学校を脱出した穹は、まだ日の高い商店街を一人で歩いていた。
商店街は週末のイベントに向けての準備が進められており、各店舗が、思い思いの飾りつけを施していた。
中には、穹の通う学校の高等部の制服に身を包んだ学生も、あちこちに見受けられる。その学生に話かけている若い人達は、恐らくは大学生なのだろう。
のんびりと雑談に応じているのを見るに、イベントの準備は順調のようだ。
気負いした様子も無く、それぞれが準備を進めている。
そんな学生達を横目に歩く穹の手には、今日店でお菓子を作るための材料が買い物袋に詰められている。
とりあえず今日は、前に作ったクッキーよりも甘めのクッキーを作る予定だった。
出来たお菓子は店に置いてもらうために、場所を取るカップケーキは後回しにするつもりだ。
前回の分量を思い出しながら、今回はどれくらいにしようかと思って商店街をぼんやりと見ながらのんびりと歩いていた。
「お、君が噂の子かな」
「へえ、噂以上に可愛いじゃん」
ふと視線を向けた先。何と無しに聞こえた会話に穹は意識を向ける。
見れば、穹の付属する学校の高等部の制服を着た生徒が二人が、誰かに声をかけている。
漏れ聞こえてくる会話を聞くに、どうやらナンパをしているようだった。
こんな田舎では珍しい文化かもしれないが、なるほど、この二人組ならやりそうだなと思える風貌をしている。
校則がやや厳しい穹の学校では、制服を着崩して着るのを原則禁止している。
程度はあるし、一応基準はあるため、何人かはある程度着崩して着ている生徒は居るには居る。ただ、そこは一定の学力や周りとの付き合いがある為に、そこそこ控えめだ。
なのにあの二人は、明らかに校則を無視したような着崩し方をしている。
流石に校内ではきちんとしているのだろうが、こうやって外に出たために羽目を外して、準備後の着替えでそのようにしたのだろう。
そんな二人組だ。一人二人の女性を見かければ、声を掛けたくなってしまうのも仕方がない。
ただ、タイミングが最悪だ。
今はイベント準備中。イメージダウンを避けるために、教員の巡回だってすでに行われているし、イベントに参加する店舗側の監視もある。
声をかけられている人が嫌な反応を示せば、すぐに周りの大人達が駆けつける。
現に、彼らのたむろしている店の店員が、店の中から様子を伺っているのが見えた。
ならばここは、余り出しゃばらずに、様子を見るべきだろうか。何と無しに思いながら穹は通り過ぎようとしたが、声を掛けられている相手を見て、穹は思わず足を止めた。
声をかけられているのは、昨日見かけた例の外国の子だったのだ。
学生二人から声をかけられて、どのように対処するべきか迷っている様子だった。
手には何も持っておらず、小さな鞄一つ。これから買い物にでも出かける所に、声をかけられたようだ。
それを見て、穹は思わず足を向けてしまっていた。
声をかけられて怯えている様子はないようだったが、かえってそれが、周りの大人達からの対応を躊躇わせていた。
ここで声を上げて貰えばすぐに対応するのだが、なまじ様子を伺ってしまっている為に動けていないのだ。
ならばと、ベタな手段をとりつつも、穹はあの子を助ける。
余計なお節介とも思わなくもないが、今の商店街の雰囲気を壊しかねない二人の行為を穹は許せなかった。
「あの、すみません。私、その子と約束があるので、その辺りにしてもらって良いですか」
穹の接近に気が付いていない二人の背後から、穹はなるべく穏やかな口調を意識して話しかける。
「あ?」
ナンパに夢中になっていた二人が、不意の乱入者に訝しみながら振り返る。
片方は知らない女生徒である穹を不思議そうに見るが、もう一人の方は知っていたらしく、少し驚いた表情をしていた。
そんな片割れに気が付かず、不機嫌そうな声を出した方の男子生徒は、穹との距離を詰めてきた。
「なんだ、お前。年下の癖にしゃしゃり出てくんなよな」
制服で穹が同じ学校の中等部であるのを瞬時に察したのか、その生徒は強気な態度で脅してくる。
