運動公園に向かうのは、人が居なくなる夜を待ってからだった。
事前に三柴家には都合を話し、夕飯を食べた後はランニングに出てアヤメの家に泊まるのを伝えておく。
そしてアヤメには急な話ではあったが、今日は泊めて貰えるように頼んだ。突然の話に驚いた様子だったが、泊まりは歓迎だそうで、すぐに許可してもらえた。
すぐに迎えに来ようとしたが、穹は一旦それを断った。そして迎えに来る場所を例の運動公園にしたのを聞いて、何かを察したのか、深くは聞かずに請け負ってくれた。
アヤメの気遣いに感謝しつつ、準備を整えた穹は夜の道を走った。
山の上まで走っていくのは厳しいが、麓まで行く分には穹としてはいいトレーニングだ。
一定の呼吸を意識しつつ、リズムよく足を動かして走り続ける。後ろにはカッツェも続いている。流石猫と言うべきか、穹の足にも余裕で付いてくる。
住宅街を抜けて運動公園の山の近くになると、古い家屋が目立ってくる。誰も使っていないような廃工場もあって、夜の中での雰囲気は廃村のようでもある。
この辺りは緩いながらも勾配があって、ランニングの負荷としては調度良かった。
夜は肌寒かったが、走っている内に体が温まりちょうどよくなってくる。そうすれば走るのに集中するようになり、ささくれ立った気持ちが均されていくようだ。
無心になって走ること数分。一時間も経っていないだろうか。街灯が少なくなり、周りの風景が寂しくなったころに辿り着いた。
ペースを落として、ゆっくりと目的の場所の前で止まる。運動公園の入り口だ。
夕方頃になれば焚かれる看板の明かりも、人の居ない時間になれば消されている。周囲の雰囲気もあって、はた目には廃墟のようにもみえる。当然ながら、活気ある昼の時間とは雲泥の差だ。
乱れた息が落ち着くのを待って、穹は入り口を跨いだ。
緩やかな坂道だが、それなりに距離はある。半ばまで歩みを進めた時には、穹の息はまた上がり始めていた。
「水と言うのはな、死の象徴とされるんだ」
白くなった息を吐きながら歩いていると、不意に、カッツェが語り始めた。
「この世界でもそうだろう。三途の川は、冥府に続く巨大な川。仮にそれがおとぎ話だったとしても、現実的な話、自然の力で一番人の命を奪っているのは水の力だ」
穹は何も答える訳でもなく、カッツェの語りを聞きながら坂道を歩いていく。
「水は簡単に人の命を奪う。水害。水没事故。世界の七割は水で覆われていて、助けられている命もあれば、それと同じ位に奪われている命もある。だから人は水を敬うと同時に、同じくらいに水を恐れるんだ」
カッツェの語りは淡々としているが、まるで真理を語っているかのように真剣な熱を持っている。
あるいはこれが、これから始まる戦いの意味なのかもしれない。
「皮肉だな。人は水が無ければ生きてはいけない。無くてはならない大事な存在ではあるが、多すぎればそれは脅威となる」
穹は答えないが、カッツェは気にせず語りを続ける。答えなくていいから聞いていろと言うのだろうか。
「だから水は真実も映す。世界が青いというのを示すだけじゃない。人の心を映す鏡にもなるんだ。命を簡単に奪えてしまうからこそ、その事実を忘れさせない為に個人の闇を見せるんだ」
だから穹。
初めて名前を呼ばれ、穹は歩みを止めないまま隣を歩くカッツェを見る。
同じように歩いて、しかし視線は前を向いているカッツェ。その顔は無表情で、何を思っているのは読み取れなかった。
