翌日。
外が暗くなってから、穹はこっそりと家を出た。
日中に確認した限りでは、やはり警察の調査が入っていて立ち入りは禁止されていた。
ただそこから同じ事件が発生したと言う話は出ていないので、やはり、穹が公園に立ち入らない限りは動かないのだろう。
夜は肌寒くなってきたので、厚手のパーカーを羽織り、動きやすい格好にしていた。
後ろに続くカッツェを気にしつつも、穹は周囲に誰も居ないのを気にしながら、こっそりと公園に近づいていく。
街灯こそ少ないが、都合よく晴れてくれたために、月灯りが広がっていて意外と視界は広く確保できていた。
人は誰も居ない。穹の息遣いや足音が、遠くまで響いていくようにも錯覚するようだった。
昼になればうるさいくらいの車の音や子供の声が聞こえないだけで、夜の世界はガラッと雰囲気が変わる。まるで別の世界に迷い込んでしまったかのようだ。
世界に自分が取り残されたように思えて、後ろにいるカッツェの存在がありがたかった。
慎重に進んでいくが、公園にはすぐに到着する。
曲がり角からこっそり入り口を除くが、人はいなかった。代わりのように、入り口には黄色いテープが貼られている。
ドラマでしか見た事がないようなテープを見て少し感動しつつ、入り口付近には誰も居ないようで穹は安心した。
それでも周囲に気を配りながら、入り口に近寄っていく。中を覗いてみても誰も居ないようだったので、テープを潜って中に入る。
中に入ってすぐ、桜の木は目に入った。夕方の調査の為だろうか。昼間には無かったライトが複数置かれている。
木下の木の葉は多少片付けられているが、昼間と変わらず絨毯を広げている。そして女の子が引きづりこまれた場所はポーンが置かれていて、ここにも黄色いテープで囲われていた。
見た限りでは、警察の手が入った以上に変化は見られない。
ただ穹は感じていた。昨日感じた違和感は変わっていない。それも、テープで囲わている場所だけではなく、桜の木を中心として広い範囲で違和感が感じ取れた。
何かを待っているかのように、息を潜めているかのようだ。
その何かを、カッツェも感じているのだろう。不快感をあらわにしながら、周囲を見渡している。
「どうしよっか。とりあえず、辺りを探してみる?」
「そうだな。流石これじゃ、どこに居るか分からない。充分注意しろよ」
「分かった」
穹の提案に、カッツェは同意する。
何と無しに、穹は木の葉を余り踏まないようにしながら、辺りを詮索する。
ライトも同じくらいの距離に置かれている。高さは、穹よりもやや高いくらい。今は消されているが、全てが桜の木を照らすように設置されていて、それぞれからコードが伸びてどこかに繋がれている。電源が繋がっているのなら、すぐに使えそうだ。
振り返ってカッツェの様子を伺ってみる。穹と同じように木の葉を踏まないようにしながら、周りを探している。
何だか、縄張りを徘徊している猫のそのもののように見えて、穹は微笑ましい気持ちになった。
不意に、視界の前を何かが横切った。
釣られて見てみると、桜の花びらだった。
この一週間散らなかった花びらが落ちてきたのに驚いていると、続いて一枚二枚と数を増やしていった。
途端、穹に寒気が襲った。そして勘違いに気が付く。
昨日は確かに、木の葉の下に影は潜んでいた。だから、今も木の葉の下に潜んでいると思っていた。
だが今は夜だ。影なんてどこにでもある。
それこそ、木を覆てしまえるほどに。
「カッツェ、危ない!」
穹が叫んでカッツェが振り向くのと、それが動いたのは同時だった。
桜が吹雪のように舞い踊り、地面からは木の葉が蛇のように鎌首を持ち上げたのだ。
そのほとんどはカッツェに向いていて、巻き取るかのように襲い掛かる。
驚きで固まる穹の前で、カッツェは俊敏に動いた。体の小ささを生かして細かく動き、襲い来る花びらと木の葉を避けていく。
