結論から言えば、アヤメが事前連絡なしに迎えに来たのは、ちょっと意趣返しと言う話だった。
休みの日には穹が急に体調を崩してしまったのもあって、帰宅を余儀なくされた。お陰で満足に話が出来ないまま終わったしまっているというのが、アヤメの言い分だ。
また、カッツェを飼うために三柴家と話をしなければならないため、アヤメの方から連絡を控えていた。いずれは穹の方から結果報告なり、アドバイスを求めて来たりなどの連絡が来るだろうと思って。
しかし結果として休みが終わってしまうという時になっても、穹からはなんの連絡もなかった。
何も連絡がなかったというなら話は上手くまとまったということなので、それはまず良しとしたのだ。
良しとしたのだが、何の連絡もないというのが、アヤメとしては不服だった。なのでちょっと困らせてやろうと、何の連絡もなしに穹を迎えに来たと。そういう話だ。
歩きながら色々言われて穹はアヤメに謝りつつ、そういえば連絡するのをすっかり忘れていたのを今更ながらに思い出していた。
何となく欲しいだろう言うものは予想はついていたし、ペットショップに買い出しに行った時にアドバイスは貰っていた。
それに普通の猫ならば流石の穹もアヤメに相談していただろうが、カッツェはそもそも普通の猫ではなかった。確かに飼育用品はある程度買ったとは言え、それは最低限度。
気持ちとしては、普通の人間の同居人が増えたと言った所。普通の猫の飼い方のアドバイスを貰うという発想がどこかに飛んでいた。
加えて、例の『影』や魔法の話を聞くのに夢中になってしまい、予定を消化する内に一日が終わってしまっていた。
アヤメの意趣返しと言うのも納得物であり、ここは素直に受け取っておく。憂鬱な月曜日の朝を、アヤメと過ごせるのなら役得だろう。
「まあ、大丈夫だったよ。カッツェも、そんなに手間のかからない子だったし」
「カッツェ?」
「ああ、うん。そういう名前にしたんだ」
そういえば名前もまだ教えていなかった。
思わず名前を出していたが、アヤメにはまだ、拾った猫の名前を教えていなかったのを思い出す。
もちろん、名付けたわけではなくて、カッツェ本人が名乗った名前のだが。
カッツェの名前を出すと、なるほどと納得してから、アヤメは何かを思い出すように視線を巡らせていた。
不思議に思って穹が首を捻ると、アヤメは何かを思い出してから小首をかしげた。
「確かカッツェって、ドイツ語で猫って意味じゃなかった?」
「え」
心配そうに見るアヤメに、穹は答えられなかった。
特に単語で調べたわけではなかったので、カッツェの名前そのものが、こちらの言語で別の意味になるとは思わなかったのだ。
アヤメからの指摘に戸惑った穹だったが、少し考えてから、そこまで焦って誤魔化す必要はないのに思い至った。
深い愛情があって、かつ、長い付き合いをするつもりの飼い猫だったなら真剣に考えていただろう。けれどカッツェの場合は例え元人間じゃなかったとしても一時預かりのつもりだったし、自分にネーミングセンスがあるとは思っていない。
犬にポチ。三毛猫に猫。そんな軽い感じで、発音が良くて名前っぽかったからという理由で、猫に猫と名付けてしまったとしても、飼育初心者ならありがちだと思ったからだ。
実は何も知らなくて、本人の知らない所で、自らを猫だと名乗ってしまっているカッツェは可哀そうだなと思うけれど。
本人に教えたらどんな反応をするだろう。また落ち込むのだろうか。そんな姿を想像して、穹は内心で笑ってしまった。
「ああ、いや。何となく、響きが良くて」
「まあ、そうか。カッツェって、確かに響き良いよね」
苦笑い気味に答えると、アヤメは納得したように頷いだ。
カッツェと言う響きは確かに良いと思われたのだろう。アヤメもそこまでペットを飼った経験があるわけでもないので、インスピレーションで名前を決めてしまっても仕方がないと納得してくれたようだ。
ともすれば、カッツェと言う名前は穹が決めた物ではなく、本人からの自己申告だったわけだが。
それから二人は、穏やかに話をしながら通学路を歩く。アヤメがペットを飼う上でのアドバイスを伝えいく。ペットを飼っていた経験はないはずなのに、妙に詳しかったのに驚いた穹だった。