「呑まれるな。あの『影』は水の力を利用して、他者の弱い所を見せているんだろう。亡くしてしまった大切な存在を見せびらかして、相手を誘って食らうんだ。動けるなら結構。だが、怒りに任せて自分を見失えば、相手の思惑通りになってしまうよ」
「……うん」
再びざわめき出した心をたしなめられた様な気がして、穹は迷子になった子供のような面持ちで返事をする。
気持ちが再び落ち着かなくなったのは、例の噴水が近づいたからだろう。
駐車場には一台の車もない。施設の方からは非常灯の明かりが漏れている程度で、、シンと静まり返っている。申し訳程度に建てられた駐車場の外灯だけが唯一の明かりで、立っているだけでも不安になってくる。
意を決して、穹は運動公園を歩く。
吹き抜ける風の音が大きく聞こえ、穹の足音だけが公園に響いた。他に音が一切ない空間に響く足音は幾たびも響き、小さいはずなのに耳元で語り掛けているようにも思えた。
吸い込む空気が、一段と冷たくなった気がした。乾いて冷たい空気の中に草木の匂いが混じって、穹の鼻腔と肺を刺激てくる。
時折、夜に鳴く鳥の声が聞こえる。まるで穹を追い返しているかのようにも聞こえてきて、極力意識しないようにしながら目的地を目指す。
芝生の合間にある道に入ると、下の池はすぐに見えてくる。
昼間と違って、そこに一切の水は流れていなかった。公園の管理者達が話していた通り、水はすぐに止められたのだろう。
あちらこちらにはまだ水気があり、長年溜まった水藻が外灯や月灯りを跳ね返して、てらてらと輝いている。
周りに人口灯が少ないのも相まって、来る時には気が付かなかったが、月明かりが公園を良く照らしてくれている。昼間ほどではないけれど、思ったよりも公園内は暗くないのに安心して、穹はまだまだ進む。
上に続く階段が見えてくると、いよいよなのだと思えてくる。自然と息が早くなっているのを感じながら、慎重に階段を踏みしめた。
寒暖差で、階段の一つ一つが湿っていて歩きにくい。カッツェも不快に感じているのか、一段一段をゆっくりと上っている。
転ばないように気を付けながら階段を昇ること数分。時間をかけてゆっくりと上った先に、目的地である噴水のある池が見えた。
噴水の水は止まっていても、流石に一番上にここにはまだ水が残っていた。
大量の排水をしてしまうと、よそに迷惑が掛かる。特に今回は想定外の出来事だ。急ぎではあるが、慎重に進めなければならなかったのだろう。
今回はそれが有り難いと思えるのか、困ったと思えばいいのか、穹は複雑な心境だった。
浅くもなく深くもない水深の池は、何も映していなかった。不自然なほどに黒くて、まるでそこが闇に繰り抜かれてしまったかのようだ。
一段浅くなって水の無くなった池の縁に立って、穹は改めて噴水に目を向ける。カッツェの起こした地震の影響で少しヒビが入り、水の枯れた噴水は役目を果たせずに空虚に見えた。
いる。
直感で穹はその存在を認識した。噴水のある中央部分。そこに潜んでいる存在が、じっと穹を見つめているかのようだ。
怒りで再び体が熱くなるのを感じながら、穹は声を上げた。
「いるんでしょ! 隠れてないで出てきてよ!」
怒気を孕んだ穹の声が、静かな公園に響いた。呼応するように風が吹いて、触れられないもどかしさをぶつけるかのように、水面を揺らしていく。
答えは、少し待ってから表れた。
揺らされた水面が落ち着いた頃。水を吐き出さないオブジェとなった噴水の正面の水面が、不意に競り上がった。
