結果から言えば、翌日の休日は、穹は自宅で過ごすはめになった。
気を抜けば倒れてしまいそうな体を無理やり動かして、何とかアヤメの家に戻る事は出来た。が、出来たのはそこまで。玄関に入って鍵を掛けたはいい物の、そこで完全に精神力を使い切ってしまい、そのまま倒れて寝てしまったのだ。
翌朝、同じベッドで寝ていたはずの穹がおらず、かつ、隣室の猫も居ないとなって、アヤメは大いに慌てた。寝巻のまま外に飛び出す勢いで玄関に向かい、そこで寝ている穹を見つけたのである。
たたき起こされた穹は、アヤメに掻い摘んで事情を説明した。夜に目が覚めて、猫の様子を見に行ったらどこにもいなくて、裏山まで探しに行ったと。不思議な力や『影』は伏せたままで、おかしくない程度に説明する。
そして猫を見つけたものの、戻ってきた所で眠気にあらがえなくなってしまい、玄関で寝落ちしてしまったのだと。
最初は納得したアヤメだったが、一転、夜の裏山に出かけた事実に腹を立て、鬼の形相で穹を叱りつけた。弁明を試みた物の、取りつく島も無く延々と説教され、今日はもう帰って休めと叩き返されたのである。もちろん、穹の自宅へ送迎した上で付いてきたが。
あんなに怒ったアヤメを見るのは久しぶりだった。下手をしたと反省し、言いつけ通りに帰ったのである。
で、なんの準備もなく自宅へと戻ってきた穹だったが、心持ちは重かった。
夜の内に話していたため、猫を連れてくるのには問題なかった。最初は、アヤメの方から一時的に預かると言う提案もあったが、穹の方から断っている。
問題だったのは、三柴家の反応だった。自宅そのものは高丘家の物だが、現在の所有権は三柴家にある。現状、穹は養って貰っている立場にあり、無断で生き物を飼うわけにはいかない。
この猫に対して責任を負う覚悟はしているが、結局は家主の意思次第である。拒否されてしまえば、所詮はそこまでなのだ。
昨夜の戦闘以上に重い気持ちのまま、自宅へと戻った穹は、猫を飼う許可を三柴の両親へと伺い立てたのだが、
「僕は大丈夫ですよ。穹さんがちゃんと世話をするのなら、特に問題ないです」
「昭雄さんがそう言うなら、私も大丈夫。何か手伝いが必要なら言ってね、穹さん」
三柴の両親は特に反対することなく、猫を飼うのを承諾してくれた。いつもの、どこか距離を測りかねているかのような笑みを浮かべて。
一言礼を告げるが、穹の心境は複雑な物だった。
問題なく飼えるのは嬉しい。自分の決意が無駄にならなかったのは、素直に喜ぶべきだろう。昨夜の不可思議な出来事を猫と話すのも、円滑に進められる。
でも、もう少し、何か話が合っても良かったのではないだろうかと思う自分も居る。
生き物を飼うと言うのは、生半可な物ではないと、アヤメも話していた。それは、穹ももちろん理解はしている。
いや、猫ではないらしいので、その定義に当てはまるかは、今は疑問ではあるのだが。
ただ、客観的見れば、中学生がその場の勢いで捨て猫を拾ってきたのと、何ら変わらないのだ。むしろ、穹の立場は弱い物であり、実の両親ではないのだから、強く出られないのだ。拒絶されても当たり前の話であり、責任能力がないと言われても仕方のない話だ。
子供の意見を尊重していると言えばそうなのかもしれない。頭ごなしに否定するでもなく、実際に飼わせてもらえるのだから、理解のある両親なのかもしれない。むしろフォローが必要ないのかと心配までしてもらっている程だ。
だからなおのこと、穹には辛かった。もしかするとこの感情は、怒りにも似ていたかもしれない。
衝突するのは分かっていたし、断られても、自分の意思をはっきり告げようと思っていた。
なのに、三柴の両親はあっさりと引き下がり、穹の意思を尊重してくれた。これは、あんまりではないだろうか。
理解があるのは分かる。懐の広さがあるのも分かる。
では、穹自身への理解はどうなのか。ここまで深まったわだかまりを、あの二人は解消するつもりはあるのだろうか。
理解があるのも、認めてもらえたのも、結局は、穹と話すのを拒んだ結果ではないだろうか。
理解のあるふりをして、穹を疎ましく思って遠ざけているだけではないだろうか。物わかりのあるふりをして、穹を拒絶しているだけではないのか。
こうして、穹から話しかけるタイミングを作っても、結局二人は歩みこんでこない。知ろうとしてくれない。話をしているようで、まるでガラス越しに、定例文を読みあっているだけのようにも思えてくる。
