風使いー穹-

風に愛された少女
村上ユキ
村上ユキ

020 噴水の影

公開日時: 2022年12月25日(日) 17:42
文字数:11,260

 飛んで、来る土曜日。


 約束通りアヤメに迎えに来てもらった穹は、運動公園に赴いていた。


 時間は十時を少し過ぎた頃。朱音のゆっくりおいでと言う言葉通り、朝はゆっくり起きて身支度を整えてから訪れていた。


 合同練習とあって、各学校の関係者が集まっているようで、駐車場は普段以上に込み合っていた。


 加えて、休日と言うのも相まって家族連れが多く見受けられた。


 運動公園には、大型の運動場に併設される形で、自然を意識した公園がある。


 大型のアスレチック、ちょっとした滝もある広い池。小高い丘から下まで伸びる長い滑り台は、地元では有名な施設となっている。


 山の上にあるとは思えない広い公園で、休日は見ての通り、家族連れが多く訪れる場所だ。


 多くの子供が走り回るのに十分な広さがあり、楽しそうにはしゃぎ回る子供達を横目に、穹は車を出る。


「やっぱり、流石に人が多いね」


 後に続いて車を降りたアヤメが、周りを見てポツリとこぼす。


 普段と違う雰囲気に辟易しているというよりは、流石と言ったように感心している様子だ。


「そうだね。他の学校の人達も集まっているみたいだし」


 アヤメの言葉にうなずきながら、駐車場目の前にある合同運動施設に目を向ける。


 大きな規模の大会を開催するのを想定しているために、運動場もかなりの規模だ。上の方を見るにしても、ちょっと首が痛い位に見上げなければならなかった。


 運動場の周りには、学校の関係者らしい人たちが多く集まってなにやら話し合っているのが見て取れた。


 その中には、穹の通う学校の教師陣もいるようだ。穹に気が付いた何人かの教師が、少し驚きつつも気が付いて手を振ってきた。


 バレるよなぁ、と思いつつ、穹も軽く手を振って返事をする。


「みんないるみたいだし、さっそく向かおうか」


「そうね。こうまで混んでいると、向かうまでも大変そうだしね」


「うん」


 二人連れ立って、運動場へと向かう。


 大きなスタジアムは屋外競技がメインとなるため、二人は向かうのは室内競技用の施設。


 開設されてからそれなりの時期は過ぎているはずだが、建物は綺麗に整えられていた。来客用のスリッパに履き替えて、穹達は施設の中へと入る。


 玄関すぐ先が競技場となっているので、開け放たれた扉の向こうに多くの生徒が見えるから迷うことはなかった。


 他校の生徒も多くいるために、目の前にいる愚痴があるのにも関わらず、入るまでにもたついてしまったが。


「あれ、穹じゃないか。どうした」


 競技場に入ってすぐ、入り口の脇に立っていた教員に穹は声を掛けられる。


 その教員は穹の学年の体育授業を預かる人であり、どうやら室内に残って監督補佐をしているようだ。


 生徒達の練習を見て、怪我が発生しないかを見ているのだろう。確か陸上部の監督は、外で他の学校の監督と話していたはず。


 知らない訳でもないので、穹は笑顔で会釈して返す。


「えっと、朱音ちゃんに呼ばれてきまして。他校の人に顔見せしたいんだとか」


「ああ、あいつなら言いそうだ。今あそこで待機中だから、挨拶するなら今だぞ」


 あそこだ、と言って教員は競技場の端を指さした。


 ざっくりとだが学校同士でグループ分けされているようで、教員の指さした先は、穹達の学校の生徒が固まっているようだ。穹も良く知る陸上部員に混ざって、朱音が居るのも見て取れた。


 生徒同士で雑談していたようだが、入ってきた穹達に気が付いたようで、朱音が会話を止めて大きく手を振ってくる。


 その動きで他生徒も気が付いたようで、穹の登場に嬉しそうに顔をほころばせている。


 教員に再び会釈して、穹は練習中の生徒の邪魔にならないように気を付けながら競技場の端を歩いて近づいていく。


 陸上用のユニフォームを着て練習する生徒の中、私服で現れた穹達は良く目立った。他校の生徒達が物珍しそうに穹達に視線を向けてくる。中にはすぐに穹を察した様で、まるで値踏みでもするかのような目を向ける生徒もいる。


