風使いー穹-

風に愛された少女
村上ユキ
村上ユキ

018 少女の変化

公開日時: 2022年12月11日(日) 19:35
文字数:9,891

 月曜日。朝目覚めた穹の気分は最悪だった。


 土曜の夜。桜の木に憑りついた『影』を、自分からの提案で退治したのはよかった。


 大きな怪我をするでもなく、風の結晶も奪われなかった。事件も解決し、憑りつかれていた桜も穹の力によって元気を取り戻した。


 一件落着の万事解決。何の不満もない。


 だが一夜明けたのち、穹は疲労困憊となっていた。


 例えるなら、フルマラソンを走り切ったかのような疲労感。そこに、高熱の風邪を引いたかのような虚脱感。この二つが同時来た感覚に陥っていたのだ。


 ここまで来ると流石の穹は何もできなくなっていて、ベッドから起きるのもままならなくなった。


 心配して部屋を訪ねてきた海人に今日は静かに寝ていたいと言って叩き出し、手伝いに行く予定だった喫茶店には休む旨を連絡するはめになった。


 そうして学生にとって貴重な日曜日をベッドで横になって過ごし、夕方くらいに辛うじて動けるようになって食事を済ませると、再び深い眠りについたのだ。


 日中も寝ていたと言うのに、夜の間もかなり深く寝込んでいて、気が付けば朝となっていた。


 日中に長い時間眠っていたのが祟ったのか、目が覚めた時間はかなり早かった。外から差し込む日差しを見るに、まだ朝日が昇ったばかり。


 目覚ましが鳴るまでの時間を楽しむ穹ではあるが、流石にこの時間は早すぎる。しかし二度寝をしてしまうと、身支度の時間がなくなってしまう。


 と言うのも、食べてそのまま眠ってしまったがために、お風呂に入っていないのだ。


 涼しい気温が続いていた為に、寝ている間に汗をかいていたわけではない。気持ちとして違和感がある。朝食が始まるまでに、シャワーくらいは浴びておきたかった。


 そう思い立った穹は、まだ怠さが残る体を無理やり起こすのだった。


 薄暗い部屋を見回すと、カッツェはいつものクッションに丸まるようにして眠っている。規則正しく体が膨らんでいるため、あれはしっかりと眠っているのだろう。


 テーブルの上には、中身のなくなった餌の容器がある。ぼんやりとしていて覚えていなかったが、どうやら食事の準備だけは忘れなかったようだ。


 それに安堵してベッドから抜け出すと、戸棚からタオルと着替えを取り出し、空になった容器を持って穹は部屋を出た。


 薄暗い廊下を渡り、一階へと降りる。流石に、この時間では紅葉も起きていないようだ。


 台所やリビングに灯りは付いておらず、人の気配を感じない。


 三柴家と顔を会わせずに済んで安堵すると、穹は風呂場へと向かう。途中、空になった容器を洗って、ゴミ箱に捨てるのも忘れない。


 パジャマや下着類を洗濯籠に入れると、浴室に入る。湯船にお湯は溜めないで、お湯に代わる前から、シャワーから流れ出た水を頭から被った。


 冷たい水を全身に浴びて、眠気が一気に吹き飛ぶようだった。次第に暖かくなる水を感じながら、穹は体を洗っていく。


 その間に思い返すのは、公園での最後の出来事だった。


 自分の体の奥底から形容しがたい力が流れ出していく感覚。急速に蝕んでいくる疲労と寒気。あれは何だったのだろうか。


 桜が元に戻ったのは喜ばしい。だがあの感覚は何だったのだろう。桜の木を元に戻すために、穹は何を差し出したのだろうか。


 体の怠さだけで命に別状はなかった。あの後にカッツェは何も言ってこなかったので、特別危険はなかったのだろう。


 でも何をしたか分からないと言う、漠然とした不安はある。結果としては良かったにしても、何があったのかは知りたかった。


