「そういえば、今朝これを見つけたんだ」
食後のお茶で食休みをしながら、穹は今朝見つけた指輪をアヤメに見せる。
基本、この学園はアクセサリー類の着用は禁止なので、不良学生を目指していない穹は、誰の目にも見られないように注意しながら首から下げていた指輪を外す。
禁止と言っても、注意を受けるだけだし、没収もされない。見つけた教師の目の前で外して、ポケットやバッグに仕舞えば許されると言った、軽度な罰がある程度だ。
もちろん、目に余るようならば、進学校よろしく教師に納得して貰えるまで論文地獄が待っているのだが。
「へぇ、小さいけど、綺麗な指輪だね」
受け取ったアヤメは、様々な角度から指輪を眺め始める。
青空の下で改めて見てみても、実に見事な作りの指輪だった。太陽の光に照らされて、金糸の一本一本が光を照らし返している。
だから余計に、中途半端に空いた穴が余計に目立って見える。
元々空いていたのだろうし、指輪と言う関連性から、何か宝石に様な物が取り付けられていたのだろう。
ただ、様々な宝石類があるのは分かるが、あのサイズの宝石と言うのは加工できるのだろうか?
普通の指輪に取り付けられているダイヤモンドを見る機会はあるが、あの類の宝石もかなり小さい。ミリ単位のサイズで、ここまでしっかりと加工されているものだと感心したものだ。
そう言った加工技術に驚かされるものの、この指輪に入れられる宝石などあり得るのだろうか?
中学生女子の小指に、辛うじて入る程度の指輪だ。対して太さのある指輪じゃない中に、針で開けたかのような小さな穴。もはや、宝石どころかゴミだって詰まらないのではないのだろうか?
しかし、金糸の集まり具合から見ても、その穴には何かしらの意味があるのだろう。見つかるとは思えないし、これだけ小さな穴に入っていた何かだ。時々行われていた掃除の時に巻き込まれてしまった可能性もある。
探してみようとは思うが、見つけられるとは思っていなかった。
アヤメもそこが気になるのか、その小さく開けられた穴を熱心に見つめている。表面の意匠を目を凝らしてみるだけでなく、裏側をのぞき込んで何か彫られていないかを調べている。
穹は確認していなかったが、指輪の裏側には何も彫られていなかった。表面と同じように、細かで精巧な意匠があるのみ。最低限、この指輪が結婚や婚約を目的とした指輪でないことが分かる。
ただ、それ以上の事はこの指輪からは分からなかった。何かに納得したように頷いたアヤメは、壊れ物でも扱うかのようにそっと穹に返した。
受け取った穹は、誰にも見つからない内に首に下げると、制服の下に仕舞った。
「そうだ、今日は泊まりに来られるんだよね?」
中身のなくなった弁当箱を片付けながら、アヤメが尋ねる。
本日は金曜日。明日は基本的に座学はない休日だ。進学を控えた学生は明日も当別講習があるし、部活の者もいる。
特定の部に所属していない穹は部活には出ないし、明日は助っ人をお休みしている。小遣い稼ぎに通っているお店の方にも、明日は一日はお休みを貰っていた。
アヤメの方は、特にこれと言った事情はないのだが、義務と言う訳でもないので、休日講習は取っていないし、部活にも所属していなかった。
進学を意識するのはまだ先なのもあって、二人は二日ある休みを十分に楽しむつもりだ。
存分に穹の誕生日を祝うために、アヤメの家に泊まると、事前に約束していたのだ。
「うん。大丈夫だよ」
はにかんで穹は答えるが、少しして、その笑顔に影が差した。
と言うのも、もちろん外泊するに至って、三柴家の両親にも話をしたのだ。
久しぶりにきちんと話をしたと言うのもあり、緊張もしたのだが、それよりも気になったのは誕生日をどうするのかだった。
もしかしたら、今年は祝ってくれるかもしれない。そのつもりだったと言ってくれるかもしれない。
そういう、勝手な思いがあったのだ。
そうなれば、アヤメを逆に招待して、三柴家で祝うと言うのも考えてはいた。
結果、そうはならなかった。アヤメの家に泊まっていいかと相談した所、いつものよそよそしい笑顔を浮かべて承諾してくれた。
ああ、やっぱり今年も祝ってはくれないんだ。
期待を裏切られたと言う、これも勝手な逆恨みのような感情を抱いてしまう。思い出して、それが表情に出てしまったのだ。
ままならない思いを噛みしめるように、穹は苦笑いを浮かべてお茶に口を付ける。