 アウェイな雰囲気をひしひしと感じながら、でも気負いするでもなく、穹は朱音と合流する。


「おいっす、穹っち。来てくれてありがとねん」


「お疲れ様、朱音ちゃん。来て早々だったけど、さっそく見世物にされた気分」


「あっはっは。噂が広まってるのは本当だったでしょん?」


「噂を変な風に広げてないでしょうね?」


「アヤメっち、私にそんな度胸はないよん」


 チクリとアヤメが釘を刺したが、朱音は特に気を悪くするでもなく笑って返した。


 アヤメの物言いに渋い顔をしたのは朱音以外の陸上部員だったので、穹は苦笑いを浮かべながらフォローしていく。


 会話をしていると休憩にちょうどいいと思ったのか、練習中だった他の部員たちも集まってくる。


 大丈夫なのかと思ったが、チラリと教員を振り返ってみても、仕方がないと言った風に肩を竦めている。監督がいないのだからある程度自由が利くのかもしれない。


 それならばいいかと、集まってきた陸上部員達に挨拶を返しながら、軽く雑談を交わしていく。


「あなたが、高丘穹さん?」


 一通り話を終えた頃、不意に声を掛けられる。


 急に声を掛けられて穹は驚いて振り返る。


 穹に声をかけてきたのは、見覚えのない女生徒だった。それも当然で、来ているユニフォームが穹の通う学校の物とは違っている。


 左胸に刺しゅうされた校章には、しかし見覚えがあった。確か隣街の進学校の物だ。


 別に確執があるわけではないのだが、何かと張り合ってくるライバル的な学校だ。学業でも部活動でも切磋琢磨しており、特段仲が悪いというわけではない。良いわけでもないのだが。