この時点で穹は、彼はまともに話が出来ない類の相手だと認識した。
こういう生徒も居るのだなと思いつつ、すぐに周りの大人に助けを求められるよう、あまり刺激しないように会話をするのを心がけなければならない。
睨まれながらも、穹は視線を少しずらして少女を見る。
不意に現れた穹に、少女も困惑しているようだ。無理もない。約束なんて穹のでっち上げだし、なんなら面識もない。
それでも余計な言葉を発しないのを感謝しながら、穹は任せてほしいというように頷いてから改めて相手を見る。
「ですから、私はその子と約束があるんです。すみませんが、放して貰えませんか」
「生意気言ってんじゃねぇぞ」
「おい、止めとけって。そいつ、海人の奴の知り合いだぞ」
「あ? 三柴の奴がどうしたよ」
成り行きを見ていたもう一人の男子生徒が、流石に不味いと思ったのか声をかけて制止してくる。
名前呼びをしているあたり、何かしら近しい間柄なのかもしれない。
そうして穹も様子を見ている前で、海人との関係を話しつつ、穹がどういった人なのかを話し始めた。
ただ、穹は説明を任せてしまったのを後悔した。どうやら、知ってはいても良い印象を持っていた訳ではないらしく、その説明の仕方は余計な燃料を投下するかのようでもあった。
目の前の彼はもちろん、話を聞いて面白くないと思ったらしく、不機嫌そうな顔をますます強くしていた。
「んだよ、こいつが例のウザったい中坊かよ。なら、へぇ」
何を思ったのか、一転、彼の顔に何を思いついたかのような笑みを浮かべた。
それは決して、友好的な笑みとは言えない。改めて向けられた視線は、穹の体を無遠慮に舐めまわしてきて、とても不快にさせる。
「よく見りゃ、お前可愛いじゃん。どうよ。埋め合わせにさ、一緒にどっか遊びに行こうぜ。そっちの子も一緒にさ」
なんの埋め合わせなのか、彼はさらにそんな事を宣ってきた。
下品な笑みを浮かべながら言うそれは、遊び以上の何かを求めているのに他ならない。
何が彼にそこまで言わせるのか分からないが、思っていた以上に危ない人なのだと察して、穹は露骨に顔を顰めた。
「ですから、約束があるんです。残念ですが、そのお誘いは遠慮させてもらいます」
「てっめぇ! 調子乗んな!」
不快な視線にさらされながらも、穹は出来るだけ言葉丁寧に断りを入れたつもりだ。
にもかかわらず、彼は逆上して声を荒げた。そこまでして二人を誘いたいのか、穹には理解できなかった。
加えて言えば、この程度で声を荒げる彼を、穹は怖いとは思わなかった。
声を荒げて脅した程度で怯む可愛さを、今の穹は持ち合わせていない。
連日襲い掛かってくる『影』の方が、何倍だって恐ろしい。
これはダメだ。下手に下に見られて拗らせるよりも、さっさと大人に介入してもらった方が良さそうだ。
そう結論付けた穹は、大声を出して睨んで来る彼に向かって、鼻を鳴らして肩を竦めて見せた。
だからどうしたと、挑発するように。
効果は劇的だった。舐められたと思った彼は、途端に顔を真っ赤にする。
「このクソが!」
「あ、おい!」
制止する声も虚しく、穹が目論んだ通り、彼は拳を作って振り上げた。
気が立っているのもあるだろうが、こんな簡単な挑発で暴力を振るおうとする当たり、彼の程度も知れるという物。
振り上げた拳を冷静に見ながら、流石に殴られるのは勘弁だというように穹は避けられるように重心を少しずらす。
年上とは言え、戦いを経験した穹には何の脅威も感じない。誰か来るまで時間を稼ごうと、今後の展開を考えていた時だ。
「そこで何してる!」
穹が目論んでいたより早く、別の所から制止の声が掛かった。
急にかかった声に目の前の二人はびくりと体を震わせ、穹は落ち着いた様子で声のした方に顔を向ける。
見れば、男性二人が向かってくる所だった。
スーツ姿の男性と、穹達とそう離れていない歳の男性。
