アヤメの車で商店街の入り口まで来た穹達は、店の前までは徒歩で移動する。
運転手の人も誘ったのだが、そこはやんわりと断られてしまった。運転手はあくまで業務の中であるため、プライベートの時間を邪魔しない配慮なのだろう。
代わりに、アヤメは時間になるまでは商店街で時間を潰していてもらうように言っていた。
学生が食事以外で時間を潰すには困る商店街だが、大人であれば選択肢も多い。大人向けの洒落たレストランもあるので、そこで待ってもらうのだろう。
店の方は、平日の夕方と言うのもあってかた人が訪れているようだった。穹達が向かう目の前で、一組の夫婦が店に入って行くところだった。
珍しいと思いつつ、穹とアヤメも店へと入る。
先ほどの老夫婦は手前のテーブルに座る所。カウンター席には、スーツを来た男性が三人、並んで座っている。
いつもよりお客が多いと思ってみていると、カウンターに居た郷座が顔を上げる。
「あんれ、穹さん。いらっしゃい」
独特の訛りのある口調で、郷座が出迎えてくれる。
ほんのりと笑顔を見せる郷座に、穹も笑みを返した。
「こんにちは、郷座さん。こっちは、クラスメイトのアヤメちゃんです」
「こんにちは」
「あいあい。座って待っててな、今コーヒー淹れっから」
注文をするでもなく、郷座はさっそくとばかりにコーヒーを入れる準備を始めてしまった。
挨拶だけで済んでしまったのにアヤメは肩透かしを食らっていたようだったが、穹はこんなものだと話をして、奥のテーブル席へと向かった。
席についてしばらくすると、店の奥から若い女性が現れた。
肩口あたりで切りそろえられた黒髪。やや小柄で童顔だったが、しっかりとしていそうな人だなと言う印象を受ける、大人びた雰囲気を持った女性だった。
水を持って穹達の席に向かってくる。初めてみる人にアヤメは困惑したような視線を向けて、穹は珍しいと言った風に目を向けていた。
「こんにちは、皐月さん。珍しいですね」
「こんにちは、穹さん。彼が少し手が離せなくてね。私が替わってたのよ」
水を置いてくれた女性に挨拶をすれば、相手の女性も返してくれる。優しい笑顔を向けてくれているが、声ははっきりとしていて、とても耳心地が良かった。
戸高皐月。この女性が、健とお付き合いをしている人だ。
頻度はあまり高くないが、ノワールを時々してくれている。ほとんどが日曜日だったがはずだが、健の用事が終わるまでの間、こうして替わっているらしい。
部活の終わりだったのだろうか。まるで画家着ているかのような落ち着いた色合いの服装をしているが、こうしていると本物のうウェイターのようでもある。
穹との挨拶を終えると、初めて顔を会わせるアヤメにも目を向ける。
目が合ってから、アヤメは軽く頭を下げる。
「初めまして、穹とはクラスメイトで親友の、守崎アヤメです」
「初めまして、戸高皐月よ。あまり顔は出さないかもだけど、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
アヤメとも挨拶を交わすと、まだ給仕の途中であるために、席を離れた。
先に入っていた老夫婦とは知り合いだったのか、水を配って注文を受け取りながらも、軽く談笑を交わしていた。
その姿を何と無しに眺めて、アヤメは感心したような顔をする。
「あの人が、健さんの彼女さんなのね」
「そうだよ」
「いったいどんな人かと思っていたけど、なるほど。かなりの美人さんね」
「綺麗と言うより、可愛らしい人って感じだよね」
「ちょっと姉御肌あるけれど」
「確かに」
見た目は清楚な雰囲気を持っている皐月だが、大学で揉まれているからなのか。その見た目とは裏腹にしっかりとした物言いをする。
不快に思う人もいるかも知れないが、ここノワールでは、年配の人からの受けはいい。
健とは別に、彼女目当ての人も居るくらいなのだが、その出現頻度の低さから、見られれば運が良かったと思われる程度だ。
