翌朝。少しの体の倦怠感を感じながらも、穹は学校に向かう。
昨夜の戦闘でかなり力を使ったが、どうやら、今回は寝込むほどではなかったらしい。
トレーニングの成果も出てきて嬉しい反面、もしかしたら、風の結晶を取り返そうとする者が表れるかと思うと寒気がする。
とは言え、穹の日常が変わるわけではない。表面上では、いつもの生活を続けなければならないのだ。
すれ違う学友と挨拶を交わしながら、穹は教室に向かう。運動部には顔が知れ渡っているゆえに、穹に挨拶をしてくる学生も多い。
軽く挨拶を返しながら、穹は務めていつも通りに振る舞う。せめて学校の中ぐらいでは、いつもの日常が続けらえるのに安心できる。
「おはよう」
自分の教室に入りながら、何と無しに穹は挨拶をする。
男子女子関係なく、穹が入って来るのを見るや、おざなりな穹の挨拶にクラスメイト達も挨拶を返す。
「おやおや、穹は今日もお疲れかい?」
「まぁたお兄さんと何かあったん?」
自分の席に向かう中で、クラスの女子の一部が、朝から疲れた様子を見せる穹をからかってくる。
彼女達はバスケ部員であるので、三柴海人との関係を良く知っていた。同じ屋根に年齢の近い男子がいると知っていれば、勘ぐってくるのも仕方ないだろう。
例にもれず、海人は今朝も穹の部屋に突撃に来ていた。今回は着替えを覗かれる事故はなかったが、相変わらずノックもせずに入ってくるので、制裁は与えている。
もちろん、彼がそういう行いをしているのを、クラスメイトに話したりはしていない。
一度洗いざらい話して、部活での居心地を悪くしてやろうかとも思った時もある。
だが彼は、あんなのでも部活ではメンバー入りを果たしているくらいには努力している。
そんな中で居心地を悪くしてしまえば、バスケ部全体に迷惑が掛かる。今の所実害は出ていないので、穹の力技での制裁で勘弁していた。
今後も続くようであれば、何かしらの手を打つつもりではいるが。
海人との関係なんて、所詮そんな物である。
昨今のサブカルチャーには、いとこと恋愛に発展、なんて話があるのも何と無しに広がっているのも知っている。
思春期真っ盛りの今になれば、妙な勘違いをするのも尚更だ。
勘ぐってくるのも分かるのだが、海人とそういう関係に発展する未来なんて、穹からすればまっぴらごめんだった。
「あいつと何かあるわけないでしょ。何かしてこようものなら、これでぶっ叩いてやるんだから」
からかって来た女子に見せつけるように、穹は担いでいた鞄を揺らして見せた。
細かに荷物を持ち運んでいるゆえに、穹の鞄は見た目相応の重さがあった。
学校指定の鞄の固さは、皆が良く知る物だ。その鞄がいっぱいになるくらいに道具が入れられた状態で殴られたとあっては、その痛みは相当な物になるだろう。
想像できる痛みに、彼女達は苦笑いを浮かべた。
「にしても、勿体ないよね、穹は」
「なにが?」
「そんな立派な物持っている上に可愛いんだから、男の一人や二人、簡単に落とせそうじゃない?」
「か、可愛いと言うな」
胸の部分に視線を向けながら言われて、穹は思わず頬を赤らめながら反抗する。
制服を着ている上からでも、穹の胸が大きいのが分かる。加えて、穹の顔立ちは違うクラスからも噂されるくらいには整っている。
なるほど。彼女の言う通り、穹の方からアプローチをかければ、お付き合い願いたい男子の一人や二人は釣れるだろう。
話が聞こえたのか、周りにいた男子数名が露骨に顔を反らす。
単純だなぁ。不快に思うでもなく、思春期男子特有の反応に、穹は仕方なしとため息を吐いた。
「私はそんなつもりないよ」
逆に告白を受ける機会の多くなりそうな穹の容姿だが、そんなイベントが発生した回数は多くない。
