一通りの説明を終えた頃になると、お昼を少し過ぎた時間になっていた。
元々の予定通り、三柴の両親は出かけている。海人も部活からまだ帰っていなかった。
昼食は食べに行くつもりだったので、穹はカッツェも連れて家を出た。ついでに、カッツェの生活を整えるための準備もするつもりだった。
もっとも、普通の猫のような手間はない。精々が、猫用のトイレと餌と言った具合だろう。何となく、ただの同居人が増えたような心境だった。
「いや、ボクを猫扱いしないでくれよ」
「猫扱いしておかないと、みんなに怪しまれるから却下」
と言うのが、出かける際に交わされた二人の会話である。
元人間であるためか、動物扱いされるのは何かが許されないらしい。
とはいえ、見た目は猫である。いくらカッツェが文句を訴えようとも、穹がそれを受け入れようとも、周りの扱いや見方は変えられない。恰好だけでも、猫を飼っているのを装わないとならないのだ。
そこは理解しているのか、にべもなく穹が却下すると、渋々ながらカッツェも強くは訴えなかった。
なんとなく、このやり取りは定例になりそうだなと、穹は思ったものである。
この頃になると、穹はカッツェとの距離感と言うのを掴みかけていた。誰に対しても横柄で、軽口を叩きあえる。配慮はするが、遠慮がない物言い。気楽に話せるこの猫は、悪友と言った空気があった。
こんな空気が、穹は好きだった。家に居るとどうしても固くなってしまうために、気が抜ける相手が居るのは嬉しい。海人は論外だが。
多分、こんな話をするとカッツェは酷く嫌がるだろうから、穹の胸の内に秘めておく。
外は快晴で、涼しい風が吹き抜けていく。商店街まで歩くのには、ちょうどいい天気だった。
穹の傍を、カッツェは縦横無尽に歩き回っていた。舗装された道路を観察したり、塀に上って感触を確かめ、庭先からはみ出た木をのぞき込む。
時折、カッツェに気が付いた飼い犬が吠えたりしていたが、そこは胆の据わった大泥棒。威嚇したりしながら、逆に怯えさせていた。
「ねぇ、カッツェ」
「ん?」
「この世界にはさ、私以外にも、魔法を使える人はいるの?」
ぼんやりと歩いて居る時、ふと思った疑問を、穹は尋ねる。
魔法は、自然を操る力だと言う。そしてそのためには、自然の声を聞く必要がある。
その資質だけを聞くならば、別に、穹たちの世界にあってもおかしくはないはずだ。力を使役するまではいかなくても、声を聞くだけなら、他に誰かが聞こえたとしてもおかしくはない。
「いや、まずいないだろうね」
そう思っての質問だったが、カッツェは迷いなく否定した。
「え、なんで」
「声を聞く奴なら、突然変異としていてもおかしくはないだろうさ。だが、実際に使役者になれる奴はいないよ」
その回答は、穹の疑問を半分肯定して、半分否定するものだった。
確かに、声を聞くだけの才能を持った者はいるだろう。それは、いわゆるシャーマンだったり、巫女だったり、占い師だったりと、一部の特殊技能を持った役職者だ。
声を聞く才能と言うのは、総じて、誰かに理解を得るのは難しい。他人に聞かせられるわけでもなく、証明するものがない。カッツェ達の世界ならば自然の結晶体があるが、この世界にはそれがない。声が聞こえると喚いた所で、頭がおかしくなったか、笑われて見世物にされるだけだろう。
仮に、本当に声が聞こえたとしよう。その才能は確かに使役者になり得るが、まず、自然の方が力を貸してはくれないのだ。
「声をきくだけじゃあ、使役者にはなれない。まず間違いなく、この世界の自然は、力を貸してはくれないだろうね」
「なんで?」
「この世界は、科学が発展しすぎている。そのせいさ」
科学の力は、木を削り、人口の光に頼り、山を崩し、金属を好きに生み出し、水を汚してしまう。
