風使いー穹-

風に愛された少女
村上ユキ
村上ユキ

第二章 その力は風。桜舞う秋

007 風の力

公開日時: 2022年9月19日(月) 18:04
文字数:11,852

 鳥のさえずり聞こえない、夜の深まった山の中。


 市街地からさほど離れていないこの場所に、突如、天を衝くのではないかと思う程の竜巻が発生した。


 轟音と共に風が吹き荒れ、木の葉を舞い上げて、木々を揺らしている。


 家屋も簡単に吹き飛ばしてしまいそうな規模と威力。生身の人間が近くに居れば無事では済まないだろう。中心地に居れば尚更だ。


 だが、その中心地に居る高丘穹は、茫然としては居るが特に被害を受けているようには見えなかった。


 竜巻が発生したのは、腕輪から舌足らずな起動の声が聞こえた瞬間だった。ため込んでいた力を解放出来た喜びを表現しているかのように、風は勢いを増して竜巻にまで発達したのだ。


 状況だけを見れば慌てるどころでは済まさないのだが、自分に危害を加えないと分かっているからか、落ち着ていて見ていられる。


 今朝見つけた指輪が、猫の付けていた翡翠の宝石と一つになったかと思えば、その直後には腕輪に変化した。


 そうして腕輪は自分の力だと表すかのように明滅を繰り返し、辺りに災害級の竜巻を発生させ始めたのだ。


 何がどうなっているかはさっぱり分からない。説明されても穹には理解の出来ない、何かが起こっているのだ。


 分かるのは、豪奢な左手の腕輪が、嬉しそうに光っていると言う事実だけ。


「お、おい。早くこの風を止めろ!」


 慌てたような声に、穹は思い出して視線を腕輪から外す。


 竜巻の中心地に居るのは穹だけではなかった。赤茶色の妙に長い毛並みに、足先だけが黒くなっている、風変わりな猫。


 悲鳴染みた抗議の声を上げたのは、まさにこの猫だった。


 未だに人の言葉を話す猫と言うのに慣れないが、確かに、この竜巻は止めた方が良いだろう。


「と、止めるって、どうやって!」


 強風の中で喋るのはとても苦労したが、ほとんど叫ぶようにして穹は聞き返す。


 何が起こっているのか、穹は全く理解できていないのだ。それをいきなり止めろなどと言われてもどうにか出来る訳がない。


「命令でもお願いでも何でもいいから、その腕輪に言えばいいんだ! お前の言う事なら聞いてくれる!」


 猫は必死に地面にしがみつきながら、穹と同じように叫ぶようにしながら訴える。


 実際、猫の方は限界が近かった。


 この竜巻を発生させているのは、あの腕輪の力であり、穹の力でもあるのだ。


 使用者である穹に被害が少ないのでは当然であって、むしろ守ってくれる力であるのは間違いない。


 だが、傍にいる猫にはその限りではない。一応加減はしてくれているのか、なすすべもなく吹き飛ばされてはいなかった。ただ、持ちこたえるのがやっとで、いつ飛ばされても不思議ではない。


 穹からしたらもっと詳しい話を聞きたかっただろうし、猫もそれは分かっている。


 しかしこの風の影響下の中でそれは難しい話だ。一刻も早く風を止めてもらわなければ、言葉を発するのさえ難しい状況なのだ。耐えているだけで、一瞬でも気を抜けば吹き飛ばされてしまうだろう。


