クッキーが焼き上がり、穹はその出来栄えを確認する。
砂糖が多くなったし、お店のオーブンを使ったのもあって焦げないか心配だったが、焼き上がりは満足のいく出来だった。
熱くなったトレイに触らないように注意しながら、クッキングシートを滑らせるようにして、クッキーをテーブルの上へと広げる。
粗熱を取りながらも、試食とばかりに穹はクッキーの一つを手に取った。
手に持ったクッキーはまだ熱を持っていたが、穹は息を吹きかけて冷ましつつ口に放り込んだ。
「あっふ」
仄かに熱を持ったクッキーを、口の中に空気を含ませて冷ましながら咀嚼する。
香ばしい小麦の香りに混ざって、以前食べたよりも甘い生地が口の中を満たしていく。
出来たて特有の風味と味に、穹は満足気な笑みを浮かべる。
以前よりも甘いが、くどいわけではない。少し穹には甘すぎる味だが、これなら子供も喜んでくれそうだ。
口に残る余韻が抜けていく頃には、先ほどまであった胸のわだかまりはなくなっていた。
折角ならエレノアにも食べて貰おうと、心の中で断りを入れながら、棚から小皿を一枚取り出した。
五枚ほどを取り出した更に並べていく。お店で出すのなら何か飾った方が良いかもしれないが、あいにく穹にそのセンスはない。
試食だし、配る物であるからこれで勘弁してもらいたい。皿に並べられた無機質な配置を見て、穹は苦笑いを浮かべる。
他のクッキーはしばらくこのままにしておいて、さっそくとばかりに穹は小皿を持って店に戻る。
まだ、他にお客は来ていなかった。
カウンターでは変わらず、郷座とエレノアが話をしていた。
余程話が弾んだのか、エレノアはとても嬉しそうに、口元に笑みを浮かべている。どことなく感情が表に出ない子なのかも思っていたが、普通に笑みを浮かべられるようだ。
邪魔しては悪いかもと思ったが、穹が厨房から出てきたのを見つけると、エレノアは視線を向けてくる。
その様子に気が付いたのか、郷座も振り返った。
「おんや、穹さんや。もう出来たのかい?」
「はい、厨房ありがとうございました。この通り、満足いく出来です」
「ほうか、ほうか。したら、ジュースでも入れてやっかんな」
穹が自慢げに小皿を掲げて見せれば、郷座も満足そうに頷いていた。
コーヒーをもう一杯、郷座ならそう言いかねなかったが、そこは気を使ったのかソフトドリンクを出してくれるようだ。
別にコーヒーが嫌いなわけではないのだが、これ以上飲んだら眠れなくなりそうだったので、その配慮は有り難かった。
見れば、エレノアの方もコーヒーではなく、水に切り替えているようだった。細かな氷が崩れて、子気味良い音を奏でた。
入れ替わるように厨房に入った郷座を見送って、穹はカウンターを回ると、エレノアの隣に腰かける。
手に持っているクッキーを物珍し気に見るエレノアの前に、穹は小皿を置いた。
「これが、ここに来た目的のクッキー。良かったら、食べて」
「クッキー。これは、穹が?」
「恥ずかしながら、お菓子を作るのが趣味で」
「素敵ね」
照れながら報告する穹を見て、エレノアはほんのりを笑みを浮かべる。
その笑顔が何とも美しくて、穹は瞬間的な胸の高鳴りを覚えた。
お礼を言うと、エレノアは不思議な形で両手を胸の前で組むと、何かを祈り始める。
穹にすれば見慣れない光景だったが、どうやら、食事の前の祈りらしいのを察して何も言わないでいた。
それほど時間をかけずに祈りを終えたエレノアは、丁寧な仕草でクッキーの一枚を手に取る。
まるで見た目を楽しむかのようにクッキーを観察してから、小さく端の方をかじる。
小さな口で咀嚼する姿は何とも可愛らしいのに、どこか上品にも見れて、つい穹は見とれてしまった。
味わうようにしてから、エレノアは口の中のクッキーを飲み込んだ。少し間を空けて、満足気に吐息を漏らした。