それが悪いとは言わない。生きるために科学の発展が必要だったし、自分たちを守るためにも無くてはならないだろう。カッツェから見ても、この世界は富んでいるし、人間も長生きしている。
ただ、それは自然にとっては悪意でしかない。
いくら自然が自分たちの存在を訴えたとしても、この世界の人間は科学の発展を辞めなかった。ひとえに、それが人にとって得だったからだ。
自動車が生まれて移動が楽になった。地面が舗装されて歩くのが楽になった。遺伝子操作で、生育の良い野菜や食肉が安定して手に入る。
生きるために科学に頼るようになり、発展していった。それがこの世界の形なのだ。
そこに、自然の力が介入する余地はない。必要がない。自分たちが住みやすいように、人間が世界を作り替えているのだから。
そして歯止めの聞かなくなったこの世界の住人は、いつしか自然の力を頼らなくなった。
だから、自然は力を貸すのを止めたのだ。
「自然が力を貸さなくなったのは、人間が先に借りなくなったからだ。自然の力を操れるのを知って、じゃあ今になって貸してくれとか。都合が良すぎるだろう?」
繰り返しになるが、科学を発展させたのが悪いとは言わない。
ただ、今になってから、自然の力を使役したといっても、まず借りられないだろう。
そういう風にこの世界は作り替えられ、発展してきた。自然を削りながら生きているこの世界の人間に、今更自然が力を貸すわけがない。
カッツェが突然変異と言ったのもそのためだ。全部が全部、自然が力を貸さないわけではない。何かの気まぐれで、人間に力を貸そうとする自然もいる。
ただ、この世界にはすでにその土台がない。精々が、ちょっと特殊な役職で細々と生かされる程度である。
そういう人間がたまに現れればいい方で、大概の人間は宿らないし、宿ったとしても気が付かないまま終わる。そして気が付いたところで、生かせないまま終わるだろう。
これが穹達の世界の現状だし、ありようだった。
「じゃあ、私が魔法を使えるようになったのって」
「たまたまだよ。ボクがここに来て、盗んだ風の結晶体を持っていて、穹がそこに宿る意思の声を聞く事が出来た。それだけだよ」
カッツェとすれば、巻き込むつもりは更々なかった。面倒なだけだし、何より余計な足かせとなる。
運が良かったのか、悪かったのか。穹はそういう運命に選ばれてしまった。
ならば、この結果をうまく利用してやるだけだった。残念な上に甚だ不本意であるが、猫の姿になってしまったのである。どうあっても、現地住人の協力は必要になった。
盗んだ風の結晶体が適応してしまったのは不味いが、これはこれで利用できる。自分を追いかけてくるであろうあいつがくるまで、精々、のんべんだらりと世話になってやろうではないか。
「え、ちょっと待って」
内心てほくそ笑んでいるカッツェだったが、話を聞いた穹は堪ったものではないと声を上げる。
「なんだい?」
「これ、盗品なの?」
「そうだよ。風の結晶体が運ばれるからって、ちょろまかした。先に言った通り、凄く稀少な品だから大事にしろよ?」
「うへぇ」
「厳重な警備だった。それをかいくぐり盗み出したボク。いやぁ、楽しかった」
歩きながらヘラヘラと笑うカッツェを見て、穹は辟易した表情で指輪を取り出した。
犯罪者と言うのは分かっているが、いざ自分がその盗品を持っているとなると、何とも言えない気持ちになった。
いや、この世界の物品ではないので、この世界での犯罪者ではない。が、いざ別の世界に行ってしまえば、穹は窃盗の片棒を担いだのと同じ扱いになってしまうのだろうか。
スケールが大きすぎて、罪の意識を持てばいいのか、持たなくてもいいのか、悩ましい所であった。
何か不満なのか、風の結晶体が光ったように思ったが、穹は特に気にせず指輪をまた胸元に仕舞った。