そんな幸運にあやかれたのだろうか、スーツ姿の男性三人は、露骨に視線を向けていたりする。
見られているのには気が付いているのだろうが、皐月は気が付いていない風を装っていた。
「ちなみに、怒らせると怖いらしいよ」
「怒鳴るって言う風にも見えないけれど」
「許して貰えるまで、口を聞いて貰えないどころか連絡も取らなくなるんだって」
「あら。それは本当に怖い」
話を聞いて、アヤメは口元に怪しげな笑みを浮かべながら水に口を付けた。
あう言う人に、怒っているという空気を出されながら全く話をされなくなったら、それほど恐ろしい話もないだろう。
想像しただけで寒気を覚えながら、穹も水に口を付ける。
ほんのりとレモンの酸味を感じる水が口に入ると、清涼感が広がって心を落ち着かせてくれる。
「そういえば、イベントの進行はどうなっているの?」
「そうね。今のところは例年通りと言った所かしら」
穹の質問に答えながら、何やら、アヤメは鞄から資料の束を取り出していた。
可愛らしいファイルには入れられているが、中身は商店街で開催されるイベントの中身がまとめられてた立派な物。
その中身を捲りながら、アヤメは特に問題は起きていないと言う。
「ちょっとマンネリ化しているようではあるけれど、奇抜な出し物をするわけではないからね」
「ああ。なんかちょっと前に、過激な事して事件発生したんだっけ?」
「全体としては、大事ではないけれどね。でもまあ、全体の趣旨と違うから注意されたみたいだけれど」
ハロウィンにかこつけたイベントであるために、少し勘違いした若者が現れたのだ。
商店街のイベントは、あくまでも、子供をターゲットにした街お越しイベントだ。
毎年代わり映えしないと言われればそれまでなのだが、子供達が喜んでもらえればそれでよし。
店側への配慮で大きなイベントにはならない為に、大きな話題になるわけでもない。
ただ、こういうイベントを見つけては、つい羽目を外してしまう人も少なからず出てくる。
これは一昨年の話だ。二十歳程の男女の集団だったのだが、思い思いの仮装をして街を練り歩いた。
それだけならまだ笑い話にもなり、ちょっとした刺激と言う程度で済ませられたのだが、そこで問題が起きた。
集団の一部がお酒を飲んで酔っ払い、通行人や子供ともめ事を起こしたのだ。
大騒ぎにはならず、怪我人も居なかった。ただ、商店街で大声を出して騒ぎを起こし、子供達に怖い思いをさせてしまった。
そうなっては子供向けのイベントに水を差すだけとなる。
商店街の一部の主要メンバーと同じ集団の人達が止めに入って事なきを得たが、これは少し問題となった。
その集団は厳重注意の元、イベントからは退出。商店街の人達や学校の生徒が奔走して、イベントの持ち直しを計ったという経緯がある。
以降、マンネリ化してしまうのは覚悟の上で、粛々とイベントが行われるようになったのだ。
何事も、程ほどでいいのである。
「学校側も見回りに先生を出すみたいだから、大丈夫じゃないかしら?」
「子供との時間もあるだろうに、お疲れ様です」
「流石に家族持ち以外らしいわよ?」
「独身の方達お疲れ様です」
学校終わりにも関わらず、イベントに見回りとして参加させられる教員に、穹は心無いエールを送る。
「今年も、テレビ局の取材あるの?」
「地元のローカルだけれど、中継で映されるみたいよ」
「去年のも見たけど、お店でお菓子配っていた人インタビューされて凄く緊張していたよね」
「あれは可哀そうだったわね。今年もあると思うけど」
「子供は元気よく答えてくれるから、見ていてほっこりする」
「そうね」
雑談に興じていると、店内のコーヒーの香りが仄かに強くなった。同時に水が沸騰する優しい音色が店内に響いた。
思わず、穹もアヤメも音のする方へと目を向ける。
カウンター奥に居る郷座がコーヒーを淹れている所だった。サイフォンに用いられる特殊な形をしたビーカーに入れられた水が、アルコールランプに熱せられて上のビーカーに上っていく。