「美味しい。とても甘いのに、素材の風味がとても豊か」
「あはは、ありがとう。多分出来立てだから、余計に香りが良いんだと思うよ」
普通のクッキーではそうは感じられない素材の香りに、嬉しそうに顔を綻ばせるエレノア。
焼き立てだからこその味の感想に、穹は素直に喜んだ。
少し甘めに作ったのが良かったのか、エレノアは手に残ったクッキーを食べ進めていく。
そうしている間に、郷座も戻ってきた。手にはトレイを持って、細長いグラスには並々とオレンジジュースが注がれている。
穹とエレノアはそれぞれお礼を言って、オレンジジュースを受け取った。
果汁百%のオレンジは、オレンジの独特な酸味もありながらも、ほんのりと甘味もあってとても美味しかった。
エレノアは、オレンジの酸味とクッキーの甘味がちょうどよかったのか、先ほどよりも食べるペースを速めていた。
カウンター席に戻った郷座だったが、穹が戻ってきたので遠慮したのか、二人に話しかけるような真似はせずに、再び新聞紙に目を通し始めた。
それを見て、これは幸いだろうと思った穹が、今度は話しかけた。
「そう言えば、何か話があるみたいだったけど、街の案内だけで大丈夫だった?」
自分を呼び止めた時を思い出して、穹は尋ねる。
街の案内で済むような感じもしたが、彼女には、穹から見て何か必死さが伺えた。
でなければ、この店にまで着いてくるまでもなかっただろう。
商店街の人は、良い人ばかりだ。たまに学生をからかったりはするが、見知らぬ人にまでちょっかいをかけたりはしない。
店番の人だって、何か尋ねればきちんと答えてくれる。
見た目はしっかりとした外国人であるエレノアだが、日本語には不自由していない。なのに彼女は、店の人に聞くような真似はしていなかった。
態々穹のような子供を捕まえてまで話をしようというのだ。街を案内して貰う以外にも、何か聞きたかったのかもしれない。
そのきっかけになればいいという思い出の質問だったが、あながち見当違いでもなかったようだ。
穹が尋ねると、クッキーを取ろうした手を止めて、エレノアが視線を向けた。
その目は真剣に細められていて、思わず、穹は身構えてしまった。
「実はある人を探しているの」
「ある人?」
不意のエレノアの質問に穹が聞き返すと、頷いてから、エレノアは探し人が誰なのかを話し始める。
曰く、この街ではある妙な事件が多発しているのだと、エレノアは知るのだった。
季節外れの桜の開花。運動公園では急に幽霊が現れた。夜の街で時々発生する轟音。時には、急な竜巻も発生したという。
大きな被害も無かったし、これらの事件はもう解決しているという。噂程度にしか広まっていなかった。
ただ、一つ気になる点があった。この事件のいくつかに、とある少女が関わっているというではないか。
「あなた、よね。高丘、穹」
それらの事件に多く関わっているその少女の名前は、高丘穹。
その人に、実際に合って話を聞いて見たかった。エレノアの言葉に、穹は思わず息を呑んだ。
まさか。
カッツェが示唆した可能性を思い出して、穹は言葉に詰まってしまう。
どっちだ。
唐突なエレノアの話に、穹は混乱してしまいそうになる。
まず間違いないのは、このエレノアと言う少女は、風の結晶を探している可能性がある。
そしてここ最近、普通とは違う事件が起こっているのを知って、もしかすれば風の結晶が関わっていると勘ぐったのかもしれない。
風の結晶が関わっているというのはつまり、それを持ち出した人物が関わっている可能性があった。
それはつまり、カッツェ=ローキンスを探している。
だが、この街で事件は起きていても、そのカッツェは姿を見せていない。
当然だ。今は猫の姿になっている為に、カッツェの人の姿として目撃されている訳がないのだから。
ならば、誰か協力者居るはず。協力者本人でないにしても、見た可能性がある人物を探している。
