火曜日。
イベント明けの月曜日は、土曜日の振り替えという事で、穹の学校は休校だった。
もちろん課題はそれなりに出されたために、生徒達はあまり休んだ気はしなかったろう。
穹は特に顕著で、怪我の療養で日曜日にあまり課題を進められなかったために、月曜日はそれの消化に費やす羽目になった。
エレノアの件で悩んでいた穹だったが、本業は学生である。
課題をさぼる訳にもいかないので、ぐちぐち文句を言いながら課題をこなしていた。
幸い、心配したアヤメに手伝って貰えたのもあって、課題は滞りなく終わらせられた。
ほぼ一日穹と一緒に居られたとあって、アヤメはとても上機嫌だったが。
月曜日もそうやって過ごしたために、トレーニングは行えなかったが、穹の体調はすっかり戻っていた。
使役者となってから、何となく怪我の治りも早いように思える。
そんな疑問をカッツェに尋ねた所、概ね同意された。
体に負担をかける代わりと言えばいいのだろうか。
自然の使役するにあたり、その副産物として体の代謝が良くなるのだとか。
軽い怪我程度であれば、本人が自覚できる程度には治るのが早くなるようだ。代謝を上げるだけの為に、骨折や欠損レベルの大怪我は流石に難しいようだが。
使役者とはとても便利だと改めて思いつつも、しかし自分は使役者としてはまだ半端者だと気を改める。
カッツェと色々話してはみたが、穹はまだ、エレノアに勝てるほどの力を持っていない。
今後回避できないエレノアへの雪辱戦。それに勝つためにも、穹はどうやっても、今の力をもっと引き出さなければならない。
その為にはどうすればいいのか。課題をこなしながら考えてはみたが、明確な答えは出なかった。
そんな風に悩みながらも、目下の穹の悩みは別にあった。
「ああ、ダメだ。全然直らない」
朝。火曜日となって、これから学校に向かわなくてはならなくなった時分。
日曜日と月曜日に充分休息は取ったはずなのに、穹は見事に、翌日の朝に寝坊してしまった。
遅刻する程遅れたわけではないのだが、三柴家との朝食の席には間に合わず、一人慌てて済ませたくらいだ。
洗い物をしていた紅葉には軽く謝罪をしつつ、穹は慌てて身支度を整えに走った。
その時に紅葉と話す機会もあったのだが、先日の家族会議から妙に意識してしまって、上手く話せなかった。
紅葉もそれは感じていたのか、言葉少ない穹に何も言わない。
そんな紅葉の態度に心を痛ませながらも、それでも穹は何も言わずに準備を進めた。
服を着替え、さて後は顔を洗って歯を磨けばおしまいと言った所だったのだが。
寝坊からの反動か、穹の髪はすっかり寝癖で跳ねまくっていた。
母親である高丘冷夏の遺伝子を色濃く受けづいている為か、穹の髪は少々扱いが難しい。
元々の冷夏の容姿は日本人離れしていた。名前は日本人なのだが、果たして本当にそうなのかと疑問に思う位だ。
なので穹は、寝る前などには身なりにはとても気を使っている。
軽くでもいいから手入れをしていないと、それはもう、髪の毛は面白いくらいに跳ねまわるのだ。
今のこの状態のように。
左右の髪は非対称に跳ねまわり、頭頂部なんかは、何か漫画のように逆立ってしまっている。
ちなみに、枕が替わってもこうなってしまう。寝付けないまでではないのだが、どうしても、髪の毛の跳ねを抑えられないのだ。
修学旅行のたびに、クラスメイトに笑われるのはもう慣れた。
そんな訳で、寝る前に色々さぼってしまった付けが、今来ている訳なのだが。
これがまあ、中々直らない。
逆立った頭頂部や左側の跳ねは何とか直せた。
しかし右側だけは、何度も何度も櫛を通しても直らない。
少し濡らしてみたり、ドライヤーも使っているのだが、これが凄く強情だ。
こうなってしまっては、一度シャワーを浴びないと直せないのだが、そんな時間もない。
というよりこんな頭で、今は気まずい雰囲気となっている紅葉と顔を合わせたのかと思うと、何ともやるせない気分になる。
仕方がないと髪を直すのを諦めた穹は、一部が跳ねたままとなっている頭のまま自室に戻った。
カッツェは未だ、クッションに丸まったままだ。
どうやら、獅子王を呼んだ影響が出ているらしい。
後から聞いた話だったのが、力を常に解放しているカッツェがログインを行った場合、獅子王を実態として呼び出せるのだそうだ。