精々が、中学一年の秋頃だったろうか。
あの頃はまだ周囲との折り合いも上手くつかめておらず、変なやっかみを受けた物だ。
今が落ち着いているのは、アヤメが居るからである。
告白されるのが嫌になった頃にアヤメに相談してからと言う物、告白してくる男子の悉くをアヤメが阻止してくれているのだ。
一応、アヤメが許せば告白の機会を設けると言う話だったが、今の所さっぱりなのだから、かなりアヤメの基準は厳しいのだろう。
そうしてくれている中で、じゃあ穹の方から誰かに告白するかと言えば、そんなつもりは穹にはなかった。
今になって知り合いは増えたが、付き合いたいと言う感情を抱く程の出会いはない。
男遊びなんてするつもりもなく、彼女らもその辺りはわきまえているはずなので、単なる冗談なのだ。
しかし今朝は、少しばかり冗談が過ぎたようだった。
「ええ。でも穹さ、また胸大きくなってない?」
「へ、あ、ちょ!」
「ぐへへ、お嬢ちゃん、良い物持ってますなぁ」
二人に囲まれたかと思えば、一人が背後に回って穹の胸を後ろから触りだしたのだ。
同じ女性と言うのもあって、力を込めて揉んでくる訳ではない。形を確かめるかのような、撫でると言った表現が近いだろう。
気遣いとしては有り難いが、触られている事実には変わりはない。
ぞわぞわとした感覚が広がり、羞恥に顔が更に赤くなった。
「うお、これは思った以上に、でかい」
「マジ?」
「服の上から分かるくらいだから大きいのは確かだけど、実際に触るとここまでとは」
羞恥に固まる穹に構うことなく、彼女らは穹の胸を堪能していた。今触っている女子などは、予想以上の感触に素で感激しているようだった。
朝から始まったとんでもない事態に、クラスメイト達も固唾を呑んで見守っている。
特に男子等は、興奮したように凝視している始末。
突然のさらし者になった穹の羞恥は最大となり、顔はリンゴではないかと思うほどに真っ赤となっている。
「なに、やってるの、かな?」
ここから彼女ら二人が妙に盛り上がりそうな雰囲気となった瞬間だった。
教室の熱を冷ますかのように、底冷えするような声が発せられる。特別大きな声だったわけではないのに、クラスメイト全員の耳に届いていた。
声の主はアヤメだった。ちょうど登校してきたらしく、教室のドアを開いて現状を目にしたらしい。
騒がしくなっていた教室が、一斉に静まり返る。蛇に睨まれた蛙のように、誰一人として動かない。嵐が過ぎるの待つように息を潜めていている。
誰もアヤメを直視できなかった。
ドアを開けた状態で待つアヤメは笑顔だ。爽やかと言って笑顔で朝の挨拶をされたのならば、男女関係なく魅了されていた事だろう。
だが目が笑っていていない。まるで獲物に狙いを定める捕食者のように、鋭い目をしていた。
捕食対象とされた彼女らは、穹をからかう余裕もなくなり、冷や汗をかいて固まっている。流石にアヤメの前で穹の胸を触る度胸はないのか、手だけは離していたが。
解放された穹は、凶悪な笑みを浮かべるアヤメに助けられて、一人だけ安堵していた。
「もう一度、聞くね。なにを、やって、いたのかな?」
教室のドアを閉め、中に入りながらアヤメが再び尋ねる。
一段と声が低くなったような気がして、彼女らはその場で姿勢を正した。流石は運動部。しっかりと姿勢を正したその姿は、とても綺麗に見えた。
最も、その顔はすっかり怯え切ってしまっているが。
「ああああ、あの、あの、あの!」
「わた、私達はただ、そ、そそ穹さんがちょっと疲れているようでしたので、ちょっと、ほんのちょっと気を紛らわせてあげようと」
「それで、私の穹の、胸を触る必要が、あったの、かな?」
噛みながら言い訳をする二人に対して、問答無用とばかりにアヤメは詰め寄った。