飛び交うのは花びらや木の葉とは言え、地面に叩き付けらる勢いは凄まじい物だった。自らの衝撃に耐えきれず、砕けている木の葉もある。
「穹! 今のうちにリングを起動しろ!」
そうやって避けながらも、固まって動けないでいる穹に、カッツェは激を飛ばす。
そこでようやく、穹は自分のやるべきことを思い出して、はっとして動き出した。
慌てて首から下げた指輪を取り出すと、輪っかに指を掛ける。
「お願い、力を貸して!」
『……ん』
穹が声を掛けると、無機質な風の声がそれに答える。
引っかけた指を引く動きに合わせて、指輪が飴細工のように伸びる。
チェーンから逃れるように引き延ばされた指輪は、風の動きに合わせて踊ると、穹の右腕に巻き付いた。
輝く金糸が落ち着くと、穹の腕に豪奢が腕輪が現れた。最後に、中央の窪みに翡翠色の宝石が嵌まると、穹は腕輪を振り抜いた。
起動に合わせて集まっていた風が振り払われと、穹の周りに控えめに風が漂うばかりになる。
「……あれ?」
起動が終わると、あの山の時のように全能感に包まれた。
だが、穹はそこで違和感を覚えた。
今感じている全能感が、山の時より弱いように思えたのだ。感覚は研ぎ澄まされ、今は公園の中を全て把握できている。木の葉の動き一つ一つまで読めとれるような気さえはする。
同じようで、少し違っている。感じ取れる感覚が鈍いように思えた。多少の誤差かもしれないが、全能感に浸れるからこその違和感だ。
だが、その変化を考えている暇などない。
穹が力を解放すると、木の葉の攻撃がすぐに穹に向かってきたのだ。
視界を埋め尽くすかのような木の葉の応酬は、正しく吹雪だった。その威圧感に、穹は足が竦みそうになる。カッツェはこの威圧感の中で動き回っていたのかと思うと、穹は感心してしまう。
止まっては居られない。穹は思いなおして、後ろに飛んだ。
やや冷静を欠いていた穹は思っていた以上に力んでいたようで、元々いた場所から二メートル以上は飛んでいた。木の葉の応酬からは逃れたものの、カッツェのようにスマートな動きとは言えなかった。
もちろん、その間にも木の葉の攻撃は続く。木の葉の量は増し、花びらも混ざっているその様は、さながら雪崩の様だった。
慌てながら、穹は動き回る。時々大きく飛んで避けながら、公園内を走り回る。
「カッツェ! これどうしたらいいの!」
試しに風を使って木の葉を振り払ってはみたが、崩れた先から木の葉が埋めてしまうために効果は薄かった。
まるで公園の中の木の葉全てを相手にしているような錯覚を覚えて、やや涙目になりながら穹はカッツェに助けを求める。
「今何とかするから、もう少し逃げてろ!」
少し様子を見ていたカッツェだったが、流石に危ないと思ったのか、穹の救援の声にすぐさに答えた。何かを探るように辺りを見渡してから、穹の視界からは見えない場所に走っていく。
どこに向かったのか気になった穹だったが、行方を気にしている余裕はない。
どうにかするというカッツェの言葉を信じて、今は避けるのに集中する。
風の力で身体能力まで高上しているのか、自分でも信じられないような速度で動き回っているのに、疲れたという感覚はない。
どちらかと言えば、雪崩のように迫る木の葉の威圧感に、精神の方が付かれているように思える。
何度も自分自身を鼓舞しながら、木の葉の応酬を避け続けた。
破れかぶれに、先ほどよりも強く風を飛ばして吹き飛ばしてみたが、結果は同じ。やはり隙間を木の葉が埋めるか、吹き飛ばされた木の葉が引力に引かれるかのように雪崩の中に戻っていく。
上手くいかない結果に辟易しながらも、徐々に穹は落ち着きを取り戻していた。
なぜなら、どうあっても迫ってくるのは木の葉だ。カッツェの動きをまねて避け続けているが、当たった所で大怪我はしないだろう。
