飾り気のない通路だった。
華美な装飾はなく、ただクリーム色の床や壁や天井が続いているだけだ。
所々、申し訳程度に灯りが立てられているだけ。
あまりにも無機質すぎていて、病院にも思えない。まるでどこかの研究施設のようだった。
置かれた照明は病的なまでに等間隔で、かつ、全く同じデザインの物が使われている。照明以外に装飾がないのも相まって、歩いていても進んでいるのか分からなくなりそうだ。
視覚的に動いているのか不安になるこの施設の通路を、目を見張る速度で走る誰かがいた。
まるで乗り物にでも乗っているかのような速度だが、その誰かは二本の足を使って走っている。その動きに淀みはなく、曲がり角でも減速しない。
まるで住み慣れた屋敷を徘徊する獣か何かの様だった。
灯りに照らされて、その影の人物が姿を表す。
女性だった。
走る勢いでなびく髪は燃えるような赤い髪で、腰を過ぎるくらいにまで伸ばされている。体にフィットする袖なしのライダースーツのような物を着用しているために、女性の蠱惑的な肉体を惜しげもなく見せつけてくる。
否応なしに女性の美醜がきになるが、残念ながら、長く伸ばされた前髪によってその人相までははっきりしない。
そんな女性がクリーム色の通路を走り続ける。不思議な事に、足音は響いていない。勢いで殺しきれない風を切る音は聞こえても、彼女が発する音はなかった。
滑るように。そんな表現がしっくりくる程静かに、彼女は走る。
いくつかの角を曲がった時だった。長い直線の通路が伸び、その先にクリーム色とは違う物が見えた。
彼女が走る通路の先には丁字路があり、正面には天井にも届く巨大な窓が見えた。これも装飾は何もない。大きめのガラス窓に、紺色の格子があるだけだ。余計な装飾が一切ないのが、ここのありようを示しているかのようだ。
ここが、彼女が目指していた出口。思った以上に計画的に進んでいたのだろう。微かではあるが、彼女の口元は笑みを浮かべている。
同時に、見つけてしまったモノもある。
それは物なのか、者なのか。通路を塞ぐようにして、彼女と窓の中間地点にそれは居た。
端的に言い表せば、それは『影』だ。定まった形はなく、彼女が近づく合間にも、徐々に形は変貌していった。唯一変わらないのは、二本の手足のような何かと、頭部のような何かと、それを繋ぐ胴体のような何か。
見ようによっては犬の様でもあるし、牛の様でもある。どうしても、はっきりとした形は言えなかった。
見ているだけで嫌悪感を抱かせるその存在は、なるほど、製作者の嫌らしさを存分に振りまいている。
そして『影』は、製作者の意図を行動で示す。
その『影』は、片方の腕を鞭のように長くしならせ、もう片方の腕を剣のような形へと変貌させた。不定の形に変わりはないが、明らかな攻撃の意思があるのは確かだ。
真っ向から攻撃の意思を受け取る彼女は、それでも走る速度を変えなかった。いや。寧ろ上がったようにも思える。
もはや、人の出せる速度とは思えない。瞬く間、と言うのも遅く感じるほどに、彼女はその『影』との距離を詰めていく。
当然、その『影』が持つ腕の攻撃範囲へと彼女は足を踏み入れた。
容赦なく、『影』はその両腕を振るう。鞭は彼女の両足を払おうと這いずり、剣は首を落とそうと振り下ろされる。
避ける事を許さない、無慈悲な剣と鞭の舞。数舜先の未来では、彼女の両足が吹き飛び、首が吹き飛ぶ。そんな想像が出来るような勢いだった。
しかし『影』が切ったのは、彼女の肉体ではなく、ただの空間だった。『影』の一撃は何もない場所を、ただ凪いだだけだった。
彼女は避けたわけでない。すでに彼女の速度は人外の域に達していた。『影』の一撃は、理性を感じさせないのにも関わらず完璧だ。今の速度で回避行動をとるのは不可能だ。
ではどうしたのか。彼女はどこに行ったのか。
あろうことか彼女は更に速度を上げて、『影』の懐に飛び込んだのである。