 必死な猫の回答に、穹は諸々の疑問を抑え込んで、改めて腕輪を見つめる。


 金糸と翡翠が織り交ざる豪奢な腕輪は、今も明滅を繰り返している。まるで喜びを表しているかのようでもあり、どこか悲しんでいるようでもあった。


 漠然と、しかも説明のしにくい感覚ではあるが、この腕輪には意思があるような気がするのだ。


 まだ幼い子供が、久しぶりに会う友達を見て喜んでいるかのような、そんなあいまいで不思議な感覚。


 嫌な気持ちはなく、むしろ、こっちにも嬉しさが伝わってくるかのようだ。


 奥底にある悲しみが何なのかは分からないが、少なくとも、穹の言葉が全く伝わらないと言う訳ではなさそうだ。


 意を決して、穹は腕輪を自分に近づけた。風が吹いている感覚はあるが、穹には全く苦にはならなかった。


 右手で腕輪を握りしめると、そっと、胸元に添えた。心なしか、明滅が和らいだような気がする。


「お願い。風を、止めて」


 喜んではしゃぎ回る子供をなだめるように、穹は心を込めて懇願する。


 すると、変化はすぐに起こる。光りが一瞬強く瞬くと収縮し、即座に治まった。合わせて風も静かになり、解けるように散らばると、穹の周りにそよ風を運ぶ程度にまで落ち着いた。


 先ほどまでの竜巻が嘘であったかのように、周囲には再び静寂が訪れる。


 この頃になって、ようやく猫も体の力を抜いた。流石に、竜巻の中で耐えていたのは堪えたのだろう。大きく息を吐いて、安堵していた。


 風が治まって、穹は恐る恐ると言った感じに腕輪を確認する。


 光が治まった腕輪は、改めて見ても豪奢に思える出来だった。よくよく見てみれば、金糸には細かく文字まで刻まれている。


 これが先ほどまで指輪だったのだから驚きだ。宝石が組み込まれたのもあって、面影がほとんどない。


 さらに、変化は腕輪だけではない。穹にも、感じられるほどに変化が訪れていた。


「な、に……これ」


 信じられない、と言った風に穹は呟いた。


 無理もない。穹は今、自分の感覚が今まで以上に鋭敏になり、知覚範囲が広大になっているのだ。


 言うなればそれは、バスケをしていると稀に起こる、最大限に集中した時の全能感に近かった。


 震える自分の息遣い。猫の微かな呼吸音。そよ風に流されて揺れる髪の毛の動き。果ては、遠くで眠る動物の寝息。風に揺れる木の葉の音やその動きに至るまで。まるで自分の手足のように感じ取れるのだ。


 この感覚は広範囲に広がっていて、この裏山の中であれば、問題なく感じ取れた。


 まるで自分を中心に、このあたり一帯を支配しているかのような感覚。今までの比ではない全能感に、今なら、本当に何でも出来そうな気さえする。


 だからだろう。自分に新たに生まれた超感覚。広範囲に広がった視覚や聴覚、触覚に引っかかる、それに真っ先に気が付けたのは。


「っ!」


「うおっ!?」


 正しく、全能感に浸れていたからこその、咄嗟の動きだった。本能とも言うべき感覚に従って、穹は猫を抱えてその場から跳びのいた。


 直後、穹が居た場所を何かが激しく打ち抜いた。黒い帯のようなそれは、激しく地面を打ち据えて、傍にあった巨木を深くえぐり取った。


 直撃していたならば、怪我を負う程度では済まさない威力の一撃。黒い帯は外したと見るや、即座に引き戻された。


 飛びのいて着地した場所は、先ほどの場から数メートル離れている。自分でも信じられない跳躍力に驚きながらも、振り返り、引き戻された黒い帯の向かった先を振り返る。


 かくして、黒い帯を振りぶった『それ』を、穹は直視する。


『それ』は、黒い何かの塊だった。辛うじて、人型だと判断できる形状はしている。異様に長い手足。不気味なほどに細い胴体。頭部は、まるで犬を模しているかのように細くとがっている。


 腕と思しき二本の何かの内、右側だけが倍以上に伸びている。おそらく、先ほどの黒い帯状の正体はあれだろう。


 自身の感覚がおかしくなければ、穹が見ている『それ』は、生き物ではない。呼吸音が聞こえないし、そこに確かに存在しているはずなのに、ぽっかりと穴が空いているかのように存在感がまるでない。


 先ほど穹が察知できたのは、広がった感覚を引き裂くような違和感が迫ってきたからだった。ありとあらゆる空間を切り裂くように迫ってきた、ぽっかりと空いた空間。存在感がないという違和感がなければ、穹は全く気が付かないまま、あの腕に打ち殺されていたかもしれない。


