高丘穹は、普通の女子中学生である。と、言いたいのだが、一般とは少し事情が異なっている為、余り自信を持って言えない。
ただ、穹自身は何か特殊なことがあるかと言えば、そんなことはない。運動が好きで、勉強がそこそこで、素行が悪いという訳ではない。自称ではあるが、ありふれた、と言っても過言ではないだろう。
目覚めてから少しぼんやりとするのが、穹が楽しみとする一つだった。目覚まし時計よりも早く起きると、もうひと眠りするのも良いけれど、鳴るまでをのんびり待つものも良いと思えた。
それに、穹にとっては、これからを思うと気持ちの整理を付けるのも大事なのだ。
愁いを帯びた瞳を天井に向けて、何かを拒絶するかのように、額に腕を当てている。目覚ましが鳴るのはもう少し先だが、穹の心はまだ晴れないようだ。
それに少し気になる出来事もあった。
昨日は、寝る前に星空を眺めていた。毎日見ているという乙女チックな趣味はないのだが、その日は何だか、見ていなければいけないような気がしたのだ。
少し寒く感じてきた夜風にあたりながら、流石にもう寝ようと思った時だった。
近くの夜空を、赤い星が流れたのである。
流れ星自体、ここ最近は見ていなかった。それだけでも珍しかったのだが、赤い星と言うのが妙に気になったのだ。とても鮮明な赤で、その晩は寝つきが悪くなるほど深い印象を与えた。
そんな流れ星がひどく印象に残ってしまい、中々寝付けなかった。
週の終わりを迎えて気分は最悪。なのにいつもより早く目が覚めてしまったが為に、寝不足による疲労感が容赦なく体を包んでいる。
いっそ、ズル休みでもしてやろうか?
そんな暗い方向に思考が向かってしまうのも、学生と言う身分を考えれば仕方がないのかもしれない。
しかし、時間は容赦なく過ぎていくものである。
特定の時間を示した途端、目覚まし時計がその性能を遺憾なく発揮する。寝不足で疼痛すら感じ始めた頭に、けたたましいベルの音が、まるで鈍器で殴りつけてくるかのような音量で響く。
空気の読めない目覚まし時計に流し目を向けてから、ため息一つ、穹は起きる決心をした。自らのベルの音で振動する目出し時計を、まるで仇のように見下してから、叩き壊すかのように停止させる。
寝癖で可笑しな髪型になった頭を掻きながら、カーテンの僅かな隙間から見える青空を見る。
当然ながら、そこには昨夜に見た流れ星は見えるはずもない。それでも、まるで今にも見ているかのように、穹は流れ星の流れた方角をじっと見つめるのだった。
それも数秒。星を探すのを諦めた穹は、欠伸を噛み殺しながらベッドから降りて着替えを始めた。
穹の肢体は中学生とは思えない程に整っていた。手足は適度に引き締まっているのに、臀部や胸部は思わず見とれてしまう程に女を主張している。ただパジャマを脱いで制服を着ているだけであるのに、どこか艶めかしい。
本人も気にしているのだが、穹は中学生と言う割には発育が良かった。日頃の運動の成果と誤魔化せないくらいだ。染めてないのに髪色は明るく、瞳の色もやや翠が入っていると言うのも拍車をかける。
学校だけでなく、街を歩いていても振り返られてしまう。今ではすっかり慣れたが、何となく居心地が悪くて、警戒してしまう。
だからここで、普段なら穹はある事を警戒しなくてはならなかった。あるいは、確認をするべきだった。
穹は早めに起きる等、生活面で几帳面なのだが、ほんの少し抜けている所が多々あった。今も例で上げるのならば、部屋の鍵を閉め忘れるのが珍しくないといった所か。
寝起きでぼんやりとしていて、穹はすっかり失念していた。鍵を掛けていないのを思い出したのは、制服のブラウスを着て、スカートに手を掛けた時だった。
同時、部屋の扉がノックも無しに開かれたのである。
「よお、穹。起きたか?」
なんの確認も無しに無造作に入って来たのは、穹と年齢が近い、活発な雰囲気の少年だった。
穹と似たようなデザインの制服を、だらしなく着崩している。短く切り揃えた髪型は清潔感はあっても、どこかだらしない。けれど、快活さを感じさせる、見た目通りスポーツ系の少年。