 全身を十分に洗い終わり、シャワーを止めて浴室を出る。体を拭いて服を着てから、髪を乾かしている間に、でも、と思う。


 色々と話を聞いてみたい気持ちはあるのだが、これは込み入った話になるだろうなと思う。


 そうなると、朝のちょっとした時間に話す内容ではない。カッツェときちんと話そうと思うなら、学校から帰宅してからになるだろうか。


 早めにこの悩みは解決したかったが、こればかりはしかたない。流石のカッツェも、そうすぐに答えてくれないだろうし。


 なんだかカッツェの扱いと言うか、考え方と言うのか。そう言うのが分かってきたような気がして、穹は少し嬉しく思えた。


 新しい友達が出来たみたいで、悪い気はしない。そう思えば気持ちも落ち着いたような気さえする。


 ほんの少し気持ちを前向きにしながら、穹は脱衣所を出た。


 それなりに長くシャワーを浴びていたのか、台所では紅葉が朝食の準備を始めていた。


 仕事に行く格好の上からエプロンを着用して、台所で料理をしている。耳当たりのよい包丁の音と共に、みそ汁の香りが仄かに漂ってくる。


 本来の家族以上に見慣れてしまった日常。そんな光景に、穹は胸が苦しくなるのを感じた。


 今すぐに自室に駆け込みたい衝動に駆られながらも、穹は深呼吸をして紅葉をまっすぐ見えた。


「お、おはよう、ございます」


「あら、おはよう。穹さん」


 意を決して穹が挨拶をすると、紅葉は料理の手を止めて振り返った。


 紅葉からすれば、久々に穹の方からの挨拶なだけに、驚きもあっただろう。なのに表面上はおくびにも出さず、柔和な笑みを浮かべるだけだった。


 挨拶をしたのは、ちょっとした勇気を振り絞ったからだった。


 あの公園での一件で、三柴家に迷惑はかけていない。公園の桜の件も解決しているのを、紅葉だってまだ知らないであろう。穹が大きく関わっているのも知らないはず。


 しかし穹からすれば、カッツェの件も含めて隠し事を多くしている。


 勝手な話かもしれないが、心苦しくあったのだ。ならばせめて、少しばかりでも会話をした方がいいのではないのか。穹はそう思ったのだ。


 挨拶だけも少し緊張してしまう自分を活を入れて、穹は今、紅葉と向き合おうと思っている。


「体調はもう大丈夫?」


「はい、ちょっと疲れただけなので。ご心配おかけしました」


「迷惑だなんて思ってないわ、穹さん。朝ご飯は食べられそう?」


「はい」


「じゃあ、まだ準備に時間がかかるから、ちょっと待っていてくれる?」


「はい」


 ややぎこちないながらも会話が出来て、穹は一息吐いた。


 このまま部屋に戻ってもいたたまれないので、穹は少し迷ったが、リビングで待つことにした。


 いつもの席に座り、ぼんやりと紅葉の後姿を見る。驚きはあっても穹とある程度話せて嬉しかったのか、紅葉の動きは何となく機嫌が良さそうに思えた。


 すっかり見慣れてしまった姿なのだが、リビングで待つ穹は別の問題に直面した。


 気まずい。


 後姿は機嫌な良さそうな紅葉なのだが、穹は逆に気まずさを感じていた。


 ここで何か会話をすればいいのだろうが、何を話していいのか分からなかった。


 海人が居れば、間を持たせてくれるのだろうが、今ここに居るのは穹と紅葉だけ。


 未だわだかまりを感じている穹からすれば、話のとっかかりすら掴めない。


 急に学校の話をしたところで不審に思われるだろうし、カッツェの話をしても尚更だ。


 何でもない会話をすればいいだけなのはそうだが、その何でもない会話の話題が思い浮かばなかった。


 なるほど。色々拗らせて、普通の会話すら難しくなっていたらしい。


 どうしようもない自分の愚かさに、穹は一人頭を抱えていた。