その力は、一度の咆哮で使役者を黙らせる程に強力なのだとか。同格の使役者ならば、その力を強制的に解除できるくらいに。
エレノアを退けられたのも、獅子王の力を使ったからだとか。
それは凄いと感心した穹だったが、しかし次は期待できないと言われてしまった。
第二循環の使役者に通用するかは賭けだったし、完全な解除は出来なかった。
恐らく、次は通用しない。
折角の切り札ったのだが、エレノアに対してはもう使えないだろう。
穹を助けるのに使ったのは後悔していないが、戦況は更に苦しくなったと、カッツェは語った。
そして獅子王を無理に呼び出したために、今のカッツェはかなり疲弊していた。
獅子王を戻した後には気を失い、穹とほとんど同じタイミングで目を覚ましたのだとか。
色々相談していた時もかなり辛かったようで、話し終えた後は、気絶するように眠ってしまった。
昨日からずっと寝ていて、今朝もまだ起きていない。
心配になった穹だったが、体温も呼吸も落ち着いていて、本当にただ寝ているだけの様だ。
起こすのも悪いと思い、自然と目が覚めるのを待とうと、出来るだけ静かに身支度を整える。
机の引き出しを漁って取り出したのは、二本の髪紐。
寝癖はどうやっても直せないし、時間もないので、結んで誤魔化そうというのだ。
机に置かれた小さな鏡を見ながら、短い髪をなんとか結いあげる。
普段はこうやって結ぶのが面倒なので、穹はあまり髪を長く伸ばしていない。
なので髪を結ぶのには全く慣れていないので、短い髪に悪戦苦闘しながら、それっぽく結んでいく。
出来上がったのは、小さなおさげが二つ。それも左右バランスの悪い、とても不格好な出来栄えだった。
自分でもこれはないなと思いながらも、時間が無いと言い訳をしながら、よしと頷いた。
手早く上着を羽織り、鞄を担ぐと部屋を出た。
家を出て、やや駆け足で学校へと向かう。
寝坊したからと言って、特別遅刻するという時間なわけではない。
歩いてもまだ間に合うだろうが、気持ち的な余裕を持ちたいのもあって、足取りは早くなる。
ついでに、休日を完全休養とした分、鈍った体を動かしたいのもあった。
体の火照りを感じる頃合いになって、ちらほらと、登校する生徒が増えてくる。
時間にまだ余裕があるのもあって、みんながみんな、友達と思い思いに話しながら学校に向けて歩いている。
そんな中で駆け足の穹は少し目立ったが、ほとんどの生徒は気にしていなかった。
一瞬視線を向けて、すぐにまた会話に戻る。そんな程度だ。
中には穹と顔見知りも居て、駆け足の穹を見るや、笑いながら朝の挨拶をする。
そんな挨拶に穹も挨拶を返しながら、駆け足は止めない。
緩い坂道を駆け足で上り切り、ようやく足を止めたのは校門に到着してからだった。
下駄箱の並ぶ前まで来ると、やっと一息付けるとばかりに、穹は大きく息を吐いた。
ほんのりと汗をかいてはいるが、それほど疲れた感じはしない。
ここ最近のトレーニングを増やした成果だろうか。学校までとは言え、駆け足で来れば以前なら結構疲れていたはずだ。
あるいは、これも使役者となった影響なのだろうか。
何となくそう思いながら、気を取り直すように穹は背伸びをした。
「あれ、穹っち。おはよ」
自分の下駄箱の前で靴を履き替えていると、朝の挨拶と共に話しかけてきたのはクラスメイトの鳥羽朱音だ。
朝の練習帰りなのか、通学用鞄の他に、着替えを入れているであろうスポーツバックを背負っている。首には、スポーツタオルを掛けていた。
「おはよ、朱音ちゃん」
「珍しいんね、穹っちがこの時間に登校なんて」
朱音も靴を履き替えながら穹に尋ねた。
朝の練習があると、朱音はクラスに入るのがやや遅くなる。
穹は部活に所属していないので、割と早めに教室に居る時が多い。朱音と揃って向かうなど、今までになかった。
当然の疑問に、穹は苦笑いを浮かべた。
「あはは、ちょっと寝坊しちゃって」
「月曜休みだと、気も緩んじゃうもんなぁ。ああ、だからそのへんてこな髪型なん?」
「へんてこ言うな。へんてこだけど」
「どっちなん?」
寝坊したと聞いて、穹が普段はしない髪型であるのに、すぐに察したようだ。
それをすぐに指摘されれば、穹も認めざるを得ない。何せ自分でも変だと思っているのだから。
変な矜持で言葉を返せば、朱音は笑う。