 態々声をかけてきた上、他の生徒の姿も見えない。雰囲気的に、向こうの部長か何かだろうか。


 やや高圧的な雰囲気はあるが、因縁を付けられたわけでもないので穹は笑顔で対応する。


「はい、私が高丘穹です。えっと」


「失礼。私は向こうの陸上部で女子部の部長をしている、佐藤よ。噂の穹さんに会えて嬉しいわ」


 佐藤と名乗った女生徒は、高圧的な雰囲気のまま手を差し出してきた。


 握手のつもりだろうか。穹は少し困惑したが、返さないと悪いと思って手を握り返した。


 ただ、その高圧的な雰囲気はなんとかならないだろうか。先ほどから、アヤメの目が鋭くなっていて恐ろしい。


 突然の登場で困惑しているのは、朱音達陸上部も同じようだった。穹が挨拶をしているので何も言わないが、警戒しているのは感じ取れる。


 他校には顔見せる程度で、こうやって挨拶までするのは予定になかった。話と違うと言った風に視線に訴えかけている。


 視線には気が付いているようだったが、佐藤の方は全く気にしていないようだった。


 握手をしていた手を離しても、その場を動こうとしなかった。どころか、まるで品定めでもするかのように穹を下から上をじろじろと観察している。


 不躾な視線に、流石の穹も眉を顰めるしかなかった。


「なにか?」


「いえね。運動が得意だって聞いていたからどんなものかと思っていたけど、随分スタイルもいいのだと思ってね」


 やや遠回しの揶揄に、穹はスッと笑顔が消えた。


 運動公園に来たのだし、穹は普段よりも動きやすい服装をしている。その為に、穹の体つきは服の上からでもよく分かる。


 別に隠すつもりもない穹は気にしていないのだが、今この場でそれを言われるのはいい気分はしなかった。


 スレンダーな体形の方が有利だとは思っていないが、穹のような体形で動けるのかと問われれば挑発にも受け取れる。


 朱音達も言葉の意味をすぐに察して、警戒していた雰囲気が一気に険悪なものになる。アヤメなんかは、視線が殺意を帯びている。


 今にも一悶着起こりそうな空気になるが、先に切り込んだのは穹だった。


「ありがとうございます。まぁ、でも、スタイルと関係なく負けないと思いますよ?」


「へぇ」


 遠回しに揶揄されたお返しに、穹は分かりやすく挑発してみせた。スタイルとは関係なしに本職の人にも負けてませんよと。 


 他校の生徒にかなり失礼な物言いだが、先に失礼を働いたのは向こうだから気を使うつもりはなかった。


 佐藤の方も分かっているのか、穹の挑発的な物言いに気を悪くした訳ではなく、むしろ楽しそうに笑っていた。


 怒るでも無く笑ってみせた佐藤を見て、一瞬穹は眉をひそめたが、それがどういう意味なのかを直後に察することができた。


 なるほど、この人は穹と同種の負けず嫌いな人なのだ。


 あえて空気を悪くして、穹の人物像を図ったのだろう。女子部の副部長を務めるような人が礼儀知らずなはずがない。噂を鵜呑みにせずに、直接穹を見定めに来たのだ。


 どこか不器用なやり方に毒気を抜かれた気がして、言いたいことが言えた穹は満足気に笑った。


 ちなみに今の挑発的な発言は、朱音達陸上部員にも刺さっていたのだが、特に気にした様子はない。


 辛酸は常日頃から舐めさせられているし、物怖じしない発言を穹がするのはいつもなのだ。


 言い返した穹に雰囲気を戻した陸上部員達は互いに苦笑いをしたのちに、冗談交じりに穹にブーイングを飛ばし始める。


 明るくなった雰囲気に満足したのか、佐藤は笑みを柔らかい物に変える。


「今日は残念だけど勝負は出来ないから、次の機会を楽しみにしてる」


「はい、その時はよろしくお願いしますね?」


「ええ」


 わきまえているのか、勝負を吹っかけるような真似はせずに大人しく戻るようだ。


 勝負事となれば受けて立っていたかもしれないが、穹も特に準備はしていなかったのでまたの機会を楽しみするとした。


 軽く手を振って戻っていく佐藤を見送ってから、穹もそろそろこの場を去ろうとする。


 軽いノリになってきた陸上部員からは練習に参加しないかと誘いを受けたが、このような本格的な合同練習に参加するほど穹は出しゃばりなつもりはなかった。


 そろそろ見逃されるのにも時間が経ちすぎている。口では注意しないが、教員はわざとらしく時間を気にし始めていた。


 無言の圧力を感じた陸上部員達が、すごすごと自分たちの練習に戻っていく。


 色々と興味深げな視線を受けながらも、穹は入り口の教員にも挨拶をして競技場を出た。


「くあぁ、ちょっと体動かしたくなっちゃった」


 外に出て、穹は大きく伸びをする。


 出しゃばるつもりはなくとも、合同練習をする陸上部員を見て何も思わない訳ではなかった。


 流石に本格的な練習に参加できるほど、穹は基本が出来ると思っていない。ある程度鍛えている足腰を使って、小手先の技術で誤魔化しているだけだ。


 単純に走るだけなら、負けていないと自負している。しかし、スタートや走る時のフォームなどを細かく見られれば、本職の人からはツッコミの嵐だろう。


 一勝負なら良いにしても、本格的な練習に参加させられれば矯正されるのは確定。


 嫌な訳ではないのだが、部に所属している訳でもなく、ましてや休日に本格的な練習をするのは勘弁してもらいたい。


「ふふ。なんだか熱くなっているようだったから、本当に練習に参加するんじゃないかと思ったわ」


 伸びをしていて自然と出た穹の気持ちの吐露に、アヤメは上品に笑いながら答える。


 穹に対する物言いで色々感情を変化させていたアヤメだが、基本、穹が活躍するのには素直に喜ぶのだ。


 合同練習に参加しないのは分かっているにしても、陸上部に混ざって練習する姿を夢想して期待していたに違いない。


 アヤメの感想に、穹は笑って返す。


「休日の朝から、本職の人達にしごかれるのは嫌だってば」


「ふふ、分かってる」


「でも、体は少し動かしたいから、運動公園の方を少し散歩しようか」


「そうね。カッツェも連れていくの?」


「もちろん。部屋に閉じ込めてばかりだから、ちょっと体を動かして貰わないと」


「部屋猫をいきなり外に出したら、怯えるか逃げ出しそうだけど」


「私から離れないし、普通に外も歩くから、変わった猫だよね、ほんと」


 今回出かけるにあたって、もちろん穹はカッツェも連れてきている。


 出かけるときには渋っていたが、ちょっと強引に抱え上げて穹は連れ出したのだ。


 迎えに来たアヤメには、ゲージにも入れずに連れ出してきたカッツェを見て驚かれた。けれど特に暴れる訳でもなく、移動する車の中でも大人しくしていたカッツェを見て、これなら大丈夫かと了承していた。