 広範囲から伝えている情報から、目の前にいる『それ』が生き物ではないと、即座に理解した。


 存在してはいけない存在。正しく『それ』はそんな存在だった。


 得られる情報の矛盾と、視覚から得られる嫌悪感から、穹はすっかり委縮してしまっていた。


「な、なに、あれ」


 全く動けなくなった穹が、絞り出すように、ようやく疑問を口にする。


 ただ、だからと言って動けるようになったわけでない。


 転がった体勢からようやく上半身だけを起こして入るが、立ち上がれないままだ。冷えていく体は、温もりを求めるかのように、無意識に猫を強く抱きしめる。


「く、もう来たか。あれは何かは分からないが、とにかく『影』だ。今はまず逃げろ!」


 身動きの取れない猫は、腕の中でもがきながら、穹に逃げるように促した。


 あれを見て気を失わないだけでも称賛できるが、とにかく今はまずかった。


 今の穹の状態では、碌に『影』と戦えるはずもない。今はまず逃げて、二人で協力して事態に当たりたかった。


 そんな猫の思惑も、今の穹には伝わらない。


 必死で逃走を促す猫の言葉は聞こえているが、すっかり委縮してしまっている体は思うように動いてくれない。


 危ないのは分かっている。逃げないといけないのも分かっている。ただ、先ほど咄嗟に動いてくれた体は、あの『影』を前にしてすっかり固まってしまっていた。


『影』が一歩を踏みしめて、穹に近寄ってくる。


 来ないで。


 言葉にも出来ないまま、穹は内心で『影』に向かって懇願する。


 穹が恐怖で動けないのを察したのだろう。近づきながら、『影』はゆっくりとした動作で、伸ばした腕を振り上げた。いたいけな少女をいたぶるのを快感にしているかのように、その動作は酷く緩慢で、更に恐怖を煽ってくる。


 もしまた先ほどの一撃を向けられれば、今の穹では逃げられるはずもない。穹だけではなく、猫諸共なぎ倒されてしまう。


 事態を回避しようと猫はもがくが、やはり、しっかり抱えられている穹の腕からは逃れられない。


 無情にも、猫の必死の抵抗も虚しく、『影』は振り上げた腕を振り下ろした。緩慢な動作から放たれたとは思えない程、帯の一撃は速くて鋭かった。


 風を切る音を響かせて、黒い帯が穹と猫を襲う。


「っいや!」


 悲鳴を上げて、穹は左手を前に突き出した。全く動かない今の穹に出来る、決死の抵抗だった。


 これと言って考えがあったわけではない。何か奇跡が起きて、自分を守ってくれるかもしれない。そんな微かな可能性に縋った、咄嗟の判断だった。


 もちろん、その左手が特別な何かを持っている訳ではない。そのほっそりとした腕程度では、帯の一撃を止めれるはずもなく、諸共打ち砕かれるだろう。


 無意味な抵抗に、心なしか、『影』も笑みを浮かべているような気さえする。


 無慈悲な一撃を前に、左手を突き出した穹は目を瞑った。こんな抵抗が無意味であるのが分かっているから、せめて、あの帯が自分を打ち擦れる瞬間を見たくなかったのだ。


 バチン!