お互いに靴を履き替え終わると、並んで教室へと向かう。
諸事情で日曜日はイベントに参加していなかった穹は、当日はどうだったのか朱音に尋ねた。
朱音も少しだけ商店街を回ったそうなのだが、あまり目ぼしい成果はなかったらしい。
例年よりも人が多かった影響か、日曜日にお菓子がそれほどお菓子が余らなかったそうだ。
なのでイベントの余韻はありながらも、当日はほとんど通常営業だった。
部活の友達と一緒に回った朱音だったのだが、結局、普段と変わらない商店街を巡っただけ。
変わったと言えば、朱音の案内でノワールに訪れたくらいか。
この時に、茶野川健とも会ったそうだ。何だからやつれた様子で、店番をしているのが印象的だったとか。
いったい、恋人である皐月に何をさせられたのか。朝のぼんやりした頭で変な思考に陥りそうになり、穹は慌てて頭を振って振り払った。
二日目のイベントはあまり楽しめないまま終わり、部活と課題に追われて、朱音は碌な休みにならなかったらしい。
ある意味充実した学生生活をしているなと思いつつ、穹は笑って答えた。
進学校とは言え、部活にも力を入れている生徒も多い。
両立させている朱音に、穹は少し羨ましいと思うのだった。
そんな穹は、ほとんどが課題に追われていたので充実しているとは言えないだろう。
目下の悩みは、いつ自分の所に来るかも分からないエレノアだろうか。
それとなく穹が尋ねてみても、日曜日に歩いた時には、朱音の方もエレノアは見ていないという。
目立つ容姿をした白金の少女だ。ちょっと外を歩いただけでも、噂にもなるだろう。
友達の誰も見ていないというのだから、日曜日は何もしていないのかもしれない。
エレノアの力が十全に発揮されるのが夜だとすれば、日中に動かないのも当然か。
休みの全てを療養に中てた穹としてはありがたかったが、何も動きがないというのもなんだか不気味だった。
妙な雰囲気になる前に、穹は話題を変えながら、朱音と共に教室に向かった。
休みの間に出された課題だったり、休み明けともなれば教師陣は容赦なく勉強の進捗を尋ねてくる。
休み明けの初日の憂鬱な話題だ。お互いに愚痴り合いながら、話は尽きない。
そうして話していれば、教室にはすぐにたどり着く。
やや遅くなったのもあって、席のほとんどが埋まっていた。居ないのは、遅刻ギリギリまで部活動に励んでいる生徒くらいだろう。
「穹。おはよう」
自分の席に向かっていると、着席を待つ前に挨拶をしながら近寄る女生徒がいた。
クラスメイトでもあり、中等部の頃からずっと仲良くしている、一番の親友とも言える、守崎アヤメだった。
やや紫がかった黒髪。黒曜石を思わせる漆黒の瞳。大和撫子を思わせるその少女は、同性の穹から見ても、魅力的な女の子だ。
ただ、穹の事情をよく知っている為だろうか。彼女は、やや過保護な所がある。
あなたは私の従者ですか? なんて穹は思わず問いたくなるほどに、アヤメは穹の世話を焼きたがる。
体育の後のケアはもちろん、カッツェを飼い始めた穹の負担を細かく尋ねてきたりと、何かと気に掛けてくれた。
気恥ずかしいのでやんわりと止めたりもするのだが、その度にこの世の終わりのように悲しい顔をされるので、結局はそのままとなっている。
今朝も即座に話しかけてきたのは、登校の遅くなった穹を心配してもあるのだろうが、今の格好も関係しているかもしれない。
「おはよう、アヤメちゃん」
「穹、その頭は、なに?」
穹が挨拶を返すと、早速と言わんばかりにアヤメが尋ねてくる。
有無を言わせぬその問いかけに、穹は言葉に詰まった。
何とか誤魔化せないかとも思ったが、アヤメは笑顔を浮かべているがその目は笑っていない。
下手な言い訳なんてさせないぞと言わんばかりの無言の圧に、穹の心はあっさり折れた。
ちなみに、アヤメが近づいてきた時点で、朱音の方は知らんぷりを決め込んでいた。
触らぬ神に祟りなし。速攻で他人の振りを結構していた。正しい判断だろう。
薄情者め。
「あのですね、アヤメさん。これには病むに病まれぬ事情がありましてですね。時には髪を結びたいという、ちょっとした少女心がありまして」
「寝坊した挙句に寝る前のケアを忘れて寝癖が直らないから無理に結んでみたけど奇天烈な髪型になったことのどこに深い事情があるのかな?」
エスパーですか?
