風使いー穹-

風に愛された少女
村上ユキ
村上ユキ

第十章 風と闇の決着

第54話 少女の恐怖

公開日時: 2023年10月1日(日) 20:49
文字数:3,452

 高丘穹が異世界に渡り、驚きの事実と共に初恋を散らした頃。


 エレノア=レディグレイは、暗い山の中を走っていた。息を切らし、枝葉で体のあちこちを傷つけながらも、その足を止めることはなかった。


 その顔は苦渋に歪んでいた。


 山の中を走って息切れを起こしたというよりも、何やら後悔しているようだった。


 それもそうだ。


 エレノアは、今日、穹と決着をつけて風の結晶を回収するつもりだった。


 不完全な契約にも関わらず、粘りのある抵抗を続けた穹。そんな穹を助けるように、上手くフォローしていたカッツェ。


 穹達が思っているよりも、実の所、エレノアには余裕はなかったのだ。予想よりも抵抗されしまい、慎重にならざるを得なかったのだ。


 それでもエレノアは対策を考え、幾度かの交戦を行って二人の手の内も大方掴めた。


 意外な実力を見せた穹には驚かされたが、冷静に対処すればどうというレベルではない。カッツェも、猫の姿になっていて、本来の実力を発揮できない状態だ。


 ゆえに、今日は確実に勝てると踏んだ。何やら穹の方にも自信があったようだが、それも打ち砕いて見せると、エレノアは覚悟を持って呼び込んだのだ。


 だが、時間がそれを許してくれなかった。


 保護局がいずれ介入してくるのは目に見えていた。それでも、まだ時間はかかると思っていたし、来たとしても大した保護局員ではないだろうと踏んでいた。


 こんな科学の発展した世界だ。伝手も心許ないだろう。まずは調査として保護局員を把握するはずだ。


 しかしその考えは甘かった。


 予定よりも早くに保護局員は現れ、しかも派遣されてきたのはあのイゾルダだった。


 こうした活動をしている手前、エレノアも脅威になりそうな保護局員に関しては調べを行っている。


 その筆頭とでも言うのだろうか。三種の自然を操る、荒事専門といえる使役者、イゾルダを知っているのは必然だった。


 魔力量もそこそこあり、三種の自然を巧みに操るのは脅威としか言いようがない。


 闇の力を使ったとしても、単純な使役者の力量ならエレノアよりも上手かもしれない。


 それに姿は見えなかったが、もう一人、イゾルダの部下と思われる別の保護局員を忍ばせていたようだ。


 咄嗟に逃走をしたエレノアだったが、そんなエレノアを追いかける誰かがいたのだ。振り切るためにも、エレノアは相当の体力を使ってしまった。


 そんな二人を相手にしながら、高丘穹とカッツェ=ローキンスを相手取れるなど、エレノアは自惚れてはいない。


 たとえ不本意だとしても、あそこで逃走を選択したのは間違いなかった。


 捕まってしまっては元も子もない。一度態勢を立て直さなければならない。


 しかし態勢を立て直すと言っても、今のエレノアに取れる手段は少ない。下手をすれば、父親に助力を請わなくてはならないかもしれない程に。


 それが、エレノアが悔しんでいる理由だった。


 己の失態ゆえに風の結晶を盗まれたというのに、父親は許してくれ、挽回する機会まで与えてくれた。


 なのに自分は、その機会をみすみす逃がしてしまった。


 慎重を重ねすぎた。堅実すぎた。


 この世界の事情など気にしないで、カッツェが猫の姿になっていて、本領を発揮できないと知った時に強奪すればよかった。


 あの河川敷での戦い。あの時に見過ごしてしまったのが、そもそもの間違いだったのだ。


 あと一歩。闇の力を行使してから、すぐに奪ってしまえばこんな事にはならなかったろうに。


 走りながらいくつもの可能性を思い起こして、エレノアは歯噛みする。


 枝葉を押しのけ、地面に転がる石を蹴飛ばし、体にいくつもの傷を作りながらも、エレノアは山の中を抜けた。


 出てきたのは、高丘穹が通っている学校の校庭だった。


 周囲には安全対策のためか、校庭を囲うようにして金網が建てられている。


 行く手を阻む金網を見上げて、エレノアは周囲を見渡すと、通り抜けられそうな場所を探す。


 幸い、緊急事態を想定しているのか、金網の一部には扉が取り付けられている。


 劣化が激しくなっており、錠前は取り付けられておらず、閂も外れた状態で動かなくなっていた。


 錆で硬くなった扉を、エレノアはゆっくりと押し開けた。静まり返った校庭に、錆と金属が擦れる不快な音が木霊する。


 ようやく通り抜けられるくらいにまで扉を開けると、エレノアは体を滑り込ませた。