一目で分かる。あれはどうやら、この辺りを巡回していた学校の関係者だろう。スーツの人は教員で、もう一人は大学部の人だろうか。
声を荒げて女生徒に殴りかかろうとする様子を見て、流石に駆けつけてきたようだった。
「お前たち、いったい何事だ」
所属校の生徒だと分かると、教員が事情を尋ねてくる。
構図としては男子生徒が殴りかかろうとしているのは明らかなのだが、きちんと事情を把握してから判断しようと言うのだろう。
言いがかりで殴りかかろうとしたのは向こうなので、男子生徒二人は答えに詰まってしまっている。
もちろん、穹は容赦しなかった。
「私、そこの子と約束があって話そうとしたんですけど、この人が怒って殴りかかろうとしたんです」
「おい!」
何か言われる前に簡潔に事情を説明すると、未だ気が立っていた彼が堪らず声を上げた。
殴りかかるよう仕向けたのは確かに穹だが、逆上したのは向こうが先だ。訂正をするつもりはなかった。
「静かにしなさい。君、そうなのかい」
声を荒げた生徒に注意しつつ、教員の方が成り行きを見守っていた件の少女に確認をとる。
騒がしくなった周りに怯えた様子も無く、白金の少女は小さく頷いて答えた。事態がころころ変わっているのにも関わらず、落ち着て話を合わせてくれるのに、穹はひっそりと感謝した。
こうなっては決まったようなもので、教員は更に、店先で騒ぎが起こってハラハラしていた店員に、確認するかのように声をかけた。
店員も事態を見ていたために、尋ねられた店員は頷いてみせた。
四方を囲まてしまえば何も言えなくなったのか、声を荒げた方の彼は憎々し気に穹を睨み、もう一人の方は顔を青ざめている。
「分かった。とりあえず、二人は学校に来なさい。えっと」
「あ、私は高丘穹です。中等部二年の」
「ああ、君が穹君か。大丈夫だったかい?」
「ええ、平気です」
「そうか。余り、無理はしないようにしなさい」
何も驚いた様子もない穹に苦笑いを浮かべながら、教員の方は男子生徒二人を連れて学校へと向かう。
残っていた大学生の方は、穹と白金の少女に改めて無事を確認した後に、どこかへと連絡を取りながら商店街準備の見回りへと戻っていった。
軽く騒ぎが起こったために、店員だけでなく通行人も視線を向けていたが、どうやら解決したのだと理解すると、思い出したように歩いていく。
俄かに日常が戻ったのを理解すると、穹は改めて安堵したように息を吐いたのだった。
「助けてくれてありがとう」
酷い騒ぎになる前に解決出来て安堵していると、白金の少女が声をかけてくる。
声をかけられたのにも驚いたが、まず穹は、その美しい声に返事が遅れてしまった。
アニメでしか聞かないような、澄んだ透き通った声。声量はそうでもないはずなのに、一音一音が優しく穹の耳朶に入り込んでくる。
思いもしない声に感動して固まっていると、返事のない穹を訝しんでか、白金の少女は首を傾げた。
そんな仕草さえ可愛らしくて、同性であるのにも関わらず、穹はつい見惚れてしまった。
ただ、黙ったままでもよろしくない。一つ分の呼吸を置いてから、穹は肩を竦めて見せた。
「余計なお世話かなって思ったけど、あの人達、ちょっとしつこいみたいだったから」
「ああいう手合いは慣れてないので、私としては有り難かった」
「ああいう時は、周りに頼るといいよ。今はイベントの準備中で、見回りに歩いている大人が大勢いるから」
「いべんと?」
慣れない単語だったのか、イベントと言われて、白金の少女は不思議そうに周りを見渡した。
先週までであれば、まだまだイベントの準備に取り掛かる店舗は多くはなかった。
本格的に始動したのは今週からであるし、急に騒がしくなって驚いているのだろうか。
イベントとは、祭みたいなものだと穹が説明してやると、なるほどと言って納得してくれた。
浮かれた雰囲気にもなってくると、ついつい羽目を外してしまう人も大なり小なり出てくる。
整った容姿に、目立つ白金の髪をしていれば、この少女も嫌でも目立ってしまうだろう。
こうして話している間にも、ちらちらと視線を向けてくる人が大勢いる。