そんな穹の表情を見て、アヤメは何かを言いたそうな顔をした。しかし、穹が触れてほしくない空気を出したため、それ以上何も言えなくなってしまう。
雰囲気で察したアヤメは、ならばと、穹が泊まれるのを素直に喜んだ。
「良かった。なら、今夜の夕食は気合を入れて作るからね!」
「あ、はは。まぁ、お手柔らかに」
握り拳を掲げて気合を入れるアヤメを見て、穹はまた苦笑いを浮かべた。
お昼でこれなのだから、夕飯はその言葉通りに気合の入った料理が出てくるだろう。量も覚悟しなければならない。
小食と言う訳でもないし、運動する分、平均的な女子よりは食べる穹だが限界はもちろんある。お腹の中に入った料理が、夕方までに完全消化されるのを祈るばかりである。
お茶を飲みほした所で、空はふと気づく。泊まりに行く前に、行かなければならない場所を思い出したからだ。
「そうだ。アヤメちゃん」
「なに?」
「帰りに行きたい所があるから、寄り道してもらってもいいかな?」
誕生日を祝ってくれると言うのを楽しみにしながらも、穹は自分の要望を口にする。こういう時はアヤメの送迎にお邪魔させてもらうために、伝えておかなければならなかった。
それは、今日と言う日だからこそ、行かなければならない場所。泊まりに行く前に、用事を済ませてしまいたかったのだ。
事情を知っているアヤメだ。それだけで穹がどこに行きたいのかが分かったのだろう。片づけをする手が一瞬止まる。
「うん、いいよ。他に、どこか寄るところある? 伝えておかなきゃならないから」
「じゃあ、フラワーショップにもお願いしよっかな」
「分かった」
詳しい行先は聞かないまま、アヤメは答えながら片づけを終える。それを見てから、穹は椅子から立ち上がった。
休憩もそろそろ終わる。教室に戻った方が良いだろう。
教室に戻る間も穹とアヤメは気兼ねなく会話をし、教室に戻ってからも他のクラスメイト達と話をする。もっぱら先ほどの体育が話題に上がり、ちょっとした英雄みたいな扱いだった。
みんなから贈られる称賛に、穹はこそばゆい思いをしながら、自分の席に着くと授業が始まるのを待った。
午後からの授業は、とくにトラブルらしいトラブルは無かった。困ったとすれば、体育と昼休憩と続いたので、何人かの生徒が夢の世界に旅立ったくらいだろうか。
かくいう穹も、眠りはしなかったものの、何度も欠伸を噛み殺しながら授業を受けていた。
教師も見慣れた光景と言うか、恒例行事みたいなものと割り切っているのか、たたき起こすような真似はしなかった。ただ、起こすでもなく授業は続けられていたので、巻き返すために何人かの生徒が泣いたくらいだろう。
平穏無事な午後の授業を終えて、クラスメイト達はそれぞれ行動に移す。
部活動に関しては強制されていないため、動きはまちまちだ。半分以上が部活に所属していて、各所属部の道具を持って忙しく教室を出ていく。残りのクラスメイトは、のんびりと授業道具を片付けながら、放課後の過ごし方を相談している。
と言っても、ここは進学校。かつ、娯楽の少ない地域だ。帰った後に、自主勉強の場所について話しているのがほとんどだ。
普段であれば、穹もそれらに混ざっているのだが、今日は違う。アヤメと二人で先んじて教室を出ると、目的地に向かう。
校門から少し離れて停車しているアヤメ宅の車に乗り込むと、滑るように車は発進する。
学校の時とは違い、今は会話は少ない。特に悪い空気と言う訳でもないのだが、独特の空気とでもいうのだろうか。会話をしようと言う感じでもなかった。
穹がそんな雰囲気を出しているため、アヤメも無理に会話をしようとしなかった。時間潰しに、文庫本を読み進めている。
意思をくみ取ってくれたアヤメに内心で感謝しながら、穹はぼんやりと窓の外を眺める。
商店街の脇を通り過ぎて、朝の通学路でよく見る一本桜の公園を通り過ぎる。要望通りにフラワーショップに寄り道をして、造花を購入するのも忘れない。
次第に家は少なくなっていき、木が多くなっていく。
穹の住む地域は開発が進んでいるわけではないため、少し住宅街を過ぎると、こうして木やむき出しの地面が目立ってくる。砂利だらけの道路に入った事で、車の振動が大きくなった。
学校からはそう離れていないため、目的地はそろそろだろう。横に向けていた視線を、今度は正面に向ける。