 穹が目を瞑った直後、突き出した左手の先で、何かの弾けるような音が響いた。


 それに、目の前まで迫っていたはずの黒い帯の一撃は、いつまでたっても来なかった。あの速度なら、もういつ来てもおかしくないはずなのに。


 疑問に思った穹は、恐る恐る目を開いた。そして、何度目か分からない驚きの事態を目の当たりにする。


「え、え?」


 突き出した穹の左手の先に、視認できる程に風が渦巻いているのだ。


 轟々と吹き叫ぶ風の勢いは、先ほどの竜巻に比類する。腕輪も光り輝いており、どこか必死なようにも思える。


 黒い帯はその風に阻まれていて、左手の数センチ先で停止している。『影』もどことなく驚いているような気がして、これ以上進めないのを物語っていた。


 ただ、驚いているのは穹も同じで、自分でも意図していない事態に戸惑っていた。


 しばらくして、突破は無理だと判断したのか、『影』は黒い帯状の腕を引き戻すと、忌々しそうに穹の出方を伺い始めた。


 風も、黒い帯が引き戻されてると、やり遂げたと言った様子で霧散する。


「えっと、今のも、君が?」


 驚きの事態で、逆に冷静になれた穹は、腕の中で抱きしめてた猫に尋ねた。


 不思議な魔法陣で地面を隆起させたのだ。もしかしたら、風も操って自分を守ってくれたのかもしれない。そう思っての質問だった。


「いや……あれは、お前の力だ。今お前は、自分で自分の身を守ったんだよ」


 けれど、帰ってきたのは、穹の予想とは違う答えだった。


 猫も納得できていない様子だった。それは猫が今この場で、一番状況を理解しているからだった。


 猫自身には、風を操る手段を持っていない。できるのは、精々土を操るだけだ。それも、普段からを考えれば、お遊びのようなレベルまで落ち込んでいる。


 なら穹が身を守れたのは、彼女の力を考えると、ほとんど無意識で風を操ったと考えるのが妥当だ。


 妥当、なのだが。しかし、それは常識では考えられない。


 素人の、しかも今力を行使できるようになったばかりの少女。知識も何もないはずなのに、あの『影』の一撃を受け止めるだけの力を咄嗟に引き出した。


 できるなら、じっくりと彼女の力を調査しなければならないだろう。


 だが、今はそれが出来る状況ではない。あの『影』が、穹が今以上の動きが出来ないと判断して、いつ攻撃を再開するとも限らない。


 ならば、やるしかない。


「で、でも。私、そんなつもりなんて全然」


 お前の力だと言われ、穹は戸惑うばかりだ。


 無理もない。自分はただ、怖いと思って咄嗟に左手を突き出しただけなのだ。そうしたら、体が少しだるくなって、突き出した手の先に風が集まっていたにすぎない。


 だから自分がやったわけではない。どこか言い訳がましく、穹は必死に弁明しようとする。


 ただ、こうして話している時間もついに無くなってしまった。猫と話し始めて一向に動かない穹を見て、ついに、『影』が動き出したのだ。長い帯状の腕を振り上げて、再び穹達に向けて振り下ろした。その勢いに、先ほどの油断はない。心なしか、鋭さも上がっているようにも思える。


 咄嗟に動いたのは、今度は猫の方だった。弛緩した穹の腕から抜け出ると、しっかりと大地を踏みしめる。そうすれば先ほど同じように、猫を中心とした魔法陣のようなものが展開される。


「大地よ! 我らを守る盾に成れ!」


 穹を背に『影』に向き直ると、再び小規模の地震が発生する。揺れと共に地面が動き、迫りくる黒い帯を阻むかのように、地面隆起して壁を作った。


 先ほどの繰り返しのように、土壁に黒い帯がぶつかった。だが、威力がまるで違った。土壁は頼もしく佇んでいると言うのに、黒い帯がぶつかると激しい音を立てて表面が削れた。一撃では破壊できないと理解している『影』は、即座に腕を戻すと再び土壁に向かって腕を振るう。


 一撃一撃が重く、確実に土壁の表面を削っている。裏側からでも分かる程に、大きな土くれが辺りに散らばっていた。


 見ているしかできない穹でも分かる。この壁は、先ほど以上に持たないだろう。じわじわと削れていく壁を見て、漠然とそう思った。


「こうなったら仕方ない。おい、お前があいつを倒せ!」


「え」


 突然の猫の言葉に、穹は返す言葉が見つからなかった。


 壁は更に削れて、次第に壁の向こうに居る『影』が見え始める。


 直線的な攻撃手段しかないなら、こうして見るにはまだ大丈夫そうだ。だが、こちらから攻撃を仕掛けるには、『影』の攻撃は余りにも鋭すぎる。


 手加減を辞めたらしい『影』の攻撃は苛烈さを増し、壁の向こうはさながら鞭の嵐だ。縦横無尽に黒い帯は飛び交っていて、壁だけではなく地面や周囲の木々も削っている。最早、これは黒い帯の嵐の様な物だ