加えて、話している相手が穹という、こちらも目を引く美少女である為に顕著だった。
これ以上はかえって目立ってしまうだろう。そう思った穹は、本来の目的地である店に向かおうと決めた。
「それじゃあ、私はこれで」
「待って」
断りと入れて歩き出そうした穹だったが、意外にも、白金の少女の方から呼び止めてきた。
振り返ろうした半端な態勢のまま、穹は驚いて少女に顔を向けた。
「助けてもらったので、何かお礼を」
「えっと」
何かお礼をしたいという白金の少女の提案に、穹は困ってしまう。
穹がしたのはただのお節介だ。謝礼を求めたわけでもないし、礼の一言を貰えただけでも充分だと思っていた。
そう思って辞退したいとも思ったのだが、思いのほか、白金の少女から向けられる眼差しは真剣だった。
どうやって断りを入れようか悩んでいたが、困っている穹を見て白金の少女は続ける。
「まだこの街にも慣れていないので、何かお話が出来ればなと」
お礼もしたいから、街を案内して欲しいというのだろうか。
そう言われてしまうと、穹は少し弱かった。
最近見かけるようになったというのはつまり、ここに引っ越してきたのも最近なのだろう。
決して広い街ではないのだが、子供の足では限度がある。
単純に生活する上では、日用品の類はこの商店街でも大体揃う。ただ、隣も大きな街はあるし、子供の娯楽はそちらが充実している。
どれほど滞在すのかは分からないが、現地の人の話を聞きたいというのも納得のある話だ。
余計なお世話をした結果、さらなるお世話をしなければならなくなった。変に首を突っ込んだ付けが回ってきたのだろうかと、穹は内心でため息を吐いた。
「じゃあ……これから私、お店に用があってそこに向かうから、それまでの間なら」
「ありがとう。それまでで大丈夫」
向かうのは喫茶店なので、そこでまた何か話をすればいいだろう。
そんな風にぼんやりと考えながら、穹は白金の少女を伴ってノワールに向かおうとする。
「あ」
歩き始めてすぐ、大事な事を思い出して穹は歩みを止めた。
立ち止まる穹に、白金の少女は不思議そうに首を傾げた。
「名前、まだきちんと名乗ってなかったね。私は、高丘穹。穹でいいよ」
まだ穹は、自己紹介を済ませていなかったのだ。
これから少しの間とは言え、名前を知らないままでは不便である。いつまでも、相手を知らないままでも都合が悪い。
こんな単純なことを忘れていたのを思い出して、白金の少女も苦笑いを浮かべた。
「ご丁寧に。私は、エレノア=レディグレイ。エレノアと、呼んでもらえれば」
白金の少女改めて、エレノア=レディグレイと名乗った少女は、優雅に一礼する。
どこか堂の入った礼の仕方に穹は少々面食らった物の、笑顔で頷いてから穹は再び歩き出した。
道中は、イベントにも触れながら、各商店で扱っている品物についての説明が主になっていた。
エレノアは、本当に最近引っ越してきたばかりのようだった。穹の説明に一つ一つ驚きと関心の返事をしていたのが、なんだか面白かった。
商店街の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めたようなのだが、まだ家電等は揃えていないらしく、しばらくの間は商店街の総菜やレストラン等で食事を済ませるのだそうだ。
単身で日本に。それもこんな片田舎に越してくるとは、随分行動派なのだなと驚きはしたものの、余り深く尋ねるのは憚られた。
なので穹は、ご飯物で美味しい場所を説明していく。
学生が時間潰しをする娯楽は少ないと言っても、単純に食事をする場所には事欠かないのが商店街の特徴だ。
もちろん、今穹が案内している通りにも飲食店は多々あるが、一本道を外れた所にも、穴場的な食事処は点在している。
エレノアもただ遊んでいた訳でもなく、商店街のメインの通りは大体は把握していた。
目を付けた惣菜店やレストランは行きつけになってはいるが、穹が説明する食事処を話せば、流石にそこまでは把握していなかったらしく目を丸くしていた。