怯える二人に詰め寄るアヤメは、本当に綺麗な笑みを浮かべている。なのに目だけは相手を射抜かんばかりに細められていて、直視される二人には相当の恐怖を与えていた。
二の句が付けられず、涙目になってガタガタ震えるだけだった。
「ちなみに、私の胸はアヤメちゃんのでもないからね?」
助けてもらったのには感謝しつつも、さりげなく自分の物発言をしたアヤメに、穹は小声で訂正を入れておく。
親友の独占欲の強さは今更だったが、一応言っておかねばならない。
もちろんその程度でアヤメが聞き入れる訳もなく、ちょっと残念そうな顔を一瞬浮かべた物の、即座に二人を睨みつける。
穹が助けに入って貰えないのを理解して、二人はさらなる絶望へと落とされた。
「あ、ああ、アヤメ? 今回は、ちょっとやり過ぎたから!」
「謝ります! 謝りますから!」
「二人とも、ちょっと、話そうか?」
「ひ」
「え、ちょ、なんでぬが」
「天誅」
「「きゃああああああああ!」」
表記するのにはやや躊躇われる行為をアヤメが実行し、教室の端から二人の悲鳴が上がる。
先ほどの穹以上の桃色空間が広がり、流石のクラスメイト達も見るのを躊躇って一斉に視線を逸らした。
被害者だった穹はもちろん止める訳でもなく、郷愁傷様、と内心で弔いながら席に向かった。
鞄を自分の席に置いて席に座れば、ようやく一心地付けたような気がした。
後ろから、朝から聞くような悲鳴が上がらなければ、なお良かったのだが。
「おはよ、穹っち。いやあ、朝から良い物拝めたよん」
席に座って脱力していると、前の席から朱音が声をかけてくる。
一部始終を見ていたはずだが、止めるでもなく傍観していたらしい。他のクラスメイト達より耐性はあるのか、後ろで繰り広げられている桃色空間を、楽し気に見ていたりもする。
「何もいいことなんてないよ。酷い目にあった」
笑いながら言う朱音に、穹は疲れたっぷりに返事をする。
ただいつも通りに登校しただけなのに、海人との関係をからかわれたり、胸だって触られたのだ。堪ったものではない。
まだ授業だって始まっていないのに、すっかり気疲れしてしまった。
ため息を吐きながら肩を落とす穹を見て、朱音は呵々と笑った。
「あの二人だって、穹っちを元気付けようとしただけだよん。今はきっちり制裁されているんけど」
「もう二度しないよう、きっちり仕留めておいてもらいたいね」
同情の余地なしと言わんばかりに、穹はバッサリと切り捨てて鞄の中身を机に移していく。
朝から痴態を晒したのだ。何か別の作業をして気を紛らわせなければやっていられない。
そう言わんばかりに準備を進めながら、何やらチラチラと視線を向けてくる男子に、穹は睨みを返した。
見られた分には仕方がないが、それ以上の何かを期待するなら容赦はしない。
そう言わんばかりの目を向けられて、集まって何やら話をしていた男子生徒数名は、首をすぼめて視線を向けるのを止めた。
そんな様子を見ながら、情けない奴ら、と朱音は呆れながら快活に笑うのだった。
「しっかし、やっぱ疲れた空気出てたじゃん? 体育が今日ないから、テンション落としてたのん?」
「それくらいでテンション下がるくらい、私は熱血君じゃないよ。ちょっと寝不足だっただけ」
「まぁた、変に長いことトレーニングしてたのん?」
「そ。ランニングしてたら遅くなって、課題遅れちゃってさ」
「あの社会科の先生、平日なのに出す量おかしいんよね」
「確かに」
論文形式でまとめたノートを出して、朱音の愚痴に穹も同意する。
期日は翌日すぐと言う訳ではないのだが、社会科の出す教師の課題が厄介なのだ。
基本は教科書以上の内容は出てこないのだが、今まで習った内容に対しての自分なりの考察を書けという、中学生に出すには難易度の高い課題を出してくるのだ。