迷いのない動作。絶対の安全圏はそこにあるのだと、確信を持ったその行動。一瞬ではあるが、彼女の実力がうかがい知れる瞬間だった。
ふわりと揺れる赤い髪が収まるよりも早く、彼女は片腕を突き出す。
「大地よ。全ての力をここに集め、この手の先より解き放て」
細くしなやかな手が『影』に触れる。不定ではあるが、不触ではないらしい。僅かに彼女の指が沈むが、突き抜けるまでではなかった。
そのわずかな瞬間に、彼女は言葉を紡いだ。まるで叩き付けるかのようなその祝詞は、瞬間、彼女の指先に変化を齎した。
指先を起点とした小さな円。そして円の中には複雑怪奇な線が描かれ、合間には細かな文字がびっしりと刻まれている。正しい意味合いは異なるが、見る人が見れば、それは魔法陣と言えるような代物だった。
ただし、発生した現象は摩訶不思議なものではなかった。
浮かび上がった陣が、次の瞬間には収縮し、激しい炸裂音と共に弾けた。指先から放たれた破壊の力は、触れていた『影』の背中までを一直線に貫いた。
果たして、その力はどれほどあったのだろうか。浮かび上がった陣から『影』の背中にかけて円柱の穴が開いただけではなく、形を保てなくなった『影』は繰り抜かれた穴から徐々に崩れていく。
あっけない程の幕切れに、彼女は表情を変えなかった。まるで当たり前だと言いたげに、ゆっくりと突き出した腕を下す。
疑問に思うのは、彼女の方にもあった。圧倒的な速度からの急停止。そんな事をすれば、体に負担がかからないはずはない。それに、体への負担は目に見えないにしても、髪の毛は乱れるはずだ。
しかし彼女にはそれはない。汗一つ流さないどころか、まるでずっと悠然と佇んていたかのように髪の毛一つ揺らいでいない。
一枚の絵画のように違和感はないのに、とても異様な光景だった。
彼女はいったい何をしたのか。先ほどの祝詞と魔法陣のようなものが関係しているはずだが、彼女はそれを語るはずもない。
目の前から『影』が完全にいなくなると、彼女は再び走り出す。
彼女が二歩目を踏み出した時には、先ほどの速度とそん色ない速度に達していた。三歩目には全く同じ速度となる。
これも何かの力を使っているのか、全貌は分からない。分かるのは、彼女はやはり先を急いでいて、目の前の目的へとたどり着きたかったのだ。
見る間に、窓との距離は縮まっていく。それでも彼女は速度を緩めない。寧ろ速度を落とさない絶妙な足運びで、窓との歩数を合わせていく。
もう一歩を踏み出せば、窓ガラスに正面からぶつかる。そんな至近距離まで近づいた瞬間、彼女は片足を踏み込み、窓ガラスに向かって飛び込んだ。
もちろん、そんな事をすれば窓ガラスは砕ける。散らばる破片から守るため、窓ガラスにぶつかる瞬間に顔の前で彼女は腕を交差させる。
勢いそのままの突撃に窓ガラスは砕け、同時に鍵も吹き飛んで勢いよく開かれた。
飛び出した先はバルコニーとなっており、その先は外へと繋がっている。今は夜の為か、薄暗いために周りはよく見えなかった。
それでも、バルコニーの高さは三階ほどもある。死にはしないだろうが、無事では済まされないだろう。彼女も、中に居たとはいえ、自分が今どこの階層にいるかくらいは理解していたはずだ。
にもかかわらず、彼女は躊躇いなく外へと飛び出した。
一重に、彼女も焦っていたのだろう。例え、人外とも思える速度で走ろうとも、不気味な『影』と相対しても余裕の笑みを浮かべていたとしても。
全速力で走る必要が彼女にはあった。慎重を期すべき相手を一撃で沈める必要があった。
彼女を追いかけてくる、脅威から逃げるために。
彼女の中では、ここまで来れば安全のはずであった。このまま下へと着地し、一定の地点まで行けば安全確実に逃げられるはずだったのだ。
空中へと身を投げ出し、彼女の体がどうしようもなく無防備となったその瞬間であった。