カッツェには説明していないが、穹が向かっているのは通学路にも通っている商店街だ。
大きな川を挟んでこちら側には、大きなショッピングモールがない。立地的に、学校や中小企業が多いためだ。逆に、反対側に学校は少なく、大手のショッピングモールが多数ある。
休日は大抵そちらで遊ぶのが当たり前なのだが、移動には車や電車が必要になる。三柴家に連れて行ってもらう訳にはいかないし、アヤメには謹慎を言い渡されている。猫を連れて公共施設を利用するわけにもいかない。
そんな諸々の理由から、商店街に向かっているのだ。ペット用品も扱っている店もあるし、散歩にちょうどいい距離にある。今の穹には、こちらで十分だった。
会話をしている内に、商店街には到着していた。お昼時と言うのもあって、買い物袋を持ったお年寄りが多く歩いている。次いで、短い休日を満喫している学生も多くいて、買い食いに勤しんでいた。
ほどほどににぎわっている商店街を横切り、穹は一歩裏手の通りに入った。
途端、世界が変わる。
商店街の通りは、専門店が多数並び、綺麗に舗装された歩道が伸びていた。
だが、こちらの通りはその真逆と言ってよかった。何を扱っているか分からないような古ぼけた店舗が点在し、道は人がすれ違うのがやっとといった程に狭くてボロボロだった。無造作に伸びた草木が、更に圧迫感を増している。
人通りも少ない。軒先で団らんする老人が数組居るだけだった。
「いいね。どの店で裏取引されているのか探すのが楽しみだ」
「いや、そんな人いないから。たぶん」
寂れた通りを見たカッツェの感想がそれだった。確かに、言葉にするのが憚られる職業の人たちが立ち寄りそうな雰囲気が、この通りにはある。穹も、この通りに慣れるまではよく思った物だった。
もちろん、この通りはそんな暗い場所ではない。住宅街の間に自然に出来た、狭い通りと言うだけだ。
人の集まる住宅街と商店街が出来たのだが、その間が妙に空いてしまった。道路を舗装するには狭すぎるし、住宅を追加するにしては立地条件と広さが悪い。そんな手つかずの場所に、ちらほらと店が並び始めたのがここだった。
こちらも、商店街程ではないが多種多様な店が並んでいて、昔ながらの雰囲気な佇まいをしている。
独特の空気も相まって、今や穹のお気に入りの通りだ。
年配の人が多い中、穹は随分と若いため、通りの人とはほとんど知り合いだった。通りを歩けば、軒先で団らんしている人たちに軽く挨拶される。
同じように挨拶を交わしながら、穹は一軒の店に向かう。通りの真ん中辺りに構える喫茶店。名前を、ノワール。
日中は喫茶店。夜はバーを営んでいる。この辺りでは評判の店だった。
複雑な模様の描かれた木製の扉。店構えも、喫茶店と言えばと言うイメージをそのままにした造りをしている。扉には『営業中』の看板が掛けられて、入り口には御勧めメニューの看板が置かれている。
目的の場所にたどり着き笑みを浮かべる穹だが、ふとある事実に気が付いた。
「あ、中に入ったら話出来ないね。どうしよ」
会話だけしていると忘れてしまうが、カッツェは猫だ。
この店はペットも同伴できるが、流石に、堂々と会話をするわけにはいかない。語り口調なら微笑ましく見えるが、完全に会話をしてしまうとどんな目を向けられるか。
「ああ、その心配なら大丈夫だよ」
ここまで来て諦めるかと思っていたが、解決案はカッツェの方から出してくれた。
どうするのかと思ってみていると、カッツェは首輪に前脚を添えて、毛の中から引き出して見せた。
「リング接続。高丘穹との通話を許可」
「え?」
『これで声に出さなくても話せるだろう?』
「ぬおっ」
何をするのかと思った矢先、カッツェの声が直接脳内に聞こえてきた。思わず、穹は変な声を出してしまう。