上った水はすでに茶色く染められていて、よりコーヒーの香りを強くする。
ゆっくりと上に上ったコーヒーをヘラを使って撹拌する郷座の姿を見て、アヤメは感心したようにため息を吐いた。
「サイフォン式のコーヒーを入れている所なんて、直接見る機会は少ないけれど。実際に見るとより不思議よね」
「理屈は分かるんだけどね。説明されても分からないけど」
「自分の出来ない作業って、ついつい見ちゃうわよね」
「なんとなく、自分も出来そうな気持になるよね」
そうして話をしている内に、コーヒーの準備が出来たようだった。
カップがそれぞれ準備をされ、白いコーヒーカップの中に、真っ黒なコーヒーが注がれていく。
それを、再び現れた皐月がトレイに乗せて運んでくれる。先に入店していた老夫婦に持っていくようで、そのトレイには自作のシフォンケーキも乗せらていた。
注文の品を届けた後は、穹達にもコーヒーを運んでくれる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
目の前に置かれたコーヒーを、穹とアヤメはさっそく口に含んだ。
いつも賄いで出して貰えるコーヒーの、苦みを含んだ芳醇が香りが鼻から抜けていく。飲み慣れたコーヒーに、穹はゆっくりと息を吐いた。
「ああ、やっぱり苦い」
「でも、この前出された物よりも、とても呑みやすいわね。仄かに甘味もあって」
「あら、アヤメさんは違いが分かるのね。穹さんってば、どうやって呑ませても苦いしか言わないのに」
「その癖、砂糖は入れないのだもの。意地っ張りね」
「どうせ子供です」
からかいを含んで言い募る二人には勝てないと踏んでいるので、穹は余計な反論はせずに意地を張ったままブラックでコーヒーを呑む。
ただやはり苦みは勝てないのか、呑めなくはないがその独特の苦みに、やはり顔を顰めるのだった。
そんな様子に、アヤメと皐月は微笑ましい物を見るような視線を向ける。
二人に見られて、穹はますまず口を尖らせるのだった。
「それにしても、穹さんがここに来るのは珍しいわね。何かあった?」
拗ねる穹に悪いと思ったのか、皐月の方から話題を変えてくれる。
珍しさで言ったら皐月もそうなのだが、こうして穹が平日の夕方に顔を見せるのも珍しい。
最近は来る機会も多かったが、本来なら土曜と日曜のみ。用向きはその時に済ませられるので、多く訪ねる理由も少ないのだ。
客として来てくれる分は良いのだろうが、中学生の穹が多く来るような場所でもない。
同じ系列の学校に通っていたのだから、皐月も生徒に出される課題の多さには理解がある。
課題の消化に時間を費やすべきの所をこうして来ているのだから何かあったのだろうと、皐月なりに勘ぐったようだった。
手に持っていたコーヒーをソーサーに置いて、穹は皐月を見上げた。
「皐月さんは、今度の商店街のイベントはご存じですよね」
「ええ。私の部の方でも、看板の作成に取り掛かっているからね」
「その時、ノワールはどうするのか気になりまして」
穹が尋ねると、皐月は何かを思い出すかのように宙を仰いだ。
皐月本人は、学校側からの応援でイベントには参加する。
しかし、ノワールの方でイベントに何をするのか、すぐには思い当たらなかったようだ。
「ああ、どうするんだろ。郷座さん」
「あいあい?」
「来週のイベント、ここって何かするんですか」
皐月に呼ばれて顔を上げた郷座は、イベントの件を尋ねられたが何を問われているか分からないと言った顔をしていた。
店主としてどうなのかと思いつつ、皐月は街お越しイベントがあるのをざっくりと説明する。
「ああ、ほれか」
言われて思い出したのか、郷座は何度か頷くとカウンターの下へと隠れた。引き戸を開けて、何かを探っているような音が聞こえてくる。
取り出したのは、袋に詰められた何かだった。
「息子に言われとってな。今年も、挽いたコーヒーを配ろうと思っとる」
どうやら、袋詰めされていたのは挽いたコーヒーのようだった。