影は二つ。それはゆっくりと人の形を作り、昼間にも見せた、穹の両親を象っていく。
やはりそうするのか。昼間と同じ手口に穹は更に怒りが増してくるが、カッツェに言われた通りに呑まれないように意識する。
大丈夫、まだ冷静だ。
自分に言い聞かせて、まずは一呼吸。けれど怒りは抱えたまま、穹は両親の影を睨んだ。
「ねぇ、そんなことして楽しいの? お父さんとお母さんを私に見せてさ、あんたは何がしたいわけ!」
両親の影に問いかけながら、穹は懐からリングを取り出した。
外気に触れた翡翠の宝石が、夜の公園の中できらりと光る。同時、穹の怒りを表すかのように、力を解放していないのにも関わらず風が集まりだした。
向こうから襲ってくるのならそれもよし。いつでも迎え撃てるように、穹は力を解放する準備を整える。
意に反して、『影』は動かなかった。不安定に揺れる両親の影を映したまま、じっと動かない。
長い沈黙。穹の周りの風が、一層強くなった時だった。
『影』が答える。それも、最大限穹の気持ちを踏みにじる形で。
「っ!」
穹が息を呑んだ。
おぼろげに両親の影が揺らいだかと思えば、二人の男女は笑みを作った。
昼間とは真逆。この世の醜悪をこれでもかと混ぜ込んだかのような、凶悪な笑み。目的の物を見つけたかと言わんばかりの、嬉しそうな笑みだった。
絶対に、両親が見せるはずもない笑み。
我慢の限界だった。
「ふざけるなぁぁぁ!!!」
穹の怒号が、夜の運動公園に響き渡った。
リングを引きちぎらんかの勢いで、穹は指輪に指をかけて一気に引き抜いた。
風はもはや嵐。芝生を引き抜かんかの勢いで風はあつまり、穹の左腕に光りと共に集まると、瀟洒な腕輪が巻き付いた。
「お、おい穹!」
慌てるカッツェの声も、今の穹には届かない。
荒ぶる風を纏いながら、穹は全力で走り出した。そこに戦いへの恐怖はなく、あの醜悪な笑みを浮かべる二つの影を倒すしか頭にない。
もちろん目の前には、まだ充分な水が溜まる池がある。このままでは昼間の二の舞だ。
力任せにでも穹を止めるべきだ。そう判断したカッツェだったが、行動を起こすよりも早く、穹が池に飛び込むのが先だった。
立ち上る水しぶき。しかし、穹が池に落ちる事はなかった。
「なっ!」
珍しく、カッツェが驚きの声を上げる。
穹は池に落ちていない。それどころか、水に触れてすらいない。
見れば、竜巻のように集まった風が足元に集中し、足場のようなものを形成している。
理屈は分かる。風が集まれば、人を浮かせるなど用意だろう。それこそ、中学生の平均的な体格の穹であれば、木の葉のように吹き飛ばせるに違いない。
だが、そんな無茶苦茶な力の使い方など、今の穹に出来る訳がない。仮に出来たのだとしても、相応の負担がかかっているはず。
穹の体がその負担に耐えられるとは思えない。
怒りが完全に、悲鳴を上げているはずの体の痛みを無視してしまっている。
「そんなふざけた顔を!」
人一人浮かせられる風を纏いながら、穹は池の上を走る。驚いたことに、全力で走る穹の足を追いかけるようにして、風の足場は常に移動を繰り返している。
叫びながら、穹は左腕を引き絞った。
集まる風の力は、今までの比ではない。集まる風の圧力に耐えられずに軋みを上げて、細かな傷さえも作っていた。
それでさえ、怒りに染まった穹には些細な話だと意に返さなかった。
「お父さんと! お母さんに! させるなぁ!」
偽物とは言え、目の前に居るのは両親だ。
躊躇いはないのか?
心は痛まないのか?