聞こえた声は、どこか自然の声に似ていた。自然の声と違って不明瞭だが、会話するのには困らない程度だ。
驚いている穹を無視して、カッツェは脳内に響く声で、穹どうすればいいか指示を出す。言われるまま、穹は先ほどのカッツェと同様にリングの接続を開始した。
すると、何とも不思議な感覚がカッツェとの間に繋がった。細かい考えが分かると言う訳ではないのだが、カッツェがそこに居ると言うのが分かり、話せるような気がするのだ。
『それで話せるようになるはずだ』
『えっと、これでいいの?』
『うん、聞こえているよ。これはね、自然の声が聞こえるのを応用した、使役者の声を伝播させるリングの機能だよ。よっぽど悪辣な環境でもない限り、無制限に届けられるから』
『なにそのファンタジー』
直接話せないをどうしたものかと悩んだ先、カッツェからもたらされた解決案に、穹は何度目かに分からない感想を抱いた。
こうやって相手への許可と認証を受けない限り使えないようだが、他全てが無制限と言うのがまた驚きだった。
別世界の技術って便利。前振りなしに聞こえるのは驚くが。
内心でそんな感想を抱いた穹は、改めて、目的地の一つであった『ノワール』へと足を踏み入れる。
入店を告げる古びたベルが、古めかしい音を奏でた。
外観と同じく、店の内装はこれぞ喫茶店と言った造りをしていた。
全体は木造。カウンター十席とテーブル席三つと、店としては小規模だ。けれど、設計から計算されているのか、店の小ささを感じさせない開放感がある。
カウンター席の奥には、天井まで届く大きな棚がある。半分は夜の営業で出される酒瓶が陳列されている。残りの半分が、ガラス製のグラスと、喫茶店として使用するコーヒーカップで埋められていた。
棚に並べられている品は綺麗に磨かれていて、店主のこだわりが感じられる。
「おや、穹さん。いらっしゃい」
入店を聞き取ったのか、店の奥から店主が現れた。
小柄な老人だった。背筋はまっすぐで体も引き締まっているようだったが、頭髪は全部が真っ白で、深い皺が目立った面立ち。好々爺と言った言葉が似合う柔和な笑みを浮かべていて、若い頃はさぞ整った容姿をしていたのだと予想できた。
茶野川郷座。ここ『ノワール』の一代目の店主であり、昼の喫茶店を預かっている。戦争経験者で、昔は随分と逞しい人生を送っていたとか。今年米寿を迎えたと言うが、そこまでの衰えを感じさせない程に元気だ。中年の頃には、コーヒーマイスターの資格を取得したほどの本格派である。
「こんにちは、郷座さん」
「あいあい。まぁ、座んな。しっかし、今日は穹さんは休みでなかったかい?」
着席を促され、穹は自分の定位置と定めている一番奥の席に座った。
ここだと、他のお客の迷惑になりにくいし、店の空気や店主の動きが良く見えるから好きなのだ。
空が座ったのを見るや、郷座はまず、コーヒーを淹れる準備を始めていた。この老人は店を経営をすると言うよりも、コーヒーを淹れるのが好きなのだ。売上そのものは夜間営業の方が多いので、昼の営業は、ほとんどこの老人の趣味みたいになっている。
「ちょっと予定が変わって、暇になったんです。あ、でも。ここにはお昼を食べに来ました」
「ああ、ああ。そうかいな。そんじゃあ、こいつでも飲んで待ってな。作ってやるかいね」
「ありがとうございます」
穏やかに会話をしながらも、老人の手は止まらない。ハンドミルで挽いたコーヒー豆を、サイフォンの漏斗に入れて、水を入れたフラスコに差し込んだ。やや高い位置のフラスコの下にはアルコールランプが置かれて、郷座はそれに火を灯す。
水が温まるのに時間がかかるが、老人はこうしてじっくりと抽出するのが好みだ。穹もじっくり待つこの時間が好きで、のんびりと待つ。