『影』そのものの不気味さも相まって、穹はますます委縮してしまう。


「む、無理だよ」


「できなきゃお前が殺されるかもしれないんだぞ! なんなら、あいつはお前の友達の所に行くかもしれない。それでもいいのか!」


「あ、う」


 否定する穹の言葉を、猫は現状懸念される事態を交えて更に訴える。それによって、怯えていた穹の体に、少しだけ活力が戻る。


 殺されるのは嫌だ。死にたいなんて、これっぽちも思っていない。それでも、この体は動いてはくれなかった。


 だが、アヤメの名前を出され、今も寝ているだろう友達の姿を思い出した途端、穹には少ないながらも覚悟が芽生えた。


 今の穹にとって、アヤメを失うは耐えられない。多分、自分が死ぬよりも辛いと思える。


 なら、自分がやるしかない。ここで穹に頼むと言うのなら、猫には『影』を倒す手段がないのであろう。攻撃には転じず、あくまでも防御しているのがその証拠だ。


 だが、やるしかないと言っても、果たして自分に出来るか。あの黒い帯の嵐をかいくぐり、あの『影』を倒せるのか。


 自問自答してみても、穹にはやはり、無理だと言う思いしかなった。今も全能感は続いてはいるが、即行動に移せるかは別問題だ。


「はっ、はっ、はっ」


 死ぬのは嫌だ。アヤメを失うのも嫌だ。でも動けない。怖い。色々な考えが入り交じり、穹は過呼吸でも起こしたかのように、呼吸が短くなり早くなる。


 体は目に見えて震え、何かに縋りたくなり、左手の腕輪を握りしめた。


『だい、じょう、ぶ』


 恐怖から目眩を起こし始めたころ、穹の耳に、気遣うような優しい声が聞こえてきた。


 まだ呼吸を震わせながらも、穹は握りしめた腕輪を見下ろした。


 声はそれ以上聞こえてはこない。けれど、腕輪は淡く輝いており、穹を慰めているかのように思えた。あたかも、穹は自分が守るとでも言いたげだった。


 光に充てられて、穹の体の震えは次第に小さくなり、体も少しずつ温かくなってくる。気分が落ち着いたためか、ループする思考も正常になって、どうすればいいかを考え始める。


 まだ恐怖はある。倒せるかどうかも分からない。


 でも、一人じゃない。見た目はこんな腕輪だけれども、その向こうに、自分を見ていてくれる誰かを見た気がした。


 体の震えがなくなると、改めて覚悟を決めるかのように、穹は大きく深呼吸した。


「私を、守って、くれるんだよね?」


 確かめるように、穹は腕輪に向かって尋ねた。


 返事はなかった。今は声を出しにくいのかもしれない。だから返事の代わりに、腕輪はひと際輝いて答えた。


 任せて、と。穹を安心させるかのようにも見えた。


 なんとなくそんな気がして、穹は口元に笑みを浮かべる。なら、思うようにやってみよう。大丈夫。自分を守ってくれる、誰かが居る。


 それなら、やれる!


