風使いー穹-

風に愛された少女
村上ユキ
村上ユキ

014 桜の木の異変

公開日時: 2022年11月6日(日) 21:28
文字数:10,308

 日付は進んで金曜日。


 結局、この数日では特に大きな事件らしい事件は起こらなかった。


 桜の木の公園は夕方ごろになると、今回の異常事態にいち早く慣れた子供達が連日遊んでいるのを見かけるようになる。


 もちろん子供達と言うのは、まだ学校に通っていない幼児がほとんどだ。学校側の対策もあって生徒達は中に入っていない。一部は注意されたにもかかわらず侵入しようとした無法者もいたが、そこは事前に先生に見つかって注意と軽い罰を受けている。


 罰と言っても、提出課題の増量と言った内容だ。しかしそこは進学校。元々の課題がそれなりの量なのに、更に増量となっては堪ったものではない。実際に言い渡された生徒は、放課後に泣きながら課題をするというのが一部の恒例行事となっている。


 同情こそすれ、郷愁傷さまとしか言えない、おバカな話ではあるが。


 多少の騒ぎはあったものの、学校での日常は変化はない。桜の開花騒ぎで、退屈な学校の生活に刺激があって浮かれている程度だ。


 むしろ驚くべきなのは、件の桜の方であろう。


 地域にもよるが、桜の満開期間はおよそ一週間ほど。今週は天気も安定していて、風もそこまで強く吹いていなかった。桜の花も安定して咲く気候ではあっただろう。


 けれど四日も経てば花も散り始め、一週間となればほとんど散ってしまっている。


 にもかかわらず、公園の桜は満開の花を咲かせ続けていた。


 これには教師陣も頭を悩ませていたようで、本来なら三日ほどで切り上げる予定だった監視期間を延長するはめになったのだとか。


 生徒たちも似たようなもので、三日ほどは物珍しく話題にしていたのだが、四日目ともなると気味が悪くなってきたようだ。様々な憶測は落ち着き、今は不安な声をよく聞くようになる。


 そうなると、無法者も完全になりを済ませ、自主的に通学路を変更して登下校をする生徒も増えていた。


 学校側も概ね同じような話で、未だに子供達は遊び場として利用しているみたいだが、保護者達の間では気味の悪い噂が広まっているらしい。


 平日の夕方には、ちょうどいいウォーキングコースとなっていた公園だったのだが、今ではほとんど見かけなくなってしまっている。


 そんな状態となっていたが、金曜日なった今日の朝、授業開始前の連絡で教師の監視は無くなるのが宣言された。結局、一週間咲き続けただけで危険はないと判断されたからだ。


 立ち入り禁止は無くなりはしたが、無闇に近づいたり、何かあれば学校にすぐに連絡を入れるようにと言う注意付きだったが。


 この報告に、クラスメイトは納得はしたものの、悪乗りで突撃に行くと言う空気にはならなかった。むしろ、教師達の監視が無くなって不安視する声もあったくらいだった。これなら誰も近寄ろうとは思わないだろう。


 その話に穹は概ね同意だった。そして、この一週間で何も無かったのにも安心していた。


 一週間も桜が満開だったのには驚きだったが、結局それだけなのだ。大きな事故もなかった。


 変に心配だっただけに、ようやく一息付けた心地になる。


 この桜の件は、もちろんカッツェに相談していた。三日も満開だった時には、かなり焦ったものだ。


 しかしカッツェの答えは一貫していた。つまり、関わるなと。


 むしろ穹が積極的に関わしまうと、向こうを刺激して、何が起こるか分からないとまで言われてしまう始末。


 そう言われてしまうと穹は何も言い返すことが出来ず、黙って頷くしかなかった。


 胸のわだかまりはあるが、自分が動くけば事態が悪化する可能性があると言われてしまえば頷くしかない。


 当事者である可能性が大いにあっただけに、不安と恐怖は募るばかりだった。一週間がこんなに長く感じたのは、これが初めてだ。アヤメなどには、心配の声を掛けられた程である。


 それもあり、昨日と今日とではアヤメの家の車で送迎されていた。そうすれば穹が桜を見なくて済むという配慮だったのだろう。


 ただ穹から見た感想としては、登校時間の間とは言え、アヤメが穹と居られる時間が増えると喜んでいたのが大きいように思う。桜の木の公園の近くを通らなくて済んでいたので、アヤメの目論見は分かっていても特に指摘はしなかったが。