そんなマンガやアニメでもありそうな問いかけを一蹴するかのように、穹は全力で左腕を振り抜いた。
爆音。
公園中を震撼させるかのような音が響き渡り、周囲の水を一瞬で吹き飛ばし、あまつさえ離れた木々さえも揺らすほどの風が一気に解き放たれた。
当然、中心にいた穹の両親の影は一瞬で吹き飛んだ。すぐ後ろにあった噴水でさえも、軋みを上げて粉塵をまき散らすほどだ。亀裂も大きくなったようにみえる。
一瞬の静寂。直後には、風の余波で地鳴りのような音が響いてくる。
振り抜いた姿勢のまま、穹は正面を睨んだ。
水が無くなったために、『影』の本体が姿を現したのだ。爆心地に居た為に、その姿はすでに満身創痍。不定の体は、すでに崩れ始めている。
執念なのか、消えそうな体であるのにもかかわらず、『影』は迎撃の体制をすでに取っていた。
片腕を鋭い棒状に伸ばし、穹に振り下ろそうとしている。
きっと今までの穹ならば、恐怖でしり込みしていただろう。咄嗟に何をすればいいのか分からなかったはずだ。
だが、怒りに湧く穹に、そんな隙は無かった。
形成が不利だと判断するや、風を更に爆発させるようにして『影』との距離を取る。
突然の強風に『影』は体を煽られて姿勢を崩した。その間に、充分に距離をとった穹は逆に態勢を整えていた。
ここで一気に距離を詰めるような真似はしない。連続した風の爆発で力が霧散してしまっている。
あれを倒すのには、また力を溜める必要がある。
絶対に許せない『影』を、穹は容赦するつもりはない。
突き出した左腕に、右手を添える。めちゃくちゃな力の使い方で腕はボロボロだったが、動くのならどうでも良かった。
「お願い、もっと。もっと力を貸して!」
『……う、ん』
怒りのままに力を集めようとする穹に、風の意思の声は悲しそうだった。
それでも穹の願いを叶えるために、風の意思は再び風を集め始める。
周囲に散らばっていた風の流れが、一気に穹へと集約する。飛び散っていた水も、吹き飛ばされた砂も全て巻き込んで、一つの力となって穹へと集まった。
ある種の鎌鼬。集まった異物が一つとなって、巨大な刃となった。中心にいる穹だけではなく、周囲の地面でさえも、その刃はあらゆるものを傷つけていく。
まるで、それが今の穹の怒りだと言わんばかりだった。
自分さえも傷つける刃を振りかぶり、穹は再び走り出す。一歩を踏み出すたびに肌は避けて、僅かな血が風に吹き飛ばされていく。
ようやく『影』も態勢を戻したが、時はすでに遅かった。
眼前にまで迫った穹は、『影』が何かをするよりも早く、左腕を振り下ろした。
強大な刃は、巨大な獣の爪にでもなったかのようだった。たったの一振りで『影』を千々に引き裂き、細かな残滓にして夜の空へと吹き飛ばしてしまう。
勢いを殺しきれないまま、穹は池の反対側に躍り出た。威力の余剰はすさまじく、着地先の地面を引き裂くだけは飽き足らず、少し先に植えられた木々さえも数本なぎ倒したほどだった。
残心のようにしばらく姿勢を保っていた穹が、ゆっくりと体を力を抜いて立ち尽くす。
その頃には『影』の残心は闇夜に溶けて、その姿は欠片も見当たらない。怒りを向けるべき相手は、完全に消え去ったのだ。
全力で相手を叩き潰せて、気持ちが落ちくかと思ったがそうはならなかった。まだ気持ちにはわだかまりがあって、ぶつける相手が居なくなってむしろモヤモヤしているくらいだ。
結局、怒りに任せて飛んでもないことをしてしまった。
そんな自分が許せなくて、どうしてか両親に無性に謝りたくなって、色々な気持ちが飽和してくると、自然と涙が溢れてきた。
「あ、う。うぇ」
声を押し殺して泣いていていると、吹き飛ばれた水が、思い出したかのようにぽつりぽつりと落ちてくる。
水が自分を慰めてくれているように感じられて、余計に情けなくなった穹は、ついに我慢できなくなって声を出して泣き始めた。
「あああ。うああああ」
涙は際限なく溢れて、拭っても拭っても零れてくる。
その腕もボロボロで、自分で自分を傷つけたのが今になって怖くなって、余計に涙が止まらなくなる。
ずっと泣き続けている穹。静けさを取り戻した公園に、少女の鳴き声がこだまする。
そうして泣いている中で、穹には一つの決意が生まれていた。
これからも表れるであろう『影』の存在。自分を苦しめるだけでなく、周囲を巻き込むあの存在を、絶対に許さないと。
大声を上げ、大粒の涙を流しながら、心の片隅でそう決意したのだった。
そんな穹の姿を、カッツェは静かに見守っていた。
その顔は、どこか悲しそうだった。
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