「穹さん」


「は、はい」


 一人百面相をしている所に、急に紅葉から声を掛けられる。


 突然話しかけられるとは思わず、穹の声はやや上ずってしまう。


 そんな穹の反応に微笑みながら、紅葉は料理の手を止めて振り返った。


「まだもう少しかかりそうだから、ごみ捨てお願いできるかしら、穹さん」


「あ、えっと。はい」


「ありがとう。それじゃあ、これね」


 いいながら、紅葉は燃えるごみの袋を渡してくる。


 普段なら、仕事に向かう紅葉か浩司がしているごみ捨て。それを今回任せてきたのは、何となく穹が気まずく感じているのを察して、離れるきっかけを作ってくれたのだろう。


 そんな気遣いを察して、穹は申し訳なく思いながらも袋を手に取った。


「いってきます」


「はい。お願いね、穹さん」


 短いやり取りをして、穹は家を出る。


 玄関を扉を閉めて、ぼんやりと上を見る。日はすっかり上っていて、雲一つない秋晴れが広がっていた。


 なにをやっているのか。


 雲一つなくとも、穹の心は晴れなかった。自分の情けなさを思い返すようで、少し悲しくなったほどだ。


 でもくよくよしても居られない。変に時間を掛ければ余計な心配をかけてしまう。


 気を取り直して、穹はゴミ捨て場へと向かうのだった。




「穹、お前大丈夫か?」


 ゴミ出しから戻ってみると、朝食は大まかな準備は終わっていて、三柴家が全員席についていた。


 海人と浩司にも挨拶をして、穹は自分の席についてから朝食を食べ始める。


 三柴家はいつもの団らんをして、穹は一人で黙々と食べる。いたたまれなくなった穹は早足に食べ終わって部屋に戻る。これが日常だった。


 ただ今の空は、明らかに食べるのが遅かった。茶碗を持つのも辛そうで、億劫そうに箸でご飯を運んでいる。


 傍から見れば、風邪を引いた病人にも見えるだろう。


「大丈夫、といえば、大丈夫だよ」


 もちろん海人に指摘されるまでもなく、心配される体調をしているのは自覚している。


 病人にも見える食べ方なのだが、穹としては健康状態に問題はない。むしろ体が栄養を求めて、食欲だけは旺盛に感じている。


 早く食べたいという欲求はあるのだが、いかんせん、体が付いてきていない。


 眠気はなく、早くに目が覚めるくらいには健康的だ。けれど、倦怠感だけは未だになくなっていなかった。


 これはきっと、肉体的な疲労が未だに直り切っていないのだ。時間の解決を待つしかないのだが、流石に隠し切れなかったらしい。


「穹さん、昨日も調子が良くなかったみたいですし、今日は無理をしないで休んだ方がいいのでは?」


 やせ我慢にでも見えたのだろうか。声をかけてきた海人に続いて、珍しく昭雄の方からも声をかけてくる。


 声音は本当に気を使っているようで、ここで穹が頷けば、本当に学校に休みの連絡をしてくれそうな雰囲気がある。


「い、いえ。本当に、大丈夫、です」


 まさか声を掛けられると思っていなかった穹は、淀みながらもその提案を辞退する。


 倦怠感があるだけで、体調に問題があるわけではない。普通に学校にも行こうと持っているのだ。


 ここで休んでしまうと、アヤメに心配をかけてしまう。それが申し訳なくて、学校を休みたいという学生の怠惰な感情はありつつも、休むつもりはなかった。


 短いながらも明確な穹の否定に、昭雄は困ったように紅葉を見る。見られた紅葉も心配そうな顔をしつつも、首を横に振って穹の説得を諦めたようだ。


 実の所紅葉も、昭雄と同じような気持ちなのだ。けれど今朝の様子を見る限り、疲れている様子ではあるが、具合が悪そうには見えない。血色も悪くないので、穹の大丈夫という言葉を信じていた。