一杯分のコーヒーを挽いて、当日に配るのだろう。実に喫茶店らしい物だった。
今出したのは試しに作った物の様で、出したついでに、カウンター席に座っていたスーツの男性達に渡していた。
すでに挽いてあるものは風味が落ちてしまうので、早めに配ってしまいたかったのだろう。
郷座の説明によれば、後はもうドリップすればいいだけになっているようで、家でも簡単に飲めるらしい。
イベント前なのに唐突に渡された男性達は、少々困ったような顔をしつつもお礼を言って受け取っていた。
全くイベントに関わらないとも考えていた穹は、何かしら行動をすると言う郷座の言葉に安堵しつつ、鞄に入れておいたお菓子を取り出した。
「それでですね、私も何かお手伝いしたいなって思いまして。これ、一緒に配れないかなって」
「へぇ。穹さんってお菓子作り出来たんだ。ちょっと意外かも」
「本人は謙遜しますけど、とても美味しく出来てるんですよ」
「アヤメちゃん、変にハードル上げないでよ」
お菓子の包みを見て感心する皐月に、逃げ道を塞ぐようにアヤメが我が事のように言う。
すぐに穹は言い返したものの、皐月の目はもう期待に染まっていた。
「それは楽しみ。だけど、その辺りを決めるのは私じゃないから、たけちゃんが来たら改めて聞いてみたら?」
言いつつ、皐月は穹の手からお菓子の袋を受け取った。
「綺麗に包んであるね。これ、貰って良いの?」
「はい。試食用に作って来たので」
「そ? じゃあ、さっそく食べてみようかな」
言いながら、皐月はクッキーとカップケーキの入った袋をそれぞれ受け取って、店の奥へと入って行く。
どうするのかと思って見ていると、あまり時間をかけずに皐月は戻ってきた。
手にはお菓子を並べた皿をそれぞれ持っていて、一つを郷座に、一つをカウンターに座る男性達に渡し始めた。
「あそこの席の子からです。今度のイベントで配る物ですので、遠慮なくどうぞ」
「うぇい、皐月さん!」
さっそく配り始めた皐月に、穹は素っ頓狂な悲鳴を上げる。
確かにそのお菓子は食べてもらうために作った物だったが、まさかさっそく配るとは思ってもみなかった。
穹の反応が面白かったのか、振り返った皐月は快活に笑った。
「まぁまぁ、食べてもらうなら多い方がいいでしょ。あ、お代は結構ですので」
受け取って良いのか悩んでいた男性達に、皐月は一言添えるのを忘れない。
こうまで言われては受け取ると決めたのか、男性達は穹の方を向いて短く礼を述べる。
言われてしまえば穹も何も言えなくなり、軽く頭を下げて引き下がった。
皐月も食べるようで、カウンターの裏に回ってから、郷座に差し出した皿からクッキーを一枚とって口に含む。
郷座も同じように穹に礼を言ってから、カウンター内の椅子に座って同じようにクッキーを一口かじっていた。
「ええな。柔らかくて、甘すぎなくて」
「美味しいけど、私はもう少し甘くてもいいかな。ちょっと素朴かもね」
郷座からは好評だったが、皐月の方はやはりアヤメ達と同じ意見のようだった。
同じように食べていた男性達は、郷座と同じように好評だった。子供の手造りと思って期待はしていなかったが、程よい甘味と柔らかさに感心していて、笑顔でクッキーを褒めたたえている。
控えめな甘さは男性からは好まれるようだった。
嬉しい反面、手放しに褒められると恥ずかしくもあって、穹は居心地悪そうにコーヒーを呑んで気を紛らわせた。
逆にアヤメの方は、穹が褒められているのが嬉しいのだろう。満足気に微笑みながらコーヒーを優雅に啜っている。
クッキーやカップケーキを茶菓子にしながら飲むコーヒーは少し幼稚なような気もするが、ちょうどいい甘さだったからか、満足気に思い思いの時間を楽しみ始める。
穹とアヤメも二杯目のコーヒーを貰いながら、健の帰宅を待っていた。
時間がゆっくりと過ぎていき、カウンター席の男性達とテーブル席の老夫婦も店を後にする。
店内のシックな音楽を聴きながらゆったりとしていると、次第に外は暗くなってくる。