「やってみる!」


「崩れるぞ!」


 穹が覚悟を決めて言うのと、壁が崩れるのは同時だった。


 細く頼りなくなっていた土壁が崩れ、その向こうで、『影』がまた腕を振り下ろそうとしている。


 自分の身を守る盾が無くなり、猫はすぐにその場を飛びのいた。その横を、なんと穹は『影』に向かって一直線に駆け抜けた。


 今の今まで震えていたとは思えない、しっかりした足取り。地面を踏みしめて、一気に『影』に向かって距離を詰める。


 その速度は、一歩二歩と加速し、すぐに人の出せる速度ではなくなった。まさに一陣の風。全身に風を纏った穹は、まるで風になったかのように走る。


「勝負だ!」


 ゲームの試合でも叫ぶ、穹が覚悟を決めた時に自然と出る言葉。口にすると、自然と体から力が沸いてくる。


 振り下ろされた黒い帯は、まっすぐ穹に向かってくる。その勢いは、まるで穹を両断しようとでも言うようだった。


 心に、また恐怖が浮き上がってくる。だが、今はその恐怖に負けて体を止めてはいけない。少しでも弱気になったら、また動けなくなるような気がした。


 だから穹は、腕輪から聞こえた声に、全力で身を任せた。守ってくれると言った言葉を信じて、足を止めない。


 すると、空間を切り裂いて迫る黒い帯の周りに、風の流れの様な物が見えた。漠然とした感覚だが、そこを通れば安全だと、穹は瞬時に理解する。


 これが間違いないのなら、信じて進むだけだ。穹は走る速度を緩めないまま、身を低くして、風の流れに乗って走る。


 すると鋭く振り下ろされた黒い帯は、面白い位に軌道を変えて、穹の頭上をかすめて明後日方向へと流されてしまった。


 一瞬、『影』は驚いた様子を見せた。しかしすぐ様、振り抜いた体勢から横凪ぎに切り替えて穹に向けて追撃を放ってきた。


 前しか向いていない穹に、『影』の腕の動きは見えても、黒い帯がいつ向かってくるかは分からない。腕の動きと連動していない黒い帯の動きは、見ていなければ捉えられないだろう。


 だが、穹には見えなくても、風が教えてくれる。横合いから風が再び流れてきて、どこに逃げればいいかを教えてくれる。


 また潜り抜けたい所ではあったが、穹は姿勢を低くしている。加えて、横凪ぎの一撃は下から救い上げるように迫ってくるため、潜るのは無理な話だ。


 短く息を吸い込んで、穹は足に力を込める。迷いはない。体はようやくいつもの感覚を取り戻し、全能感も相まって、穹にさらなる自信を与えてくれる。


 今なら、なんでも出来る。


「りゃあ!」


 風から伝わる危険信号に従って、穹は飛び上がった。動きは一種の曲芸。まるで背面飛びかのように体を捻りながら、迫ってきた黒い帯の上を飛び越えた。


 体の下を黒い帯が通り抜けるのを感じながら、這いつくばるようにして地面に着地。しかし止まらない。再び足に力を込めて走り出す。


 距離はもう離れていない。目の前にはすでに、『影』が立ちすくんでいる。


 異様なその姿は、近くで見るとますます気味が悪かった。異様に背丈が高く、三メートルはあるかもしれない。黒い粘土を無理やり捏ね固めたような表面をしていて、表情が読めず、その矛盾した存在も相まって、更に嫌悪感が高まってくる。


 倒せるかは分からない。がむしゃらに近づいてはみたが、穹は自分に何が出来るかを未だ分かっていなかった。


 でも信じここまで来た。穹が全力を振り絞れば、風は堪えてくれるだろうと。


「お願い!」


『う、ん』


 だから穹は再び願った。すると、今度は腕輪から返事があって光り始めた。光が強くなるのに合わせて、風が集まり始める。


 集まり始めた風は勢いを増し、穹の左腕に収束し始める。穹の全身を激しくはためかせるだけではなく、その下の地面を抉る程だった。


 まるで削岩機。ガリガリと地面を削りながら、風はまだ勢いを増していく。


 十分に風が集まると、踏みしめた足で地面を蹴り、勢いと共に穹は左手を突き出した。


『影』は咄嗟に左腕を差し込んで盾にしようとしたが、その程度で風の一撃を止められるはずもなかった。風の勢いに負けて『影』の左腕は半ばから吹き飛び、無防備となる。


 がら空きとなった胴体に、空の左手が触れる。風は無数の刃のように『影』の肉体を削り、穹の倍以上はある体躯を吹き飛ばした。


 吹き飛ばされた瞬間、『影』の体は半分がはじけ飛んでいた。重力を無視して真横に吹き飛んだ『影』は、背後にあった木に激しく体を打ち付ける。その勢いに、辛うじてつながっていた左足が吹き飛び、最早満身創痍だった。