 息を整えながら背後を確認するが、どうやら追っては来ていないようだ。


 安堵しつつ、エレノアは近くにあった木材に腰を下ろした。


 時間は限られているが、今は腰を落ち着かせて考えたかったのだ。腰かけた木材は僅かに湿気を帯びていて、服がわずかに湿ったが構いはしなかった。


 不愉快な感覚に顔をしかめながらも、エレノアは考えを巡らせる。


 保護局が現れた以上、風の結晶の奪還は非常に困難な物となった。


 高丘穹とカッツェ=ローキンス、この二人だけならばまだなんとなった。


 もしくは、仮に現れたのが保護局員であったとしても、名もない保護局員であったのならどうにかする自信があった。


 まさか、イゾルダが現れるとは思いもしなかった。


 カッツェが関われば出てくる可能性もあったが、まさかこんな科学の発展した世界にまで現れるとは予想外だ。


 最も警戒していた保護局員であり、解決した事件は星の数にも及ぶ。その中で、カッツェに関わる事件には積極的に操作にあたっていた。


 あるいは、未だにカッツェ=ローキンスを逮捕しようとする、数少ない保護局員かもしれない。


 そんなイゾルダに風の結晶が保護されてしまったとなれば、エレノアの手に余る事態だ。


 たとえ、エレノアが第二循環の力を使えるとしても、それは絶対に有利だという保証にはならない。


 力の優位を持ったとしても、優秀な使役者が複数相手では勝てる見込みはない。回収されたのが本拠地となればなおさらだ。


 ならば、どうにかして風の結晶をこちら側に持ってこさせなければならない。


 エレノアに取れる手段等そう多くはないが、何とかしなければならない。


 敬愛する父親の手を煩わせないためにも、父親の夢を叶えるためにも。


 焦りから冷や汗をかきながら、エレノアはその手段を模索する。


『我が娘よ』


「っ! 父様」


 思い悩むエレノアに、不意に声が聞こえてきた。


 声の正体をエレノアはすぐに理解する。


 普段から聞く機会が少ないとはいえ、父親の声を聴き間違えるはずもない。


 エレノアが驚いたのは、大切な人の声が聞こえたからではなく、エレノアに直接語り掛けてきたからだ。


 父親とは、そのほとんどを間接的なやりとりでしか交流がない。


 エレノアに行動を指示するときには、手紙などがほとんどだった。声で直接指示をされたのなんてほぼないと言っていい。


 声による直接の指示もないわけではないが、それはエレノアの行動が予定と違っていた時の微調整くらいなもので、会話としてではなく、端的な指示のみとなっている。


 つまり今この時、エレノアに直接声をかけて来たのは、父親にとって都合が悪い事態になっているという証左だった。


 声を掛けられ息を飲むエレノアに、エレノアが父様と呼びかけられた声の主はそのまま言葉を続ける。


『まだ時間はあろう。手を加える。取り戻せ』


「それは!」


『合図と共に行動せよ』


「……はい、父様」


 短い指示のみ。エレノアが声をかけようとしても取り付く島もなく、これで終わりだと言うように、通話が切れる感覚がした。


 もう声が聞こえないのだと分かると、エレノアの胸中には寂しさが募っていく。


 しかし同時に嬉しくもあった。


 久しく聞けなかった声を、聞くことが出来た。


 短い言葉ではあったけれど、声をかけられたのに、エレノアは喜びを感じていた。


 そうすれば、焦りもどこかに吹き飛んでしまう。


 また見捨てられてしまうのかと思った。けれどそうではなかった。


 きっとあの人には、エレノアの失敗など些事でしかないのだろう。


 少々の軌道修正のみでどうにか出来てしまう。その程度の出来事でしかない。


 それも、目的の達成が目前にまで迫ったからだろう。


 雌伏の時ではない。目立ってしまうのを気にしなくていいほどに、間近に迫っているのだ。


 もしこれで父親の目的が達成されたのならば、もっと自分を見てくれるかもしれない。そんな思いがあればこそ、エレノアは頑張れる。


 震える手を抑えるように、エレノアはそっと自分の手を握り締める。


 その口元が怪しい笑みを作る。泥沼の底で光りを見つけたかのような、危うくもあり、美しくもある笑みだった。


 それに合わせるように、雲間から除く欠けた月も怪しく微笑んだようだ。


 そして、世界から色が消えた。


 まるで世界が止まってしまったかのように。

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