三柴海人。今年高校一年となる、穹の従兄だ。
頬を引きつらせながら、穹は海人を振り返る。完全に思考が停止していて、この少年がどんなタイミングで自分の部屋に入ってきたのかを理解できなかった。今も、手に取ったスカートに足を通そうとしている真っ最中である。
少し部屋を見渡して、海人が穹に視線を向ける。着替えの途中であった穹を見て、海人は悪戯が成功して愉快そうな笑みを浮かべる。
「お、着替えの途中だったか。ラッキー」
結局の所、海人も所詮は男子学生である。思春期真っ盛りの少年にとっては、同じ屋根の下で暮らす歳の近い少女は、何かしらちょっかいを掛けたくなるものなのだろう。
ありがちなラッキースケベ等、願ってもないイベントであるだろう。実際、穹の着替えのタイミングを狙って、ノックも無しに部屋に入って来たのである。目的も達成されて、内心はさぞ喜びに満ちているに違いない。
ただし、見られた側の穹にしては堪ったものではない。
目元を伏せると、無言のスカートに足を通してしっかりと位置を整える。そして、無言で机に手を伸ばす。
穹の部屋は二階と言うのもあって、かなり手狭だ。三人くらいが座れるスペースは確保しているが、ベッドと机の間は流石に人が一人入るのがやっと。手を伸ばせば、ベッドに座ったままでも机の上の物に手が届く便利さだ。
つかみ取ったのは、通学用鞄。
「部屋に、入る、時は……」
一言一言を相手に言い聞かせるようにしながら、穹はゆっくりと鞄を振りかぶる。
「ノック、しろって」
そのゆっくりとした動作を、海人はどこか他人事のように見つめていた。
カーテンの隙間から入り込む朝日に照らされて、穹のフォームはとても凛々しく、いっそ芸術的ですらあったからだ。
割と定期的に見る光景とはいえ、素晴らしいの一言に尽きる。
これから起こる事を考えれば逃げた方がいいのだが、今は甘んじて受けてもいいと思えるほどに。
「言っているでしょ!」
華麗なるフォームから投げられた鞄は、穹の気合と共に、海人の顔面へとぶつけられた。
教科書の類を学校に置いていく、と言うベタな事をしない穹は、学校に持っていくものは寝る前に準備している。例にもれず、昨夜の内に準備は整えられている。
つまり、今投げられた鞄の中身は、重苦しい教科書が満載なのだ。
そんな穹からの洗礼を受けた海人は、
「ぐっ」
碌な悲鳴を上げられないまま、顔面を抑えてその場に崩れ落ちた。重々しい音を立てて落ちた鞄が、その威力を物語っている。
だが、穹の洗礼はこれだけでは終わらない。
海人が崩れ落ちるのを確認すると、穹は素早く動いた。
テーブルの周りに敷かれた座布団を手に取ると、顔を上げようとする海人の頭に叩き付けたのだ。
籠った悲鳴を上げる海人を、穹は座布団越しに踏みつけた。そうまでして、ようやく海人は反省したのか、動く事を辞めて無抵抗の意思を示した。
「着替え終わる前に顔を上げたら、次は目覚まし時計だからね?」
「あい、すみません」
重さは鞄よりは軽いにしても、材質的により硬い物で脅されては海人も黙って頷くしかなかった。
座布団をしっかり頭に被せたのを確認すると、穹はそれで納得して着替えの続きを始める。
脱いだパジャマをそれっぽく畳んでから、制服を着こんでいく。上着は羽織らないが、指定されたリボンを手早く結ぶ。
中断されたとは言え、この制服を着るのも慣れたものだ。襟やスカートの端を整えて穹は納得すると、一つ頷いてから、床に俯せになって固まっている海人から座布団を奪う。
見上げてくる海人に向かって呆れたため息を吐いて、穹は座布団を投げ捨てると部屋を出た。
安堵した様子で付いてくる海人を連れて、穹は廊下を進み階段を下りる。この家はそれなりに立派で、両親や海人、そして穹に個室がある程度には部屋に余裕はあった。内、穹と海人は二階にそれぞれ部屋がある。
狭い廊下を渡り、穹が先頭となって階段を下りる。途中、海人が穹のご機嫌を取るように話しかけてくるが、まだ機嫌の直っていない穹は、気のない返事をするばかりだ。