 体もじわじわと崩れ始めている。もう間もなく消えるのだろうと思われたが、死に際の抵抗なのか、『影』は顔を穹に向けると、未だに無事である帯状の腕を振るってきた。


 対して、穹は自分の放った一撃に驚いたまま、拳を振り抜いた姿勢のまま固まってしまっていた。失敗に気が付いた時には、目の前に黒い帯の一撃が迫っている所だった。


「大地よ! 彼女を守る盾と成れ!」


 飛び上がったまま固まる穹を助けたのは、そんな猫の鋭い声。事の成り行きを見ていた猫だったが、死に際の一撃を『影』が放ったとみるや、即座に穹を守るように土の壁を作り出す。


 瞬間的に作り出したわけではないため、そこまで大きな土壁ではなかった。だが、死に際の一撃を止めるのには充分だった。黒い帯の一撃は、現れた土壁に阻まれて、穹には届かない。


 猫に助けられたと分かってから、穹の動きは速かった。死に際の一撃とは言え、あれが最後とは限らない。何より、自分に伝えてくる感覚が、油断するなと訴えかけてくる。


 ならば止まっては居られない。着地するやいなや、即座に走り出す。


 風を纏い、猫の作り出した土壁を足掛かりに、穹は高く飛び上がった。


「これで!」


 数メートル飛び上がった穹は、空中で再び左手に力を込める。


 合わせるように腕輪が輝いて、穹の左手にまた風が集まり始めた。


「おしまい!」


 先ほどの一撃と同等の風が集まると、穹は落下の勢いと共に再び左手を突き出した。


『影』も何かしら抵抗しようと動き始めたが、その動きは酷く緩慢で、何かをするより先に穹が先に到達する。


 巨体を吹き飛ばすほどの一撃が、『影』に逃げる余地なく突き刺さった。胸元に触れると、そこを中心に嵐を巻き起こし、『影』の体を一気に削り崩した。


 崩れ始めた『影』諸共地面を抉り取り、ちょっとしたクレーターを作り出す。


「やった。わ、だ、ちょっ!」


『影』が跡形もなく消えると、穹は知らず知らずの内にこわばっていた体の力を抜いた。


 初めて、実戦と言う物を経験したのだ。動けただけでも称賛されてしかるべきであろうし、かつ、相手を倒すのに至ったのだ。終わったと見るや、安堵してしまうのも無理はない。


 ただ、タイミングがいけなかった。穹の放った風の一撃は、『影』を吹き飛ばした挙句に、地面を削るほどの威力があった。


 当然、そこまでの風力があれば、穹の体を浮かせるのには充分だ。最後の一撃を放った時、穹の体はしばらく空中に浮いていた程。


 なのに、そこで力を抜いてしまえばどうなるであろうか?


 意気込みだけで力を使ったため、実のところ、穹はまだ風の制御を意識的に上手く使えていない。ほとんど腕輪の声をあてにしていたため、維持だけでも精いっぱいといった有様だった。それさえも、極度の緊張の中でようやくできたと言った程度である。


 緊張も消え、安堵して体の力を抜いてしまえばどうなるのか。急に意識して風を操ろう等と出来るはずもなく、穹が扱えなくなった風は、そこに留まる事を良しとせずに解けてしまった。