そんな気持ちの余裕があったからこそ、少し待てと言うカッツェの言葉に素直に従っていた。
左右から迫ってくる木の葉の雪崩を、穹は大げさな動きを避けていく。少しは落ち着いてきたために細やかな動きになっていたが、やはりまだ荒々しい。
風の動きを無視して突き進んでくる木の葉は、風の動きを読める穹からすれば、かなり見やすい動きだ。
違和感が迫ってくると思ってその位置から動けば、その通りに木の葉が横切っていく。
囲われないように注意しながら、荒々しい動きではあるが、危なげなく穹は木の葉を避けていた。
それを続けてからしばらく、カッツェが動いたようだった。
桜の木を囲うように設置されたライト。その全てが、一瞬だけスパークしたように見えた。
不思議に思って穹がライトを見ようとした直度、夜の帳を引き裂くかのように、全てのライトが光を放った。
目を焼かれるかのような光量に思わず穹は腕で顔をかばった。
桜の木にスポットされたライトは、一瞬にしてその場を昼間のように照らし出した。
光に慣れた頃に穹が目を開くと、光を浴びた木の葉がひらひらと落ちていくところだった。所詮は影と言った所か。光に充てられて姿を保っていられなかったのだろう。先ほどまでの脅威が嘘のように、重力に従ってひらひらと落ちていく。
一先ずの脅威が無くなって、空はそっと一息つく。それでも警戒を怠らずに周囲を見渡していた。
視線の先、ライトから伸びるコードが集まっている所からカッツェが姿を現した。
更に奥を見れば、簡易な電源ボックスが置かれているのが見えた。
ここのライトの電源はそれで確保されているようだ。そしてカッツェはその電源ボックスを何かしら弄って、このライトをすべて点灯させたようだった。
やり方はさっぱり検討が付かなかったために、そういうものだと穹は割り切って、もう一度桜の木を見る。
木の葉は全て地面に落ち着いていて、今は桜の花びらがひらひらと舞い落ちているばかり。ライトに照らされて輝いて見えて、少し幻想的ですらある。
あの悍ましい『影』の姿は見えない。
ただ見えていないだけで、肌に感じる違和感は何も変わっていない。
「来るぞ」
近寄って来たカッツェが横に並ぶと、低く警告してくる。
言われてすぐに、穹は身構える。するとまるで狙ったかのように、対峙する桜の木に動きがあった。
地面に落下するばかりだと思った桜の花びらが、まるで生き物のように動き出したのだ。
まるで水の中を漂う魚の大群かのように、地面に落ちるかと思った桜の花びらが宙を踊り始めたのだ。
すでに落下した花びらを巻き込みながら、桜の木の周りを囲い始める。
その数が充分に溜まりまとまると、桜の花びらの大群は、餌に群がる魚のように穹達に向かってきた。
非現実な状況なのにどこか美しくもあって、穹はしばらく見入ってしまった。
そんな穹にカッツェが叫ぶ。
「何やってる! 下手に当たるな!」
言いながら、カッツェは穹から離れるように走りだした。無理に穹を動かせない上に、体が小さいがゆえにあんな大群に襲われてはひとたまりもないカッツェには当然の行動だった。
カッツェの注意に、穹は桜の花びらに見入るのを止める。
ただ、そこからの動きは緩慢だった。
桜の花びらの大群は、木の葉の吹雪に襲われるよりも脅威を感じられなかったのだ。
加えて、所詮は花びらだという油断もあった。回避行動はとる物の、当たっても大丈夫だろうと言う考えが頭の中にあった。
ここが、実戦に慣れていない一般人としての悪い所が出た結果だろう。
次の瞬間、カッツェの警告が正しかったのを穹は体感するはめになる。
「いった!」
カッツェとは反対に動き出した穹だったが、その左腕が桜の花びらの大群に呑まれた。
視覚的にはやはり脅威はない。桜の花びらが当たった所で触れる程度の感触しかないはずだ。
