薄暗い森の中、朽ち果てた廃神社を前にして、その少女の登場は唐突だった。
風の結晶を掛けて、高丘穹とエレノア=レディグレイは、廃神社の前で再び対峙していた。
お互いに最初から全力を出し切るつもりで、魔法の力を解放した。
一触即発。どちらが先に仕掛けるのか、探り合っている時だった。
穹の体に雑草が絡みつき、エレノアの周囲を金属の槍が囲い、身動きが取れなくなる。
驚きの中に現れたのは、真っ黒な少女だった。
腰を過ぎるほどの長髪も、全身を包む武骨なコートも、細い足に通されたズボンも、小さな足を包む靴も、何もかもが黒かった。
唯一素肌を晒している顔だけが、病的なまでに白く見えた。
小柄の印象なまま、その少女の顔立ちはとても幼かった。大きな瞳も黒く、小ぶりな鼻も、薄い唇も、年相応に見える。
その少女は現れたのも唐突だったが、その姿も異質だった。
揺らめく黒髪、武骨なコートの隙間。あらゆる場所から、炎があふれ出しているのだ。
その炎は少女を燃やすわけでもなく、少女を飾るかのように、轟々と音を立てながら燃え盛っている。
階段を昇り切った少女は境内に踏み込むと、雑草に絡まれた穹と、鉄の槍で囲まれたエレノアを一瞥する。
「ワシは、保護局のイゾルダだ。二人を自然の私的利用の疑いで拘束させてもらった。ここはワシが預かるゆえ、双方矛を収めて貰おうか」
イゾルダと名乗った少女は、妙に時代がかった口調で声を張り上げた。
緊張状態の中で現れたイゾルダに穹は反応出来ないまま茫然としていたが、エレノアは違った。
「保護局!」
イゾルダの名乗りに声を荒げると、手に持っていた炎の火力を上げた。
周囲を焼き尽くさんと広がった炎は、エレノアの周囲に突き出ていた鉄の槍を一瞬で溶かしつくしてしまう。
その火力に、流石のイゾルダも目を見開いて驚きを露にする。
自由を取り戻したエレノアは、一瞬穹に視線を向けるが、何も言わずに林の中へと駆け出した。
イゾルダが制止の声をかけるが、それを全く聞かずに林の中へと姿を消した。
位置が判明するのを防ぐためだろう。遠目にもエレノアの火は見えていたが、しばらくして、その火も消えてしまう。
追えなくもなかったのだが、この場には穹も居る。
明らかに風を纏っていた穹を重要視したイゾルダは、エレノアを逃がしたのを悔し気に思いながらも、一先ずは穹が居るのでそれで良しとした。
「随分と思い切りよく逃げたものだな。状況判断は的確と言った所かのう」
ため息一つ、エレノアの追跡を諦めたイゾルダは、視線を穹の方へと向ける。
状況を理解できないで固まる穹は、見たまま素人だろう。
そしてその足元には、こんな状況でも逃げ出さない奇妙な猫が一匹。
自身を観察するように視線をまっすぐ向ける姿に、イゾルダは少し眉を顰めるが、すぐに周囲を探すように視線を巡らせる。
しかしこれだけ待ってみても、とある人物は姿を見せなかった。
「ワシが現れてもあやつは姿を現さんか。そこまで慎重な奴でもないだろうに、さては、ワシの威厳に奴もとうとう恐れるようになったかのう?」
未だ現れない人物を思って、イゾルダは嘲るような笑みを浮かべる。
それはそれで面白いというように、一応警戒するように辺りを見渡していた。
「……久しぶりなのに、随分な物言いだな。言葉だけじゃなくて、頭の中まで耄碌したか?」
訝しむイゾルダに、声を低くしながらカッツェが声を掛ける。
もちろん、猫が喋ったと気が付かないイゾルダは、驚きで周囲にせわしなく視線を巡らせる。
「この声、カッツェか! ええい、どこにおる! 姿をみせい!」
「……おい」
「声はするというのに、姿が見えぬ。もしや、新しい魔術で姿をくらましておるのか?」
「おふざけも大概にしろ」
「……ん?」
困惑するイゾルダに、カッツェが一段と低い声で再び声を掛ける。
そこで違和感に気が付いたのか、イゾルダは周囲を見渡すのを止めて足元に目を向ける。
慌てていたので気が付かなかったのか、先ほどの猫が近寄っていた。改めて見ても奇妙な猫だった。
赤茶色の毛は妙に長く、その毛先だけが僅かに黒い。琥珀色の瞳は怯えるでもなく、まっすぐにイゾルダを見据えている。
イゾルダはそこで気が付いた。先ほどから聞こえてきた声は、妙に低い位置から聞こえてきた。
その声のした方を見れば猫が一匹いて、逃げるでもなく近寄ってきた。