 支えを失い、空中に居た穹に抵抗するすべはなかった。


 あたりに散らばった風にあおられて、背後に飛ばされてしまう。


 突然のことに穹はなすすべはなく、そのまま地面へと落下してしまう。幸い、大した高さではなかったので怪我はないが、受け身も取れずに背中から地面に落ちた。


「ふぎゃ!」


 背中からもんどり打った穹は、奇天烈な悲鳴を地面に倒れた。


 幸い痛みもなく、すぐに起き上がれる。しかし、穹は地面に転がったまま、しばらく茫然と夜空を見上げていた。


 未だに続く高揚感。耳にはうるさい位に心臓の音が響いている。


 初めての実戦。未だに実感は湧かないが、自分に殺意を向けてきた謎の存在を返り討ちに出来た。達成感はあるかもしれないが、やはりそれにも実感はない。


 ただ、体が熱かった。妙な倦怠感もあって、背中から伝わる地面の冷たさが心地いい。


 静けさを取り戻した森の囁きを聞きながら、吸い込まれそうな夜空を見上げていれば、ようやく今の自分を実感できた。心臓がバクバクと激しく鼓動し、まるで耳元でなっているかのようだ。


 視線を転じて左を向けば、左腕にはいまだに、豪奢な腕輪が輝いている。


 思考は未だにまとまらない。何があったかも、自分が何をしたかも分からない。本当に分からないだらけだ。


 はっきりしているのは、この輝く腕輪と、喋る猫が居ると言う、不可思議な現実だけだった。


「やぁ。命拾いした気分はどうだい?」


 ぼんやりとしていると、反対側から声がかけられる。


 振り向けば、妙に毛の長い猫が穹を見下ろしている。綺麗な琥珀色の瞳が、好奇心を隠さずに穹を見つめている。


 なんだかおかしくなって、穹は苦笑いを浮かべた。


「すっごい疲れた」


「はは、上々。初めて力を使ったんだ、そうなるのも当然さ」


 今の心情を正直に告げると、猫は呵々と笑う。何とも粗雑で、先ほど穹に決死の覚悟を促したとは思えない。


 ただ、穹にはそんな猫の態度が心地よく感じられた。


 きっとこの猫は、とても自己中心的だ。自分の都合を優先して、労わるなんてしない


 だから、穹はたまらなく嬉しいのだろう。着飾らなくていいのだと、自分のやりたいようにすればいいのだと、言外に伝わってくる。


 きっとこの猫相手になら正直になれる。そんな気がした。


「それはそうと。ここで寝るのは止めはしないけど、あの家に戻らないかい? 今その力を解除しちゃうと、帰るどころか、まともに歩けなくなると思うよ」


「え、ああ。そうか」


 話題を変えて帰宅を促す猫に、穹は少し考えてから納得する。


 未だ、穹は全能感の中に居た。少し意識するだけでも、この山全体を把握できる。


 なのに、この倦怠感だ。猫の言うように簡単に力は解除できると思うのだが、その後どうなってしまうのか分からない。


 そして把握して気が付いたが、穹が今いる場所は、アヤメの家から大分離れている。ほとんど、山の頂点を挟んで反対側だ。よくもまぁ、意識しないでここまで走ったものである。


 そうなると、力を解除してから歩くのはかなりの重労働だ。猫の言う通り、帰るどころか歩くのも大変になるだろう。まさか、猫に背負って貰えるはずもない。


 納得して、穹はゆっくりと立ち上がる。倦怠感もそうだが、戦闘行為でかなり疲弊していたらしい。立ち上がっても、両の足は微かに震えている。


 本当に、全力で走った後の様だった。普段ならこれ以上の運動はしているはずなのに、疲れはそれ以上だ。


 なんとなく恥ずかしくなって誤魔化し笑いを浮かべてから、穹はゆっくりとした足取りで、アヤメの家に向けて歩き出した。


 まるで亀のようにゆっくりとした足取りに、後ろに続いた猫がからかいの声をかける。


「はっは、まるで生まれたての子猫みたいじゃないか。そんなんじゃ、日が明けちまうよ?」


「うるさいな。だったら首でも加えて連れてってよ。凄い疲れたんだから」


「その時は地面を耕しながら進むね。ここの山は手つかずみたいだし」


「絶対に嫌だ」


 それを穹は、ちょっとムキになって返すのだった。


 これがこの猫のなりの励まし方なのだろうなと、少しすれしく思いながら。



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