授業の理解度を示す為らしいのだが、このまとめたノートが果たして役に立つのか実感が沸かないのだ。
内申点に影響するらしいと聞いているから真面目に書いているが、授業内容もしっかり把握しなければならないので、地味に大変なのだ。
朱音もノートを取り出して、恨めし気にひらひらと揺らしている。
「全く。穹、油断したらダメじゃないの」
中身の軽くなった鞄を机の脇に掛けた頃になって、アヤメが穹に声をかける。
いつの間にか悲鳴を止んでいた。どうやら、アヤメからの制裁は終わったらしい。
「おはよう、アヤメちゃん。まさか急に触ってくると思わなくってさ」
「おはよう、穹。でもね、私以外が穹に触られるなんて許せないの」
「アヤメっちは穹っちの彼女か何かなのん?」
当然とでも言うアヤメの言葉に、朱音が呆れたように尋ねる。
過保護と言うよりも、彼氏か彼女と言ったような言い分に、流石の穹も苦笑いを浮かべるしかない。
同性愛を否定するつもりはないのだが、穹はそっちの趣味は持っていない。
どんな人を好きになるのか想像も出来ないが、少なくとも、アヤメは仲の良い親友と認識だ。
まさか本当に恋愛対象と言う訳ではないだろうが、何かと危うい発言をするアヤメに辟易してしまう。
朱音の質問に、アヤメはキリリと表情を真剣な物へと変える。
「言いえて妙ね。私は穹の体にあるホクロの数だって知っているわ」
「え、穹っち、マジなん?」
「変な誤解を招くような言い方やめようね、アヤメちゃん。お風呂に一緒に入った時に無理やり確認してきたんでしょ。朱音ちゃんも、本気にとらえないでよ」
親友なら、修学旅行以外にも一緒にお風呂に入る機会はままある物の、流石に体の隅々まで観察するような真似は普通はしないだろう。
しかしそこはアヤメクオリティ。一緒にお風呂に入ろうものなら、とても嬉しそうに穹の体を探ってくるのである。
最初は戸惑ったものの、今ではすっかりアヤメの行動には慣れてしまっている。と言うより、慣れざるをえなかったのだ。
何かにつけて穹の体を確認しようとするので、穹の方が折れてしまったのだ。
ただ、無駄にボディチェックをしているわけではない。穹の体を堪能したいと言うのももちろんあるのだろうが、アヤメは診察をするのがとても上手い。
自分では分からない、他人から見た時に自分の体がどうなっているかを的確にアドバイスしてくれているのだ。
アドバイスはとても助かっていて、日々の食事に気を使ったり、その時その時の適切なトレーニングが出来るようになった。
穹の抜群のスタイルは、半分はアヤメのお陰と言っても過言ではない。
故に許容している訳だが、こうまで大っぴらに言われるのは勘弁してほしかった。
冗談なのか本気なのか判断に困る言い方の為に、朱音が真剣な顔で穹に尋ねてくる。
もちろん、アヤメと付き合っているとか、そんな事実はない。穹はきっちりと否定しておく。
もちろんその辺りは冗談だと分かっているのか、困ったように否定する穹を見て、朱音はいたずらっ子のように笑うのだった。
「おかしい、私にとって穹は運命の人なのに」
真っ向否定されたアヤメと言えば、なぜか納得いかないと言った様子で難しい顔を始めてしまった。
朝から嫉妬するような事態になって、感情のコントロールがおかしくなったのだろうか。
普段よりも食い下がるアヤメに、穹はため息を吐くのだった。
「私も大切に思ってるけど、親友の範囲に留めておいてよね」
「アヤメっちは、逆に朝から元気だねん」
こうなってはアヤメの言動に付き合うしかないと分かっている穹は、大切にしていると言いつつも、親友であるというのを協調しておく。