しばらく待つと、ゆっくりとお湯が上の漏斗に上っていき、挽いたコーヒーと交じり始める。店内に、芳醇なコーヒーの香りが漂い始めた。ある程度溜まった所で郷座は細いヘラでゆっくりと漏斗の中身を混ぜて撹拌させていく。
ゆっくり混ぜてから、下のアルコールランプを外した。これもしばらく待っていると、上っていたお湯が再びフラスコの中に戻っていく。その時にはすっかり色が付いていて、よく見るコーヒーの色に変わっていた。
漏斗を引き抜くと、郷座は色と香りを確かめていた。出来に満足したのか、郷座は微かに笑みを浮かべると、棚からコーヒーセットを取り出した。
それは店用ではなく、賄い用に、穹の為にあつらえた物だ。可愛らしい曲線を描いているが、色は薄い青一色で模様もない。まるで青空みてぇだな、と言ったのはこの郷座だった。
取り出したコーヒーカップを穹の前に置き、フラスコも横に添えると、郷座は料理を作りに奥へと歩いて行った。本当に、接客をしない老人である。
いつものことと気にしない穹は、フラスコからコーヒーを注ぐと、そっと香りを楽しんだ。低温でゆっくりと抽出されたコーヒーは、心地よい香りを漂わせている。
鼻腔で堪能してから、そっとコーヒーカップに口を付けた。
「ああ、にっが」
悲しいかな、穹はまだ中学生である。
コーヒーの香りの良さは分かる物の、どうにもまだ味についてはよく分からなかった。とにかく苦い。嫌という訳ではないのだが、この苦みが美味しいと言う感覚は分からない。
これでも、郷座の方が気を使って豆から選び、抽出方法も研究して甘みも出してはいるのだ。確かにほんのりと甘みも感じられるのだが、どうにも苦みを強く感じてしまうのだ。
中学生らしからぬ発育はしているが、味覚は残念ながら中学生相当なのだった。
「へえ、それがコーヒーってやつかい?」
店主の郷座が居なくなったタイミングを見計らって、カッツェが穹の隣の椅子に飛び乗った。
椅子は高く設定されていて、テーブルの上面とかなり近い。足を入れるのに窮屈しない程度の差だ。故に、成猫のカッツェが乗って座ると、体半分くらいはカウンターから見える。
直接話をしても問題ないのを穹は確認してから、小声で頷いた。
「そうだよ。ここの店主、郷座さんが豆を焙煎するところから作ってるの」
「美味しいの?」
「すっごく苦い」
興味を持ったらしいカッツェに、穹は素直に答える。不味いとは思わないが、やはり苦い物は苦い。
それでも好奇心が勝ったのか、一口飲ませるようにせがんでくる。
猫にコーヒーを飲ませて大丈夫なのか心配になったが、本人は猫扱いを酷く嫌っているので素直に飲ませるにした。
自分の使っていたコーヒーカップをカッツェの口元に近づけてやる。しばし臭いを嗅いでから、カッツェはコーヒーを口に含んだ。
口の中でコーヒーを堪能してから、何を感じ入るように待つことしばし。カッツェを目を見開いて、全身を逆立てた。
穹は驚いた。
「うおっ」
「これは素晴らしい。豆の選別と焙煎に相当気を使っているのか、口に残る甘味や酸味がしっかりしていて、鼻から抜ける香りもとても芳醇だ。子供向けに調整されているとは思えない、深い味わいと香りには筆舌しがたい物がある。これは相当鍛錬してきたのだろう。おお。後を引く余韻も計算されたのかと思う程、強い香りがあるのに口の中に残らない。これはすぐに次を飲んでも同じ感動を味わえるだろう」
「お、おう」
「穹。ここの店主は素晴らしい。これ程の人材がいるとは、中々捨てたもんじゃないね」
「お、おう」
できれば、早口の賛辞に驚いているのにも気が付いてほしかった。
内心で愚痴る穹。いきなり早口で食レポを始めてしまったため、ただ圧倒されるだけだった。