だがそんな穹の考えをあざ笑うかのように、鋭い痛みが呑まれた腕から伝わってきた。
痛みとしては対したものではない。ちょっとした痺れが走った程度であろう。
ただのその痛みが断続的に、しかも連続で来れば確かな痛みとなる。思わず穹は悲鳴を上げて腕を引き抜いた。
転がるように桜の花びらの大群から離れると、痛みの走った腕を見て、穹はその惨状を見て瞠目する。
大群に呑まれたのは肘から先の部分。なんと驚いたことに、着ていたパーカーの袖が刃物で切りつけられたかのように細かく切り裂かれている。
痛みが走ったのは手の甲の部分。そこも細かな裂傷がたくさん刻まれている。
怪我そのものはたいしたものではなく、血が滲み出ている訳でもない。小さな裂傷は、身近な所でいえば、紙の端で指先を切ってしまったかのような些細な物だ。
傷と言ってもそのくらいであるとは言え、桜の花びら程度で付く傷ではないのは確かだ。
「な、なんで」
「相手の攻撃を素直に受けるな! とにかく今は逃げろ!」
驚きで固まる穹に、再びカッツェの激が飛ぶ。
疑問を一先ず飲み込んで、今度は素直に穹は行動する。
やはり大群は穹を執拗に追いかけてくる。
その光景は先ほどと同じだった。大群となって押し寄せてくる桜の花びらを、穹は必死に避けていく。
今度は桜の花びらだけというのもあって、動きそのものは早くはない。加えて、ライトの光で更に動きが悪くなっているようで、避ける行為自体は難しくなかった。
ただ緊張感は先ほどの比ではない。怪我をするのが分かった以上、あの大群は見た目で侮ってはいけないのが分かっているからだ。
それに、ライトの範囲が思っているより狭いため、行動範囲が限られてしまう。
更に、桜の木に近いのもあって、不意打ちのように頭上から花びらが落ちてくるのでそれも警戒しないといけない。
ライトの範囲に気を付けながらも、向かってくる桜の花びらに触れないようにしながら大げさに避けていたのだが、予想外の事態が発生した。
「いっつ」
数回の攻防を繰り返した時だった。今度は右手に痛みが走る。
驚いて周りを見てみれば、視線のやや上の辺りを桜の花びらが舞っている。どうやら、頭上から降り注いだらしい。
頭上も警戒していた穹は、もちろん掠めてもいない。むしろ来るのが分かっていたからこそ、早めに通り過ぎていたはずなのだ。
なのに、ほんの少しではあったが、右の手の甲や袖の辺りに裂傷が走っている。
「どうしよカッツェ! 花びらに当たってないのに怪我したんだけど!」
慌てた穹は、更に回避行動を大げさに取りながら、カッツェに助言を斯う。
逃げるのに必死な穹は、この事態を冷静に考えている余裕はなかった。
大げさに動き始めた穹に合わせるように、桜の花びらの動きも激しくなる。
すると、穹に刻まれる裂傷の箇所が増えてきた。もちろん桜の花びらには当たっていない。
にも関わらず、パーカーに刻まれる裂傷の数は増えるばかり。幸い服を貫通するほどではなく、まだ肌は切られていない。
しかしいつあの痛みが切れもおかしくはない。下手に目に当たりでもしたら最悪だ。
急激に増した緊張感に、穹の動きも悪くなる。足ももつれるようになり、今にも転びそうだ。
そんな穹を、カッツェはジッと観察している。時折飛んでくる花びらを回避しながらも、原因を探っているようだ。
穹の助けを呼ぶ声も聞こえているだろうが、何よりもまず、原因を探っている。
穹が助けを求めてから数秒。穹がいよいよ転びそうになった頃になって、カッツェは何かを確信したかのように叫んだ。
「影だ! 攻撃しているのは花びらじゃない! 花びらの影だ!」
言われて、穹は動き回りながら足元を見る。
確かに、木の葉の絨毯の上には花びらの影が見えた。
これは確かに不自然だった。普段の花びらでさえ影が差すわけがないのに、今はライトで照らされているのだ。影が出るわけがない。