 あいさつ回りでは流石に連れてはいけないので、今は車の中で留守番をしてもらっている。運転専属の人も一緒に待機してもらっているので、車内放置で心配されることもない。


 リードも付けずに放つのをアヤメは心配しているようだったが、カッツェがどこぞにふらりと居なくなる心配を穹はしていなかった。


 余計なお世話だろうけれど、日中のほとんどは部屋の中で待って貰っているのだ。休日のこんな時くらいは、広い場所を歩き回って欲しいと思ったのだ。


 のんびりと話をしながら、穹とアヤメは駐車場へと戻ってくる。


 車を見つけると、アヤメは運転手と少し話をする。カッツェも連れて公園を歩くため一人としてしまうために、流石に車で待機させておくわけにはいかなかったからだ。公園内ではあるが、自由にしてもらうための配慮だ。


 アヤメが話している間に、穹は後部座席の扉を開ける。


 助手席側の席で、カッツェは丸まって狸寝入りをしていた。


「カッツェ、公園でちょっと散歩するよ」


 はた目には猫を迎えに来ただけなので、ここで一声かけるのは不自然ではないため普通に声をかける。


 ピクリと片耳を動かしたカッツェは、酷く面倒だと言うのを隠しもせずにもったりとした動作で顔を上げる。


『いやだ、寝てる』


『なんでそんな不機嫌なのさ。ちょっと運動しないと体に悪いよ?』


『人を飼いならされたペットと一緒にしないでもらえるかい? ボクとしては、優雅に惰眠を貪りたいんだ』


『ダメ人間みたいなこと言ってると、いつか本物の猫になっちゃうかもよ?』


『見てくれはもう猫なんだよ』


 言っていて自分にダメージを負ったのか、カッツェは答えるとぐったりと頭を落とした。


 自虐ネタは似合わないと思いながら、穹はカッツェを抱え上げる。


 流石に人の目のある場所では抵抗はしない。と言うより、自分で負ったダメージを引きずって動けないと言った感じだ。


 されるがままのカッツェを可愛いと思いながら、やはり犯罪者の威厳と言うのはないなと改めて思う。


 カッツェを抱えたまま車の前方に移ると、アヤメも運転手と話を終えて合流する。


 その時、ぐったりとしたままのカッツェを見て小首を傾げた。


「なんだか、連れてきた時よりもぐったりしていない?」


「久々の日光で、ちょっと疲れたみたい」


「随分ダメ人間みたいな猫なのね」


『よっし小娘ども。その喧嘩買うぞ』


 穹とアヤメのやり取りを聞いて流石に思う所があるのか、勢いよく顔を上げたカッツェが威勢を放つ。


 とは言え普通に喋る訳には行かない為、念話で穹に苦情を言いつつも、はた目には猫が威嚇しているかのように「シャーッ」と鳴いている。


 ただ演技臭い雰囲気があり、顔造りが出来ていないのでどこか愛らしさがある。


 アヤメは少し驚いているが、本気で怒っていないのが分かっている穹は呆れて笑いながら、大人しくさせるように軽く頭を撫でた。


 猫扱いされるのに不満げにしながらも、威嚇していては余計に猫みたいになると分かっているので、穹の掌に頭を隠されると素直に怒りを収めた。


 一連のやり取りに、アヤメは面白そうに笑う。


「ほんと、仲が良さそうで良かったわ」


「人慣れしているみたいで、私としても世話するのが楽で助かるよ」


『誰が世話になっとるか』


 何気ない会話をしつつ、合間合間にカッツェが食い込んでくる。


 また頭が混乱しそうだなと思いながら、穹は極力アヤメとの会話に集中するようにして運動公園側に向かう。