ちょっとした偏見はあるかもしれないが、外国から人の大半は、大抵はチェーン店によく行っているイメージが穹にはあった。
ネットも普及し、少し調べれば大抵の食事処は簡単に見つけられる。地理がよく分かっていなければ、無難な所に落ち着くのは当然だろう。
しかし残念なことに、穹達のいる区域には、ネットに乗せられているような食事処は少なかったりする。
有名なチェーン店は二店舗くらいしかなく、大体はバイパスを走った向こう側にしかない。
本当ならそちら側に引っ越せばよいかと思えたが、エレノアはあえてこちら側を選んでいるので少し不憫に思えた。
現実的な話、家賃等を考えればこちら側の方が安いと言うのもあるだろう。その分、不便を被ってもらうしかない。
なので穹の説明するのは、そう言ったネットには乗らないが、昔からある、安くて美味しい店がほとんどだ。
実の両親が居ないとはいえ、伊達に十数年もこの街で暮らしている訳ではない。
ノワールでお手伝いをする傍ら、そう言ったお店を教えて貰っていたりするのだ。
土日の昼などにお世話になる店も多い。穹はそう言ったおススメを紹介していく。
知らない店に興味があるのか、時々現れる脇道に視線を向けながら、エレノアは感心したように頷いていた。
自分の知っている街を、こうして熱心に聞いてくれるエレノアの反応は、穹は素直に嬉しく思った。
商店街を半分過ぎた所で、穹は一本外れた裏路地に向かう。
イベント前の騒がしい商店街も、一本ずれれば途端に静かになる。
閑散とする、昔ながらの日本とでも言うような路地に入ると、エレノアは珍しいというように辺りを見渡している。
初めて案内すると誰もがするその反応に、穹は苦笑いを浮かべるのだった。
「なるほど、これがこの街の裏社会」
「ねえ、皆そう言うけど、エレノアさんも何か示し合わせたわけじゃないんだよね?」
最早定番とでも言うような言葉に穹が思わず突っ込むが、当然そんなつもりがないエレノアは、変な人を見るかのように首を傾げた。
分かってはいても言わずにはいられなかった穹は、そんな反応をするエレノアを見て、盛大にため息を吐いて歩みを続けるのだった。
ますます怪訝な顔をするエレノアだったが、それよりも周りの景色が気になるのか、しきりに辺りを見渡し始めた。
こちらの通りはさして案内をする所も無いために、もし歩く当たっての注意事項等を話していく。
ここには個人宅が多い上に、自家栽培している品が無造作に道にせり出していたりするのだ。
中には、植えたは良いが採取に手が回っていない品も多くあって、夏場になると、熟れた果実から発する個性的な臭いが混ざり合って凄い匂いになる時もある。
あるいは、回収し損ねて道端に落ちている時もあり、それを踏まないように注意しなければならない。
現に穹も、全くの不注意で道端に落ちていた熟れた梅を踏んでしまったりもして、靴に付着した匂いに辟易したものだ。
道に落ちた銀杏の臭いは凄まじいと言えば、流石にそれは勘弁してほしいのか、エレノアは顔を顰めていた。
ちょっとした悪戯心でそんな案内をしている内に、ノワールは見えてくる。
店はもう開いているようで、古臭い看板の横を抜けて、普通の民家にしか見えない喫茶店にエレノアを伴って入店する。
「ここが、私がお手伝いしている喫茶店、ノワールだよ」
「良い雰囲気のお店」
カランカランと、風情ある鐘の音を響かせて穹が案内してやれば、エレノアは興味津々と言った様子で店内を見渡した。
都合よく、この時間はまだお店に人はいないようだった。ほんのりとコーヒーの匂いが漂い、店内には控えめの音量でジャズが流されている。
穹も店内を見渡せば、カウンターの所に、郷座が一人腰かけて新聞紙を広げていた。
鐘の音が静まった所で郷座がようやく顔を上げると、入店したのが穹だと気が付いて顔をほころばせた。
「おう、おう。穹さん、いらっしゃい」
「こんにちは、郷座さん」
