見する。視線を下げた先にある、妙に長くて赤い毛並み。脚の先端辺りが黒くなっているのが特徴だった。
見つけてしまえば、更に自分の姿を探っていく。柔らかい体を捻って全体像を見て、尻の先から生える長い尻尾を見つめる。
初めて生えているのに気が付いたのだろう。一瞬受け入れられないと言った雰囲気を出していたが、試しに動かしてみた所、自分の手足のように自在に動かせた。そうなれば否が応でも自覚すだろう。
この尻尾は、自分の体から生えている尻尾であると。
「はぁぁぁぁぁぁ!? 猫になってる!?」
今までの冷静な雰囲気から一変。猫は素っ頓狂な叫び声をあげる。どうやらこの猫にとって、先ほどの音の正体だとか、自分の起こしたらしい怪奇現象などよりも、猫であるのが一番の驚きであったらしい。
未だ受け入れられないとでもいうのか、その場でくるくると回って、自分の姿を確認している。
動物の紹介番組で見るような、猫の可愛らしい行動を目の前で見られて、穹は心の中でひっそりと悶絶していた。
もちろん、そんな場合ではないのは承知しているのだが。
「そ、そうか。強制侵入したから、都合合わせのために姿を変えられたって所か。いや、だからってなんで、猫の姿なんだよ」
「えっと、とりあえず、場所を移さない?」
愕然と立ち止まって何やら呟き始めた猫に、穹は恐る恐る声をかける。
急に慌て始めた猫を見て、穹は逆に冷静になってしまった。となれば、自分の置かれている状況を改めて聞いておきたかった。
加えて、寒い夜のを山は全速力で走ったのだ。浮き出た汗は一瞬で体温を奪い、パーカーの下の寝間着は、さながら冷却シートのようだ。
すぐにでも家に戻って着替えてから、暖かい飲み物で飲みたかった。
それに落ち着いて話をするのにしても、こんな場所ではそうもいかない。しゃがんでいるのも地味に辛いのだ。
しかも、またいつ襲われるかも分からない。猫は何かしら対抗手段を持っているかもしれないが、穹はいたって普通の女子中学生。襲われたら逃げるしかない。
「ダメだ。あれをあの家のある方に連れていくわけにはいかない」
穹の提案に、猫は即座に否を唱えた。猫の姿に慌てていた様子は微塵も見せず、答える声は冷静だ。
その瞳は先ほどの動揺はなく、目の前に迫った脅威に対抗する手段を考えているようにも見える。
だがどうする?
猫の姿では、取れる手段も限られる。壁を作って逃げるのは困らない。実際、猫はそうやって朝まで逃げ切るつもりだった。
だが、穹と言う足手まといが現れた時点で、そうもいっていられなくなる。目撃者を無事に逃がす甘さを、あれが持っているというのは楽観視が過ぎる。猫が逆の立場なら、まず見逃さずに始末するだろう。
攻撃手段はなくもないが、どうしても派手になる。『この世界』の一般常識が不明瞭な中で、派手な動きを取れば今後にも影響する。
恐らく一般人であろう穹を守りながら、派手な動きを抑えて、あの脅威を排除する手段。
まとめてみてもかなり厳しい条件ではあるが、猫は思考を高速回転させて、打開策を模索する。
「……え?」
はたして、声を上げたのはどちらが先だったか。
しばらく沈黙が続き、気まずい空気が漂い始めたころ。ふと、穹の胸元と、猫の左前脚が光りだしたのだ。
穹の胸元からは金色の光が。猫の前脚、人間でいう所の手首辺りからは翠色の淡い光が。それぞれ、夜の帳を引き裂くように輝き始める。
驚いて、穹は胸元から光源を引き抜いた。服の中から表れたそれは眩いばかりに輝いていて、闇に沈む裏山を照らさんとしているかのようだ。
取り出したそれは今朝見つけだばかりの指輪で、念のためにと首から下げていたのだ。
指輪は、外気に晒されて更に輝きを増していく。ともすれば視界を妬いてしまいそうな光量だが、不思議とそんな事はなく、寧ろ魅惑的な光りに目が離せない。
「なんで」
猫の方も、自身の足から発せられる光に驚いていた。
光の発生源に関しては、さして驚いてはいない。都合に合わせて、体のどこかにくくりつけてあるであろうとは、検討は付けていたのだ。