 人の歩く道は、ある程度の道幅を確保されて丸い砂利が敷き詰められている。気休め程度に砂利が飛び散らないように丸太の返しが設けられて、分岐がしっかりとされていた。


 散歩コースとしても人気で、本格的な恰好をした人もちらほらと混ざっている。砂利の道は公園内を一周するように作られていて、順路案内図もある。


 それ以外は、ほとんどが芝で敷き詰められている。道を外れればアスレチックもあり、広い人工池もある。


 ペットも解放可能となっており、見ている中でも、数々の種類の犬が芝生の中を走り回っている。


 アスレチックからは子供の声も聞こえてきて、歩いているだけでも楽しめる場所だ。


 公園内の道に入った所で、穹はカッツェを下ろしてやる。ようやく穹の腕から解放されて落ち着いたのか、大きく伸びをしてから穹の隣に添うように歩き始めた。


「本当、カッツェって不思議よね。リードも無しに、大人しくついてくるんだもの」


『犬畜生と一緒にしてくれるな』


「……ある意味、犬よりも賢いかもね」


 わきまえてはいるが、アヤメにも容赦なく返すカッツェに笑いながら、穹は可笑しな会話にならない程度にアヤメに返事をする。


 カッツェの言葉にも絶妙に返しつつ答えるが、ぎろりと睨まれてしまった。本人とすれば、犬と比べられて不満なのだろう。


 カッツェ本人は比べられるのは不本意なのかもしれないが、猫が寄り添うように歩くのは、確かに珍しい光景なのかもしれない。


 すれ違う人たちはやはり珍しいのだろう。


 穹の足元で寄り添うように歩くカッツェを見て、驚いたような顔をしたり微笑ましい物を見るような顔をする人がいる。


 分かりやすく見世物になっているのを分かってか、カッツェは隠すでもなく不満な顔をしている。


 寄り添って歩くカッツェに興味を惹かれているのは人だけでなく、公園内で走り回る犬も同様だ。いきなり吠えてくるようなのはいないが、ぴたりと足を止めて観察するようにカッツェを見つめている。


 もちろんカッツェは全く興味を示さず、優雅に歩いたままだった。


 アヤメと話をしつつ、道中は穏やかに進んでいく。


 秋も終わりに近づき涼しくなっているが、今日は日差しもあるために寒いと感じる程ではない。絶好の散歩日和といえるだろう。


 広い公園とは言え、話をしていたり子供たちの声を聞いていたりすれば、ゆっくりと歩いていても順調に進んでしまう。


 ゆっくりと流れ落ちる滝を見ながら木製の階段を昇れば、そこは折り返し地点。ここまでくると走り回る動物たちも少なくなり、人の目を楽しませるように花壇がある。


 季節的も環境維持的にも、今の花壇には何も植えられていなかった。植える予定の花の看板は残っているが、一輪の花だって咲いておらず、自己主張するかのように雑草が生え変わっているだけだ。


 階段を上がった先には、目玉である長い滑り台の搭乗口があり、木製のアスレチックの周りには、子供達が集まって順番待ちをしている。


『ん?』


「カッツェ?」


 穏やかな雰囲気に穹が感慨にふけっていると、カッツェからの念話が飛んでくる。


 何かと思って足元を見れば、カッツェが立ち止まって一点を見ている。


 何事かと思って穹も足を止めれば、アヤメも不思議そうに足を止めた。


「穹、どうかした?」


「カッツェが急に止まっちゃって」


「あらら」


 アヤメに事情を話せば、仕方ないと笑いながら戻ってきて穹の隣に並びなおす。


 カッツェの見つめる先を見れば人工池がる。場所的に言えばここは水源となるため、自然を意識しているとは言え噴水がある。まだ時期的にも水を止めていないようで、大量の水を吐き出していた。