しばらく歩いていくと、住宅街の向こうに商店街のアーケードが見えてくる。
穹が住む街は、住宅街、商店街、学校などがある工業地区がはっきりと分かれている。全体を見ると扇を広げたような形をしていて、一番広いのが住宅街で、工業地区が中心にあって区画としては一番狭くなっている。
必然、住宅街から歩いて出ると商店街を通る。この時間は通学時間も被っているので、穹達のような中学生の他にも、小学生や高校生も同じ方向へと歩いていた。
今穹達が住んでいる街は、合併に合併を重ねていて、一つの街としてはかなりの規模になっていた。大まかに東と西に分けられ、穹達の住むのは西側になる。
こちら側には小中高と一校ずつしかない為、この近辺に住んでいる学生たちのほとんどは同じ学校に通っている。そして学校はすべて工業地区に集約されているので、だいたいは同じ方向へと歩いていくのだった。
二人で歩いてはいるが、通学路は何だかにぎやかに感じられる。
そんな通学路を歩いていると、例の公園が近づいてくる。道順的にはやや遠回りになるのだが、大きな通りであるのでこの道順が推奨されているためだ。
にわかに、穹に緊張が走る。先日、あの公園には『影』が潜んでいると言われたばかりだ。
何もしなければ、何も起こらないとは言われた。だからと言って、全く気にならないと言う訳ではない。
嫌でも意識してしまうし、何かあるかもしれないと思ってしまう。
そんな穹の思いを肯定するかのように、通学路には普段とは違う光景が広がっていた。
「あれ、人だかりが出来てる」
住宅街を抜ける通りの角に差し掛かった時だった。先に角を曲がったアヤメが、足を止めて目の前の光景に驚いていた。
穹も続いて通りの先を見れば、確かに、そこには人だかりが出来ていた。通学途中の生徒たちが足を止めてどこかを見つめている。
全員が一様に困惑した表情をしていて、何かを話し込んでいるようだった。立ち止まらない学生もいるようだったが、同じように公園の中を気にしているように顔を向けているのが分かる。
学生たちが集まっているのは公園の入り口だった。誰も中に入ろうとせずに入り口前で立ち止まって、中の様子をうかがっているようだ。
かなりの人数が集まっていて、通るのに邪魔しないように注意しているようだが、入り口に近づくのは難しそうだった。通り過ぎるのも気になったが、穹は中が気になってしまい、一段低くなっている生垣を見つけて中を覗き込んだ。
「え、なにあれ」
中を見たとたん、アヤメは周りと同じように困惑したような声を漏らした。中の光景が本来ならあり得ない状況となっていたためだ。
公園の中央に生えた一本の大きな桜。その桜が、満開の花を咲かせていたのだ。全ての花びらは全開に開いていて、公園の中心を華々しく飾っている。
春はとっくに過ぎて、肌寒くなってきた秋の真っ盛りのこの時期にである。
公園を囲うように植えられた植林はすっかり黄色くなっている中で、桜だけは桃色の花を誇らしげに咲かせていた。
信じられないのも無理はない。穹だって一昨日にこの公園を通りがかった時には、あの桜は赤くなった葉を枝に備えていたはずだ。
事実、桜の木の根元には、まるで冗談みたいに赤い葉が絨毯のように敷き詰められている。
その光景は、下手な画家が描いた抽象画のようだった。神秘さを感じるよりも、実際に目にすると不気味としか言いようがない。
これを見てしまっては、学生たちが思わず立ち止まって見てしまうのも仕方がない。アヤメも二の句が付けられないでいる。
ただ、穹だけは違った。
同じように困惑しているのは確かだ。公園の中にある光景に絶句して、続く言葉を発せないでいる。
ただ周りの学生たちと違うのは、この異常な光景を説明できるかもしれない原因を知っているからだ。
もしかしたら、と言う考えはすぐに思い至った。
ここにいる『影』が、何かをしたのかもしれない。
ありえない、とは思いたい。しかしこの摩訶不思議な現象を説明できる要因が、それしか考えられないのだ。