しかも、いまいち美味しいのか美味しくないのか分からない感想だった。いや、感動しているのだから美味しかったのだろうが、とにかく内容が濃くて、穹には半分くらいしか分からなかった。
今の一口でそこまで感動するのだろうか。
飲み慣れたとはいえ、味のよく分からない穹には、苦いけどほんのりと甘いくらいしか分からないコーヒーを、また一口すするのだった。
余韻に浸るカッツェを横目に、フラスコの中のコーヒーを空にしてからしばし。ふわりと卵の甘いを香りを漂わせながら、郷座がトレイに料理を乗せて戻ってきた。
穹の前に置かれたのはオムライス。たっぷりの卵を使ったと思われる、しっかりと焼かれた卵が、真っ赤なケチャップに彩られている。今話題のふわトロのオムライスではないところが、この店のこだわりだった。
ふわトロのオムライスも穹は好きだが、ここの固く焼かれたオムライスも穹は好きなのだ。
家庭的とも言うのだろうか。素材の味と言わず、ここの店独自の味付けで作られたオムライスは、穹のお気に入りだった。
「おんや、これは随分とちっこい客が紛れとったな。穹さんの連れかい?」
ガラス製の断熱ピッチャーから水を注いでから、郷座は椅子に座るカッツェに気が付いた。ずっと穹の足元に居たので、気づくのに遅れたようだ。
余韻に浸っていたカッツェは、声を掛けられつつも、喋るわけにもいかないのでじっと郷座の顔を見返すばかりだ。
普通の猫ならここで警戒して逃げ出すところだろうが、カッツェはそんな無様な真似はしない。郷座も、そんなカッツェを不審に思わなかったのか、柔和な笑みを浮かべたままだ。
「はい。今日から飼うことにしたので、飼育道具の買い出しに」
『おい』
飼育道具と聞いてカッツェから苦情の念話が届いたが、穹は無視した。
外聞としては事実である。
「ほうかほうか。したら、そっちのちっこいのにも、なんか用意すっかね。名前は」
「カッツェです」
「あいあい。まっとれな」
郷座は優し気に頷いて、再び奥へと戻っていった。
カッツェが何やら睨んできているが、穹はそれも無視して、オムライスを食べる。
スプーンで掬うと、黄色い卵に包まれたケチャップライスが顔を覗かせる。しっかりと色づいていて、コントラストがより食欲をそそる。
自然と笑みを浮かべて、穹は一口食べる。甘く味付けされた卵は、少し酸味の強いオリジナルのケチャップで作られたライスとの相性が抜群だった。細かく刻まれた鶏肉と野菜の触感も、食べるのを楽しませる。
浮かべる笑みは益々深まり、スプーンが進むのが早くなる。時々出てくるマッシュルームがまた、口直しとしてちょうどよかった。
ついつい堪能していると、袖が突かれた。見ると、それも寄越せと言わんばかりに、カッツェがねめつけてくる。
通話があるだろうに、それをしてこない所が、カッツェの本気具合を表している。
苦笑いを浮かべて、穹はスプーンに少しだけオムライスを掬ってから、カッツェの口に運んでやる。ノータイムでカッツェは食いついた。
がめつい。
カッツェはまたしばし咀嚼してから、ゆっくりと飲み込んだ。
穹とすれば、このオムライスは美味いと思っている。もしかすれば、先ほどのコーヒーのような食レポが来るかもしれない。
ちょっと期待しつつ、身構えて、穹は待っていた。
飲み込んでからしばし。カッツェは何かを吟味するかのように押し黙ってから、再び目を見開いた。
来る。
『美味いな』
「……」
『どうした? 百円玉だと思って意気揚々と拾ったら、実は一円玉だったみたいな顔して』
『うん、凄く身近でありそうな例えで話してくれてありがとう。正しくそんな心境なんだけど、それだけ?』
『それ以外何があるんだ』
『ないの!?』
今度は早く戻ってくるかもしれない郷座を気にして、念話で返ってきた感想に念話で返しながら、穹は内心で絶叫した。