 そしてここは人が入るのも想定している為、遠くから見ても底が見える程に水深が浅くなっている。噴水の周りだけは一段深くなっていて、やや影が濃くなっていた。


 日差しがあるとはいえ、今の時期は水に入る勇者はいないようで、ふざけて手に水を救っているだけに留めていた。


 水の冷たさにはしゃぐ子供の声が、ここにまで聞こえてくる。


 ただ、特別何か珍しい光景があるわけではない。穹の目には、いつもの光景にしか見えなかった。


『カッツェ、どうかし……っ!』


 何かあるのか。カッツェに問いかけようとしたところで、穹は息をのんだ。


 噴水の向こう。穹からは死角になりそうな場所で、人影が動いた気がした。


 それも反対側の岸ではない。大量の水を吐き出す噴水の裏側だ。


 思わず、穹はそこを凝視する。


 見間違い、ではない。確かに噴水の向こう側に人影を見た。二人組の影で、そっと穹を伺っているような。


 睨むように見ていると、それは確信に変わる。影が揺らいだかと思えば、噴水の裏から人影が二組現れる。


 その人影は、しかも良く知ったものだ。何せ毎日見ている。男性と女性の二人組。細身だがスラリと背の高い男性と、まるでモデルかのようなスタイルの女性。


 写真で見た穹の両親そのままだ。


 しかし顔が違う。まるで穹を誘おうかとするかのように、醜悪に歪んでいる。


「お、父さん? おかあ、さん?」


「穹、あれ!」


 理解が追いつかず固まる穹の横で、アヤメが大きな声を出して指を指した。


 意識を取り戻した穹は、引き付けられるようにしてアヤメの指を指した先を見る。


 左斜め前方。視線を向けたその先に、なんと、池の中を歩く男の子がいるではないか。


 小学校低学年ほどに見えるその子は、まるで夢遊病かのように頼りない足取りで池の中を歩いていた。周りで遊んでいた子供達はいち早く気が付いていたが、突然の行動に何も言えなくなっているようだった。


 水は冷たいはずなのに、男の子はまるで気にした様子もなく、だが視線だけはまっすぐに向いている。


 そこは、先ほどまで穹の両親が人影があった場所。


 今は二人の影は見えないが、今は一つの影だけが佇んでいる。まるで男の子を誘っているかのように。


「親はっ」


 明らかに異常事態。男の子の保護者らしき人を探して、周囲の大人を見る。


 しかしタイミングが悪いのか、周りに大人は全員、雑談や自分の子供の面倒で池に目を向けていない。


 こんな寒い時期に池に入るわけがない。そんな無意識の油断が生んだ隙が災いし、誰も池に入った男の子に気が付かず、穹の目から見ても誰が保護者か分からない。


 まさか。


「ぎゃあ!」


 カッツェの何かに気が付いた様子。そして謎の人影。二つの要因を結び付けて、穹が一つの可能性を思いついた。


 そしてその可能性に思い至ったのとほぼ同時、池の中から悲鳴が上がる。


 視線を戻せば、噴水傍にまで近寄った男の子が頭まで水に沈んだのが見えた。


「ちょ、穹!?」


『おい待て穹!』


 可能性に思い立ったのと同時に、穹は走り出していた。


 アヤメとカッツェの制止するかのような声が聞こえたが、穹は止まらなかった。


 咄嗟に靴だけは脱ぎ捨てつつ、躊躇い無く池に足を踏み入れた。


 時期外れの水の中は、冷たいを通り越して痛いくらいだった。刺すような冷たさが足の感覚を奪い、穹の体温を一気に奪う。


 全身を走る冷たさに穹は顔を顰めるが、足は止めずに走り抜ける。


 全力で走れば、噴水まではすぐだ。


 暴れる男の子が頭を上げた瞬間、穹は腕を脇に差し込んで沈むのを防ぐ。


 子供が入るのを前提とし、一段深くなっていると言っても、これくらいの子供が入ったとしても腰に届く程度の深さしかない。それは穹も良く知っている。


 なのに男の子は全身が濡れていて、今も支えているはずなのに胸の所まで男のは水の中に沈んだままだ。


 力を込めて引き抜こうとするが、何かに引かれているようにビクともしない。


 この感覚を、穹は知っている。これは桜の木公園の時と同じ。


 つまり、ここには『影』がやはりいたのだ。


 歯を食いしばりながら男の子の足元を見れば、影が一段と濃くなっている。


 男の子の足は濃くなった影の中に、ふくらはぎの半ばまで埋まっている。


 見ている傍で『影』蠢き、その範囲を拡大させる。踏ん張るために突き出していた穹の右足に絡みついたかと思えば、同じように引きずりこもうとするではないか。


 不味い!