不鮮明な『影』だけで動くのだ。この世界ではありえないそんな存在が、現実でどんな影響を与えるかなんて分かったものではない。秋も深まってきたこの時期に、桜を咲かせるなんて怪奇現象を起こす可能性もあるだろう。
もちろん、それを全く知らない学生たちが分かるわけがない。
色々な憶測が遠くから聞こえてくるが、もちろん結論に至るわけもなく、不気味に思いながらも通学のために歩き始める。
結局、周りの学生が居なくなるまで、穹はその場を動けなかった。目の前では、そんな穹の不安をあざ笑うかのように、秋風で花びらを揺らしている桜が変わらず直立している。
ようやく穹が動き出せたのは、周りの生徒が居なくなって、アヤメに促されてからだった。
道中、気を使ってアヤメが声をかけてくれていたが、穹はあいまいに返事をするだけで、まともに話が出来なかった。
重い足取りで学校に到着すると、生徒たちの話題はやはり、公園の桜で持ちきりになっていた。
教室の中では思い思いに桜の考察を話していて、まるで、公園の前を再現しているかのようだ。
自分の席に着いた穹は、そんな会話を何と無しに聞きながら、授業の準備を始める。この頃にはようやく落ち着いてきたものの、沈んでしまった気持ちは持ち直せそうにない。
どうにも、この話題に入りたいとは思えなかった。
ともすれば、自分に関わるような事象なのだ。出来れば、触れたくないと言うのが本音だ。
「やっほ、穹っち。朝から辛気臭い顔してるけど、どったん?」
ある程度道具を出し終わった所で、前の席の子が話しかけてきた。
アヤメと話している機会の多い穹だが、他のクラスメイトと全く話をしないという訳ではない。帰宅部であるし注目度の高いのもあって、放課後にはクラスメイトと遊びに行くときもある。もちろん自分の財布と相談しながら、節度は守っているが。
そんな機会の多いのが、前の席に座るこの子だ。名前は、羽鳥朱音。校則違反にならない程度に制服を着崩していて、いかにもな女子高生と言った感じの子。
穹とは違って意味でクラスのムードメイカーと言った立ち位置を作っていて、クラスメイトだけではなく、他クラスとも仲を広めている。
何かと注目されている穹とも気さく話をしてくれて、仲のいい友達と言った関係だ。
穹っち、と言う呼び方はなんだかこそばゆいので何度かやめるようにお願いしているが、呼び方が変わった試しはない。
「ああ、うん。公園の桜が咲いてたのに驚いちゃって」
「あ、それやっぱり本当なん?」
朱音は通学路が異なるため、どうやら、公園の桜については知らなかったらしい。
気さくに色々話をする朱音したら大人しく席に座っていると思ったら、そういう事情だったようだ。横で話を聞いていただけで、まだ詳しく知らないらしい。
知っているのはこれ幸いと、朱音は穹に詳しい事情を尋ねてくる。
出来れば触れたくないとは思っていたが、何も喋らないと言うのも相手に失礼だろう。
そう思った穹は、出来るだけ感情的にならないように意識しながら、朝見てきた公園の様子を話して聞かせる。
最初こそ瞳を輝かせて聞いていた朱音だったが、詳しく話を聞くほどに、徐々に眉を寄せていく。
「みんな話してるからそうなんだろうけど、なんか信じられない話なんね」
話を聞いた朱音の率直な感想に、穹は苦笑いを浮かべる。
確かに、話を聞いただけではなんとも信じられない光景だろう。こんな秋の真っ盛りの中に咲く桜の花なんて、まるで想像できない。
一つ有り難いと思ったのは、朱音が話を聞いただけで、それ以上の興味を示さなかったことだ。
朱音はその気さくな性格ではあるが、深く聞いてくるほど無粋ではない。気にはなっているのだろうが、穹が桜の話題に乗り気ではないのを察して聞きこんではこなかった。
もし詳しく知りたいとなった時には、周りで騒いでいるクラスメイトに聞くだろう。
最も、話は憶測な上に尾ひれが二つ三つとついているようで、実際に見に行った方が早いような状況になっているが。
そうなると、朱音が確認するのは難しい。彼女は部活動の他に、委員会の活動にも積極的に参加している。
どうしても放課後に時間が取れなくなり、帰宅時間も遅くなってしまう。なのに、ちょっとした興味だけで通学路から離れて大回りしようとは思わないだろう。