「ねぇ、穹っち。帰りさ、公園の桜見に行かない?」


 後は帰るだけとなった放課後。授業で使っていた道具を片付けていた穹に朱音はそんな提案をしてきた。


「え?」


 思わず、穹は手を止めて朱音を見返してしまう。


 まさかのタイミングに、穹はすぐに返事が出来なかった。


「あ、もしかして都合悪かったりするん?」


 思ったより穹の反応が良くないのを察して、朱音は予定を伺ってくる。


「つ、都合とかは特にないん、だけど」


 そんな朱音に対して、穹は歯切れ悪く答える。


 正直に答えるのならば、穹は桜の花が完全になくなるまでは近寄りたくはなかった。カッツェの言いつけと言うのもあるが、穹としても不気味であるが為に積極的に見に行こうとは思っていない。


 ただ懸念もあったのだ。ここで断ったとしても、朱音は他の誰かと公園に行っていただろう。


 仮にそうなったとして、もし朱音に何かあったとしたら?


 穹は自分でも思っているが、聖人君子でもなければ正義感が強いと言う訳でもない。


 同じ学校の生徒が何かあったとしても、少々気の毒に思いはしても思いつめたりはしない。精々が、気がかりが増える程度だったろう。


 しかし朱音は違う。親友、と呼べる様な間柄ではないが、良く遊びに出かける友達であり、他のクラスメイトよりは親しい仲だ。


 そんな子が、あそこでもしもが起こったとしたら?


 そうなった時、穹はもう平静では居られなくなるだろう。少なくとも、カッツェの言うように傍観を決めてはいられなくなる。


 それは嫌だ。


 今穹が考えるのは、どうすれば朱音を止められるかだった。


「えっと、朱音ちゃんは大丈夫なの? 部活とか、委員の活動とかあるんじゃ」


「流石に、金曜日にまで生徒を拘束する活動はしてないんよ。部活は、明日やるから今日はお休み。この学校、その辺は緩いんよねぇ」


「ああ、そっか」


「先生も大丈夫だって言ったんし、見に行くくらいは良いっしょ」


 朱音の活動を引き合いに出して引き止められないかと切り出したが、どうやらそれは無理だったらしい。


 むしろ、そういう活動が無くて、放課後の時間が多く取れるからこそ、朱音は誘ってきたようだ。


 思えば、朱音とこうしてどこかに誘われるのは、金曜日が多かった気がする。


 特に学校の活動に参加していない穹は、そういう事情があると言うのは知らなかった。今まで気にしていなかった程度には、関心が低かったのだ。


 だとしても、朱音がこのタイミングで誘って来たのは、放課後の都合がつくからに他ならない。少し考えれば分かるようなものでも、今の穹には出来ない程度には焦っていたのだろう。