支離滅裂な言い訳を始めた穹に対して、アヤメは即座に事情を察して切り込んできた。
やはり下手な言い訳は逆効果だったらしい。
素晴らしい笑顔のまま迫るアヤメに、穹は涙目になりながら謝った。
「ごめんなさい、すみません。アヤメちゃんの言う通りです。マジすんまんでした!」
「はい、きちんと謝れたならよし」
穹の謝罪に満足したのか、身を引くと、アヤメは良しと頷いた。
解放された安堵から、穹は深くため息を吐く。そんな様子を、朱音は他人事のように笑ってみている。
何だか理不尽な気がして、穹はとりあえず朱音を睨んでおく。
そんな二人をしり目に、アヤメは何やら機嫌が良さそうに鼻歌を歌いながら、自分の鞄を漁り始めた。
何が始まるのかと穹が見ていると、アヤメが取り出したのは櫛だった。
お洒落と言うか、髪型に頓着しない穹としては、女の子のアイテムが出てきたのに首を傾げた。
「じゃあ、髪型整えちゃうから。穹は自分の席に座って?」
「いや、私はこのままでも」
「座りなさい」
「……ぁぃ」
どうやら髪を直してくれるようだった。
一瞬穹は渋ったが、アヤメの有無を言わせぬ迫力に、再び涙目になりながら大人しく席に着いた。
穹が席に座るのを確認すると、アヤメは背後に回ってまずは髪を結んでいる紐をほどいた。
途端に、片側だけ元気に跳ねる穹の髪。結んで誤魔化していたが、どうやら時間がたっても変わらなかったようだ。
マンガのように跳ねる穹の髪を見て、朱音は吹き出した。
「なんね、穹っち、その頭」
「これでもマシになった方なんだよ?」
「穹は髪がしっかりしているから、ちょっとサボるとこうなるのよ」
それで穹の髪に触れるのが嬉しいのか、アヤメの手は楽しそうに動いている。
柔らかなブラシで髪を梳かれるのはとても心地よく、穹はほんのりと目を細めた。
何度も往復して全体を梳いたが、やはり、寝癖で跳ねた所は元には戻らない。
ますます笑う朱音と違い、アヤメはこの髪には慣れた物だ。最初から、ブラシで梳いた程度では直らないのは分かっている。
穹はよくアヤメの家に泊まるので、翌朝にこうなっている時が多い。
そんな時はよくアヤメが整えてあげているので、その手つきに淀みはなかった。
一通り梳き終わると、寝癖で跳ねた髪をまとめ上げる。
穹の髪は短いため、仮に結ぼうと思っても、穹が結んだのと同じになるだろう。
手慣れたアヤメが作業するのだから、その出来栄えは天と地ほどの差がある。
同じ髪型に直しただけなのに、全く別物のようだ。
左右の髪を小さなおさげにして、穹が結んでいた髪紐を目立つように結び直す。
どうやっても髪でボリュームが出せないので、この紙紐で補うように結んだのだ。
これには、遠目に見ていたクラスメイト達も大絶賛だった。近くに居たクラスメイトが、ぞろぞろと集まってくる。
「お、穹。かわいい」
「いやあ、流石アヤメちゃん。見間違えたね」
「かわいいよ、穹っち」
「可愛い言うな!」
口々に絶賛するクラスメイト達に、穹は顔を真っ赤にしながら反論する。
相変わらずな穹の反応に、クラスメイト達に笑いが起こる。
戸惑う穹もそれはそれで可愛いからか、近くにいるアヤメはそれを止めるでもなく機嫌の良さそうな笑みで見守っている。
そうこうしている内に予鈴が鳴り、少しして担任が教室に入って来た。
自分の席にもつかず、穹に群がる女生徒達に一瞬怪訝そうな顔をした。
騒ぎの中心に穹がいて、普段とは違う雰囲気の彼女を見ると、納得したようにため息を吐いた。
「高丘さん。一段と今日は可愛らしいのは分かったから、あんまり騒ぎを起こさないでね」
「先生、あなたもですか」
何故か自分が窘められて、がっくりと肩を落とした穹。
そんな姿をまたクラスメイト達は笑いながらも、入って来た担任に促されてクラスメイト達は各々の席に戻る。
それからホームルームが始まり、先日のイベントの労いと軽い連絡事項を伝えられてから、授業は始まった。
授業が始まれば、流石と言うべきだろうか、浮ついた雰囲気は消し飛んで皆が真面目に授業を受け始める。
穹も授業に集中しながらも、頭の片隅では、エレノアに思いをはせていた。
ああして戦ったが、やはり、彼女自身は悪い人には思えなかった。
この世界を嫌っているし、カッツェを目の敵にしている。片棒を担いでいる穹についても、言わずもがな。
ただ言葉の端々には、どこか必死さが伺えた。