「んでさ、穹っち、次の授業なんけど」
話をしてある程度納得したのか、朱音は話題を切り替えて授業の質問をしてくる。
別段、穹は頭が良いわけではない。精々、授業に遅れない程度に勉強をしているくらいだ。朱音も授業内容に苦戦しているわけではないので、同じ程度の意識なのだろう。
ただどうしても、部活動や委員会活動に多く携わっている都合上、朱音は授業で分からない所がありがちだった。
そんな時、こうやって学力レベルが近い穹に授業内容を聞いてくるのが多い。きちんと答えられているのか穹としても不安なのだが、そんな時は朱音が指摘してくる時もあるので、復習にもなって穹にはありがたかった。
「いいよ、なに?」
話題の転換は穹も有り難かったので、朱音の話題に乗っかる。
何かと目立っていると自覚はあるので、授業の時などには質問される時が多い。なので次の授業の予習には余念がないのだ。同じように注目されている朱音も質問される機会は多いので、穹と同じように警戒しているのであろう。
周りが桜の話が盛り上げる中、実に真面目な二人だった。
ある程度のやり取りをしていると時間になり、クラスメイトが慌ただしく着席すると、授業の担任が入って来た。
担任も桜の件は把握していたらしく、少し浮足立ったクラスの雰囲気を察して肩を竦めた。
「この様子だと、もうみんな公園の件は知っているみたいだな。気になるのは分かるが、今朝、学校側で判断で生徒の立ち寄りは原則禁止になった。通学路である都合上近くを通るのは仕方がないが、警察からの指示があるまでは中に入らないように」
授業の前に担任からそんな注意を受けた生徒の反応は、納得と不満が半々と言った所だった。
桜の件は学校側でも騒ぎになっているようだ。と言うより、今回の珍しい出来事に興味を惹かれて人が集まり、その結果トラブルが発生するのを懸念しているようだ。
警察もそっちの可能性を危惧しており、公園の安全確認と言う名目で人員を配置して、人が集まるのを防ぐのだそうだ。その配置には各学校の教師も含まれていて、数日の内は持ち回りで巡回を行うらしい。
クラスメイト、特に男子達から少々ヤジが飛んだが、穹としては納得の対処だと思った。
一番大きく、かつ唯一の学校と言うのもあって、ここの生徒は目立つ。そんな生徒に何かトラブルが起こったとなれば、噂は瞬く間に広がるだろう。
そうなれば、問題視されるのは学校側の対応だ。不評が広がればそちらの方が大変だろう。事前策を取るのは当たり前だ。
クラスメイトもそれは分かっている。なので今飛んでいる不平不満は、半ば条件反射。つまりは悪ふざけだ。本気で抗議している感じではない。
担任もそれは分かっているので、飛んでくるヤジを軽くあしらいながら授業を開始する。次第にクラスメイトからのヤジも少なくなっていき、真面目に授業を受け始める。
穹もそれに習うものの、いまいち、授業には集中できないでいた。
理由は今の注意喚起。学校側の対応としては、至極まっとうなもので、動きとしてはむしろ早い方だろう。まだ何もトラブルらしいトラブルは起きていないのだから。
だが学校側も、それだけ、今回の異常事態を重く見ていると言う表しでもある。
秋に咲く桜。言葉を並べれば、風情を感じるものもあるかもしれなかった。
かと言って、楽観視出来る話でもない。映画やアニメのような出来事が現実で発生したのだ。危険がないとも言えないので、安全が確認できるまでは様子を見ないといけない。
そんな事態に、自分が関わっているかもしれない。むしろ、一番の関係者かも知れないのだ。
周りの大人達が大勢関わっていると言う大掛かりな話に、流石に、穹は何も感じない訳にも行かなかった。
責任を感じると言うほどの話でもないが、心苦しいのには違いなかった。
カッツェからは関わるなとは言われているが、この時、穹は思わずにはいられなかった。
なにか、大きな変化が起こるかもしれない。
漠然とだが、思わずにはいられなかった。
そしてその不安は、穹にしては最悪の形で現実となってしまう。
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