事件を調べるうちに、事件に関わっている共通人物がいた。
それが、高丘穹だと。
こんな小さな街だ。事件が起これば噂は広まるし、関わった人物の名前なんて簡単に広まってしまう。
ニュースや記事にされる程、穹は有名なわけではない。
だが、人と人の噂にされる程度には、穹の名前や容姿は広まっている。
ちょっと調べてば、穹には簡単に行き着くだろう。
故に、この事態は仕方がない。問題なのは、このエレノアと言う少女がどちらなのかという事だ。
カッツェが盗みに入り、『影』を差し向けてまで風の結晶を取り戻そうとしている側なのか。
それとも、カッツェを探して、風の結晶を保護しようとしている側なのか。
今の段階では、穹にはどちらなのか判断が出来ない。
仮に、前者だった場合は最悪だ。今目の前で襲われてしまえば、穹には大した抵抗は出来ない。
なにせ、ここは大切なお店の中だ。派手に暴れる訳にもいかないし、暴れさせる訳にもいかない。
郷座を人質に取られた時点で、穹は詰む。向こうの要求をいなせる程、穹は実力が伴っていないのだ。
とにかく上手く誤魔化して、後でカッツェに相談しなければ。
「……うん、ちょっと間が悪くて。桜の時とか、運動公園の時なんかは、その場に居たかな」
夜の騒ぎの件や、竜巻の件は知らなかったというようにぼかしながら、あくまで巻き込まれただけだと穹は答えておく。
実際、被害にあったのは穹ではなかったし、ただ助けに入っただけである。
ただの学生の領分を超えてしまっている行為ではあるが、客観的に見れば、穹の話しに嘘はない。事実そのまま、現場にたまたま居合わせただけである。
少し歯切れの悪い答えになってしまったが、エレノアはそれほど疑った様子もなく、納得したように頷いた。
「なら、その時に変わった人を見なかった?」
「変わった、人?」
「ええ。赤い髪を、とても長く伸ばした人」
どうやら、穹がカッツェに協力しているという所までは、思い至っていないらしい。
カッツェの特徴を話して貰ったようだったが、そうでなくても、赤い長髪の人など見ていない。
本来の人の姿を、穹は知らないのだ。赤い髪を長く伸ばしていたと知られたのは嬉しいが、態々訂正する必要もなかった。
なので穹は、ここは淀みなく首を振って答える。
「ううん。結構な騒ぎで人も居たけど、そんな人は見なかったかな」
「……そう。じゃあ、穹はどうして、現場に居合わせたりしたの?」
「本当、偶然だって。秋に桜が咲いたから、興味本位で見に行った時騒ぎが起こったり。友達に誘われて運動公園に行ったら、なんか幽霊騒ぎが起きただけだよ」
「その騒ぎに巻き込まれた子供を、助けたとか」
「それも偶然。目の前で子供が危ない目に合ってたから、体が思わず動いちゃって」
根深く聞いて来るエレノアだったが、穹からすれば、こう答えるしかなかった。
事実、そこだけを見れば、穹は嘘はついていない。他に見ていた大人達に聞けば、分かって貰えるだろう。
襲われた子供にいち早く気が付いたり、真っ先に駆け寄ったりと、不自然さはある。
しかし穹が事前に察知していて、事情を知っていて咄嗟に動けた等と、それらを客観的に証明する物はない。
穹がここで惚けて、何もかも偶然という事にしてしまえば、後からどうやって調べたところで是正するなど出来ないのだ。
故にエレノアの質問に、穹は変に緊張するでもなく答えられた。嘘は言っていないという考えから、態度は自然となっている。
にこやかに笑う穹を見て、エレノアは疑わなかったのか。少々落胆したようにため息を吐いた。
「そう。見ていないというのなら、良い」
「その、赤い髪の人は知り合いなの?」
ここで聞くのを止めてしまえば不自然になるかもと思い、穹は探るように、カッツェとの関係を尋ねてみる。