海人は穹の父親の妹の息子だ。幼い頃から付き合いのある二人だが、穹はどうもこの従兄が苦手だった。聞いた話では、物心つく前からなぜか毛嫌いしていたらしい。時々嫌がらせはしてくるが、これと言って大きな喧嘩をしていないのにも関わらずだ。
関係の改善を図ろうと海人は努力しているのだが、穹がその気がないので報われはしないだろう。苦手な物は苦手なのだから仕方がない。
むしろ、関係の改善をしなければならないのは、三柴家の両親とであろうか。
階段を降り切ると、すぐ目の前はキッチンとなっていた。小奇麗に整理され、主婦の努力の片鱗が垣間見える。視線を少し右にずらせばそこはリビングとなる。すでに朝食は準備されていて、テーブルには絵にかいたような和食が並んでいた。
そこにはすでに二人の男女がいた。
男性は三柴昭雄。いかにもサラリーマンと言った風体で、中肉中背の体躯だが、高校生となる息子がいるとは思えない程に若々しい。眼鏡は掛けていないが、困った表情がとても似合いそうな、優しそうな顔付きをしている。
「ああ、海人、穹さん、おはよう」
案の定と言うべきが、海人には普通に笑いかけるが、穹に対してはどこか距離を測りかねているような苦笑いを浮かべて挨拶をする。
「おはよう、海人、穹さん」
昭雄の挨拶に気が付いたのか、女性の方も振り返って挨拶をする。こちらは、特に陰りのある雰囲気はなく、ごく自然な笑みを浮かべている。
女性は三柴紅葉。この女性が、穹の父親の妹だ。温和な笑みが似合う可愛らしい女性だ。主婦らしくエプロンを身に着け、ちょうど朝食を並べ終わった所らしかった。少し濡れた手をエプロンの端で拭っている。
「おう、おはよう」
「……おはよう」
両親の挨拶に海人は鷹揚に返事をして、穹は少し間を置いてから静かに返事をする。
三柴の両親は一瞬悲し気な顔をしたが、特に何も言わないまま、二人が着席するのを待った。
家族三人と空が座った所で、朝食は開始される。
家族の団欒は特に違和感と言うものはなく、海人が学校で起こった出来事やこれからの予定を話していく。
適度な笑いもあり、両親からも恙無く話が振られている。ここ三人を見れば、なんでもないような家族にしか見られないだろう。むしろ、昨今の家庭事情を考えれば、この家族は仲が良すぎると言っても過言ではないかもしれない。
そう、この三人を見れば、だ。
終始三人家族の談話は進められているが、その間、穹は何を話すという訳でもないまま食事を進めるだけだった。
少しの笑いが起これば、目元を細めたり口元を綻ばせたりするくらいの反応は示している。しかし言葉を発しないまま、食事にのみ集中している。
時折、海人や紅葉が話題を振ったりするが、軽く相槌を返すだけで会話はない。
これが、三柴家と穹の今の関係だった。
元々、三柴家とは仲が悪かったわけではない。穹が生まれた時には、三柴家も色々フォローをしてくれていたし、共働きの三柴家の為に、高丘家が海人を預かったりもしている。祝い事は両家揃ってしていたくらいだった。
穹自身も楽しかったし、海人はそれ程でもないのだが、紅葉と昭雄の事も実の両親の様に大好きだった。
ただ、ある事件をきっかけに、穹は三柴家とは距離を取るようになってしまった。向こう家族も事情は痛いほどに理解している。歩み寄ろうとはしているが、穹の反応を怖がっている為に、無理に踏み入ろうとはしていない。
今の距離感に甘えているという自覚はあるのだが、穹もそんな二人の態度に合わせるように距離を開けている。
こんな関係が、ずっと続いている。空気を悪くしているだけの穹を置いていてくれる三柴の両親に感謝しているが、穹はまだ踏み切れないままでいた。
その事件からは、九年近くたっている。穹も中学二年。事情も聞いて、自分の中でも折り合いは付けている。後は気持ちの問題だった。
ただその気持ちが、一番の問題でもある。
きっかけもないまま、一度壊れた関係は戻し憎い物がある。これが友達や知り合い位だったならば、軽く謝った程度で済むだろう。刹那的なところもあるし、深く関わっていないから悩む必要もない。