「お願い、力を貸して」


『……う、ん』


 このままではダメだと判断した穹は、ほんの少しだけ力を解放する。


 胸元で風の結晶が光り、腕輪の状態にしないまま、風の力を使役する。


 風の意思も穹の意図をくみ取り、その状態のまま風を集め始めた。妙な力の使い方をしたために不快感が穹を襲うが、歯を噛みしめて耐える。


 穹の周囲で風が充分に集まると、まるで一つの弾丸のように水面に向かう。勢いで水を吹き飛ばし、少しでも『影』の力を削ごうとしたのだ。


 風が水面に叩き付けられる。しかしその勢いとは裏腹に、風は水面を軽く叩いただけだった。


「えっ!」


 予想と違う出来事に、穹は驚きの声を上げる。



 力は不十分だったとはいえ、木の葉を払いのけた時と同じような力はあったはずだ。


 何が違うのか。ビクともしなかった水面を驚いて見る。


『おい穹。大丈夫か』


 硬直する穹に、カッツェの念話が届いた。


 声をかけられた穹は、見える範囲でカッツェを探す。


 池の周囲には人が集まっている。大人から子供まで驚いたように穹と男の子の様子をうかがっている。水の中にいる二人をどうすればいいのか、図りかねているようだった。中には、口元を抑えて唖然としているアヤメも見える。


 二次被害もあり得る為、周りの人達はそのままでいてくれ。内心で祈って視線を巡らせる。


 カッツェは、人ごみの向こうから穹を見ている。珍しい毛並みなので、人垣の向こうでもすぐに見つけられた。


『カッツェ、風で水をどかそうとしても、ビクともしなかった!』


『バカ! 水の中に風が届くわけないんだから当然だろ!』


 穹がしようとしたことをカッツェに伝えると、カッツェがそう返してくる。


 よく考えてみれば、それは当然の話だ。


 穹が使う魔法は、ある程度人の意思が反映されているとは言え、自然現象なのは変わらない。


 当然、水の中に空気の流れなど存在しない。ある程度水面を動かせるとしても、水面上から風を通せる訳がないのだ。


 これは咄嗟に出た、穹が魔法を現代の物と勘違いして発生したミスと言える。


 当然の話と分かったが、もちろん穹は慌てた。


 水の中にいる相手に対して、穹は対応する手段が余りにも少ない。考えなしに飛び込んでしまったがために、事実を言われて慌てるしかなかった。


『カッツェ、どうすれば』


『大地よ。彼女を助けるために、その身を揺らせ!』


 穹が助けを求めるより先に、カッツェは言葉を唱える。


 カッツェの足元に発光する陣が広がると、地面が揺れ始めた。


 突然の地震に、周囲を囲っていた人達は慌て始める。強い揺れではないが、立っていても分かる程に揺れが発生すれば

、驚きもするだろう。


 何をするのか。穹は尋ねようとするが、それより早くその事象は発生した。


 穹の足元から軋むような音が聞こえたかと思えば、池の底に亀裂が入る。地面の揺れと一緒に亀裂は大きくなり、穹の指くらいは入りそうな幅となる。


 亀裂はちょうど、一段濃くなった影を分断するかのように走った。


 その為に力が分散されたのか、穹と男の子の足を覆っていた『影』の力が緩んだ。


 これなら行けると、穹は更に力を込めて男の子の体を引き上げる。


 僅かな抵抗の後、穹の右足と男の子の足が『影』の中から引き抜かれる。


 体のバランスが崩れて後ろに倒れそうになるが、なんとか堪えつつ穹は『影』から離れた。


 僅かに何かを探るように『影』は蠢いていたが、範囲は広められないようで、次第に大人しくなって最後は動かなくなる。


 地震も止まって、立ち上がった穹に周囲の大人達が声をかけてくる。ひと際声を大きくして声をかけくるのは、この男の子の保護者だろうか。


 一連の出来事に一息つきながら、ゆっくりと岸辺に近づいて、必死に声をかけてくる保護者らしき人に男の子をあずけてやった。


 周囲の大人達が次々と声をかけてくる中、押しのけるようにしてアヤメが現れた。


「ちょっと穹! 大丈夫だった!?」


「うん、私は、平気。平気、だよ」


 けれど、アヤメに返事をする穹は上の空だった。


 必死なアヤメに素っ気なく返事をしながらも、穹の目は噴水を見ている。


 水の底面には亀裂が発生しているが、水面は穏やかで、噴水にも目立った破損はない。今の騒ぎが嘘であるかのように静まっている。


 もちろん、そこに二人の影は見当たらない。


 だが穹は、両親の影が見えていた場所をじっと見つめている。


 その顔には、はっきりと分かる程の怒りを抱えて。


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