 なら、穹とすれば止める言い訳が思いつかない。一緒に行く、と言うのも一つの手段なのは分かっているが、それはそれで危険かもしれない。


「ああ、えっと」


「どうしたの?」


 思いつめ始めた穹を見て朱音が何を言おうとしたが、そこにアヤメが会話に入って来た。


 手には鞄を持っていて、すでに帰りの準備は終えてきたらしい。


 様子のおかしい穹を見て、アヤメの表情がやや険しくなる。ここ数日穹が何か思いつめているのを、アヤメは何も聞かなくても察していた。


 そんな穹が、朱音と話をして更に難しい顔をしているのだ。何かあったと勘ぐるのは仕方がない。


「何もないよん。桜を見に行こうって誘ったんけど、穹っち気乗りしなそうだから、他の子と行くことにするんね」


 穹に対するアヤメの過保護っぷりは、朱音も知る所だ。妙な勘違いをされて色々言われるのが嫌なので、朱音はやや早口で、予定の変更を伝える。


 一人で見に行くのは流石に憚れたので、朱音は一緒に来てくれれば誰でも良かった。席も近くで、誘い安かったら穹を誘ったと言うくらい。


 そんな穹が乗り気でないのであれば、別に無理強いをするつもりはない。他に、興味がありそうな友達を誘えばいいだけである。


 これと言って気にしていなかったし、嘘は言っていない。


「ま、待って!」


 他の誰かを誘おうと、朱音が離れた瞬間、穹は声を上げて止めに入った。


 思ったよりその声は大きく響き、アヤメと朱音が驚いただけでなく、周りに残っていたクラスメイト達も穹に視線を向ける。


 集中する視線の中で、穹は思わず声を出してしまったのを後悔していた。


 これはもう、止める流れではなくなっている。ここまで注目されてしまってから、なんでもないとは言えない。


 だったら。


「大丈夫、桜を見に行こうか」


 一つ呼吸を置いてから、穹は意を決してアヤメと朱音に提案する。


 何もない可能性もある。むしろ、穹が参加して危険が発生する可能性もある。


 けれど、見ていない所で親しい友達が危険な目に合うのは、穹には耐えられない。


 自己犠牲、なんて思うつもりはないけれど、少なくとも、近くに居れば何か出来るはずだと思いなおす。


 アヤメが心配そうに声をかけてくるが、声を出してかえって開き直れたのだろう。答える穹に、先ほどまでの思い悩んだ空気はなかった。


 朱音の方はそこまで深く考えていないらしく、穹が行くと言うのならそれでよしと言った風に、道具をまとめた鞄を持った。


 それを見て、穹も同じく帰り支度を始める。今日は金曜日と言うのもあって、持ち帰る道具が多く、気持ち鞄の膨らみが来た時より大きくなっているように思える。


 細かく持って帰ってないからなぁ。


 重くなった鞄を持って、穹はしみじみ思う。


 几帳面と言う性格ではない為、家で勉強に使う分だけを持って帰っているのと、週末になるとこうなってしまう。


 毎週のように後悔をしているものの、穹は未だ改善されていなかった。


 進学校で通う生徒は、こういったのに几帳面な人が多い。クラスメイトのほとんどは、穹と違ってすっきりとした鞄を持っている。目の前の朱音も、鞄に物が詰まっている感じはするが、穹よりはスッキリした見た目をしている。


 膨らんだ穹の鞄を笑いながら、朱音は、穹とアヤメと一緒に教室を出る。


 途中、アヤメは携帯を触りながらどこかに連絡を入れているようだった。恐らく予定が変わったから、迎えの車の断りを入れているのだろう。


 そんな予想をして、心の中で運転手の人に詫びを入れつつ、穹は朱音と話をしながら学校を出る。


 車が来ているのなら、朱音も乗ってもいいのでは思うのだが、それとなく断られてしまった。アヤメの車は中々目立つため、余り乗りたくなないのだそうだ。


 そんな物かと思いつつ、すっかりアヤメの送迎に慣れてしまっているのを穹は実感した。


 初めてアヤメの乗る車を見た時は、立派な外見に驚かされたものだった。それも、長年付き合って乗る機会が増えてきて、次第に薄れていったものだ。


 それを思えば、特別親しいと言った程度のクラスメイトとしては、確かにハードルが高いように思えた。


 深く掘り下げるのをやめて、穹は朱音やアヤメと会話を楽しみながら、通学路をゆっくりと歩いていく。


 学校側から穹達の住んでいる住宅街に向かう途中には商店街がある。


 最近はコンビニなども増えてきたが、それでも、ここの商店街はまだまだ活気が残っている。こうした下校時間になると、帰りの学生を狙った軽食を出している店が多くなる。


 コロッケや濃い味付けの唐揚げ、串揚げや玉こんにゃくなんてものもある。どれもこれも美味しいそうな臭いを放っていて、この時間の商店街はさながら夏祭りの出店のようだ。


 値段もお手頃で、ほとんどが百円くらいで買えてしまう。学生達はちょっと文句を言いつつも、手には何かしらの食べ物か飲み物を持って歩いているのがほとんどだ。


 穹や朱音も、そんな臭いの暴力には抗えず、それぞれが食べたいと思った物を各々買っていた。アヤメは本人の厳格さが表れていて、後ろから眺めるだけで何も買っていなかった。


 そんなアヤメに会話を振りながら、穹はいつもの下校道の光景を楽しんでいた。


 ここ最近はアヤメと二人で帰っていたし、移動は車だった。こうして歩いているのもなんだか新鮮な感じがして楽しく思えてくる。


 ただ往々にして、楽しい時間と言うのはすぐに過ぎてしまうものだ。


 買い食いをして、二人と楽しく話していると、例の公園はもう目の前にまで迫っていた。


 自覚してから、穹は一つ息をのんだ。何が起こるかは分からない。ただ自分がすぐに対処しようと覚悟を決める。


 何やら張り詰めた雰囲気を出し始めた穹に、朱音は一瞬首をかしげるものの、すぐに興味は公園の方へと引き寄せられていた。


 一人小走りで公園の入り口に立つと、中を見回していた。


「おお、本当に桜が咲いているんね。これはびっくり」


 中を覗き込んでから、朱音はやや大げさな反応を示す。なんだか気を使われたような気がして、穹はひっそりと感謝しておく。


 朱音に並んで穹も中を見てみると、噂通り、公園の桜は未だ満開のままだった。


 桜を見るのは週明け以来なのだが、穹の目にも、何も変わっていないように思えた。


 微かに花びらは散っているのは、木の根元を見れば何となくは分かった。ただ桜はまだ満開と言って良い状態。一週間もこの状態が続いていると思うと、感動ではなく不気味に見えてくる。