変わって、家族と変わらない関係だと難しい。自分の深い所を話さなければならないし、そこを話すのを躊躇ってしまう。しかも穹の問題はかなりデリケートな問題だ。お互い、何と切り出せばいいか分からない。実の両親よりも長い時間を過ごしていると、きっかけが何かすら分からなくなる。
そうやって関係を崩したまま、穹はこんな関係を続けていた。
「ごちそうさまでした」
三人家族よりも早く食べ終わった穹は、自分の食器を片付けると、早足にリビングを後にした。
結局、穹にとって大事な話題が一つあったのだが、三柴の両親の口からは語られなかった。
逆恨みに近いような感情を抱きながら、穹は階段を上がる。
二階に上がると、穹は自分の部屋に入る前に、別の部屋に寄った。二階には三部屋あり、一番奥が穹、一つ手前は海人が使用している。最後、一番階段に近い部屋は、今は誰も使用していない。
かつてはとある二人が使用していたのだが、今は別の用途に使われている。
ゆっくりと扉を開けて、穹は中に入った。長く使用されていない独特な埃の臭い。定期的に掃除はしている物の、やはり年月には勝てない為か、ややかび臭くもある。
中には、大きなダブルベッドが置かれている。他にはいくつも段ボール箱が積まれ、タンスや棚には、その人たちの持ち物がぎっしりと詰め込まれている。
そして中でも異彩を放つものがある。
仏壇だ。
穹はゆっくりと仏壇の前に座ると、一つ呼吸を置いてから、仏壇を見つめる。
仏壇には、一枚の写真と二つの位牌が飾られていた。
写っているのは二人の男女。写真の二人は仲睦ましく寄り添っており、互いの左手薬指には同じ指輪が嵌められていて夫婦であるのが伺える。それでいて二人の男女の特徴は、どことなく穹の特徴と似通った所があった。
もちろん、それはこの二人が穹の両親に他ならないからだ。
男性は高丘春美。女性のような名前をしているが、微塵も感じさせない程に男らしい。モデル、と言うには少し過剰ではあるが、整った顔立ちをしている。上背はそれなりにありそうなのだが、細身であるのが残念な所か。
そして女性の方が、高丘冷夏。特徴としては、母親の方が穹の特徴を多く持っている。目立つ髪色や瞳の色合いも、日本人とはまた違った雰囲気を持った女性だ。だからだろう。それこそ、モデルだろうかと言う程に綺麗な女性で、聞いたところでは、春美にはもったいないと言われたほどに近所では噂になっていたそうだ。これで専業主婦と言うのだからなお驚きだ。
そんな両親を持っていたからこそ、なるほど、穹の容姿に大きく影響しているのだと納得できる。
穹の両親は、九年前に死亡している。車で移動中の単独事故だったらしい。
その日は穹の誕生日だった。穹の誕生日プレゼントを買うために、隣街まで車で買い物に出かけたのだ。無事に買い物も終えて、後は家に帰って誕生日会をするだけだった。
事故は帰り道に起こった。バイパスのまっすぐな道。街灯は適度に設置されており、対向車もなかったとされた。しかし、穹も含めて家族三人を乗せた車は、単独で横転。派手に爆発まで起こったようで、車は外装がほとんど吹き飛び、穹の両親は抱き合うようにして車外に放り出されて亡くなっていた。
奇跡と呼べるのだろうか。悲惨とも呼べる様な事故現場の中、穹は軽い怪我で事なきを得ている。ただ当時のショックからか、穹自身には事故当時の記憶はなく、事故の話を聞いたのは中学に上がるころだった。
以来、穹は三柴の両親と距離を取るようになる。
事故の原因が穹にあった、と言う自惚れた考えがあるわけでも、悲観意識があるわけでもなかった。事故当時の記憶ないのもあって、まるで他人事のようにも思えたのだから。三柴の両親だって、穹を責めるようなことはせず、むしろ気遣ってくれたほどだ。
しかし両親がいないという事実が、穹の心を蝕んだ。気を使われると言う事実が、穹の気持ちを追いやった。周りと違うという事実が、穹の在り方を変えてしまった。
こればかりはどうしようもなかった。自分の孤独を嘆けないまま、誰にも当たり散らせないでため込んでしまっている。徐々に濃くなっているこの暗い感情を、三柴の両親への拒絶と言う形でしか発散出来ていない。
