僕は、グラナを奪われたその日の夜、疲れ果て、冷たい泥のように静かにぐっすりと眠った。
そして朝。いつもよりも遅めに目が覚めた気がする。
あーあ。よく寝た。明日旅に出るから、今日はみんなに挨拶をしなくちゃ。
ふと、ベッドから出ようとした時、胃のあたりが、頼りない感じがした。
……みんなに挨拶する前に、朝食を食べよう。
僕は、動きやすい服に着替えてから、食堂に向かった。
その途中に、前から、黒い整った服を着た人が歩いてきた。
頭に髪は一本も無く、そのくせ、鼻の下にちょびっと髭を生やしているその人は、
執事のバラスだ。
「王子、起きていらっしゃいましたか。」
「お食事の準備が整っていますので、食堂へどうぞ。」
「今行くところだったんだ。」
「そうでございますか。それは失礼いたしました。」
そう言い、バラスは、振り返って、僕を案内するかの如く、食堂がある方向へ歩き出した。
旅に出ると、バラスとも、もう会えなくなるのか。淋しいな。
僕が、物心ついた時には、既に執事をやっていたから、父上や母上と同じぐらい、一緒に過ごしてきたんだ。
「ねぇ、バラス。」
呼びかけると、前を行くバラスは、僕の方に、クイっと体ごと振り向いた。
「実はさ、明日から旅に出ることになったんだ。」
「誠でございますか!?それでお帰りはいつになるのですか?」
「詳しくはわからない。」
「でも、目的を果たしたら、帰ってくるよ。」
「そんな……急に。」
バラスは、すごく落ち込んでいるように見える。
それに、目にキラリと光る涙も浮かべている。
それを見て、僕も泣きそうになったが、なんとか堪えた。
「泣かないでよ。絶対に帰ってくるからさ。」
「……わかりました。このバラス、何年でも何十年でも待っています。」
「ありがとう。」
バラスは目の涙を、ポケットから出した真っ白な布切れで拭き取った後、再び、食堂がある方向へ歩き出した。
僕もそれに続いた。
目の前には、バラスの、猫背が染み付いた背中しかない。
しばらく歩くと、食堂に着いた。
食堂の中に入ると、まるで、小さな橋のような、白くて長い机が置いてある。
とても高級なやつらしい。昔、父上が言っていた。
次にこの机で、食事をするのは、いつになるんだろう。
そこに、イスを引いて待っている一人の女性がいた。
「どうぞ王子。」
茶色い髪に茶色の目。白と黒のヒラヒラした服を着ている。
「ありがとう。リラ。」
そこに居たのは、メイドのリラだ。
僕は、リラが引いているイスに座った。
どうしよう、旅に出ることを、今、リラに言った方がいいのかな?
「それでは、朝食を持って参ります。」
あっ……。
僕が悩んでいる間に、リラは、部屋を出て行ってしまった。
完全に言うタイミングを逃してしまった。
リラには、いつ挨拶すればいいんだ?
それか、一層のこと、リラには、言わない方がいいのかな。
そんなことを思っていると、リラが朝食を持って、食堂に入ってきた。
僕の前に、焼いた猪肉を挟んだルティと、フルーツジュースを置いてくれた。
ルティとは、小麦粉を薄く伸ばして焼いたもの。それだけで食べてもほとんど味はしない。
「どうぞ。お食べくださいませ。」
僕は、ルティを手に取り、口いっぱいに頬張った。
すると、猪肉の肉汁が溢れ出し、ルティに染み込んだ。
それ単品では、ほとんど味がしないルティだからこそ、猪肉の肉汁の味が100%感じられる。
最高にうまい。
黙々と食べ進め、最後の一口を惜しみながらも、口に放り込んだ。
その後、フルーツジュースを一気に飲み干した。
ふー、うまかった。
やっぱり、リラにも報告しておいた方がいいな。
僕は、イスから立ち上がって、リラの方に向いた。
「あのさ……。」
「はい。なんでございましょう。」
リラは、キリッとした顔をしている。
「実は……明日から旅に出るんだ。」
「……そうでございますか。」
それだけ!?確かに、バラスほど付き合いは長くないけど、それでも少しは、ショックを受けて欲しかったな……。
「それだけでしたら、食器を片付けさせていただきます。」
そう言った時のリラの目は、僕を捉えずに、どこか遠くの方を見ている感じだった。
「……よろしく。」
リラが、食器を持った途端に、食器同士がぶつかった時に聞こえる、カンカンカンカン、という高い音が聞こえてきた。
手が震えているのか?