コーヒー一杯であそこまで語っておきながら、オムライス一口にはこれである。何だか負けた気がした。
どことなく感性の違いは分かっていたが、どこか釈然としない。内心でため息を吐きつつ、オムライスを食べ進める。
半分に足りないくらいを食べ終わるころになって、また新しい卵の香りが漂ってきた。
穹とカッツェが同時に顔を向けると、平皿を持った郷座が現れた。
柔和な笑みを浮かべたまま、郷座はカッツェの前にその平皿を置く。穹が見てみれば、盛られていたのはスクランブルエッグだった。所々に混ざっている肉はベーコンのようだ。
猫用に調整されているのか、塩胡椒をを使われている感じはしない。店特製のケチャップもない。素材のみと言った料理だった。
目の前に置かれた皿をカッツェはのぞき込んでから、一口かじりついた。咀嚼しつつも、カッツェは何とも微妙そうな表情を浮かべる。
『味、薄い』
『猫用だからでしょ?』
猫用のスクランブルエッグでは、お気に召さなかったようだ。見た目は猫であるのに、随分と味にうるさい。
ただ、出された物は食べる主義なのか。黙々と食べ始める。
「気に入ったみてぇだな」
「はい。すごく美味しそうに食べてますね」
『不満しかねぇよ』
満足そうに笑う郷座に、穹も頷くが、カッツェからは不満が飛んできた。もちろん、これも穹は無視した。
オムライスを食べ終わるまで、穹は郷座との会話を楽しんだ。癖のあるおっとりと喋る郷座に、穹は話題を振りつつ笑顔を浮かべる。
時々不満げに入ってくるカッツェからの切り返しに、穹は笑わないようにするのに苦労した。睨みを効かせて黙らせようとしたが、カッツェは我関せずと食事を続けている。
なんて一人四苦八苦しながらも、オムライスを食べ終わる。食後に郷座からコーヒーのお代わりを進められたが、それは辞退して、食休みの水を飲むだけにした。
「明日は、大丈夫なんかい?」
「はい、三時ごろに来ますね」
「あいあい」
コーヒーセットを片付けながら、郷座が明日の予定を確認をする。
穹は、ここのノワールでお手伝いをしているのだ。本格的なバイト扱いは許可が下りないので、業務に影響しない雑務や片づけをしている。
一応、お金は貰ってはいるものの、それも子供のお小遣い程度の金額だ。拘束時間も短く、宿題をして過ごして終わる日もある。そういう時は、賄いコーヒーを貰ったり、郷座と雑談をしている。
そもそも、穹がここノワールを知ったのは、穹の父親である春美が行きつけだったのが始まりだった。
葬儀が終わって落ちつた後、ノワールの人たちが慰問に来たのだ。当時が穹も不安定だったのもあり、三柴家も扱いには神経質になっていた。
幼い穹を知っているノワールの人たちは真摯に相談にのり、共働きで遅くなる時が多い三柴家の代わりに、穹を預かるようになったのだ。
放課後や休日、穹はノワールに居る時間が増えたのだが、これが客の受けが良かった。元々、ここノワールを訪れるのは年配が多い。なので、近所の孫を囲うように可愛がられたのだ。
そして中学に上がってから、色々な事情を知って家に居たくなかった穹は、もう一つの実家のようなここノワールで店の手伝いを始めたのだ。
最初は普通に雇うと言う話も出たのだが、郷座の示した金額が余りにも高く、バイト以上の扱いになって仕舞うので却下。賄いで食事とコーヒーで割愛してもらい、金額はお小遣い程度に落ち着いて今に至るのだ。
こうした生活も落ち着いてきて、穹は気持ちを整理したくなると、ここに来るようになっていた。
水も飲みほしたが、しばらく、穹は郷座と話しながらカウンターに座ったままでいた。
そんな姿をカッツェは見ていたが、特に何も言わないまま、じっと見つめていた。
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