こうやって答えておけば反感は起きない。こうやって取り繕っていれば、何も問題は起きない。そう思っているかのようだった。
人の良いふりをして、穹を知ろうとしてくれない。今をどう思って、どうなりたいのかを知ろうとしてくれない。そういう人たちなのだと思えて仕方がないのだ。
今回の件が、一つのきっかけになるのではないかと期待していたのに、これではあんまりではないだろうか。
分かっている。逆恨みであるのは分かっている。そんな風に拒絶する人たちではないのは分かっているのだ。
結局、穹が踏み出す勇気がないだけであり、自分から距離を取っていて、踏み込んで欲しくないのだと態度に出しているのも分かっている。
穹の態度を察して、三柴の両親がしり込みして、踏み込んで来られないのも分かっているのだ。
分かっては、いる。
だからと言って、やはり今の穹にその勇気が湧いてくるはずもない。一度できてしまった溝を埋める一歩が、分からなくなってしまっている。
きっかけが欲しい。
でも、降ってわいたきっかけでも、穹は生かす勇気がなかった。
今回の件も不意にして、またズルズルと、今の状態を続けてしまっている。
三柴の両親の優しさに甘えて、結局迷惑をかけてしまうのにもかかわらず、自分の都合のいいように話を進めてしまっていた。
こうまで分かっているのにもかかわらず、やはり穹には、今の環境を変える勇気はなかったのだった。
話がひと段落して、穹は自分用と猫用のホットミルクを用意して二階に上がる。
土曜日と言うのもあって、昼になると、三柴の両親は用事で出かける予定になっていた。海人は部活と友達付き合いで夕方まで帰らないそうので、午後からは穹一人だけとなる。
お昼の用意をするか聞かれたが、自分でどうにかするからと、そこは丁重に断っていた。このような日は結構な頻度で起こるので、会話は事務的な物だった。
お昼代として、お小遣いも貰っている。普段より多めに渡してきたのは、猫の分の用足しと言うのだろう。なんとなく察したが、必要以上の会話をしたくなかった穹は、一言お礼だけ言って受け取っていた。
やはり、自分は嫌な子供だと思う。とは思う物の、やはり、未だ改められる心境にはなかった。
ホットミルクを用意している間、猫は穹の部屋に避難してもらっていた。
猫を飼う話をする際には、特に必要にしなかったらだ。本人が居ればもちろん話をするのには楽ではあるのだが、かと言って、猫の姿で人語を話させるわけにもいかない。
元々人らしいのだが、どうにも、本人の意思では元の姿に戻れないらしいので仕方がなかった。
両手が塞がっているため、部屋に入るのには少々手間取ったが、中に入ると猫は大人しく待っていてくれたようだった。窓の縁に座って、熱心に窓の外を眺めている。
傍らの机には、ノートPCの画面が開かれたまま置かれていた。
避難してもらっている間、猫の方から、何か情報収集する手段が欲しいと言われて穹が貸したのだ。亡くなった穹の父親の持ち物で、普段はネット閲覧に使っている。少々古い型だが、ある程度の調べ物をするのには困っていない。
猫の体でどうやって使うのか気になったが、目の前で勝手に画面が動き出したのを見て、穹は疑問に思うのはやめた。理屈が分からないし、聞いた所で理解出来ないと思ったからだ。
猫の世話について、三柴の両親と話をしたのは数十分程度だったが、その間に必要な情報は集め終わったらしい。
「えっと、ホットミルク持ってきたけど、飲む?」
気が付いているのか分からず、穹は猫の背中に問いかける。やや間を空けてから、猫は振り返った。どうやら、気が付いてはいたようだ。
飲まないと言う訳ではなかったが、お盆に乗った器を見て、猫は不快そうな表情を作った。本当に器用である。
「マグカップと言うのは分かるけど、もう片方の深皿はなにさ」
口を開いて出た言葉は、そんな不満だった。
穹の用意したホットミルクの内、片方は、猫の言う通り深皿に入れられていた。それほど大きくはなく、マグカップ一杯分とほとんど同じ量が入れられている。
「何って、あなた用のだけど?」
「いや、だからって、皿って言うのはどうなんだい?」
「コップの方が良いならそうするけど。でも、その姿だと飲めないでしょ?」
「ああ、そうか。そうだよなぁ」