 同時、言葉通りの大丈夫という風には受け取っていない。具合は悪くないにしても、不調なのは見抜いていた。


 果たして、こうも強情なのはどちらに似たのか。何となく、兄達の面影を見られた気がして、紅葉は少し嬉しくも思っている。


「でも本当に無理はしないでね、穹さん」


 故に紅葉は、優しく諭す程度に留めておく。これ以上しつこく言った所で、穹は頷くはずもない。


 取り返しがつかない程無理をするとは思えないが、何かあった時にはフォローすればいい。そう考えていた。


「はい、気を付けます」


 頷いてみそ汁を啜ってから、穹は内心で緊張を吐露していた。


 思っていた以上に三柴家が心配して声を掛けてくれて、少し嬉しく思っている。ただそれ以上に、辛いと感じている自分も居た。


 不調を話すのは簡単だ。公園の件を話してしまえばいい。何もかも暴露して、うっぷんを晴らしてしまいたい。


 今までのよそよそしい空気感があったのに、こんな時だけ心配して声をかけてくる。


 今更、何を思って話しかけてくるのか。そんな風に声を掛けてくれるのなら、なんで今までそうしなかった。


 自分が身勝手に抱え込んだ感情を爆発させて、何もかもを発散させて方が楽になれるかもしれない。


 魔法の力に目覚めた話をして、頭がおかしくなったとでも思われて距離を置かれた方がいいのではないだろうか。そんな風にも思えてしまう。


 いやなやつ。


 倦怠感と不満から妙な思考になった所で、ふいに、自分を罵る声が聞こえたような気がした。


 そんな声が聞こえて、穹は冷静になる。


 そうだ。結局こうなるようにしたのは、自分が何も話していないからではないか。


 ここまで拗れる前にきちんと話をしていれば、事実は話せないにしても、もう少し何か相談できたのではないだろうか。


 そう思えば、この状況は自業自得。こんな身勝手な思いをするのはお門違い。


 分かりは、するのだが。納得は出来なかった。


 アヤメちゃんに会いたいな。


 学校でなら、こうはならない。困るくらいに構ってくるアヤメの存在が、今は無性に恋しく感じられた。


「なぁ、穹はこう言っているけどさ、やっぱり休ませた方がいいんじゃないか?」


 何やら納得した両親が気に食わないのか、海人の方はまだ食い下がってくる。


 何となく海人の優しさが伝わってくるが、穹としては、しつこいという感覚しかなかった。


 間違いではないのだが、心配性な海人の言い分に、無理な説得はしないと決めた紅葉は取り合わなかった。


「穹さんの心配より、自分の心配のなさい、海人」


「何がだよ」


「どうせ、また準備していないんでしょ。早くしないと、また遅刻ギリギリになるわよ、海人は」


「ちぇ、分かったよ」


 鋭い指摘をされて言い返せなかったのか、海人は渋々ながらも朝食を食べる作業に戻る。


 他人事と聞いていた穹だったが、そう言えば、自分は今日の準備をしていただろうかと不安になる。


 いや、確実にしていない。お風呂に入るまでもなく寝入ってしまったのだ。カッツェの夕飯の準備はしていたが、学校の準備にまで気をまわしていたか定かではない。


 カッツェの分の朝食の準備もある。早めに朝食を食べられたのだから、戻って自分も確認した方が良いだろう。


 気を取り直した穹は、そこからは普通に朝食を食べ始める。普段よりも遅くはあったが、三柴家が食べ終わる頃には同じように食べ終わっていた。


 食器類を片付けて、早足に部屋に戻る。


 扉を閉じると、ようやく一息付けた気がした。三柴家との会話が多くあって、少し疲れが出たらしい。


 カッツェはすでに起きだしていて、定位置になりつつある、窓の縁に座って外を眺めている。


 毎日見ていて飽きないのかと疑問に思うが、そこはカッツェしか分からない何かがあるのだと思って聞かないでいた。


 部屋に穹が入って来たのに気が付いたのか、両の耳が小刻みに動き、ゆったりと尻尾を揺らしてから穹を振り返った。


 なんとなく貫禄ある姿だったが、見た目はあくまで猫であるので、少し微笑ましく思えた。


「そこはかとなく馬鹿にされている気もするけど、おはようと言っておくよ」


 穹の反応で何となく心情を察したのか、不満一杯に朝の挨拶をするカッツェ。


 なんとも答えに困った穹は、肩を竦めて苦笑いをするだけに留めた。


「おはよう、カッツェ。今ご飯の準備するね」


「ああ、肉が食べたい。そろそろ人間らしい食事が恋しいよ」


「朝から何贅沢言っているの。今度猫の体に害がない食べ物選んであげるから、それで我慢して」


「ボクは猫じゃない」


「はいはい」


 これも定番となりつつあるやり取りをして、穹は何となく嬉しく思いながら、餌ストックの袋の中から今朝の分を取り出してテーブルに置いた。