まさしく彼女が突き破った窓の向こう側。今まで彼女が走ってきた通路から、夜の帳を切り裂くように闇が瞬いた。
彼女が自分自身の失敗を自覚したのと、必殺ともいえる脅威が迫ったのは、ほぼ同時だった。
暗闇よりも尚暗い、闇の刃。数は三本。知覚するよりも先に、驚異的な身体能力で彼女は空中で体を捻って回避する。
結果、本来であれば彼女の心臓と右足を貫くはずだった刃は、遠い暗闇の向こうへと走り抜けていった。しかし、避けきれなかった最後の一本は、彼女の左肩を深く切り裂いていた。
「ぐ、づぁ」
空中で体制を崩し、受け身を取る余裕すらないまま、彼女は地面へと体を打ち付ける。
二度三度とバウンドし、数メートル転がってから彼女の体は停止する。その間にも、深くえぐれた傷口からは血が溢れ、倒れた彼女の周りに血だまりを作っていく。
本来なら、過度な負傷と三階から落ちた衝撃で動けなくなっていたはずであっただろう。だが、一つ呻いた後に、彼女はゆっくりと体を起こした。
不意打ちの攻撃に加えて、三階からの落下の衝撃。これだけでも意識を無くしてもおかしくないのに、彼女はそのすべてを、巧みに受け流していたようだった。
そうでもなければ、自然に落ちた彼女の体が地面に何度もバウンドするはずもない。肩の激しい痛みの中でも彼女は体を動かして、体を跳ねさせて衝撃を逃がし、地面への追突を避けたのだ。
空中で体を捻る身体能力といい、彼女の能力は図抜けている。
それでも、三階から落下した衝撃は、傷口を広げるのには十分だったようだ。肩からの出血は勢いを増し、片手で抑えてはいるが、指の間からは大量の血が滴っている。
相当の体力を失ったのか、何とか立ち上がるが、彼女の立ち姿はどこか弱々しく今にも倒れてしまいそうだ。荒い呼吸を繰り返し、大量の汗をかいている。
ただその瞳だけは、まだ意思をしっかりと持っていた。長い前髪から除く琥珀色の瞳が、力強く、今しがた飛び出したバルコニーを睨んでいる。
彼女がにらみつける窓のその枠に、誰かが佇んでいた。逆光で姿はよく見えないが、両手に持った細身の剣と、夜風になびく白金色の髪が印象的だった。
そしてその脇には、先ほど彼女が倒した『影』が、数体待機していた。見えるだけでも四体もいる。きっとその向こうには、数えきれない程の『影』が待機しているだろう。
まるで死刑宣告をするかのような情景に、彼女は荒い息を潜めると笑って見せた。そこにあるのは諦めではなく、このような状況であるのにも拘らず、楽しんでいるかのようだった。
「もう、逃げ場はありません。観念して、盗んだ物を返して貰えませんか?」
闇夜の中に響く、幼い声。どうやら、窓枠に立つその人物は少女の様だった。幼さのある可愛らしい声は、今のこの状況には、とても不釣り合いの物だ。
けれどここに至って、それを指摘するような誰かはいない。彼女も大して驚いてはいないようだった。かえってそれが、その少女がどれほど恐ろしい人物であるのかを物語っている。
彼女はもちろん理解していた。自分を追跡してきた人物はこの少女であり、先ほど攻撃を仕掛けてきたのも、またこの少女であるのだと。そしてこの少女が合図をすれば、すぐにでも背後に控えている『影』が襲い掛かってくるだろう。
それでも彼女は笑う。自暴自棄になったわけではない。ただ不敵に笑うのだ。
なぜなら彼女の中では、もうこの場は勝利しているのだから。
「はっ、どこの世界に盗んだ物を返す泥棒がいるってんだ。第一、逃げ場がないだって?」
笑いながら、彼女は両足で地面を踏みしめる。転がり出たそこは、舗装されたところではなく、庭と呼べるような場所の境界の先だった。足元には、手入れがされて均された地面があった。
うすぼんやりと、彼女の足元が光りだす。見れば、彼女の足元には、先ほどと同じ魔法陣の様な物が輝いている。だが大きさが違う。先ほどは掌程度だったそれが、彼女を囲むほどにまで大きくなっている。