 これでは桜の木の噂が、ややホラーよりになってくるのも納得だった。


「ねね、もっと近くに行ってみん?」


「え、あ」


 朱音がやや興奮した様子で、穹達の返事も聞かずに公園の中に歩いて行ってしまう。


 やや躊躇してしまうものの、穹も一息遅れて朱音の後を追いかける。その後ろを、アヤメが付きそうように続いた。


 公園の中には、買い物を帰りと思われる家族連れが何組が居た。


 とは言っても、木の周りではしゃいでいるのは子供達だけだった。保護者と思われる大人たちは、遠目から不思議な物を見るかのような表情で何やら話し込んでいるだけだ。


 近くで見てみると、そのちぐはぐ差がより極まるような気がした。


 仰ぎ見れば満開の桜の花。なのに、足元が奏でるのは枯れた落ち葉を踏みしめる音。


 視覚からの情報と足元からの情報の違いに、なんとも言えない不快感が溢れてくるような気がする。


 アヤメと朱音の二人も似たような感覚を抱いたのだろう。一定の所まで近づいたはいいが、それ以上足を踏み出す躊躇ってしまい、同じような位置で立ち止まってしまう。


 表情は三者三様だ。穹はいつでも動けるようにと顔を強張らせているし、朱音はこんなものかと落胆気味。アヤメはなんとも読めない表情をしている。


 ただそんな三人を置いて、子供達は無邪気な物だ。知り合いなのだろう。五人組が、落ち葉を蹴飛ばしながら追いかけっこのような遊びをしている。


 この桜の木の周りは、特に根が盛り上がっているわけではない。落ち葉で足元は見えにくくなってはいるが、足を引っかけて転ぶような事故は起こらない。だから、保護者も子供達の好きなようにさせているのだろう。


 そんな子供達にあてられたのか、朱音は一人、何かもっと面白い何かが無いかと周りをゆっくりと歩き始めた。


 少しして、アヤメもゆっくりと歩き始める。こちらは何かを散策すると言うよりも、確かめていると言った雰囲気だ。穹からそれ程離れていない所で立ち止まると、じっと桜の木を見上げている。


 その間、穹は油断なく桜の木や周りを見回していた。


 公園に入ってからだろうか。ここに妙な気配を感じたのだ。


 もちろん、超人的な感覚を穹は持ち合わせていない。


 ただ漠然と、いつも感じている空気とは違う空気が、この公園に漂っているような気がした。それが桜の木に近づいたために、酷い違和感になっていた。


 困っているのは、その違和感がどこから感じられるのかが分からないからだ。


 この桜であるのは間違いないが、何かが違うようにも思う。


 例えるなら、目の前に分かりやすい答えがあるために、本当の間違いを見逃してしまっているような感覚。


 目の前の桜の木に意識が持っていかれてしまって、本当の違和感がぼやけてしまっているみたいだ。


 それに、気になるのがもう一つ。


「この桜、元気がない?」


 見上げる桜の木は、その花びらを満開に咲かせている。異常事態ではある物の、誇らしげに映るだろう。


 だと言うのに、穹には違う印象を抱いていた。


 誇らしげに咲き誇っているはずのこの桜。なのに、もう風前の灯火のように感じられるのだ。


 本来なら既に散っていてもおかしくない花びら。だがその花びらを維持するために、この桜の木は自分の命を削っているかのようだった。


 それは自然の流れの動きはではなく、何か違う力によって無理やりやらされているかのように思う。


 もしかして


 ここのどこかに潜んでいるのであろう『影』の影響。


 その可能性に至って、しかし穹は一人首を捻った。


 仮に、この満開の桜が続いているのが『影』の影響だったとして、果たして何の意味があるのだろうか。


 秋に桜を満開にさせて、穹の不安を煽る。そう聞けば、効果はあったかもしれない。


 でも結局はそれだけの話。『影』の目的は穹が持っている風の結晶のはずだ。一週間何も起こらなかったうえに、何か結晶を差し出さなければならないような事態になった訳でもない。