盆地に位置するこの街は、日の入りも早い。時間はまだ早いにも関わらず、外は薄暗くなってきた。
今日は健の帰宅は遅いのだろうかと言った時間になった所で、店の扉が開いて鈴の音が響いた。
「ごめん、少し遅くなっただろうか」
入って来たのは、件の健だった。
通学に使っている鞄を下げて、いかにも学校帰りと言った様子だ。
「タケちゃん、お帰り」
「ああ、ただいま、皐月。店を任せて悪かったね」
「ううん、穹さん達も居たから、大丈夫だったよ」
真っ先に出迎えたのは、穹達と同じく健の帰宅を待ち望んでいた皐月だった。
日中の時間が過ぎたために、郷座はすでに店の奥に戻ってしまっている。
一応まだ部外者であるはずの人に任せてしまって良いのかと思わなくもないが、信頼の証なのだろう。
皐月も笑って手伝いをしてくれていて、健が帰宅するまでの間は、のんびりと昼間の売り上げを数えていたくらいだ。
「え、穹ちゃん達が?」
出迎えに来た皐月と、少し甘い空間を形成しつつあった健だったが、穹の名前を聞いて目を瞠った。
大学に入ってから付き合い始めた二人は、見る人が見れば、二人の醸し出す雰囲気がかなり甘ったるいのに気が付くだろう。
それをよく見せられている穹は、さっそく口の中に甘いものを詰め込まれたような顔をしていた。
とは言え、名前を呼ばれたのにはさっそく反応する。
「おかえりなさい、健さん。それから、ちゃん付けはやめてください」
「ああ、ごめんね、穹さん。ただいま。確かそちらは、アヤメさん、だったよね」
「はい、お邪魔しています」
未だに警戒しているのか、健の挨拶にアヤメはやや事務的に答える。
それを気にした風も無く、頭を下げて挨拶をするアヤメに、健は笑顔を向けた。
「あら、たけちゃんはもうアヤメさんとは会った事あったんだ」
「ああ。この前、穹さん達と一緒にね。今日はどうしたんだい?」
既に顔見知りだったのに驚く皐月に、健は簡単に事情を説明しつつ、二人に用向きを尋ねる。
健からしても、こうも頻繁に平日の夕方に店を訪れる穹を珍しがったのだろう。
穹も頷きつつ、今度のイベントのお手伝いをしたいのだと言いつつ、テーブルの上に並べたお菓子を見せた。
郷座達に渡した分はすでに食べられていて、これは最後に、健に試食してもらうために残して置いた分だ。
事情に納得しつつ、健もテーブルに近寄ってお菓子の袋を手に取った。
「ああ、そう言えば穹さんはお菓子造りが趣味だったね。これも?」
「はい。試しに作ってみたので、迷惑でなければ配りたいと思いまして」
「迷惑だなんてとんでもない。ありがとう。さっそくいただくね」
健はクッキーの入った袋を手に取ると、丁寧に包装を開いて中身を取り出した。
出来栄えを見てから、一枚を口に含む。ゆっくりと咀嚼して味を確かめながら、満足そうに嚥下した。
「うん、程よく甘くてとても美味しいよ。穹さんらしい、丁寧な作りだね」
「あはは、ありがとうございます」
何とも健らしい褒め方に、穹は苦笑いを浮かべる。
気にしないのか、健の言い回しにアヤメは特に反応を示さず、褒めたのだけを評価している様子だ。
皐月は呆れているようだったが。
「俺としてはちょうどいいけど、皐月はどう思った?」
「私も美味しいと思うけど、もう少し甘くても良いかなって思うよ。配るのは子供でしょ?」
自分だけで決めるのは良くないと思ったのか、健はクッキーを評価しつつも、振り返って皐月に尋ねる。
カウンターで様子を伺っていた皐月は、健の言葉に頷きつつも、自分の意見を口にする。
「ああ、やっぱりそうか。どうだろう、穹さん。これを配るのは俺としては賛成だけど、もう少し甘くして作れるだろうか?」
「はい、大丈夫ですよ。じゃあ、当日は店の厨房をお借りしてもいいですか?」
「そこは、父さんに相談してみるよ。多分、大丈夫だと思うけど」
どうやら、当日配れるらしい流れになったのに、穹は嬉しそうに頷いた。
日頃のお礼が出来るのに、穹としては満足だ。