何となくだが、エレノア自身は風の結晶を取り返すそのものが目的はない気がした。
風の結晶を取り返すのは、手段でしかないように思える。
エレノアが風の結晶を取り戻したいのは、風の結晶を取り戻したという、その結果を求めたからではないだろうか。
希少とはいえ、風の結晶が穹が持つ一つだけではないはずだ。
なら、例え盗まれたのだとしても、どこに逃げたのかも分からないカッツェを探すよりも、別の風の結晶を探し出した方が早いはずだ。
風の結晶が必要なのは違わないだろうが、そう思えば、態々カッツェを探し出す必要は感じられない。
それでも探し出してここまで追いかけてきたのなら、風の結晶を取り戻すのは手段であって、何か別の目的があるのかもしれない。
そうなれば、何か必死に思えた彼女の態度にも納得がいく。
納得いくのだが、穹は、やはりいい感情を抱けなかった。
恐らくだが、その梳けて見える目的が、穹が好きになれないのだ。
この暗い感情に、やはり穹は正確に把握しきれていない。
目的があるのではと思えたのも、こうして渦巻く暗い感情があったからだろう。
何が、エレノアを根本的に好きになれないのか。
敵対しているからとか、そう言う理由ではない別の理由。
彼女と戦うにあたって、経験以上に、これの感情が穹を戸惑わせていた。
もっと、彼女を知らなければならない。
対策だとか、そういう話以前に、知らないといけない気がした。
こんな曖昧な話をカッツェにしても困らせるだけだろうが、態々盗みに入ったのだ。
カッツェなら、エレノアを送り出した誰かを知っているかもしれない。
それを知れれば、もしかしたら、エレノアの目的が見えてくると思えた。
もう一度、エレノアと戦う前に、カッツェに聞いてみよう。穹はそう考えた。
その日は、どこかモヤモヤを抱えながらも、穹はいつも通りの一日を過ごせた。
髪型は散々笑われたが、昼休みも終わるころになれば落ち着てくる。
そろそ寝癖も落ち着いた頃だろうから、結んだ髪を解こうとしたらなぜかアヤメに全力で止められた。
穹の髪を弄れる機会などたくさんあるだろうに、今の髪型を大層気に入ったようだ。
結局放課後まで髪型は維持されて、途中体育を挟んで乱れた時などは改めて結び直された。
反論しようとすると怖い笑顔を返されたので、穹は涙を呑んで受け入れるしかなかった。
「じゃあ、穹。帰ろうか」
一日の授業が終わり、放課後となる。
帰宅の準備をしている所に、一足先に準備を終えたアヤメが近寄ってきた。
朝は一緒に登校できなかったので、帰宅くらいは一緒にしたいのだろう。
幸い、今日は穹も部活の手伝いをお願いされていない。
アヤメの方も、イベント後の後始末で呼ばれてはいないようだ。
「うん、どこか寄っていく?」
「そうね。穹が言った、例の和菓子店が気になるかしら」
準備をする手を止めないまま穹が予定を尋ねれば、アヤメは少し悩みながらも提案する。
和菓子店とは、イベント中に穹が朱音達と訪れた店の話だ。
イベント中はアヤメも本部に入りっぱなしだったので、あまり商店街を回れていない。
そんな中で、穹達が訪れた和菓子店の話を聞いて気になったのだろう。
放課後に和菓子とは、中学生にしては中々に渋い提案だったが、穹としては異論はなかった。
別のメニューも気になったので、気持ちがまだ冷えていない内に行った方がいいだろう。
「分かった。じゃあ、行こうか」
笑顔で頷いて鞄を持つと、穹はアヤメと連れ立って教室を出た。
今日もまた課題を結構な量を出されたので、和菓子店でお茶をしながら色々相談してもいいかもしれない。
放課後の楽しみに足を軽くしながら、穹はアヤメと談笑しながら廊下を渡る。
しかしそんな楽しい気持ちが続いたのは、下駄箱を出るまでだった。
「あら?」
「どうしたの?」
先に外靴へと履き替えたアヤメが、何かに気が付いたような声をだした。
遅れて靴を履き替えた穹も、不思議そうにアヤメの見る先に視線を向けた。
帰宅する生徒と部活に向かう生徒が入り乱れる校門の前に、妙な人だかりが出来ていた。
全員が全員足を止めて、校門の向こうを凝視して何やら話をしている。
その話声は中庭に響いていて、どうやら不審者が現れた様子ではない。どちらかと言えば、何やら有名人でも現れたかのようなテンションだ。
朝や放課後のホームルームでも、この時間に学校関係者以外の人が来るとは聞いていない。