 山の中で出会ったような動きがある訳でもない。今回のこの『影』は何を目的としているのだろうか。


 考えれば疑問は色々出てくるが、結局の所実害はないので、答えとしては何も出て来ないままだ。


 やはりカッツェの言う通り、このまま放置していいのだろうか。


 桜の元気がなくなっているように思うのは気になるが、それ以外に何かあるわけでもない。


 穹が公園に入って何か起こるかと思ったがそれもない。カッツェの言いつけを破ってはしまったが、心配事が杞憂であったのが分かったのなら一つの収穫だ。


 いずれ花が散ってしまえば、また元の生活に戻るだろう。今後も近づかなけばいつも通りに戻れる。


 そう思うと、少し気が紛れたように思えた。


「なんか、確かに不気味ってだけなんね。もっと何かあるかな、と思ったんけど」


 あれこれ穹が悩んでいる間に、朱音が戻ってきたようだ。


 先ほどと同じように少し落胆した面持ちで、穹に一声かけてから肩を竦めていた。


 これには穹も同じように苦笑いで返した。


「時期を逃しちゃったのかもね。噂に尾ひれも付かなかったくらいだし」


「それなんよね。ネタ付け出来るかもって思ったけど、ほんと皆の話通りでがっかり」


 ほんの少し落胆を交えながら、朱音は軽い調子で愚痴を口にする。話題にはそれほど興味を示していなかったが、やはり、実際に見てみたら何かないかと思っていたのだろう。


 確かにその通りで、穹の目から見ても、噂以上の何かがあった訳ではないようだった。


 子供達がのんびり遊んでいるのも、その証拠だろう。学校側に流れて来ない程度の何かがあった訳もないようだ。


 こうして公園で顔を見知っている主婦間の情報網は、意外と馬鹿に出来ない。ご近所の噂話と言うのは簡単に広まってしまう。


 季節外れの桜に不気味に思ってはいても、気にはなってしまう。下手な事件が起こればなおさらだ。それに動きの主体は子供だ。危険があると分かれば誰も近寄らせないだろう。


 こうして遊ばせているというのなら、一先ず、危険はないと判断されたからこそ。


 大人達は遠巻きに見ているが、子供達は遊んでいる。この様子なら、学校に伝わっている以上のに何かは起きていないのだろう。


 そう思えば、少しは気が晴れた気もする。


「何もないみたいだし、商店街に戻って少しお茶してく?」


 穹と朱音が会話が落ち着いたタイミングを狙って、アヤメが提案してくる。


 時間は周りが少し夕暮れに染まり始めたころ。もう帰っても良い時間だし、まだ寄り道しても良い時間と言った具合。


 公園は商店街に近いため、戻っても苦にはならない距離にある。


 穹と朱音にしても、このまま単純に戻るのも物寂しかったので、この提案には乗り気になった。


「お、いいね。穹っちのバイト先に興味あったんよね」


「いや、バイトじゃないから」


 朱音の言葉に穹は否定しながらも、寄り道する店はノワールになりそうだった。


 こちら側には、全国的なチェーン店は少ない。支店が多くあるのは、橋を渡った向こう側にある。


 商店街にもあるにはあるのだが、そういう所は他の学生が多く詰め寄せる為、今から行っても込み合って落ち着かないだろう。


 その点でいえば、穹が通っているノワールは、裏路地にあるために学生が立ち寄ることは少ない。


 休みの日に、穹が居るのを見越してからかいに来る知り合いはいるがその程度。ゆっくりするのにはちょうどいいだろう。


 ちょっとした懸念は、店を手伝っている他の人がいて、なんだかんだ理由を付けて勉強会をさせられないかという心配だ。


 大学生の孫が郷座には居るのだが、これがややお節介焼きなのだ。穹に勉強をさせるのに何やら使命を感じているようで、何かと勉強を見たがるのだ。


 教えるのが上手なので助かってはいるのだが、今この時だけは、ゆっくりさせて欲しいと思っていた。


 行けばわかるか。


 特に彼の予定を把握している訳ではないので、居ないのを祈りつつ、何故か先を歩き始める朱音の後を追う。


 ……危ない


 不意に聞こえた声に、穹は思わず振り返った。


 今の声。あれは、魔法を使う時に聞こえる声と似ている。


 ただ、その声質は全く異なる物だった。柔らかく、とても耳に心地よい優しい声。不安を感じさせず、安心を与える声だった。


 いったい誰が?


