冬が間近に迫るのもあって、この時期の夜も遅い時間ともなれば相応に寒くなる。
吹き付ける風は刺すように冷たくなり、吐き出す呼気は途端に白くなって夜空へと消えていく。
悪いばかりではなく、澄んだ空気は夜の星空をとても綺麗に映し出してくれる。
今見上げれば大層綺麗な星空が見えるのだろうと思いつつも、穹は景色を楽しむ余裕がないまま正面を見据えていた。
原因は、目の前に佇む白金の少女だった。
今週に入ってから、穹の住む街では商店街で開催されるイベントの準備が佳境になっていた。
準備は順調に進められ、後はもう週末の開催を待つだけとなった頃。
まるで祭りの開催に水を差すかのように、夜になると飾り付けが壊されると言った被害が多発した。
誰かの悪戯だろうと思われたそれだったが、実際に現場を目にした穹は疑問に思い、夜の街にパトロールに出かけたのだ。
結果。穹が疑問に思った通り、夜の内に発生した事件は『影』による仕業だった。
なあなあのまま戦いになったが、二体の『影』は撃退するには成功した。けれど、他の『影』とは別にもう一体、やっかいな相手がいた。
他の『影』達と同じタイミングで現れた、真っ黒な狼。全身は闇の火で構成され、その強さは『影』とは一線を規していた。
流石の穹も闇の獣相手は苦戦。カッツェも、地面が少ないのもあって充分なフォローも出来ず、どうやって相手取るか悩んでいた。
そんな時だ。穹と闇の獣が睨みを効かせる中、白金の少女は表れたのだ。
先日、エレノア=レディグレイと名乗ったその少女。昼間の時とは違い、夜空を切り出して作ったような制服に身を包み、夜の闇にも負けない真っ黒なケープを羽織っている。
まるでその出で立ちは、その場を支配する指揮者のようにも思えた。
不意に現れたエレノアは、動揺する穹を意に介した様子も見えずに、真っ黒な編み上げブーツの音を響かせながら、ゆっくりと近づいてくる。
警戒する穹をよそに、目の前で相対していた闇の獣は、穹には目もくれずにエレノアに走り寄った。
エレノアの傍に走り寄ると、低く頭を下げて、少女の手に擦り寄った。
甘えるようなその動きにエレノアは頬を緩めると、足を止めて、擦り寄ってくる闇の獣の頭を優しく撫でてあげていた。
その姿は、主に従順な犬そのものだ。先ほどまで苛烈な攻撃を仕掛けてきた闇の獣からは想像も出来ない姿に、穹は呆気に取られてしまう。
充分に撫でて満足したのか、エレノアは闇の獣から顔を上げると、濃い藍色の瞳を穹に向ける。
先ほどまであった慈しむような優しい眼差しはそこにはなく、冷たい深海を思わせる冷徹な眼差しへと変わっていた。
首筋に冷たい何かを感じ取って、穹は身構えながら数歩下がる。
及び腰の穹を見て一旦おいておくことにしたのか、エレノアは何かを探すように辺りを見渡し始めた。
周囲には誰もおらず、見渡す中には穹とエレノアしか人は居ない。
辺りを探る様子を見せたエレノアを見て、穹は視線だけをカッツェの方へと向ける。
今は見つかるのはまずいと思ったのか、カッツェはガードレールの柱の陰に身を隠していた。
視線は鋭くエレノアを向いていて、何かあればすぐに飛び出せるようにしている。
「……この後に及んでも、あのコソ泥は姿を見せない。力を与えた割に、とても冷たいのね?」
やはり、白金の少女はカッツェを探しているらしかった。
しかしその姿は見えないと分かれば、エレノアはあざけるような笑みを穹へと向ける。
カッツェならここに居ると穹は否定したかったが、姿を隠しているカッツェを考慮して言葉を飲み込んだ。
今までずっと自分を助けてくれたカッツェを否定されるのは悔しかったが、余計な一言でカッツェを困らせたくはなかった。
『あんにゃろう、誰がコソ泥か。頭から砂をぶっかけてやろうか』
『……気持ちは分かるけど、今はじっとしててね?』
当の本人は、コソ泥呼ばわりされた方が気に障ったのか、絶妙な嫌がらせを実行するか考えているようだ。
毒気を抜かれてうな垂れたくはなったが、穹はぐっと我慢して、実行にはしないように釘を刺して置く。
「カッツェは私に力をくれてから、ずっと助けてくれてる。悪く言わないでくれるかな」
それでも、白金の少女の言葉を否定するべく、穹は口を開いた。
穹の口からカッツェの名前が出て、エレノアは更に目線を鋭くして穹を睨んだ。
「やはり、あのコソ泥を知っていたの。どうして教えてくれなかったの?」
「あんな険悪な雰囲気を出す人に、態々教えてあげる必要ないとおもうけどね」
「そう。どうやら聞き方を間違えたみたいだ」
エレノアが冷たく言い放つと、闇の獣が唸りを上げながら前に出る。
今にも飛び掛かりそうな闇の獣を見て、穹は身構えた。
ここに表れたという事は、白金の少女も戦えるという事。
全く未知数なエレノアの実力に、穹は戦いのイメージが湧かなかった。
加えて言えば、構図だけでいえば二体一。いざとなればカッツェも参戦するだろうが、出来れば姿を現して欲しくはない。
そうなれば、戦いが厳しくなるのは必須。出来るだけ闇の獣は早く倒してしまいたいが、エレノアがどう立ちまわるのか。
不利な上に情報不足なのも相まって、穹は体が震えるのを感じていた。
そうした緊張のある時間が流れたが、意外にも、戦闘態勢を止めたのはエレノアの方だった。
「今ここで戦ってもいいけど、どうやら、時間みたい」
「え?」
残念そうに肩を竦めるエレノアに、穹は疑問の声を上げる。