この答え次第では、エレノアがどういった意図で、カッツェを探しているのか分かるかもしれない。
そんな安直な考えからの質問だったが、その効果はてき面だった。
「しり、あい?」
「っ!」
知り合いなのかと尋ねた瞬間、エレノアの空気が一変した。
深い藍色の瞳は鋭く細められ、口から零れた言葉は憎しみに染まっていた。
自分に襲い掛かる急激な圧力に、穹は息を呑んだ。驚きにのけ反り、背中に冷たい汗が伝う。
こんなに恐怖したのは、初めて『影』と対峙した時以来だ。
殺される。そんな雰囲気を纏ったエレノアだったが、穹の反応を見て不味いと思ったのか、剣呑な雰囲気をすぐに落ち着かせた。
圧力が無くなり、忘れていた呼吸を取り戻して、穹は荒く息継ぎをしていた。
郷座も何かを感じ取ったのか、新聞から顔を上げて、驚いた顔をしてエレノアを見ている。
「……知り合い、という訳ではない。ただ、私が探している物を、知っているかもしれないから」
だから、探している。
気まずくなったのか、エレノアはそう早口でまくし立てて、誤魔化すようにオレンジジュースを口に含んだ。
その感じに、先ほどの剣呑さはなく、普通の少女にしか見えない。
だが、穹が確信するのには充分だった。
この子は、敵だ。
カッツェに相談するつもりだったが、その必要もなくなった。
ただカッツェを探しているだけだというのなら、ここまで殺気立つわけがない。
何かしら理由があって、エレノアはカッツェを恨んでいる。
そしてそんな理由なんて、たった一つ。風の結晶を盗まれたからに他ならない。
今は、知られてはならない。場の空気に困ったような反応をするエレノアを見ながら、穹は改めて実感するのだった。
「ごめん。その赤い髪の人、本当に、見てない」
「分かった。他を当たってみる。気分悪くさせてごめん」
改めて知らないと答えると、長居は出来ないと察したのか、エレノアは立ち上がった。
「それじゃあ、私はこれで。お礼もあるから、ここは私が支払う。クッキー、ありがとう」
会計を済ませようと、エレノアは小さな包みを手持ちの鞄から取り出してから、値段を郷座に尋ねた。
郷座は少し残念そうにしていたが、時間もいい頃合いだ。伝票をまとめて、エレノアに金額を告げる。
話して満足したのか、その値段は決して安くはなかったが、通常の料金よりも少し安かった。
取り出した包みからお金を出して会計を済ませると、エレノアは包みをしまってから、コートに体を包んだ。
郷座と穹に丁寧に頭を下げてから、エレノアは店を出ていこうとする。
「……そうだ」
扉を開けた所で、エレノアは一度を振り返る。
振り返ってから少し悩んだようだったが、ゆっくりと視線を郷座に向ける。
「食事も、あるようなので。その時に、また来ても?」
「あい、あい。立派な物は出せねぇが、いつでもおいで」
「……ありがとう」
食事をしに来ても大丈夫なのかとエレノアが尋ねると、郷座は嬉しそうに頷いていた。
素気無く断れなくて安心したのか、エレノアは安堵したように口元を綻ばせた後、再び丁寧に頭を下げたから店を後にした。
古い鐘の音を響かせて扉が閉まるのを見て、穹はようやく安堵したように息を吐いた。
片づけを始めた郷座を見ながら、穹はふと、クッキーの入れられた小皿を見る。
彼女の為に出したクッキーだったが、中にはまだ、一枚残っていた。
美味しいと言ってくれて、満足そうに食べては貰えた。
それ自体は嬉しかったし、受け入れて貰えたのは作り手としても満足だった。
だが、今はとても、素直に喜べそうにはなかった。
そんな思いをしつつ、穹は残ったクッキーを手に取って、一口で食べた。
ほんのりと小麦の味がしてとても甘いクッキーだったが、何だか、先ほどよりも苦く感じるのだった。
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