「あいあい。あんれ、また可愛らしい子を連れてきよったな」
穹の隣に立つエレノアに郷座が気が付くと、初めてみる彼女に感心したような顔をする。
容姿を褒められ誇るでもなく、エレノアは優雅に礼をするに留めていた。
案内する席を迷ったが、今回はカウンター席を選んだ。
まだ顔を合わせて間もない。
特別人見知りと言う訳ではないが、まだ向かい合って話をするのは少し憚られた。
カウンターを進めると、エレノアは頷いて席に着く。一つ一つの所作が綺麗で、単身日本に来たアグレッシブ差とのギャップに、穹は少し面食らってしまった。
「そいで、二人は何にする?」
穹が席に着くのを待ってから、郷座が注文を聞いてくる。
いつもなら、穹が来た時には真っ先に賄いのコーヒーを入れてくれるところだが、初めて来るエレノアに配慮してくれたのだろう。
「私は、穹に任せる」
目の前の手帳サイズのメニューを見ていたエレノアだったが、郷座に聞かれて、視線を穹に映して申し出る。
好きに決めて貰って構わないと思っていた穹だったが、やはり初めて来るお店ともなれば何を頼めばいいか分からないのだろう。
少し悩んだ穹だったが、今は郷座一人であるし、この老人がコーヒーを入れるのが好きなのを知っているのもあって、考えたのは一瞬だった。
「じゃあ、いつものコーヒーをお願いします。えっと、エレノアさんは苦いのは大丈夫?」
「ええ、大丈夫」
「あいあい」
穹の注文に満足気に頷くと、郷座はコーヒーミルとコーヒー豆を取り出して挽きだした。
控えめな音量のジャズに混ざって、コーヒー豆が挽かれるコリコリという音が店内に響いた。
普段見る機会の少ないその作業に、無表情ながらも、エレノアは熱心な目で見入っていた。
この待っている時間を退屈してないでいてくれて穹は安堵しつつも、いつもは遠目に見ていたこの作業を、エレノアと同じように見つめる。
二杯分の豆が挽き終わり、下の引き出しを郷座が引けば、細かくなったコーヒー豆が顔をだす。
次いで郷座は棚からサイフォンの道具一式を取り出した。二つのビーカーに、それぞれ水と挽いたばかりのコーヒーを入れてアルコールランプに火を灯す。
間近に見ると中々に背が高い。ふつふつと沸き上がった水は次第に上のビーカーに登っていく。
澄んだ茶色に色づいた水からは、途端にコーヒーの芳醇な香りが漂ってきた。
見慣れない光景に、エレノアは目を輝かせていた。
新鮮な反応に、穹は面白くなって笑みを浮かべたが、エレノアには気が付かれていなかった。
撹拌しつつ、郷座のタイミングでアルコールランプが外された。温度が下がったコーヒーが、再び下のビーカーに戻っていく。
装置からコーヒーの入ったビーカーを外せば、郷座はコーヒーカップ二つにそれぞれ注いでいく。
角砂糖二つと小さなカップにミルクを入れた物を添えて、郷座がそれぞれ穹とエレノアの前に置いてくれる。
「あいよ」
「ありがとうございます」
「ありがとう」
それぞれお礼を言って、穹はそのまま口を付ける。口に広がるコーヒーの香りに、穹は深くため息を吐いた。
「ああ、苦い」
「はっはっ」
変わらずの穹の感想に、郷座は快活に笑うのだった。
エレノアの方はと言えば、こうして出されるコーヒーが見慣れないのか、カップを手に持ったまま観察している。
結局は穹を真似るようにして、ブラックのまま口に含んだ。
途端に広がるコーヒーの香り。そして苦み。なのにその奥からにじみ出るような甘さに、エレノアは目を見開いた。
どんな感想を漏らすのか、穹は興味深々と言った感じでその所作を見守っていた。
「なるほど。確かに苦みはあるけど、とても香り豊かで、仄かに甘味もある。とても美味しい」
「……味方じゃなかった」
「え?」
コーヒーを飲み慣れていない雰囲気もあったために、穹としては、自分と同じように苦さに驚くかと思っていた。
だがエレノアは、しっかりとその味を理解できている。
謎の敗北感に打ちひしがれた穹は、とても残念そうに肩を落とした。