このままではダメなのは分かっている。穹自身がダメだと言うのも理解している。
頭では理解はしていても、どうしても沸き上がってくる感情だけは整理できていないのだ。
節目であるこの日も、結局、穹は決意できないでいた。
線香を一つ添えて、穹は手を合わせる。毎日の日課。別段、何を思っているわけではなく、仏壇の前ではそうするものだと知っているからそうしているだけ。数秒、目を閉じて、ただそれだけをしているだけだった。
両親が答えてくれるわけでもない。そうしなければ、何かが崩れてしまう気がして続けている行為。
ただ。今日だけは、一言伝えなければならない。
「お父さん、お母さん。私ね、十四歳になったんだよ」
線香の白い部分が伸びたころ、穹はそっと目を開いて、呟くように両親へと報告する。
ちょうど九年。そう、今日は穹の誕生日だった。
三柴の両親も、海人でさえ避けていた今日と言う日。穹の誕生日というのはつまり、穹の両親の命日でもあるのだ。
事故の話を聞いてからと言う物、三柴家から祝われていないし、祝いの言葉を貰っていない。その話をすれば否応なく、穹に両親が死んだ事実を思い出させてしまうからだ。
三柴家も、あえて自分たちから思い出すような話はしたくないのだろう。事実を知った時、穹が拒絶するかのように暴れたのも原因があるかもしれない。
辛いのは向こうも同じだ。何も悪くない三柴家に辛く当たってしまったのが悪いと思っている。ある程度整理がついて理解はしているし、当時暴れたのをきちんと謝りたかった。
けれど気遣われて、躊躇って話をしてくれなくなって、何も言えなくなった穹は引っ込みがつかなくなってしまった。
本当は、今までのように祝ってほしかった。何かプレゼントが欲しいわけではない。せめて、お祝いの言葉が欲しかった。
そうすれば、それがきっかけになるかもしれない。この暗い感情に区切りが付けられるかもしれない。そう思っていた。
思ってはいても、結局互いに話せないまま、辛いと分かっている関係を続けている。
ままならない感情を抱えたまま、今日という日をむかえてしまった。
だからせめて、穹はここでだけ、自分の誕生日を報告している。と言っても、まだ二年目に入ったばかりなのだが。
「……あれ?」
軽い挨拶を終えてから、穹は立ち上がろうとした時だった。ふと、何かに気が付いて動きを止めた。
仏壇に飾られた写真立て。いつも見ているこの写真が、何かいつもと違うように感じた。
別に、心霊写真に今気が付いたとか、両親の表情がいつもと違うとか、そんなオカルトな何かを発見したわけではない。
何か、光加減がいつも違う。いつもは薄暗いはずなのに、今日はどこか明るく見える。まるで、一点からの光に後ろから照らされている、そんなわずかな違いだ。毎日見ていたからこそ気が付けた違和感だ。
不思議に思い、穹は膝立ちになって写真立てをのぞき込む。と言っても、小さな仏壇に、押し込まれるようにして入れられているのだ。いくら覗き込んだ所で、後ろ側に何があるかは分からない。
仕方がなく、穹は写真立てを持ち上げる。日頃から手入れしてあるので、埃もなく、写真立てもその周りも綺麗な物だった。
だから、それがそこにあるのは、あり得ないのだ。
「これ、指輪?」
写真立ての裏に隠れるようにして置かれていたのは、金色に輝く指輪だった。
手に取ってよくよく見てみると、金糸が複雑に絡み合った精巧な作りの指輪だ。宝石こそついていないが、これだけでも、とても高級な雰囲気を持っている。
ただ、複雑な作りをしているのに、サイズはとても小さかった。摘まんで宛がおうとしてみても、小指の先くらいにしか入らない。
このサイズだ、穹の両親の物ではないだろう。基本、部屋の物には手を付けないから、三柴家の誰かの物と言う訳でもない。
もちろん、穹にも見覚えのない品だった。光にかざして色々な角度から見てみるが、やはり覚えはない。隠すように置かれているが、大分無造作であるので、何かの記念品と言う訳でもないだろう。
物心つく前に、穹が両親にせがんで買ってもらったおもちゃだろうか?