若い女性の運転手の後ろ姿を見ながら、正面に見えてきた小高い丘を見る。
一番高い場所には独特の建物があり、その脇には特徴的な石の建造物が綺麗に並んでいる。
所謂それは墓石であり、そこは神社だった。
車は再び舗装された道路に入る。と言っても、長年整備されていない為に劣化が進み、車幅にアスファルトは凹み、轍のようになっている。
神社までは車が通れるようになっていて、やや急な坂道を進んでいく。ちょっとそれに緊張しながら、穹は到着するのを待った。
神社の前には駐車スペースがあるが、収容できる台数は多くない。普通車が六台も停まれば満車になってしまうだろう。幸い、平日というのと、特別な日と言う訳でもないため一台も停まっていなかった。
アヤメ宅の車は、三列に並ぶスペースの真ん中に車を停める。完全に停まったのを確認してから、若い女性の運転手は穹を振り返って頷いた。
お礼を言って穹も頭を下げると、アヤメに一言告げてから車を降りる。
待ってくれるし、ゆっくりで良いと言われたが、穹はなるべく早く帰ると告げて歩き出した。実際、一言報告する位だから、時間はそれ程かからないだろう。
購入した造花を片手に、穹は来た道を戻って降りていく。本当は通ってきた道路の脇に出入り口があったのだ。
対した手間でもないし、少し歩きたい気分でもあるので、途中で止めて貰わなかったのだ。
少し肌寒くなってきた風を肌で感じながら、歩きなれた道を穹は歩く。
外観から見た限りでは、整然とした印象を受けえた墓場だったが、中に入ってみるとそれ程ではなかった。元々は綺麗に並べられていた跡はあるのだが、増築や災害で立て直しを繰り返しているために、入り組んでいる印象が強い。
まるで簡単な迷路を歩いている気分になりながら、穹は目的の場所に着いた。
その墓石は他の墓石に比べて、まだ新しかった。時間経過での汚れはあるが、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
墓石には黒い文字で『高丘家ノ墓』と書かれている。
ここが、穹の両親の遺骨が入れられている墓だ。
もちろん、高丘家代々の墓もあるにはある。実際、春美の遺骨はそちらに入れられる予定だった。
ただ、嫁入りした冷夏の遺骨を入れる墓がなかったのだ。
どうも冷夏の出自が分からなかったのが原因だったらしい。二人の出会いは詳しく聞いている人がおらず、春美が海外に出張した先で出会ったとしか聞いていなかった。
当時結婚した時も揉めたようで、春美は半ば離縁するような形で結婚を押し切ったらしい。実家と絶縁までいかなかったのは春美の人徳と言えるかもしれないが、天涯孤独となった穹を引き取らなかった程度には、よくは思っていなかったようだ。
共同墓地に入れると言う話も合ったそうだが、三柴家がそれを止めて、二人の墓石を代わりに用意してくれたのだ。
残念ながら、春美の実家の墓石と同じ場所と言う訳にはいかず、こうして、この街の墓地に入れられている。
ただ、穹は感謝していた。なぜならこうして自分の意思で来られる場所にあるし、二人が死後も一緒に居られるからだ。
うすぼんやりとしか記憶にないが、二人はとても仲良しだった。周りに聞いても、幼い子供がいるのにもかかわらず、まるで新婚夫婦の様だったと口をそろえて言われる。
だからきっと、骨だけになっても一緒に居たかっただろう。死後の世界があるかは分からないが、向こうでもきっと仲良くしているに違いない。
穹はそんな二人を想像して口元に笑みを浮かべると、墓周りの整理を始めた。
こちらにはそんな頻度では訪れていない。多くて月に一回。あるいは、特別な何かがなければ、三か月に一回と言った程度だ。
そうすると、墓の周りには自然と葉っぱなどが散らばってしまう。住職が定期的に回って穹が備えていった物などの片付けているようだが、それ以外は手つかずのままだ。
待たせているのもあり、周りに落ちている葉っぱや、転がり込んでいた石を除ける程度で掃除を終えて、穹は墓石の前で手を合わせる。
今朝も仏壇の前で手を合わせて報告しているため、特に言葉はない。ただ、手を合わせて死者を思うだけ。自分がまた誕生日を迎えたのだと、思うだけ。
死者からの祝いの言葉などない。ただ石に向かって手を合わせているだけ。やっているのはただそれだけ。
けれどこうしている間、両親に近づけているような気がするのだ。