 言われてみれば確かに、毎日似たような食事では飽きてくるかもしれない。


 徳用のカリカリ餌ではないとはいえ、内容物が違う程度の猫用の餌だ。


 人間で例えるならば、トッピングが違う程度のうどんが毎日出されるような感じか。


 もしこれがうどん好きだった人だったとしても、それが一週間や二週間も続けば、時には違う物が食べたいと思ってくるはず。


 それを思うと、本物の猫はどう思っているのだろうか。他に食べ物が無いために妥協しているのか。あるいは、そう言う贅沢を知らないだけなのか。


 今は猫とは言え、カッツェも元は人間。穹がもし逆の立場だったとしたら、何かしら嗜好品を求めていたかもしれない。


 贅沢はさせてあげられないが、何らかの形で要望には応えてあげたかった。


 テーブルに置かれた餌を見て、カッツェは心底嫌そうな顔はするものの、背に腹は代えられないとばかりに窓の縁から飛び降りた。


 毎日食べているはずなのに、何度か躊躇した後一口含んでから、悩ましそうに咀嚼して嚥下する。


「こうなれば、商店街に繰り越して肉を盗んでやろうか」


「街で肉を盗む猫が現れたら、真っ先に突き出してあげる」


「世界を股に掛ける天下御免の大泥棒が、下町の肉屋に捕まるのか。そりゃ傑作だ」


 何が面白かったのか、カッツェのこぼした愚痴に穹が言い返すと、呵々と笑い出した。


 そこからは何も言わずに餌を食べ進めたので、穹は仕方がないと笑いながら、学校の準備を始める。


 思った通り、学校に行く準備は出来ていなかった。今日の授業を確認しながら、机から教科書を取り出して鞄の中身を入れ替えていく。


 何かあったらいけないと思い、学校から出されていた課題は土曜日に終わらせている。


 今はそうしておいてよかったと、自分の行動に良い判断だったと自賛しておく。とてもではないが、日曜日のあんな状態で課題に取り組むなどできなかったであろう。


 ただこうやって準備をしていると、不足しがちな物も見えてくる。シャープペンの芯が少なく、ノートの残りも心もとない。


 本来なら休日に足しておくべきだったのだろうが、仕方がないので帰りに買って帰るしかないだろう。


 こういう時、通学路に商店街があるのはとても助かる。学生を狙った出店が蔓延るのは悩みだが。例えば財布的に。


「昨日は大分衰弱していたみたいだけど、今の様子を見る限り、それなりに持ち直したみたいだな」


 ある程度の準備が終わったころ、餌を食べ終えたカッツェが確認してくる。


 思わぬ言葉に、穹は驚いて振り向いた。


 こちらを見つめるカッツェの雰囲気は先ほどまでの緩い物ではなく、穹の回復に安堵していると言った様子だった。


 心配はされていたが、穹の様子を見て安堵している。気を使うのではなく、何も言わなくても分かってくれている。


 勘違いかも知れないが、そう思われているような気がして、穹は何となく嬉しくなった。


「うん。まだ怠さはあるけど、普通に動くのには大丈夫だよ」


「それはよかった。これで心配事が減る」


「私のこと?」


「まさか。そうやって机の上にリングを置きっぱなしにしたまま、あちこち歩かれた堪らないのさ」


 言いながら、カッツェは器用に尻尾の先を伸ばして机の上を指した。


 言われて穹も視線を向けると、チェーンに通されたリングが、鞄の横に無造作に置かれていた。


 寝るときには流石に外しているが、カッツェにしてみれば、基本は肌身離さず持っていて欲しいのだろう。


 リングの方も、何やら不満を訴えるかのようにキラリと光った気がする。


 そうだね、と苦笑いをしながら、穹はすぐにリングを手に取ると首から下げた。制服の下に入れて布越しに軽く触れれば、ようやく定位置に納まって穹も安心できた。


「そう言えば、カッツェ」


「なんだい?」


「これだけは確認しておきたかったの」


 今朝の内に聞こうと思っていたのを思い出して、穹は改まってカッツェに向き直る。


 変に誤魔化しをしてほしくないと分かったのだろう。まっすぐに見つめる穹を見て、カッツェも佇まいを直して見つめ返す。


「桜の木に起こったあれ。あの時、私の中から何かが桜の木に流れていくのを感じたの」


「ああ」


「あれは本当に、命に係わるような何かじゃなかったんだよね?」


 公園の件での一件は、詳しい説明は受けていない。


 一先ず、命に別状はないという話をされたくらいだ。具体的な何を言われたわけではない。


 登校時間も迫っている中、全てを聞けるわけがないのも分かっている。


 ただ、これは自分のことだ。最低限、答えられる範囲でも構わないから、ここだけは確認したいと思ったのだ。