首をかしげる穹とアヤメだったが、帰る為にはどうしたってあそこを通らなければならない。
他の生徒よろしく、野次馬をするつもりはないが、通りがかりに横で見ればいいだろう。
そんな軽い気持ちで、二人は連れ立って校門に向かった。
話声は次第にはっきりと聞こえてきて、そばだてている訳でもないのに、否応なしに会話が聞こえてくる。
「ねえ、あれって噂の外国の子じゃない?」
「きっとそうよ。うわ、すっごく綺麗」
「やば、マジで噂以上に美人だ」
「おい、お前声かけてみろって」
言葉の端々から聞こえた単語を耳にして、穹はドキリと胸が鳴った気がした。
驚いて固まる間もなく、穹とアヤメは校門前に近づいた。
噂の人物は、校門の柱に寄り掛かってこちらに背を向けている。
複雑に編み上げた、光を照らし返す白金の長髪。夜闇を編み上げたかのような漆黒の制服。スラリと背は高く、驚くくらいの細身の肢体。長く真っ白な足を、膝まである編み上げブーツで包んでいる。
穹は、驚きで目を瞠った。
間違いない、あれは、エレノア=レディグレイ。その人だった。
ざわざわとした喧噪の中、不意に、エレノアが振り向いた。
深海を思わせるような、深い藍色の瞳が、穹を射抜く。
驚きで表情を引きつらせる穹を見初めれば、その顔は嬉しそうに笑みを浮かべる。
人を虜にするような可憐な笑みに、大多数の生徒が、一斉に顔を赤らめて呆けた顔を見せる。
そんな中で、穹が受けた印象は真逆だった。
獲物を見つけたかのような、獰猛な笑み。蛇に睨まれた蛙の如く、穹は何も言えなくなった。
何故ここに居るのかと、いまさら問うまい。
イベントの時、彼女はアヤメの制服を見ている。こちら側には学校は一つしかない為、場所を特定するなど造作もないだろう。
後は穹が帰宅するよりも早く、校門前で待ち伏せていればいいのだ。
大胆なエレノアの行動に、穹は戸惑うばかりだった。
「ああ、待っていたよ、穹」
校門の柱から離れたエレノアは、穹を振り返って呼びかける。
一応部外者であるのは分かっているからか、敷地内には入ってこない。
このまま回れ右して中に戻ってしまえば、この場は逃げられるだろう。
しかし彼女は、しっかり穹の名前を呼んだ。それはここに居る生徒が全員証人だ。
完全に逃げ場を無くし、唯一の出口である校門は塞がれている。
どうあっても逃げられない。
それを理解した穹は、自分でも驚くくらいに冷静だった。小さくため息を吐くと、アヤメに視線を向ける。
「ごめん、アヤメちゃん。お店に行くのは、また今度にしよう」
不意の言葉に、アヤメは目を見開いて驚いた。
先ほど、穹は自分の方から放課後の予定を聞いてきた。
つまり、エレノアの訪問は予定外だったはずだ。
にも拘らず、穹はアヤメとではなく、エレノアと行く方を優先した。
仄かに笑みを浮かべる穹に、アヤメは不安を覚える。何か、穹にとって良くない事が起きたのではないだろうか。
自分の予想が間違っていないのを願いながら、アヤメは改めて訪ねる。
「いいの? あの子、なんだか怪しいよ?」
ノワールでは気兼ねなく話していたようだったが、今この瞬間、アヤメはエレノアを警戒する人物に変えたようだ。
何も言わないまま何かを察したアヤメに、穹は困ったような笑みを浮かべる。
怪しいどころではない。きちんと事情を話したら、間違いなく、穹にとってエレノアは危険な人物だ。
どうして穹を呼び止めたのか。そしてこの後起こるであろう事態を知れば、アヤメは確実に止めるだろう。
だが、穹は今は話せない。
隠し事ばかりになってしまう親友に対して心苦しく思いながらも、穹は話すわけにはいかなかった。
「うん。でも、私もあの子に、エレノアさんに、話があるから」
事情は話せないが、行かせてほしい。そう遠回しに言われて、アヤメは一瞬寂しげな顔を見せる。
そのすぐ後には、アヤメは笑みを浮かべる。そこには、穹に対する信頼しかなかった。
「分かった。お店には、また今度一緒に行きましょうね」
「ありがとう、アヤメちゃん」
「ううん。また明日ね」
「うん、また明日」
そうして別れを告げれば、アヤメは穹を見ながらも一人で歩き出した。
すれ違いざまに、アヤメはエレノアを盗み見る。
エレノアはすれ違うアヤメには興味が無いようで、その視線は穹に向いたままだ。