いつの間に用意したのだろうか。先ほどは祝詞のような言葉を紡いでいたのに、今回はその過程を飛ばしている。
事前に準備していたか、あるいは、こここそが彼女の目的地だったのかもしれない。でなければ、体力を失って立っているのがやっとの状態で、余裕のある態度をとれるはずもない。
どこからが彼女の思惑だったのか。分からないが、この圧倒的不利な状況でも笑っていられるほどに、彼女には余裕があったのだ。
「天下御免の大泥棒、カッツェ=ローキンスに、逃げ出せない場所なんてないんだよ」
途端、待ちわびたとでも言いたげに、彼女の足元にあった陣の輝きが増した。陣を構成しているのは、彼女が流していた血。その血を媒体に、まるで地面と彼女を繋げているようだった。
変化は、それだけでは収まらない。輝きが増したのと同時、彼女の事を足元から包み込んでいく。光は更に浸透していき、彼女の体は霞が掛かったかのように溶けだしていく。
本来であればありえない現象。自身の消滅かとも思える不可思議な現象に、光を絡まれる彼女だけではなく、それを見る少女も自体に驚いてはいないようだ。むしろ、その現象を起こしている彼女に、感心しているようですらある。
一拍遅れて、『影』達へと突撃の指示を出す。待ちわびたかのように、『影』は窓を超え、あるいは壁を破壊しながらでも、彼女へと殺到する。
しかし、その動きは遅すぎた。先頭を走る『影』が光に触れるよりも早く、彼女の全身は光に包まれていた。足元だけではなく、腰も胸もその凛々しい顔も、すでに存在が希薄になったかのように消えかかっていた。
突撃した『影』は、ついに一体も彼女に触れる事はなかった。霧のように霧散した光の後には、彼女の姿は影も形もなかった。
臭いの痕跡を探すかのように『影』達は辺りを徘徊していたが、先ほど輝いていた場所と、彼女の残していった血の跡以外に、一切の痕跡は残っていない。
悔しさを表すかのように、声もないというのに、『影』はうめき声でも上げるかのように醜く口元を歪めていた。
ザリザリと地面を削る音が響く中、少女は音も立てずに地面へと降り立った。光に照らされて、鮮やかな白金の髪が、サラリと靡く。夜空を編み込んだかのような黒い服を纏いながら、重力を感じさせずにふわりと広がるその姿は、まるで地に降り立った天使の様。
散策を辞めると、『影』達は一斉に、少女の周りへと集まりだす。まるで訓練された猛犬が、主人へ詫びを入れるかのように甘えているようだった。
その内の一体が、まるで撫でてくれと言わんばかり、だらりと垂らされた少女の手へと擦り寄った。我慢できないと言わんばかりに頭の部分の擦り付ける様はただの犬だ。
頭を摺り寄せる『影』を見下ろして、少女は笑みを浮かべる。口元だけでもわかる、可憐で柔らかな笑み。『影』の頭部を撫でてやる手つきもまた、慈しむように柔らかだった。
一通り撫で終わると、少女は血だけが残された場所を、熱心に見つめ始める。少女の纏う雰囲気が変わったのを察したのだろうか、周りに寄り添っていた『影』達もまた、血だまりを熱心に見つめ始める。
そこにはもう何もない。誰もいない。何の痕跡もない。血だけが残されたその場所からは、彼女がどこに消えたのかは伺い知れなかった。
一つため息を吐いて、少女は踵を返す。纏う雰囲気に変化はない。逃してしまった事は反省しているようにも見えるが、その覚悟は一切の陰りを見せなかった。
「逃がさない。父様の大事な物を盗んだのです。絶対に、逃がさない」
どこに逃げようとも、必ず見つけて見せる。必ず見つけ出して、取り戻して見せる。
小さく呟いた言葉以上に、少女の背中は、そんな覚悟を示していた。
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