なんとも微妙なフォローに朱音は笑いながら、全くめげる様子のないアヤメを見て笑うのだった。
「商店街のイベントも控えているからね。私も色々大変なの。穹を補充しないとやってられないのよ」
「私はいったい何の成分を持っているのか」
「ああ、そう言えば商店街のイベント、もう間近だったんね」
「そうよ。もう来週だから、学校側からも何か言われるんじゃないかしら?」
商店街のイベントとは、町おこしの一環として始められたイベントだ。
簡単に言えばハロウィンにもじったイベントで、当日は各店が思い思いに飾り付けを行い、無料のお菓子を配ったり等をする。
主に商店街で店を構えている人達がメインとなるイベントなのだが、当日の飾りつけには生徒も手伝う予定になっている。
活動の中心は高等部なのだが、中等部に通う穹達もまた、来年の予習の為に手伝うことになっていた。
大掛かりな物は高等部が作るため、穹達は各班に分かれて細かなフォローをするような形だ。
進学校の生徒達には時間をとられてしまうので、自主勉強に割く時間が減ってしまうのだが、この手伝いの期間中は課題も出されず、課外授業として評価の対象となる為に、生徒達からはまずまず高評価を受けている。
このイベントが来週となっているので、そろそろ学校側からも何かしら告知がされるらしい。
一週間前とは中々に期間は短いのだが、これは穹達が中等部だからだ。高等部はもっと前に連絡を受けて、授業に支障を来さない程度に準備は進められている。
穹達中等部は、本当に最後のお手伝いと言った、追い込み作業の補助となる。
去年も似たようなタイミングだったので、穹達としては特に不満はなかった。
イベント用の飾りつけもある程度は学校側から支給されているし、毎年同じような飾りつけをされているので、生徒達が頭を悩ませて作る物もほとんどないのだ。
大体十人前後の四つの班に分けられるのだが、例によって、穹はアヤメと組むだろうから特に悩んではなかった。
今年は朱音も一緒になるだろうか。
そんな風に思っていてふと思い出す。穹が個人で手伝いに向かっている喫茶店『ノワール』もまた、何らかの形でイベントに参加するだろう。
商売の参加は出来ないが、こういうイベントとしての参加なら、穹も何かしら出来るかもしれない。
「穹は、お店の方で何か出すの?」
そんな風に思っていると、察したのか、アヤメの方から尋ねてくる。
「お店で何か出すかは聞いてないけど、私も何か出せないかなって。お菓子とか」
「ん? 穹っちって、お菓子とか作れるん?」
自分に出来そうな仕事を思って穹が呟くと、朱音が不思議そうに尋ねてきた。
聞かれてから、そう言えばと、朱音に自分の一つの趣味の話をしていないのを思い出した。
「作れると言っても、趣味の範囲レベルだけどね」
「ふふ、そんな謙遜しちゃって。プロにも負けない位に、凝ったの作るくせに」
遠慮がちに答えた穹に、アヤメはおかしそうに笑いながら訂正を入れる。
直に穹の手作りのお菓子を食べたアヤメに言われてしまっては、穹としては何も言えずに押し黙るしかなかった。
最初は本当に、趣味で始めた程度だったのだ。チョコを溶かして自分の好みの形にする程度だったし、簡単に作れるパンケーキを焼いてみる程度だったのだ。
次第に楽しくなってから、作りこみが激しくなったのだ。カップケーキから始まり、生チョコ入りのチョコボールを作った時などは、とても驚かれたものだ。
それが楽しくなって今も続けた結果、趣味と言う範囲を抜け出しかけているのだ。
別にお菓子作りの職人を目指すわけでもないので、プロのようだと言われるのはおこがましいとは思っているが、ちょっとした自慢にはしていた。
褒められて悪いわけではない。アヤメに褒められて、穹は少し口元を綻ばせた。