まさか。そう思いながら、イゾルダはしゃがみこんで猫に視線を近づけた。
「おぬし、もしや、カッツェか?」
「ああ、そうだよ。久しぶりなのに、随分な挨拶じゃないか、ええ?」
「本当に?」
「くどい」
何度も尋ねるイゾルダに、カッツェが怒りも露に答える。
そんなぶっきら棒な物言いに、イゾルダは記憶にあるカッツェと印象が重なり始める。
よくよく見れば、その琥珀色の瞳も、全身の毛の色合いも、カッツェの特徴とよく似ている。
じわじわと、この猫がカッツェであると、イゾルダは理解し始める。
耐えられたのは、そこまでだった。
「く、ぶ、わっはっはっはっは! 何じゃカッツェ、その姿は! 猫のような奴とは思っておったが、まさか本当に猫になるとは! ワ、ワシを笑い殺す気か!」
暗い境内に、イゾルダの笑い声が響き渡る。
余程面白かったのか、カッツェを指さしながら、涙を浮かべる程に笑い声をあげていた。
笑われたカッツェは、その表情を消した。
カッツェだって、猫の姿になりたくてなったわけではない。屈辱的ではあったが、この世界ではどうにも出来ない為に仕方なくこの姿を受け入れていた。
周囲からは愛玩動物のような扱いを受け、普段の食事は飼育動物と同じものを与えれていた。
これも一時だと諦めて、仕方なく受け入れていた。
だが、こうして笑われる筋合いはなかった。
「シャアーーーーーー!」
我慢の限界を迎えたカッツェは、猫のような下手な叫び声をあげながら、イゾルダに向かって飛び掛かった。
一つ補足しておくと、穹は猫の飼育するにあたって、それなりの知識は調べていた。
ただしそれは本当に最低限であって、穹本人の扱いとすれば、余り猫の様には接していなかった。
なので、飼育動物に必要なメンテナンスをしていないのである。
猫だって代謝はある。つまり、日々を過ごしていれば爪が伸び、それを定期的に切らなければならない。
本来の猫であれば、自分の縄張り主張も込めて、爪とぎの行為をする時がある。それを防ぐためにも、飼い主は事前に爪を切らなければならない。
そんな猫の本能の行為をしないために、カッツェの爪は、普段は毛に隠れているがそれなりに伸びてしまっている。
そんな爪を、指を指して笑うイゾルダに向かって振り下ろしたのだ!
子供らしい膨らみはありつつも、白く美しいイゾルダの手の甲に、カッツェの爪痕がくっきりと残った。
割と本気だったのか、僅かに血が滲み出る程度には深く傷付けられていた。
笑い声を潜め、イゾルダは何が起きたか分からないと言った風に、自分の手の甲を見つめる。
血が滲んで流れ落ち、少し間を空けてじくじくと痛みが伝わってくる。
そんなイゾルダの目の前に着地したカッツェは、してやったりと言った顔で見上げている。
鋭くない猫の爪に引っかかれるのは、割と痛いのだ。
「い、いったああああああああ!」
今まで感じた事のない鈍痛に、堪らずイゾルダは悲鳴を上げる。
手を抑えて悶絶するイゾルダに、カッツェは満足そうに鼻を鳴らした。
「警部、申し訳ありません。逃げた少女は追い切れませんでした。カッツェの協力者の方は、いかがしました、か?」
イゾルダが悲鳴を上げてしばらくして、境内に、新たな人物が現れた。
スーツのような服を着た、背の高い青年だった。
逃げたエレノアを追っていたようだが、流石に追い切れなくなり、状況を確認するために戻ってきたのだろう。
そんな青年だったが、境内に足を踏み入れてすぐに言葉を失った。
手を抑えて蹲るイゾルダに、その前に居る何故か得意げな表情をする猫。そして雑草に絡まっている少女。
ちょっと見ただけでは分からない状況に、青年は首を傾げた。
「えっと、何があったのでしょう?」
理解が追いつかずに、青年は誰に尋ねるでも疑問を口にする。
そして捕まった当事者にも関わらず、ここまで完全に放置されていた穹は、そんな青年の疑問にそっと答えた。
「……いや、あの。それは私が聞きたいんですけど」
いざ戦おうとしたところに横やりが入った上に、すっかり忘れた穹は、雑草に絡まったまま肩を落とした。
とりあえず、逃げないからこの雑草を何とかしてほしかった。
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