リラは、その音を立てたまま、食堂のドアへ向かって、スタスタと歩いている。
僕は、服についた、ルティの細かいカスを払おうとして、イスを立ち上がった。
その瞬間、騒がしい破裂音が聞こえた。
僕は、咄嗟に音のした方を振り向いた。
そこには、割れた食器の破片が、散らばっていた。
リラが、食器を床に落として、割ってしまったようだ。
でも、普段は食器を割るなんてミスしないのに、どうしたんだろう。
まぁ、いいや。そんなことより……。
「手伝うよ。」
食器の破片を掃除しているリラに声をかけた。
だが、リラから、何の反応もなかった。
どうしたんだろう?
僕は、リラの顔をぐっと覗き込んだ。
リラ、どうしたんだ!
リラの目は潤んでいて、赤くなっている。
「割れた食器で怪我でもしたのか?」
リラは、首を横に振った。
「……王子が旅に出てしまうのが、寂しいのです。」
食器を持った時、手が震えていたのも、食器を割ったのも、みんなそれが原因だったんだ。
僕は、いつのまにか、リラを抱きしめていた。
「ありがとう。こんなに僕のことを思ってくれているなんて、知らなかった。」
「絶対、帰ってくるから、それまで待っててよ。」
リラは、ワーワー泣き声を上げながら、頷いている。
リラの気持ちが落ち着いた後、二人で、割れた食器の破片を掃除して、僕は、食堂を後にした。
次はミラールに、報告しなくちゃ。
僕は、医務室に向かった。
「コンコン。」
「どうぞ。」
医務室のドアをノックすると、中からミラールの声が聞こえてきた。
僕は、嬉しくなって、勢いよくドアを開けた。
「ミラール!」
「王子!」
そこには、体に包帯を巻いて、ベッドで横になっているミラールがいた。
僕は、小走りで、ミラールのいるベッドの横に行った。
「まだ、痛むか?」
「ええ。まだ少し……。」
昨日刺されたんだ。少しなんかじゃないに決まっている。
それでもミラールは、僕に、微笑みかけてくれている。
そんな姿を見ていると、胸が痛くなってきた。
「ごめんミラール。僕のせいでこんな大怪我……。」
「気になさらないでください。むしろ私は、体を張って、王子を守れたことを、誇りに思っています。」
ミラールは、優しい男だ。僕を傷つけないように、こんなことを言ってくれているに、違いない。
そんなミラールのためにも、頬に大きな傷があるあの兵士を倒して、グラナを取り返さなければならない。
「ねぇ、ミラール……。」
ベッドで横になっているミラールは、首だけ僕の方に向けた。
「僕……明日から旅に出るんだ。」
「何ですって!?」
ミラールはベッドから飛び起きた。
それぐらい、僕が旅に出ることは、ミラールにとって衝撃的だったのだろう。
しかし、顔を歪めて、またすぐに、ベッドに横になって。
やっぱり、とてつもない痛さなんだ。
だって、死ななかったのが不思議なぐらい、グッサリと短剣が胸に刺さっていたんだから。
「必ず帰ってくるから、心配しないでよ。それと、ミラールの仇も取ってくるからさ。」
「……わかりました。ここから王子の無事を祈っています。」
「それと、これを王子に……。」
そう言い、ミラールは、ベッドの横に置いてある小さな棚に、立てかけてある剣を、僕に差し出した。
「これは……。」
「私が普段から使っている剣です。これは、王子の使っている剣より、よく切れると思いますよ。」
なんて失礼な。確かに、ほとんど手入れをしていないから、野菜すら切れるかわからないけど……。
「ありがとう。貰っておくよ。」
僕は、この後、他の兵士たちに、旅に出る、と報告して回った。
それを終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
今日は疲れた。
それに、明日は早いから、もう寝るか。
僕が、寝室に向かい、ドアを開けると、そこには、父上と母上がいた。
「レイス、今日は、お父さんとお母さんと一緒に寝ようか。」
僕は、顔がどんどん火照ってくるのがわかった。
「いいじゃないか。一緒に寝るのなんて、久しぶりだろ。」
「それに、お前と会えなくなると思うと、お父さんもお母さんも悲しくてな……。」
「わかったよ。」
僕は、渋々了承した。
僕は、急いで寝巻きに着替えて、二人が待つベッドに行った。
今、僕の右側に父上。左側に母上がいる。
こんな状況、何年振りだろう?
「レイス……。」
父上が僕に話しかけてきた。
「辛くなったら、いつでも帰ってきなさい。お父さんもお母さんも、誰もお前を責めないから。」
「そうよ。もしそんなやつがいたら、お母さんがこの手で、叩き殺してやるから。いつでも帰ってきなさい。」
「ありがとうございます。父上、母上。僕は、二人の子どもに生まれてきて、とても幸せです。」
すると突然、父上と母上が、僕を抱きしめてきた。
左右から、微かに、すすり泣く声が聞こえてきた。
それを聞いた瞬間、僕の目から、大粒の涙が、溢れ出してきた。
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