「へえ。料理はてんでダメなのに、お菓子作りは上手いのは驚きなんよね」
「朱音ちゃん、それは言わないで」
穹については嘘を言わないアヤメの言葉を信じて、穹がお菓子を作れるのに驚きながらも、朱音は率直な感想を述べる。
言われて穹は、ちょっと浮かれた気分が一気に突き落とされたような気分で肩を落とした。
そう。お菓子作りはプロと言われてもいい位に出来るのだが、穹は料理が下手だった。
マンガやアニメみたいに、ダークマター製造だったり謎の爆発を引き起こしたりするわけではない。
では調味料の間違いがあるのかと言えば、それもない。そもそもお菓子作りを趣味にしている為に、見れば砂糖と塩の区別くらいは出来る。
レシピだってちゃんと守るし、分量だって毎回計量の道具を使う徹底ぶり。一つまみだの少々だのと言った曖昧表記に頼っていない。
だが下手なのだ。
具多的に言えば、指定された料理を思うように作れないのだ。
うどんを茹でればすいとんみたいになるし。肉じゃがを作ればどろどろのスープになるし。卵料理はまともに出来るのはスクランブルエッグのみ。
コロッケを作ろうとして、肉の揚げ玉と衣の煎餅に分離して出来上がった時には、失神しそうになった程。
とにかく、穹はまともに料理が作れないのだ。唯一の救いなのは、別の料理になってしまうだけで、食べられない訳ではないというくらいだろうか。
調理実習の時などでは、包丁で物を切るくらいしか手伝いをさせて貰えないのが悲しい所だが。
そんな実情を知っている朱音にすれば。なるほど。穹がお菓子作りは上手くできると聞けば驚くだろう。
自分の料理の腕を思い起こさせられて、穹は机に突っ伏すのだった。
「でも、料理が絶妙に上手くない穹も、私は好きよ」
「アヤメっち、それ微妙に止め指しに言ってるんよね」
「うわぁぁぁ」
アヤメからの散々な評価に、穹は泣き真似を始めてしまう。
いっそ下手な方向に振り切れていれば、笑い話にもなるのだが。いかんせん穹の料理は、元の料理は分からないにしても、出来上がったものは食べられなくはない出来なのだ。
無駄にならないのはいいのだが、それはそれでどっちつかずな評価なのだ。出来上がった料理を見て、クラスメイトが微妙なリアクションをするのを今でも思い出す。
言いえて妙な、絶妙に上手くないとは、正しく今の穹の料理の腕前そのものなのだった。
またしても何も言えない穹は、泣き真似位でしか反抗する余地がなかった。
そんな穹を見てアヤメは微笑ましそうに笑うのだから、図太い神経の持ち主である。
「とにかく!」
このままでは形勢不利と判断した穹は、二人からの攻勢を止めるべくして、無理やり話題を変えようと顔を上げる。
変に気を取り直した穹を見て、アヤメと朱音は微笑ましそうな物を見る目を穹に向けるのだった。
「無料で配布するなら、ちょっとしたお菓子を作って配るくらいは私がしても平気だと思うんだ」
「お手伝いの範疇でしょうし、それくらいは許してくれるんじゃないかしら?」
一応ではあるが、穹はノワールでバイトをしている訳ではない。
あくまでも、店の手伝いを行った時にお小遣いを貰っている。そういうスタンスだ。
大分グレーであるのには変わりはなく、本来なら学校も許可していない。それでも続けらえているのは、穹の現状を見て黙認してもらっているからだ。
穹もその辺りは自覚しているので、ノワールでの手伝いは最低限にしている。バイトとみなされそうな業務には関わっていない。
精々がテーブルの皿を片付けたりテーブルを拭いたりする程度。自分の課題を進めている時もある。
だからこそ、今回のイベントでノワールが何をするのかを、穹は聞いていなかった。
そうして学校にも誠実であろうしているのだ。