それを見た時、穹は思い知らされた。
そう、穹が戦うつもりだったのはあの『影』だ。木の葉や花びらに翻弄されて意識から飛んでいたが、あの形の『影』が全てと言う訳ではない。
影と呼ばれている通り、あの『影』も形を変えるのだ。
そうして桜の花びらの影に擬態するかのように操り、穹を攻撃していたのだ。
それなら穹が怪我をした理由も分かる。
桜の花びらが当たって出来た傷ではない。桜の花びらが通りすぎ、穹の上を通過したからこそ出来た傷なのだ。
だからこそ、頭上から降り注いだ桜の花びらの下を通過して、傷を負ったのだ。
「だからってそれはずるい!」
理解は出来ても納得は出来ない。無意味な抗議の声を出してから、穹は動きを変える。桜の花びらを避けるのではなく、その下をくぐらないように注意して、大きく動く。
幸い木の葉よりも風の動きに弱いために、風による吹き飛ばしで空間を作りやすい。向かった先に花びらがあると分かれば、すぐに風を操って道を作っていく。
ただ、影に吸い寄せられるようにして大群に戻るために、いつまでもこの攻防は続く。
この光量の中で動けるのならば、ライトを頼りにするわけにもいかない。今のところは、明確な打開策がなかった。
「怪我はしなくなったけど、これからどうすれば」
繰り返しの回避で落ち着きを取り戻した穹は、ようやく自分でも解決策を考え始める。
怪我はしなくなった。だがただそれだけで、状況はなにも解決していない。
このままでは、騒ぎを聞きつけた近隣の住人が様子を見に来るかもしれない。
そんな懸念を抱きながら、穹はカッツェを見る。
カッツェはまた黙り込んで、桜の木を見上げている。
まるでそこに何かがあるかのように、ずっと観察しているようだ。
その視線を追って、穹も桜の木を仰ぎ見る。心なしか、桜の木に入り込んでいる影が濃くなっているように思える。
もしかして。
濃い影を見つけた時、穹はふと思いつく。
例の『影』は花びらの影に擬態して攻撃してきている。
いくら数があるとはいえ、それが全てには思えなかった。だとすれば、どこかに本体があるはずだ。
その本体と言える『影』もまた、擬態しているとすれば?
するとその量は、あの桜の木を覆うほどではないだろうか。
なら、この桜の花びらを吹き飛ばすよりも、まずは本体をあぶりださなければならない。その為にはまず、操るための桜の花びらや木の葉を無くせばどうだろうか。
思いつき、穹はすぐに行動に移した。桜の木から大きく距離を取り、ライトの範囲からも離れる。そうすれば桜の花びらの大群も勢いを増して迫ってくる。
「カッツェ! 壁!」
充分に距離を取って、カッツェに向かって叫ぶ。
それだけで、カッツェは何をしてほしいか理解したようだ。その場で四肢を広げれば、カッツェを中心とした魔法陣のような物が展開された。
「大地よ、彼の者を守る盾と成れ!」
カッツェが言葉を紡ぐと、穹の足元が地震でも発生したかのように震え始める。
直後、穹の前方を守るように土の壁が競り上がった。
地面の揺れが無くなった頃には、穹の前方には、穹の背丈の倍はありそうな土壁が出来上がった。
桜の花びら程度で土壁が打ち破れるはずもなく、花びらが当たっているとは思えないような音は立てるものの、表面を削れるにも至っていない。
安全になったのを確かめると、腕輪の嵌められた腕を前方に突き出した。
「風よ、あの桜の花びらを全部吹き飛ばして!」
『わか……』
穹の言葉に風の声が答える。
立ち上がりは静かだった。穹の腕輪を中心に、風が流れ始める。
まずはそよ風程度で、穹の髪や服を揺らす程度だった。それも次第に強くなりはじめ、木の葉の絨毯を舞い上がらせ、周囲の木々さえ揺らし始める。
風の勢いは留まる事を知らず、その姿は正しく竜巻だった。