となれば、確認も出来たので、そろそろ穹も帰らなければならないだろう。三柴家の両親も、帰宅しているかもしれない。
健も来たのでゆっくり話しておきたい所ではあるが、遅くなって迷惑をかけたくないという事情もある。
それは健も分かっているのか、用事が済んで帰宅しようとする穹達を、残念そうにしつつも止めるような真似はしなかった。
「じゃあ、私達はそろそろ帰りますね」
「ああ、今日はありがとう。今度の休みもよろしくね」
「はい。その時は宜しくお願いしますね」
帰り支度をしながら、穹とアヤメは席を立つ。
会計を済ませた時だった。健が思い出したように穹を呼び止めた。
「そうだ、穹さん」
「はい、なんですか?」
「うちのクラブで話題になってたんだけど、最近、穹さんの学校に外国の子が転入してきたりしたかな?」
「外国の子、ですか?」
不意の質問に、穹は首を傾げた。
なんでも、ここ最近になって、とある目撃情報が話題になっているらしい。
まるでモデルかと思うような美人の外国人が、商店街で目撃されているようなのだ。
年齢は高校生か中学生くらいらしいのだが、高等部でそれらしい子は転入していないらしい。
敷地的に、大学と高等部は同じなため、その確認はすでに済まされている。
中等部は敷地が別なため確認が遅れていて、話題も入ってきにくい。ちょうどいいと思って尋ねたようだ。
しかし改めて確認されても、穹としても心当たりがない。アヤメも同じようで、尋ねてみても首を横に振って、心当たりがないという。
ただその表情は、少し緊張気味だったが。
「でも、こっちの商店街で見かけているなら、こっち側の学校に少ししたら転入してくるんですかね?」
「向こう側に入るなら、態々こちら側には足を運ばないからね。そうか、穹さん達も知らないのか」
「なぁに? 私と言う物がありながら、美人な外国の子が気になるっていうの?」
「からかわないでくれよ。友達がしつこく聞いてくるから、俺も聞かずにはいられなかったんだ」
「どうだか?」
悪戯っぽく尋ねる皐月に、健は困ったように笑いながら答える。
本気で嫉妬しているというより、ちょっとしたコミュニケーションだろう。
皐月らしいコミュニケーションの取り方に笑いながら、これは長くなると察した穹達は、二人に挨拶をしながら店を出るのだった。
外は薄暗くなり、更に冷え込んでいた。店の中で温まっていた体にはかなり堪えた。
扉を閉めれば、冷たい外気が一気に吹き抜けて、思わず穹は体を震わせる。
「うう、やっぱり寒いね。早く帰ろうか」
「そうね。送りましょうか?」
「そこまでしてくれなくていいよ」
アヤメの提案を断りながら、穹はさっそく歩き出す。
外の空気は寒いが、家まではそう遠くない。たかだかこの距離を車に頼ってしまうのは、流石に遠回りになる。
それに商店街を通れば、もしかすれば、今話を聞いた外国の子を見られるかもしれない。そんな期待もあったからだ。
見られればいいなと思いつつ、穹とアヤメは商店街に向かって歩いていく。
途中アヤメは運転手の人に連絡を入れて、迎えの準備をお願いするのを忘れない。
商店街は、まだまだ人は多かった。どこか浮ついた空気があるのは、来週に迫ったイベントに向けて準備しているからだろう。そこかしこにイベント告知の張り紙が貼られている。
各店に貼られた張り紙は、それぞれが何を出すのかを明記されている。
食べ物系が多くあるので、内容を見るだけでも今からが楽しみになってくる。
商店街にかかるアーチに飾りつけをするのが、去年の穹達が手伝った内容だ。
今年はどうなるだろうか。アヤメの手伝いもあるが、ノワールの件があるのでどうなるか。
今から楽しみにしつつ、穹は商店街の雰囲気を眺めながら歩いていく。
「あら。穹、あそこ」
「ん?」
穹がよそ見をしていた時だ。アヤメが何を指し示しながら声をかけてくる。
声をかけられて穹がそちらを見れば、通行人が何かを見ながら通り過ぎていくのが見える。
そこにある店は、総菜をメインに扱っている。夕食に追加する一品にちょうど良く、味も良いからと話題になっている店だ。