形勢有利なのは向こうなのに、どうして。
そんな穹の疑問は、商店街から聞こえてきた複数の足音がその答えだった。
商店街の方から、チラチラと懐中電灯の明かりが漏れ出ていた。
どうやら見回りの人が向かってきているらしい。
当然か。見回りの時間終わり間際に、あんな大きな音が聞こえてきたのだ。
何があったのかと、様子を見に来るのは当然だろう。むしろ、二体の『影』を倒す間に、誰も来なかった偶然に驚くべきだろうか。
しかしそれもここまで。人が来て見つかるのは、穹としても回避したい事態だった。
エレノアも、無闇に関係ない人間を巻き込むつもりはないのか、誰かが来た時点で戦いを継続する意思はなかったようだ。
「……今日の所は、誰が風の結晶を持っているのか分かったから、良しとしてあげる。明日が楽しみね?」
そう意味深な言葉を残して、エレノアは闇の獣を伴って、夜の闇の中を振り返った。
そうして一度も振り返ることもなく、エレノアは闇の中へと消えていった。
ブーツの音も次第に聞こえなくなり、穹一人残された道路は、静寂に包まれた。
数呼吸の間をおいて、エレノアが完全に姿を消したのを確認すると、穹はようやく肩の力を抜いたのだった。
「向こうが、身を引いてくれて助かったな。もし戦闘になったら、正直、勝てる見込みがなかったぞ」
「うん、そうだね」
姿を完全に消したのを見て、カッツェが近寄ってくる。
そうしながら漏らした感想に、穹も神妙に頷いた。
エレノアがどのような魔法を使うのか、穹には分からない。
しかしこうして夜に姿を見せたり、夜間に活発に動く『影』を見る限り、今のこの状況があの白金の少女にとって有利に働くのには間違いない。
加えてあの剣呑な雰囲気。睨まれただけでも死を覚悟する程の圧力。
確実に、エレノアは戦闘経験がある。それも、穹が経験した物とは比べ物にならない程の。
そんな状況で戦闘になった時、きっと、今の穹では勝てない。
こうして姿が見えなくなって冷静に考えてみても、戦って勝てるというイメージが湧かなかった。
いずれ戦わないとならない相手なのは分かっている。
急に戦闘になって分からないまま負けるよりは、事前に、こうやって相手を知られたのはかえって良かったのかもしれない。
「行こう。私達も、見つかりたくないし」
勝てるかも分からない相手だと分かって消沈している穹だったが、時間は待ってはくれない。
次第に、商店街のアーケードから聞こえてくる足音が大きくなってくる。
これ以上この場に留まっては、見つかってしまうだろう。
そろそろ動こうと、穹はカッツェを促しながら歩き出した。
「ああ、待ってくれ。ちょっと証拠隠滅してから行こう」
「証拠隠滅?」
促して歩き出そうとした穹だったが、それにカッツェの方から待ったを掛ける。
何かをしようとするカッツェに、穹は首を傾げた。
振り向いてみれば、カッツェは亀裂の走る道路を見据えている。
「……これなら、あいつに頼った方が早そうだ。獅子王、少し力を貸してもらうぞ」
何やら呟いたカッツェだったが、穹にはよく聞き取れなかった。
穹が聞き返そうかと思った所で、周辺に変化が起こる。
地震という大きな揺れではなかったが、足元が微かに揺れ始めたのだ。
それだけではなく、亀裂の入っていた道路が微かに動き始めたのである。
まるで時間が逆戻るかのように、亀裂が小さくなり、じわじわと塞がっていく。
驚きで固まること数秒。多少の瓦礫は残ったままだったが、先ほどの戦闘の後は綺麗になくなっていた。
「これは」
「ちょっとした小細工だよ。はた目には何があったか分からないだろうさ」
出来栄えに不満はなかったのか、カッツェは納得したように頷くと先を促して走り出した。
突然の事態に茫然としていた穹だったが、カッツェに促されると我に返り、慌てて後を追うのだった。
走りながら穹は事態を理解しようと考えをまとめていた。先ほど、カッツェは恐らく魔法を使ったのだろう。
今までと違うのは、いつも広げていた陣が展開しなかった。そして大地に呼び掛けていなかったようにも思う。
何か違いがあるのだろうか。そう疑問に思う穹だったが、何となく、聞く気分になれなかった。
それから数分、穹達は商店街から充分に離れられた。
ここまでくれば監視の大人達に見つからなかったろう。
「ようやく落ち着けるね。カッツェ、ありが……カッツェ!」
一息ついて、商店街を向いていた穹が、カッツェを振り向いた時だ。
先を歩いていたカッツェだったが、不意に、カッツェが倒れたのである。
慌てて駆け寄る穹。慎重に抱き起したカッツェの体は、猫の体温とは思えない程に熱くなっていた。
よくよく観察してみれば、呼吸は荒くなってとても辛そうにしている。
「どうしたのカッツェ!」
「……悪い、こっちの力を使うと負担が大きいんだ。猫の体には、少し厳しかったみたいだ」
弱弱しく返事をしたカッツェだったが、それで力尽きたのか、それきり目を瞑ってしまう。
まさかという考えに至って心臓が縮みあがる思いをしたが、細くはあるが確かに呼吸をしているのを確かめると、少し安堵した。
とにかく、カッツェは何かしらの使った代償に、眠ってしまったようだ。
命に別状はないようなのに安心して、穹は慌てて走り出した。
早く暖かくして休ませなければ。そう思い、穹は自宅へと急いだのだった。
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