穹としては当然の処置のつもりだったが、猫にしたら大層不満だったらしい。
不満を言う猫に、穹がそう返すと、頭痛を堪えるようにうなだれてしまった。よほど、今の姿には不本意らしかった。
苦笑いを浮かべながら、穹は丸テーブルにカップと深皿を置いた。すぐに猫も窓際から飛び降りて、穹と対面するようにテーブルに飛び乗った。
探るように臭いを嗅いでから、猫は軽く口を付ける。一応冷ましているが、猫の飲める温度なのか分からなかったので、飲めるようなら一安心だった。猫の体ではあるが、猫舌と言う訳ではないらしい。
ただ、口を付けて啜るように飲み始めたが一旦中断。しばし考えて、舌で舐めるように飲み始める。結局は普通の猫と体の造りは同じなため、舌を使った方が飲みやすいと悟ったようだ。
けれど悟ったというだけで、納得はしていないらしい。ある程度飲み進めた所で、情けない、と言って肩を落としていた。猫と同じ行動をするのに、そうとう葛藤があるようだ。
穹からすれば、猫本来の姿を見られて安堵したくらいなのだが。そんな事を言えば猫はヘソを曲げてしまいそうなので、黙ってホットミルクを飲む。
「そういえば、調べ物は終わったの?」
コップの中身を半分程飲んだ所で、会話のきっかけを作るつもりで穹は尋ねる。
窓から外を眺めていたので、調べもの自体は終わったのは分かる。ただ、時間にすれば十数分と言ったところなので、必要なだけ調べられたか疑問に思ったのだ。
「大体はね。思った通り、ここは物理世界。君たちの言葉で言うなら、魔法がない、科学の発展している世界と言うのは分かったよ」
どうやら、猫は本当に必要最低限しか調べていなかったらしい。
どれだけ勝手が違うのか、猫が元々いた世界とどれほど違うのかを調べて、ある程度予想と同じであるのかを確認したかっただけの様だ。
詳しい事情を調べる必要はないし、今後深く関わらない世界など、確かに深く調べる必要はない。最低限、自分の常識との差異を調べたかっただけのようだ。
どこか淡泊とも思える猫の言葉に、しかし穹は納得した。言い回しは独特だが、文化の異なる世界に来たと言っても、調べる内容と言うのはそう多くないのだろう。
穹だって、この街ぐらいしか世間を知らない。
毎日流れる世界情勢なんて、それこそ遠い世界の話だ。なんなら、日本国内の事情だって穹は詳しく知らない。困らない程度に、大きな事件があったのを把握しているくらいだ。
商店街の格安セール位を把握していれば、穹が生きていく分には充分なのだ。それ以上は把握したって、今の穹に何か出来るわけでもないし、思う所もない。
そうなれば、猫の言い草も分かると言うものだ。
「そういえば、今更なんだけど」
「なんだい?」
「いや、まだお互いにちゃんと自己紹介してないなって」
お互いのホットミルクが無くなった所で、穹は改めて尋ねる。
昨夜の戦闘、アヤメへの事情説明、三柴家の説得。色々忙しかった上に、猫の二人で話をするタイミングがなかったため、まだ名前さえも教えてなかったし、教えて貰ってなかったのだ。
猫の方もすっかり忘れていたらしい。穹の言葉を数舜噛みしめてから、確かに名前を知らないのを思い出して笑いだした。
「あっはっはっは。確かに、ボクは君の名前を知らないね」
「笑う程なの?」
「傑作だ。ボクの名前を知らないなんて奴に久しく会ってなかったから、すっかり忘れてたよ」
ひとしきり楽しそうに笑って、猫は満足したのか不敵な笑みを浮かべる。
どこか凛々しくもある笑みに穹は一瞬気負いしたが、改めて名乗ることにした。
「えっと、私は、高丘穹。十四歳です」
「ええ、それだけ?」
「いや、これ以上言うことないもの」
「まぁ、ただの学生みたいだから、仕方ないと言えば仕方ないか」
穹の自己紹介にやや呆れながらも、猫が視線を横に向ける。
その先には、穹が通う学校の指定制服がかけられている。どうやらその辺りも調べているようで、学生と言う身分が何なのかも理解しているようだった。
「で、あなたは」
「ふふ、こうやって自分を知らない奴に名乗るのも久しぶりだ。ボクの名前は、カッツェ=ローキンス。文字通り世界を股にかけ、自己の満足を満たすことに快楽を見出す、天下御免の大泥棒さ」
そうして、この猫。カッツェ=ローキンスとの関係は始まったのである。
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