そんな彼女に鋭い視線を向けながら、アヤメは一人、帰路に就いた。
アヤメの背中を見送って、完全に姿が見えなくなった頃になってから、穹は自分からエレノアに近寄った。
嬉しそうな笑みを浮かべたまま、エレノアは穹を向かい入れた。
「ごめんね、友達との時間を奪ってしまって」
「いいよ。エレノアさんに話があるのは、本当だから」
「ふふ、そんな怖い顔しなくてもいいのに」
どの口が。
悪びれもしないでいうエレノアに、穹は歯を食いしばる。
こんな目立つ待ち伏せをされて、明らかに狙っていただろうに。人の目が無ければ、文句の一つも言っていただろう。
押し黙る穹を見て笑みを強くしたエレノアだったが、その視線を外して、迷惑そうに周りを見る。
遠巻きに見る生徒の数は増えていて、校内でも有名な穹と対面に、好機の目を向けてくる。
「……ここじゃあ、話も出来ない。場所を変えようか」
移動を提案するエレノアに、穹は黙って頷いた。
エレノアも頷き返すと、踵を返して歩き出す。その後に、穹も続いた。
緩やかな坂道を下る途中、エレノアは道を逸れる。
エレノアの後ろに続きながら、彼女がどこに向かうのかを穹はおおよそ察した。
山一つを学校の敷地に充てているが、ここの山はそれなりに面積がある。
部活動などに使われるグラウンドを多く展開しているが、微妙に使いにくい場所はそのままとされている。
学校の裏手には、学校が管理している神社がある。
ただし、何を奉納しているかとか、何かの行事に使われているかは、誰も知らない。
年始の挨拶に使われているかも怪しいそこは、すっかり廃墟のようになっている。
長い石の階段があるために、部活の鍛錬で使用されている時がたまにあるくらいで、人はほとんど寄り付かない。
エレノアはきっと、そこに向かっているのであろう。なぜエレノアがそこを知っているか不思議だったが、この道は、そこに向かう脇道の一つだ。
まだ夕方に入って間もない時間だが、木々が生い茂る森に入れば、途端に暗くなったように思える。
十分ほど歩いた頃だろうか。道の途中なのにもかかわらず、急にエレノアは足を止めた。
遅れて穹も足を止めて、エレノアの動きに首を傾げた。
「……もう、ここに人はいない。出てきたら。小さな泥棒さん?」
人の気配がない森に向かって、エレノアが声をかける。
穹が驚きで目を瞠る中、足元に生える茂みから猫が一匹現れた。
「カッツェ!」
「おう、穹。念のために来てみて、正解だったよ」
茂みをかき分けて現れたのは、カッツェだった。
穹に気さくに答えながらも、カッツェの目はエレノアからは離れていない。
しかしここでどうにかしようと思っていないのか、カッツェが姿を現しても、エレノアは余裕の表情を浮かべたままだ。
「どうしたよ、始めるならさっさと始めればいいだろう」
「ふふ、そんなに焦らないで、泥棒さん。ここは、何をするにしても狭いから」
カッツェの小言に気を悪くするでもなく、穹とカッツェが並んだのを確認すると、エレノアは歩き出してしまった。
そんなエレノアの態度が気に入らなかったのか、ふんと鼻を鳴らしてカッツェが後に続いた。
こんな道の悪い中だ。抱えていこうかと穹は思ったが、流石に言い出せなかったので、大人しく着いて行く。
道中は何を話すでもなく、黙々と歩き続ける。
しばらく歩いていると、遠目に建物が見えてきた。
思った通り、エレノアが連れてきたのは、廃墟にも見える神社の前だった。
草木は伸び膨大で、石畳の半分は雑草に覆われている。神社はあちこちが腐っていて、辛うじて立っている柱も、触ったら崩れてしまいそうだ。
入り口を閉ざす扉の格子もあちこちが折れていて、本当に、いつ壊れてもおかしくなさそうだ。
数歩分の距離を開けて、穹とエレノアは対峙する。
エレノアは悠然と構え、穹は緊張にこわばっている。まるで、河川敷の時そのままだ。
今回は最初からカッツェが居るのが、穹にとっての唯一の救いだろう。
まるで穹を励ますかのように風が流れ、木々を揺らす。草木の擦れる音が音色を奏で、場違いな風情を醸し出した。
流れる髪を鬱陶しそうにエレノアが払った。チラリと見えた左の耳には、武骨な石が嵌められたイヤリングが輝いている。
「さて、無駄な問答は無し。さっさと終わらせよう」
話し合い等要らないとばかりに、エレノアはポケットからマッチの箱を取り出した。