とは言え、通行人が態々振り返って見るほどではない。
では何を見ているのかと言えば、そこで総菜を購入している客の様だった。
そこに居たのは噂の外国の子だった。
染めた物ではないと分かる、綺麗な金髪。光の加減もあるかもしれないが、白みが強く、まるで白金を溶かして糸にしたかのように艶やかな髪だった。
横顔でも分かる、均等の取れた顔立ち。くっきりとした目や鼻は、日本人から見ても綺麗だと思えるほどに整っていた。
なるほど。モデルの様だと言われるのにも納得だった。寧ろ実際に見る人物像は、噂以上に綺麗だった。
ただ残念だなと思う所もあった。寒さに弱いのだろうか。背も高くかなり細身だろうとは思えるのだが、まるでこれから雪国にでも行くのかと思えるほどに着込んでいた。
厚手のコート。細い脚はこれまた厚手のタイツに包まれている。マフラーもしっかり巻いていて、冬真っ盛りの中を歩くかのような重装備だった。
今の時期にあれでは、本格的に雪が降って来た時にはどうなるのだろうか。少し心配になってくる。
「さっそく目撃しちゃった」
「そうね。それも本当に美人さん」
「ちょっと分かりにくいけど、私達と同い年くらいかな?」
外人の見た目年齢は日本人とは違ってくるが、穹達から見ても、同い年くらいには思えた。
ただ余りじろじろ見るのもよろしくない。
噂は本当だったのだと確認出来たのは意外な収穫だったと思いつつ、穹達は通行の流れに乗って歩いていく。
ちょうどその子も会計が終わったようで、総菜を受け取ると穹達の方へと歩いてくる。
住宅が多くある区画とは反対側だ。どうやら学校に近い、商店街の裏にあるどこかに住んでいるのだろう。
歩き始めた向きがちょうど穹達に近いのもあって、穹は何と無しにその子を見る。
正面から見ればなお分かる、整った顔立ちの綺麗な少女だ。白金の髪を複雑に編み込んでいて、まるで絵画の中から飛び出してきたようだ。
背丈は穹よりも頭半分程高い。宝石のような綺麗な瞳は、まるで深海のように深い藍色をしている。
総菜の香ばしい匂いに混ざって、少女の甘い香りが漂ってくる。
そんな距離まで近づいて通り過ぎた時だ。不意に、人影が見えた気がして穹は思わず振り返った。
白金色をした髪の少女は、穹達を気にした風もなく歩いていく。通行人の何人かも、その少女に見惚れて振り返っているのが見えた。
あくまで、皆が見ているのはその少女。しかし穹には、違う物が見えていた。
少女に寄り添うようにして、一人の少年が見えた。
うすぼんやりとしていて、穹でさえも意識しなければ見失ってしまいそうな程に希薄な存在。まるで守護霊かのように、その少女の傍で漂っていた。
年のころは十歳ほど。炎のような逆巻く赤い髪。線は全体的に細くて幼い印象を受けるが、やんちゃそうな雰囲気が見て取れる。
人ではないのはすぐに分かった。それでいて、尋常ではない状態であるのにもすぐに分かる。
全体的に白っぽいものの、炎の中から飛び出してきた精霊にも見えるその子供なのだが。体の一部が、まるで闇に侵食されているかのように黒ずんでいた。
その姿はとても痛々しく、見ているのも辛かった。
少年と、目があった。向こうも認識されているのに気が付いたのか、驚いた表情で穹を見返している。
そして辛そうに眼を伏せると、まるで助けを求めるかのような表情を見せた。
しかしそれも一瞬。通行人が穹の前を横切ったタイミングで少年の姿は消えていて、白金の髪も見えなくなった。
「穹?」
急に止まった穹を心配して、アヤメが振り返った。
アヤメの言葉は届いているが、先ほど見えた少年が気になってしまい、穹は何も答えられなかった。
「……いまの、は」
代わりに口から零れたのは、疑問の言葉。
あの少年の、助けを求めるかのような顔が、穹の頭から離れなかった
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