今回のイベントで穹はお菓子を提供しようとしているのは、やや怪しい部類かも知れない。
無料で配るお菓子なので、金銭のやり取りは発生しない。お手伝いの延長であると、少し無理に押し通すつもりだった。
「大丈夫だとは思うんけど、学校にも確認は必要かもねん」
「もちろんだよ」
律儀な物だと朱音が感心しながら意見を言えば、穹は当たり前だと言わんばかりに頷いた。
流石に黙って行動するわけにはいかない。
一応担任に話を通してから参加するつもりだ。ここで許可が下りないようなら、無理に参加しようと思っていない。
今回お菓子作りをしようと思ったのは、ノワールの恩返しのつもりだった。
本当ならもう少し貢献したいと思うのだが、ダメだならダメでまた違う手を考えるまでだ。
そもそもだ。
「放課後とかに調理実習室使わせて貰いたいから、どうにしろ学校にも許可貰わないとだし」
まだこの瞬間は思い付きだけなのだ。何を作りかも決まっておらず、試作の段階にすら入れていない。
学校で調理実習室を使いたいわけだが、もちろん許可がいる。
家でできなくはないのだが、夕方頃は三柴家も戻ってくるために長くは使えない。
いつもは誰も居ないタイミングを使ってお菓子作りをしているのだ。今更、作っている姿を見られたくなかった。
そうなれば調理実習室は最適なのだが、生徒が誰でも自由に使えるように解放している訳も無く、使用する時は担当教師の許可がいる。
時々使わせて貰っているので顔なじみではあるのだが、勝手に使って良いわけではない。
お菓子作りをすると決めた時点で、こういった各所への確認は必要になってくるのだ。
面倒とは思うが、煩わしいとは思わなかった。
「学校で練習するん? なら、ご相伴に預かろうかなん」
これ幸いとばかりに、朱音がお菓子を要求してくる。
試作だから大量に作るわけではないが、客観的な意見を聞けるのは助かるために、その申し出に穹は特に文句はなかった。
「いくつか作るつもりだから、試作のでいいなら」
「お。じゃあ、許可貰えたら教えてねん」
「穹、私はもちろん全部食べるから安心してね?」
「アヤメちゃんは欲張り過ぎじゃない?」
試作品を全部食べそうな勢いで食いついてくるアヤメに、穹は呆れた顔を向ける。
全て食べらてしまっては、ノワールに持っていく分も無くなってしまう。それだけは勘弁してもらいたかった。
でも、こうやって自分の作った物を食べたいと言って貰えるのは有り難かったので、何ともこそばゆかった。
そうやって雑談をしていると、時間はあっという間に過ぎてしまう。
朝からの羞恥プレイが落ちた頃、担当の教師が教室に入ってくる。
「今日は連絡が多いから、皆よく聞いてくれ」
バタバタと生徒達が席に落ち着いたのを待って、教師はそう切り出した。
期末のテストが近いというのから始まり、アヤメの言葉通り、来週の商店街のイベントについても連絡が伝えられた。
中身は去年と同じような内容だった。予想通り、生徒は各班に分けられて、高等部の手伝いをするという物。
特にアヤメはイベントの関わりが大きいために、他生徒はしっかり手助けをして欲しいという。
そこに巻き込まれて大変だという生徒も多いだろうが、穹はそこは苦にしていない。
普段から助けられている為に、こういった時には手助けしたいと思っていた。
イベントの参加は、各班に連絡される。
穹の場合は、アヤメから何かしら言われるであろう。アヤメの方もそのつもりだろうから、お菓子の準備をしつつ待つつもりだ。
教師からの連絡事項を聞きつつ、穹も自分の予定を考えるのだった。
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