桜の木を中心に発生した竜巻は、木の葉の絨毯だけでなく、周囲の花びらどころか木に残っていた花びらでさえ吹き飛ばしてしまう。
時間にして数秒。花びらと木の葉は上空へと舞い上がり、桜の木には枝ばかりとなる。
「出たぞ!」
土の壁で視界が塞がられている穹には、その先の状況は見えない。
それをフォローするかのように、状況が変わった途端にカッツェが叫ぶ。邪魔になると分かると、足元の陣を消して力を解除する。
穹が動くよりも早く土壁が崩れると、木の下の様子が穹にも見られるようになる。
木の下には、見覚えのある『影』が佇んでいる。光の中にあっても形は崩れていないが、その異様さはよく分かる。
やはり目のようなものはなく、辛うじて顔と思われる部分や腕や足が判断できる程度だ。面長の顔は、どことなく犬を連想させる造りをしている。
「え、あれ?」
裏山ではよく見られなかった『影』を、今度はしっかり見られて穹は気が付いた。
なぜか、穹はこの『影』を知っているような気がしたのだ。
それは裏山でではなく、ずっと昔に。もっと子供の頃に見た覚えがある気がしたのだ。
ふと湧いた疑問だったが、考えている暇はない。穹と目があった『影』が攻撃を仕掛けてくる。
腕が鞭のように長く伸びると、穹に向かって振り下ろしたのだ。
向かってくる脅威に、穹はすぐに反応する。風がまた抜け道のように道を示してくれて、それが示す通りに穹は走り出す。
風を切り裂くように迫る鞭の一撃を潜り抜けると、右側からもう一本の腕が迫ってくる。
無理な姿勢で避けようとはせずに、穹は回り込むように右側からの攻撃から逃げていく。
ほぼ『影』の真横まで来ると、穹は一気に距離を詰めた。振り抜いた態勢のまま、まだ『影』は備え切れていない。
その隙を穹は逃さない。距離を詰めながら、穹は腕に力を込める。周囲の風が更に集まって、激しい音を立て始めた。
充分に風が集まった所で、腕を振り抜けば『影』に当たる距離までくる。内に浮かんだ恐怖と疑問を振り払うかのように、穹は腕を振り抜いた。
穹の腕が『影』にぶつかった瞬間、風が激しい音を立てて弾けた。
周囲のライトを数台巻き込んで、『影』は数メートル吹き飛んでいく。
地面を削りながら『影』は転がっていく。かなりダメージは入ったようで、裏山の時のように、体のあちこちが崩れ始めている。
そこで穹は改めて確信する。
あの山での戦いの時よりも、やはり力が弱くなっているように思えた。
ここが山ではないのも関係しているかもしれないが、あの時よりも力が弱まっているのを感じ取って、穹は意識を高めた。
「だったら、もっと、力を貸して!」
『……い』
穹が叫ぶと、腕輪が答える。
囲っていた風が勢いを増して、地面さえも削って砂埃を舞い上がらせた。
意識して高めた力は、あの山での時の同じように思う。そう感じた穹は、再び走りだす。
体を起こそうとする『影』に迫る。勢いのまま突き出した腕には、あの夜と同じように、削岩機と錯覚するかのような風が集まっている。
突き出した腕が『影』の体に触れる。見た目に違わない威力のまま、穹の腕に纏った風は『影』の体を一瞬で抉り取り、上半身と下半身に分断して吹き飛ばした。
ゆっくりと消えていく『影』の残滓を見送ってから、穹はようやく、一息付けたような気がした。
「お疲れ。あやうくボクも吹き飛ばされるかと思ったよ」
呼吸を整えていると、背後からカッツェが声をかけてくる。
どうやら、最初に花びらを吹き飛ばすために風を集めた時に、吹き飛ばしかけていたらしい。
振り返ってカッツェの顔を見ると、穹はようやく終わったような気持ちになった。
と言っても、大分疲労感があるために、今のまま力を解除したら、また倒れてしまいそうだ。
そんな穹を労うかのように、周囲に集まった風がそよいで、穹の髪の毛を優しく撫でていく。