驚いているのはむしろ、今、こうやって反応を示している事態そのものだ。
これは、特定の人物にしか反応を示さないはずだ。所有者の定まっていない限り、これはちょっと珍しい物にしか過ぎない。面白半分で手に入れた物だが、これ単体ではあまり価値がない。知識のない好事家が欲しがる程度だろう。
しかしこうして反応を示したのなら、話は変わってくる。それはつまり、これが所有者を見つけたと言う証であり、真の価値を示すもの。
もちろん、猫はその対象ではない。所有を認められなかったのだから、あとは、ただの観賞用でしかなかった。
ならばこれが所有を認めたのは、この場に居るもう一人の少女。
「なにが」
穹が茫然と呟く。すると、タイミングを同じくして、金色の光と翠色の光が、まるで一本の線のように繋がった。
長い毛に埋もれていて気が付かなかったが、猫の足には宝石が括り付けられていた。それが独りでに浮かび上がり、光に導かれるようにして指輪に近づいてくる。
エメラルドにも似た、透き通るような翡翠の宝石だった。複雑なカットはされていないが、完全な球体の宝石は、どこか神々しくも見える。
指輪と同じサイズだった宝石だが、指輪に触れると、まるで吸い込まれるように指輪に空いた小さな穴に収まった。
「うぇ!?」
常識では考えられないような現象に、穹は素っ頓狂な悲鳴を上げる。
ただ、その宝石は確かに穴の中に納まっていた。針の先のような小さなサイズなのに、その宝石は確かな存在感を示している。
ついさっき入ったばかりだと言うのに、その宝石は、まるでそこにあるのが当たり前であるかのように違和感はなかった。
ーーーまえを、よんーーー
穹の耳にいつも聞いていた声に似た、優しくも儚げな声が聞こえてきた。それも、いつもよりも近く、はっきりと聞こえた。
何を言っているのかは、やはり分からない。とても途切れ途切れで。単語としても聞き取るのは難しかった。
でも、感情ははっきりと伝わってくる。最初は歓喜。まるでおもちゃを与えられた子供のような無邪気な喜びだった。
なのに、気持ちはすぐに変わって、次に伝わってきたのは悲哀。折角与えられたおもちゃが偽物だったような、深い悲しみだった。
逆転する感情。今にも泣きだしそうなのに、無理やり感情を抑え込んで、辛い笑みを浮かべているかのような感情の嵐に、穹は胸が締め付けられるかのような思いを抱いた。
ホロリと、涙が流れた。
それが合図だったかのように、光が収まると、変わって風が吹き荒れた。
穹も猫も、咄嗟に言葉を出せなかった。声を出すほどの余裕がなかったのだ。気を抜けば簡単に吹き飛ばされてしまいそうな風の勢いに、身をすくませるしか出来ない。
まるで嵐。あるいは竜巻。今まで抑えていた力を解放したかのような勢いで、穹を起点に竜巻を彷彿とさせる風が吹き荒れたのだ。
『うぇいくあっぷ』
無機質なのに、どこか舌足らずな声が指輪から漏れ聞こえた。
一瞬指輪が光ると、物理法則を無視して指輪が引き延ばされた。指輪の金糸一本一本が意識を持っているかのように解れ、通されていたチェーンから捩るように逃れた。
荒ぶる風を巻き込んで複雑に金糸が巻きあがると、穹の腕に収束する。
驚いて突き出した穹の左手に、金糸は粗ぶりながらも、どこか優しく巻き付いていく。
金糸は風を巻き込んで複雑に絡まり、徐々に形を整えていく。風が落ち着いて穹が恐る恐る目を向けると、豪奢な腕輪がそこにあった。
複雑に絡み合い、人には到底真似ができないような幾何学的な文様を作り出している金糸。隙間には翡翠の筋がいくつも走り、互いに自己主張しながらも、まるで高めあっているかのようにバランスを取っている。
金糸と翡翠が収束する先には、先ほどの宝石がある。腕輪に合わせてサイズも変わっているが、変わらず、中央で堂々と輝いていた。
驚きで声が出せない、穹と猫。
この日、この瞬間。満点の星と、少し欠けた月の下。
新たな力が、再び目覚めた瞬間である。
これにて、一章といいますか、一話分完了
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