 これで自分の命に係わるような何かなら、この魔法の力は危険だ。これからカッツェと一緒にいれば、今後似たような何かがあるかもしれない。


 逃げたくないとは思っている。けれど、死にたくなくて怪我もしたくなくて戦うのに、戦うたびに命をすり減らしては意味がない。


「そうだな。ボクだってあの時何があったのかを正確に理解している訳ではない。絶対、なんて保証は付けてあげられない」


 言いにくそうにしながらも、カッツェは自分の中の推論を語る前に、そう前付けする。


 それは穹も分かっている。絶対なんてない。どうしたって、穹に何があったのかを分かるのは、穹だけだ。


 変に誤魔化さないカッツェの物言いに、穹は一つ頷いた。


 むしろ下手に希望的な話をされるよりは、ずっと安心して聞いていられる。


「それを踏まえていて言えば。寿命が縮まるとか、明日明後日に急に意識を無くして倒れるとか、それは起きない」


「どうして」


「利害が一致しないからさ。自然はどこまでも無慈悲ではあるが、逆を言えば合理的だ。不変の摂理は弱肉強食。あの木はほとんど死にかけではあったが、代替えとして誰かの命を奪う訳がない。本当に助からないのであれば、穹の命を奪ってまで助かろうとしなかっただろう」


「じゃあ、あの時の脱力感と、今も続いている倦怠感って」


「ここからは予想になるが、風の力が何かをしたのだろうね。自然の力は循環し、他の自然に直接干渉するわけではない。循環を無視すれば尚更だ。だが、それをしてしまえるのが使役者だ。穹が助けたいと思ったからこそ風は力を貸した。今の穹の状態は、自然に干渉した代償。ちょっと大げさに疲れたと思って良い」


 いわば穹は、風の力と桜の木を繋げた、管のような役割を果たしたわけだ。


 穹は風の意思にかなりの関心を抱かれている。多くを言わなくとも、自分から力を貸してしまうほどに。


 ゆえに、本来なら使役者が行わない行動でも、力を貸してしまう。


 あの木は朽ちる運命だった。あの瞬間に枯れてしまう訳ではなかっただろうが、元々あった寿命をかなり縮めてしまい、思うよりも早くに終わっていただろう。


 そこを、風が力を貸して補填した。少なくとも、穹が悲しまない程度には生きながらえるようになったはずだ。


 ゆえに、負担したのは風の方。カッツェの言葉通り、何がどうなったかまでは分からないが、穹に何かを課したわけではない。


 使役者が自然の力を必要としているように、自然にとっても使役者は欠かせない存在だ。死に追いやるような何かをするわけではない。


 ただ、力を行使するにあたって、使役者に何もないでは合理的ではない。


 結果、命にかかわるような代償はない物の、一日寝込むほどの負担が使役者に回って来たのだと思えば、ある程度納得できる。


 もちろん、一日程度で済んだというのは、カッツェからすればかなり軽い負担ではあると言わざるを得ない。


 あんな力の行使の仕方。下手をすれば、一か月は寝込んだとしても不思議ではなかった。


 とは言え、どれほどの負担が来たとしても、使役者の命に係るような力を自然は行使させない。そこだけは、最低限として言える。


「つまりそういうことだ。ボクから言えるのはこれくらいだけど、納得してくれたかい?」


 これ以上は長い考察になる。案に告げるカッツェに言葉に、穹はしばし黙る。


 不安を拭える話ではなかったが、理解できる話ではあった。


 話せる範囲ではあったかもしれないが、穹の質問には丁寧に答えてくれた。これ以上を求めるのは、今の時間では足らないだろう。


 最低限は答えて貰えた。カッツェが言うのだ。今回の件、命に係るような何かではなかった。


 そこだけを聞けただけでも、穹は良かったと思えた。


「そっか。ならよかった」


 カッツェの言葉を反芻して、胸の不安が少しは和らいだ気がして穹は安堵の笑みを浮かべる。


 助けたいと思った穹の気持ちに答えてくれた。それだけでも、この力を安心して使える。


「じゃあ、今まで通り、この魔法には頼らせてもらうね」


「そうした方が良い。自然の力は頼って欲しいからこそ、力を貸してくれる。変に疑問を持ってしまえば、いずれ見放されてしまう」


「うん」


「そろそろ、出かけた方がいいんじゃないかい?」


「あ、そうだね」


 カッツェに言われて時間を見れば、かなりいい時間になってしまっていた。


 制服の上着を羽織ると、鞄を持って穹は部屋を出ていった。


 少しの不安はあるものの、カッツェからも大丈夫と言われたからだろう。その足取りは、先ほどのよりも軽くなっているように思えた。


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