いや、それにしては作りが精巧すぎる。複雑に絡み合った金糸が、全て崩れることなく形を保っているのだ。お土産や、まして子供がせがんで買ってもらえる範囲の物ではあり得ない。
気が付いたとすれば、何か入っていたであろう小さな穴が空いているくらいだ。
「おい、穹。そろそろ出ないと遅刻するぞ」
指輪を眺めながら唸っていると、入り口から声を掛けられる。見ると、部屋の入り口に海人が立っていた。
軽く挨拶をするつもりが、それなりに時間が経っていたらしい。時計を見ると、確かに、海人の言うとおりに遅刻してしまいそうな時間だった。別に、無遅刻無欠席を目指しているわけではないが、無闇に時間を破ろうとも思っていない。
穹は一度悩むのをやめると、両親の写真に目を向けてから立ち上がる。何となく手放しくなくて、指輪は持ったままだ。
入り口で待っていた海人は、穹が大切そうに持っている指輪に気が付いた。
「なんだ、それ?」
「なんか、写真立ての裏に置いてあった」
「へぇ。けど、随分ちっこいな」
掌に収まる指輪をのぞき込みながら、海人はそんな感想を漏らした。造りの精巧さに驚きはしたものの、これと言って関心があるわけではないようだ。
指輪について聞いてみるが、やはり、海人も見覚えはないと答える。
「けど、冷夏さん達の仏壇に置いてあったのなら、穹が持っていろよ」
一瞬悩むそぶりを見せたが、海人はそこまで深く気にしないことにしたのか、肩を竦めて穹に提案する。
もちろん、海人の方から三柴の両親に聞くと言う手もあった。しかし、穹との距離感を理解している海人はその提案をしなかった。必要なら、穹の方から言ってくるだろう。
「分かった」
特に反論の無かった穹は、一度指輪を握りしめると、スカートのポケットに指輪をしまおうとする。
すると、海人がそれに待ったをかけた。
不思議に思って穹は訪ね返すが、海人は返事もそこそこに自室に向かってしまう。理由も分からないまま、穹は入り口の所で立ち尽くしていた。
しばらくすると、海人が部屋から出てくる。その手にはチェーンが握られている。ただ、チェーンだけしかなく、飾りのようなものは見受けられない。
「これに通して、首にかけとけよ。これもう使わないし、こっちの方が無くさないだろう?」
どうやら飾りが壊れて、処分に困っていた品の様だった。一つ一つの輪が小さい、実用性よりも装飾性を主にしたチェーンだ。首からかけておけば確かに無くさないだろうし、制服の下に隠せば見つからないだろう。
通してみると少し不格好だが、普段は見えないからそこまで気にならない。服の上から具合を確かめた穹は、うんと、一つ頷いて納得した。
「んじゃ、そろそろ行こう。マジで遅刻しちまう」
既に準備を終えていたらしい海人は、入り口脇に置いていたバッグを肩にかけると、先に階段の方へと歩いて行ってしまう。
まだ上着とバッグを部屋に置いたままの穹は、慌てて、自分の部屋へと向かおうとする。
そこでふと、沸き上がってきた疑問に、足を止めて両親の部屋を振り返った。
「そういえば、なんで今まで気が付かなかったんだろう?」
当然の疑問だった。穹は毎朝欠かさずここに来ているし、頻度は少なくても海人もここには来ている。月に一回は最低、仏壇も含めてこの部屋を掃除している。
なのに、今日のこの日まで、穹も海人も、三柴の両親でさえ指輪の存在に気が付かなった。まるで、昨日の夜に誰かがそっと置いて行ったかのような不自然さ。
かなり気がかりだったが、当然、解決するはずのない疑問だ。差し迫った時間に後押しされて、穹は自室に向かうことにした。
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