仲良しの二人の間に割って入って、話している気分になる。その錯覚が、穹を自然とここに足を運ばせているのかもしれない。
時間はそれ程立っていない。長くても一分か二分ほどだろう。一つ深呼吸してから、穹は目を開いて手を下した。
やはり無言のまま、穹は墓石を見上げる。今朝は仏壇では不思議な発見があったが、こっちでは特に何もない。いつも通りの場所だった。
なんだがそれに安堵して、穹は一度、差し込んだ造花の位置を整える。なんとなく全体を見渡して、何かを納得したように頷いた。
「それじゃ、お父さん、お母さん、また来るね。早ければ、冬休みの前位には来るから。期末テストの結果の報告も出来ると思う」
小さく手を振って、穹はその場を離れる。少し感傷的になってしまっているが、結局は何度も訪れている場所だ。特に振り返りもせず、待たせているアヤメの元に向かう。
石畳に戻り、大きく伸びをする。その時だった。
風が吹いた。
ーーーあっち
「え?」
声が聞こえて、穹は思わず左右を見渡した。もちろん、ここには穹以外には誰もいない。
しかも今聞こえた声は、普段集中したときに聞こえるあの囁き声だったような気がする。
驚きはしたものの、それほど恐怖は感じなかった。その驚きも、声が聞こえた驚きと言うよりも、単語としてはっきり消えたと言う驚きが強かった。
集中していたわけではないから、体が軽くなったような感じはしない。にもかかわらず聞こえた声に導かれるようにして、風が吹き抜けた方向を見る。
天気は良いが、季節柄風はあまり強く吹いていない。精々肌に感じられる程度で、服や髪を揺らすほどでも無かった。
しかし今の一瞬だけ、下に落ちた木の葉を揺らぎ動かす程度には強く吹いたのだ。これにはきっと何か意味があるに違いない。
言葉の意味はよく分からなかったが、その先に何かあるはず。穹はその何かを確認するべく、出入り口とは逆の方に向かって歩き出した。
見える先にあるのは、掃除用具が置かれている小屋と小さな手水舎があるだけだった。小屋と言っても屋根と柱があるだけで、掃除用具も無造作に置かれている。手水舎も、一個だけある柄杓が置いてあるだけで、特段変わった所はなかった。
考え過ぎだろうか?
もしくは気のせいだったのかもしれない。周辺を探してみて何もなかったのを見て、穹は少しの引っ掛かりを覚えながらもそう結論付けようとした。
ーーーあっち
その時になって、また声が聞こえて風が吹き抜けた。間違いないと改めて思いなおして、風の吹き抜けた方へと顔を向ける。
奥には更に墓地が続いており、こちらは古い墓石が多いのか、崩れて倒れている墓石が目立った。
その中に石畳が続いている。少しためらったが、穹は大きく息を吐いて覚悟を決めると、石畳を踏みしめながらその先に進んだ。
細い木が並んでいて見えなかったが、そこには祠が一つあった。こちらは手入れがされているのか、赤い前掛けをした小さな地蔵菩薩が、寂し気に佇んでいた。
何度か訪れているが、このような場所があると知らず、何となく地蔵菩薩を見つめてしまっていた。
だから、その地蔵菩薩の前にいるそれに、気が付くのが少し遅れてしまう。
三つしかない階段の下に、それはいた。毛むくじゃらで丸まっているので全容は分からないが、特徴的な尻尾がひょろりと飛び出ている。呼吸するように肥大と縮小を繰り返しているので、どうやら生物であり、生きてはいるようだった。
遅れて気が付いた穹は、もっとよく見ようとその生物に近づいた。
尻尾を見る限り何となく察しては居たが、見えない位置に隠れていた頭部にある、特徴のある三角の耳を見てその生物の正体に行き着いた。
「えっと、猫だよね、多分」
紛れもなく猫と言える特徴を持っているが、穹はやや自信がなさそうだった。
と言うのも、耳と尻尾を見る限りでは、猫であるのは間違いない。けれど、種類を特定するのは難しそうだった。
大抵の野良猫と言うのは雑種だし、日本の野良猫は特徴が似通っている。全身の毛が短くて、白や茶色がほとんどだ。
なのに目の前の猫は、妙に毛が長い。確かに毛の長い猫は居るが、それとは違う違和感がある。そして、全身が赤茶色の中で、妙に長い毛先と、耳と尻尾の先端辺りが黒くなっているのも特徴的だ。
野良猫と言うのには、余りにも不自然な種類だ。
どこからか逃げ出したのだろうか?