気持ちよさそうに目を細めてから、穹は周囲を見渡した。力を解除するのは家に帰ってからの方がいいだろう。
ライトはほとんどが倒れて、夜空だったり桜の木の根元だったりを寂し気に照らしている。その桜の木も今は枝ばかりになっているがために、余計にそう感じられた。
何だか悲しい気持ちになった穹は、何と無しに桜の木に近づいていく。
違和感はない。いつもの桜の木を取り戻したかのように感じられたが、手が触れられるような距離になって気が付いた。
弱っている。
確信があったわけではない。何となくそう感じただけだ。
今目の前の桜の木は、命が終わろうとしている。
おそらく、『影』に寄生されていたせいだろう。時期外れに無理やり桜を咲かされていたがために、一気に寿命を削らされたのかもしれない。
それを思って穹は悲しくなった。自分がもっと何かをしていたら。もっと早く、この事態を解決出来ていたのなら。もしかしたら、この桜は救えていたかもしれない。
穹にとって、この桜は思い出深い存在だ。
毎日、通学路で見てた当たり前の存在。穹だけでなく、ここを通る学生にとってはとても大切な存在だったはずなのだ。
それだけではない。家族写真のアルバムを見返すとき、この桜の木は写っていた。
春の満開の時期には必ずと言って良い程訪れて、必ず一緒に写っていた大切な存在。穹の成長を見守ってくれた桜なのだ。
そんな桜の命が、今、消えようとしている。悲しく思わないはずがない。
「ごめんなさい」
そっと手を添えて、穹はまるでこぼすかのように、桜の木に向かって謝罪する。
答えはない。どころか、徐々に無くなっていく温もりが、触れた手からより鮮明に伝わってくる。
惜しむかのように、穹は額を桜の幹に充てる。
悔しい。なにか、今からでも自分に出来るのは無いのだろうか。
思いながら、穹はリングの嵌まった側の手を握りしめる。
分かっている。何も出来ないのは分かっている。でも、何かをしたかったのだ。
「……助けたい」
『分……かっ、た』
思わず穹の言葉。その言葉に、風の意思が答えた。
驚いて、穹は体を離してリングを見下ろした。
動きは穹が見ている中で進んでいる。淡い翠の光を纏った風がリングから溢れると、穹の全身を包み込む。
途端、穹は強い疲労感に苛まれる。気を抜けば意識を失ってしまいそうになり、耐えるかのように歯を食いしばる。
翠の光を纏った風はなおも動き続ける。触れたままの穹の手を伝い、今度は命を失いそうになっている桜の木を包み込んだ。
光は幹の全身を包み、枝の先までに到達する。神秘的に輝く桜の木を見上げて、穹は疲労を忘れて見惚れていた。
ドクンッ
脈動するかのように、翠色の光が一瞬強く輝いた。すると、まとわりついていた風が頂点部分から天空へと昇っていく。
……ありがとう
再び聞こえてきた、暖かくも優しい声。それが何かを考える前に、穹の掌の感覚が変わった。
冷たくなっていた幹に、温もりが戻ってきた。驚いて穹は数歩下がって、桜の木を仰ぎ見る。
見た目の変化はない。だが、その桜の木からは確かな生命の息吹を感じられた。
命を取り戻している。自分で何があったのかは分からないが、確かな感覚に穹は嬉しさが込みあげてくる。
「カッツェ! 桜が! 桜が元気を取り戻した!」
嬉しいさのまま、穹はカッツェを振り返って満面の笑みを浮かべて報告する。
直後、空が巻き上げた桜の花びらが舞いおりてくる。視界一杯を埋め尽くすかのような花びらは、まるで穹の行為を祝福しているかのようだ。
「穹、君は」
変わってカッツェの反応は鈍い。
祝福するわけでもなく、難しい顔のまま、穹をじっと見続けている。
そんなカッツェには気が付かず、穹は桜の花びらの中を嬉しそうに見上げていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!