 一瞬疑問を感じたが、穹はそれ以上に、振り返った先に見えた光景に目を奪われていた。


 何も変わらない、同じ光景。子供達が走り回っているだけだ。


 その一人。輪の中で、走るのにやや遅れていた子供が目に入った。艶やかな黒い長髪をなびかせた、可愛らしい服を着た一人の少女。


 その少女が、不意に足を止めたのだ。何かに呼ばれたかのように、その足元を不思議そうに見下ろしている。


「穹?」


 自分を呼んだのは、果たして誰だったのだろう。声を掛けられて振り返る前に、穹はその少女に向かって走り出したのだ。


「いやぁあああああああ!」


 直後、少女の悲鳴が公園内に響き渡った。


 全員が目を向けた先、驚くべき光景が目に入る。


 女の子が、その場に倒れていた。それでいて、何かから逃げるかのように必死にもがいている。


 見れば、膝の辺りまで片足が地面に埋もれているではないか。少女の力では抜け出せないようで、必死にあがいているようだが、見る見るうちに片足が引きずり込まれている。


 遅れて、異変をようやく理解した少女の親が、同じように悲鳴を上げた。地面に飲み込まれていく少女を見て、どうすればいいのか分からないのだろう。


 この場ですぐに対処できたのは、直前に走りだした穹だけだ。


 周りの木の葉を蹴り飛ばすようにして穹は少女のそばに駆け寄ると、小さな体を抱きしめて抱え上げようとする。


「こ、の」


 だが、全身に力を入れて引き抜こうとしても、少女の体はビクともしない。どころか、更に力を増して、少女の体を飲みこもうとしている。


 このままでは力負けする。


 全身を使って耐えながら、穹は直感的に理解した。相手のバランスを崩す何かをしなけば、この少女を助けられないと。


 だがどうする。まさかこんな所で、魔法の力を解放するわけにはいかない。まだ相手の姿すら見ていないのだ。


 間違いなく、相手はこの木の葉の下にいる。公園に入ってから感じていた違和感の塊のような何かを、少女の足元から感じられるのだ。


 そこで、穹は気が付く。


 相手は『影』だ。ならば、相手は地面に潜っている訳ではなく、この木の葉の下に潜んでいるのではないかと。


 この木の葉さえどうにかできれば、日の光を浴びて、倒すまでは出来なくても弱らせるくらいは出来るのではないかと。


 木の葉を飛ばすのに、魔法の力を解放する必要はない。いつものように、風の力を感じる程度でも出来るはずだ。


 本来なら集中する必要はあるが、リングを手に入れて、今までよりも簡単に力を借りられるはずだ。


 迷っている時間はない。今この時も、少女の足は引きずりこまれている。


「お願い、力を、貸して」


 震える声で、穹は風に願った。この少女を助けるために、力を貸して欲しいと。


 そして風は答えてくれた。


 ……まか……て


 微かに聞こえてきた、いつもの声。胸元のリングが微かに光った次の瞬間、一陣の風が吹き抜けた。


 まるでそれは季節風のようにも思えた。心配して駆け寄ろうとしたアヤメ達の傍を吹き抜けて、穹を助けるように風が周囲に集まってくる。


 一陣の風は、狙いすましたかのように、穹の周りの木の葉を吹き飛ばした。


 木の葉の無くなったそこは、不自然に黒くなっていた。少女の足は、まるで沼にはまったかのように埋もれている。


 その沼に穹が目を向けたとき、何かがあった。


 ほの暗い闇の向こう側から除いているかのように、二つの黄みがかった光が灯っている。光はまるで観察するかのように穹を見つめていた。


 目だ。光を見て、穹はそう直感する。あの日対峙したあの『影』と全く同じ目をしている。


 一瞬、恐怖から穹の体は強張った。しかし、今は少女を助けるのが先決だ。


 穹は恐怖を押し殺して、少女を引き抜く力を強める。


 幸い穹の狙い通り、少女を引きずり込もうとする力は弱くなっていた。


 穹が力を加えると、ゆっくりとだが少女の足は引き抜かれていく。


 足首まで見えた所で、拮抗は完全に崩れた。黒い影が消えるのと同時に、穹と少女はもんどり打つように後ろに倒れた。


 体を起こして穹は慌てて距離を取るが、先ほどまで黒い沼のようになっていたはずの地面には何もなかった。ただ、不自然に陥没しているだけ。


 泣き叫ぶ少女を抱えながら、穹は茫然と、その地面を見つめるのだった。


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