不思議に思っていると、穹の声に反応して、猫の耳が片方動いた。
それからのっそりと、猫は顔を上げて穹を見上げてくる。すぐに逃げないところを見ると、人には慣れているようだった。
すっきりとした顔立ちの、美麗な顔立ちの猫だった。まるで品定めでもするかのような鋭い眼光。切れ長の瞳は、まるで宝石のような琥珀色をしている。
威嚇するでもなく、穹をじっと見つめている。
これはこれで反応に困った穹は、とりあえずコミュニケーションを取ろうと、腰をかがめてその猫と視線を合わせてみる。すぐに逃げないにしても、警戒して欲しくなかった。
だが、これにはさすがに猫も反応を示した。素早く立ち上がると、歯を見せて威嚇し始めたのだ。声は出していないが、じりじりと、穹から距離を取ろうとしている。
少し残念に思う穹だったが、その猫の足元を見た時、すぐに驚愕に変わった。
「ちょっと、君、怪我しているじゃない!」
立ち上がるまで分からなかったが、猫の寝そべっていた下は血だまりが広がっていた。見れば、左前脚の付け根辺りから大量の血が流れ落ちた跡がある。長い時間放置していたためか、毛に付着した血も、下に広がった血も、固まって変色している。
幸い今は出血は落ち着いているようだが、致死量に迫っているのには間違いない。寧ろよくこれで動けたものだと感心するほどだ。
大声を出した穹だが、猫を刺激してしまってはいけないと判断し、一度深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
野生かは分からないが、相手は猫だ。大きな声を出したり慌てたりすれば、興奮して逃げてしまうかもしれない。出血量からしても、前脚の怪我は治療が必要だ。
見てしまった以上、放置しておけない。
「大丈夫。すぐに治して貰える人の連れて行くから、落ち着いて、私と来てくれないかな?」
柔らかく、声量を抑えながら穹は改めて語り掛ける。
刺激しないよう、できるだけゆっくり。続いて差し出した手も、ゆっくりと下げ気味に近づけて、出来るだけ敵意がない事をアピールする。
しばらく警戒していた猫だったが、穹の思いが伝わったのだろう。瞳から敵意が消えて、体から力を抜く。
ただ、そこまでだった。気力がなくなったからだろう。四肢からも力が抜けて、その場で倒れた。
広がった血の量を見る限り、かなりの量を流してしまっているはずだ。死んでいなかった方が驚きだ。警戒の為に勢い良く立ったのが悪かったのだろう。猫はそのまま、死んだように気を失ってしまう。
「た、大変!」
倒れた猫に驚いて、穹は慌てて近寄った。
幸い呼吸はしているが、今の倒れた勢いで傷口が開いてしまったようで、乾いた血の上に、また新しい血が広がっている。
これはすぐにでも治療しないと、本当に死んでしまう。
本当は動かすのは危ないのは分かっているが、今は一秒でも時間が惜しい。空はすぐに連れていく決意をする。
手荷物や鞄は車に置いてきてしまっているが、幸い、造花を包んでいた紙がある。直接触れるのは猫の体にも悪い。応急で包装紙に包むと、穹は立ち上がる。
なるべく揺らさないように気を付けながら、穹は走った。あれこれ連絡するよりも、アヤメの所に急いだ方が早いと思ったのだ。
速く。可能な限り速く。でも猫に負担を掛けないよう、出来るだけ揺れないように意識しながら。走るのにここまで集中したのは、これが初めてかもしれない。
耳元で心臓がなっているのではないかと思う程、鼓動はうるさくなり、周りの景色が色あせて見えるくらいだった。
砂利の道を抜けて、緩やかな坂道を走り抜ける。
車は増えておらず、駐車場にはアヤメ宅の車一台だけだった。その事に感謝する間もなく、穹は車の後部座席の扉を勢いよく開いた。
「アヤメちゃん、この子を病院に、急いで!」
乗り込みながら、穹は息を切らせながら叫んだ。
突然を大声を上げて飛び込んできた穹に、アヤメは最初驚いて固まっていた。読んでいた文庫本を落として呆けた顔をするアヤメは、とても珍しい光景だった。
それも一瞬。穹が腕に抱えている猫を一瞥し、アヤメはおおよその事情を察したのだろう。詳しい事情を尋ねる前に、アヤメは女性の運転手に指示を出して出発を促した。
女性の運転手も詳しくは聞かず、穹が扉を閉めたのを確認すると、エンジンを始動して即座に車を発進させた。
包装紙から猫を出して、穹とアヤメは、新品のタオルなどを使って、可能な限りの応急手当てを開始する。その間、穹は優しく猫を撫でながら、励ましの言葉を送り続けていた。必死なその姿は、どこか焦っているようにも見えた。
まるで他人事とは思えない必死な形相。悲痛な面持ちに、撫でられている猫は、薄っすらと瞳を開いて見上げていた。
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