マッチを一本取りだすと、いつでも火を付けられるように構える。
「エレノアさん、私は!」
「問答はなし、そう言った」
そんなエレノアに、学校で思った事を尋ねようとした穹。
しかしエレノアはそんな穹を歯牙にもかけず、マッチを擦って火をつけた。
「テライ、起きて」
『起動』
小さな小さな、頼りないマッチの火。
そんな火だったが、エレノアが自然の意思に一声かければ、途端にその規模を変える。
マッチの火はエレノアの体を巡り、巨大な火柱へと姿を変える。
火柱からエレノアの手が現れると、その火柱を掴んだ。
つかみ取った火を振り払えば、現れたのは真っ黒なケープ。それを雅な所作で肩に羽織れば、バスケットボール大の炎を二つ、エレノアは両手に携えている。
話し合いは出来ない。それはもう、河川敷の戦いで分かり切っていた。
今更、何を話せというのか。自分の気の迷いを理解した穹は、疑問を振り払うように頭を振った。
今は戦いに集中しよう。大丈夫。対策はカッツェと話し合っている。
なんとかなる。そう自分に言い聞かせて、穹は制服の下からリングを取り出した。
「風よ、お願い!」
『……た』
チェーンに繋がれたリングを、穹は指を掛けて引き抜いた。
精巧に編まれた金糸で出来た指輪は、穹の指に引かれるまま形を変える。
周囲の風を巻き込みながら、金糸はほどけて、穹の左腕に巻き付いていく。
光りが治まると、そこには豪奢な腕輪が出来上がっていた。複雑に絡み合った金糸に、艶やかな翠の膜が張っている。
中央にはめられたのは、風の結晶でもある、翡翠色の宝石。穹の意思を表すかのように、自らが輝いていた。
穹が呼びかける間もなく、周囲を風が吹き荒れる。
視認できるほどに渦巻いた風は、周囲の雑草を激しく弄び、細かな砂を巻き上げている。
エレノアと違って、穹には余裕はない。実力差は歴然。相性は勝っているのに、先日の敗北を忘れたわけではなかった。
最初から全力。様子見をしている暇なんてないのだ。
そんな穹の態度を、エレノアはやはり余裕の笑みを浮かべてみている。
まだ完全に暗くなっていないからか、闇の力はまだ使っていない。
夜になるにはまだ時間はあるが、ここは森に囲まれている。暗くなるのは早いだろう。
闇の力まで使われては、穹の勝機はどんどんなくなっていく。火の力しか使っていない内に、なんとか決着を付けなければならない。
焦る気持ちを抑えるように、穹は深呼吸する。
嵐のような風が周囲を巡り、猛る炎が轟々と音を立てる。
緊張が高まる中、穹は先手を打つべく足に力を入れる。
「ポガジ!」
一触即発。いざ、戦いの火ぶたが切って落とされようとした、その時だった。
聞きなれない声が、神社の境内に響き渡る。
驚きで、声のした方を見る穹とエレノア。
次の瞬間、穹の周囲の雑草が揺れたかと思えば、途端に穹に巻き付いた。
驚きの中で穹は抵抗も出来ないまま、人差し指くらいの太さになった雑草が、幾重にも穹に巻き付いた。
エレノアも、似たような状況に追い込まれていた。
周囲にパチンコ玉のような物が投げ込まれたかと思えば、途端に姿形を変えて、槍ような形状になってエレノアを囲ったのだ。
一歩でも動けば突き刺さるような配置に、流石のエレノアも、すぐには動けなくなった。
急な束縛に驚く穹とエレノアの横で、一人(一匹?)だけ、冷静に状況を見ている存在があった。
「……ようやく来たか、待ちくたびれたぞ」
どこか呆れたようにカッツェは呟いて、声のした方へと視線を向ける。
長い石階段から表れたのは、真っ黒な少女だった。
地面に届きそうな髪も、着ている武骨なコートも、小さな足を包む靴も、何もかもが黒い。
唯一肌を露出している顔だけが、驚くほどに白かった。
印象は、とても幼い。顔立ちだけで見れば、小学生にでも見えてしまいそうだった。
更に驚くべきは、少女の体のあちこちから火が溢れだしている。
コートの隙間や、果ては髪の中からも、エレノアにも引けを取らない程の炎が溢れだしていた。
境内にまで足を踏み入れると、漆黒の瞳を、拘束された穹とエレノアに鋭く向ける。
「ここはワシが預かる。双方、矛を収めて貰おうか」
声は年相応に幼いのに、その口調は老齢差を感じされるほど古臭い。
ここに、新たな使役者が現れたのだった。
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