そんな穹の思いなど知る由もないエレノアは、急に落ち込んでしまった穹を見て不思議そうに首をかしげる。
可愛らしい仕草に文句も言えなくなった穹は、やけになったようにコーヒーの残りを啜り始める。敗北の後のコーヒーは、余計に苦くなったように思えた。
郷座と言えば、コーヒーの味を分かってくれるエレノアを気に入ったのか。あるいは、初めて来るお客さんを持て成そうと言うのか、しきりに話しかける。
饒舌に話をする郷座にエレノアは最初こそ戸惑っていたようだったが、悪い人ではないと分かれば、気軽に話を聞いていた。
込み入った話は特にはせず、郷座はこの店の話やコーヒーについての知識等を語っていく。
話に熱が入って小難しい中身になりそうな時になれば、穹が邪魔にならない程度に補足した。
こうして三人で話をしていれば、頼んでいたコーヒーを穹は早々に飲み切ってしまう。
エレノアの言う話はまだ出来ていないが、穹はここに来た用向きを済ませる為に一度立ち上がった。
「あの、郷座さん。この前話したお菓子を作りたいので、厨房をお借りしても大丈夫ですか?」
「ああ、ええよええよ。きぃつけてな」
「はい。じゃあ、エレノアさん、私奥に行くから」
「ええ」
エレノアに一声かけてから、穹は厨房へと向かう。
エレノアは穹の用事が終わるのを待つようで、カウンターから立ち上がらないまま、再び郷座と話し始めた。
話安いと思ったのか、その表情はどこか楽し気でもある。
急に離れて申し訳ないと思いつつも、穹は店の厨房に入ると、買ってきた材料を並べて準備を始めた。
道具は使って大丈夫だと事前に言われているので、道具を探し出しでお菓子を作り始める。
慣れない作業場に少々戸惑いながらも、以前学校の調理実習室と同じ要領でお菓子を作り始める。
材料は同じだが、今回は砂糖を多めに。それを意識しながら、材料を計り始めた。
この辺りは慣れた物なので、作業の手は止めないまま、厨房から見えるエレノア方へと時折視線を向ける。
コーヒーのお代わりをしながら、エレノアは郷座と話を弾ませていた。
本人の希望でここに越してきたのだ。生活の面では、これと言って問題はないのだろう。
しかし単身であるのには変わりはない。あの歳で一人暮らしともなれば、誰かと話をする機会も多くはないだろう。
ずっと気にしていなかったが、エレノアは外人であるのには変わりはない。日本語はとても流暢だったが、その見た目から、気軽に話をする相手も居なかったに違いない。
そう思えば、こうして誰かと話をするというのは、本人には良かったのかもしれなかった。
良かったと思う反面、穹は不思議な感覚を覚えていた。
漠然とした感覚に何と形容していいか穹には分からなかったが、とても良い感情には思えなかった。
「……なんだろ」
急に湧いてきた感情に、穹は思わず呟いた。
口の中で呟いた言葉は、もちろん、エレノアや郷座には届かない。
少し話した程度だったが、エレノアは悪い人ではない。初めて会う穹とも普通に話をするし、郷座に何か失礼な話をしている訳でもない。
分からないような話はきちんと質問をして、答えられるような話題であればきちんと答えてくれる。
不快になるような何かがあったわけではないはずなのに、何か言いようのない不安が穹の胸に渦巻いていた。
白金の少女を見るたび、その不安は大きくなっていった。
不安を振り払うように無理やり視線を外して、穹は作業に集中する。
とは言え、そこは慣れた作業だ。熱中しようと前にほとんど作業は終わり、簡単に形を整えたクッキー生地をクッキングシートを敷いたトレイに並べてオーブンに入れるのに、そう時間はかからなかった。
じりじりと焼けるクッキーの様子を見ながら、気を紛らわせるようにして、穹は使った道具を洗い始める。
蛇口から流れ出る冷たい水が、刺々しくなった穹の心も洗い流してくれるようだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!