そして社屋を出て五分程歩いた所にある鰻屋に連れ込まれた幸恵は、小上がり席に案内され、弘樹が注文を済ませるまで辛うじて大人しくしていたが、店員がその場を去った直後に声を潜めて文句を付けた。
「それでお話って何ですか? しかも六千五百円の特上を注文するなんて、何の嫌がらせですか?」
「安心しろ、ここの支払いは俺がする。取り敢えずこれを見ろ」
「何ですか、これは?」
憮然とした表情で、弘樹がスーツの内ポケットから折り畳まれた何枚かの用紙を取り出し、幸恵に向かって差し出した。それを一応受け取りつつ幸恵が問いかけると、弘樹が皮肉っぽく口元を歪める。
「今社内で、結構な噂になってるだろ? 公子さんの裏の査定評の事」
「ええ……、そうみたいですね。一部の人間が、戦々恐々としているみたいですが」
「その中で、お前の初期新人研修時の評価分を、コピーして貰って来たのがそれだ」
「どうしてそんな物……」
笹木公子が会長夫人であり、社長の信頼厚い、陰の査定係長でもある事が明らかになってからは、社内では大多数の者が公子に対して腫れ物に触るような扱いをしており、その査定表については幸恵も多少は気にはしていたが、最近のあれこれでどうせろくな評価は下されていないだろうと、かなりやさぐれた心境で手の中にそれを黙って見下ろした。
「興味ないか? 見て構わないぞ」
「それでは失礼します」
声をかけられた幸恵は、今更取り繕う事も無いかと割り切り素直にページを捲ったが、すぐにその内容に軽く目を見開く事になった。
「どの項目も高評価だろ。総合も五段階評価で最高のSだしな。これ、親父に言わせると、毎年一人出るか出ないかの貴重な判定なんだそうだ。……しかも俺にはその下のAしかくれなかったのに。本当に公子さんはシビアだから」
とっくに内容に目を通している弘樹が、頬杖を付きながら愚痴っぽく漏らし、幸恵に注意を促す。
「その最後の、総合コメント欄を見てみろ」
言われた通り、幸恵が最後のページ下半分を占めているスペースに目を向けると、枠内をびっしり埋めるように文字の羅列が並んでいた。それを丁寧に視線で追っていると、弘樹から補足説明が入る。
「公子さんは、例え最低ランクのDの奴でも、散々欠点を並べ立てた後で必ず最後に何か誉める事を一つは書くんだよ。公子さんに言わせると『そこを伸ばさないと救いようがない』って事らしいけど」
「……それで?」
「お前に対してのコメント。誉め言葉ばっかりだろ? だけど最後に『無駄にプライドが高く、容易に自分の非や過ちを認められない』って書いてある。だからこれは『ここを改めさせれば完璧』って事なんだろうな」
「…………」
幸恵が微妙な表情でその用紙を見下ろしていると、唐突に弘樹が苦笑混じりに言い出した。
「公子さんの話では、これを見せた時、親父が滅茶苦茶喜んだそうだ」
「は? どうして社長が喜ぶんですか?」
意味が分からなかった幸恵が、思わず顔を上げて問い質すと、弘樹は予想外の事を口にした。
「お前、最初から商品開発部希望だっただろう? だけど勤務形態が流動的で出張や残業が多い上に男ばかりの職場だから、『そんな部署に夢乃さんの姪を入れるわけにはいかない』と、親父が当初、人事部に他の部署の配置を検討させていたらしいんだ。本人の意思丸無視だが、これもある意味、コネでの贔屓だよな」
「何ですかそれは!?」
思わず用紙を掴んだまま空いている方の手で拳を作り、力一杯テーブルを叩いて怒鳴りつけると、弘樹は周囲を気にしながら困り顔で幸恵を宥めた。
「ちょっと落ち着け、そうなってないのは、お前が一番分かってるだろ」
「そうですね……。でもそれならどうして、私の希望が通ったんですか?」
「その動きを人事部の人間から耳打ちされた公子さんが、それを不思議に思いながら、この原本を親父に見せつつ言い放ったそうだ。『何に目を眩ませているのかは分かりませんが、適材適所が出来ないトップなど無用です。さっさと後進に社長の椅子を譲りなさい』って。おっかねぇよなぁ」
そういってずずっと湯飲みのお茶を啜った弘樹に、幸恵が幾分放心した様子で問いかける。
「本当に社長に向かって、そんな暴言を吐いたんですか?」
「らしいな。そうしたら親父が『公子さんみたいな人が居てくれて良かった。俺は筋を曲げずに済んだし、優秀な人材を腐らせずに済んだ』と言って、その場でお前の商品開発部配属が決定して、今に至るってわけだ」
「何なんですか、それは」
思いがけなく自分の配属に関わる裏話を聞かせられた幸恵は、精神的な疲れを覚えて、深い溜め息を吐いた。それを見た弘樹が小さく肩を竦める。
「公子さんはその後、どうして親父がお前の配属に手心を加えようとしたかずっと疑問に思っていたらしいが、今回の騒動で漸く分かったと笑ってたよ。『要するに惚れた女性にそっくりな姪に、苦労させたく無かったのね』って」
「それこそ、余計なお世話です!」
「だよなぁ。だけど公子さんにピシッと言われて、その後親父はお前に対して何も配慮らしい事はしてないから。寧ろお前の時のそれを反省して、綾乃ちゃんが入社した時には、『是非公子さんの下でビシビシ鍛えて、有能な社員に育ててくれ』と、公子さんがドン引きする勢いで迫ったらしい。それで公子さんも容赦なく、指導していたそうだけど」
「……そうですか」
それを聞いた幸恵は、ある意味自分のせいで一癖も二癖もある人物に、現在進行形でこき使われているであろう綾乃に対し、一瞬罪悪感を覚えたが、口に出しては何も言わなかった。そこで弘樹が、微妙に話題を変える。
「だから、あっさり信じないかもしれないが、お前は実力で入社試験に受かったし、力量を認めて貰って将来を期待されて商品開発部に配属になったし、これまでの業績にも一切手心なんぞ加えられてない。あのライティシリーズでは、お前、最後まで反対していたしな」
「は? あのしょうもないシリーズが、どうしたんですか?」
話の流れに付いていけず真顔で問い返した幸恵に、弘樹は思わず額を押さえて呻いた。
「お前、本当に正直って言うか、真っ直ぐだよなぁ……。今だから言うが、あれは試金石だったんだと。商品開発部内で、俺におもねる奴らがどれだけ居るかを調べる為の。……道理で宣伝費が通常の六分の一しか認められない筈だぜ、あの狸親父」
「すみません、係長。もう少し分かりやすく、説明をお願いします」
何やらブツブツと聞き取りにくい声で悪態らしき言葉を吐き始めた弘樹に、眉を寄せた幸恵が解説を促すと、彼は心底嫌そうに口を開いた。
「だから……、社員令息の俺に媚びへつらう人間が多くて目に余るわ、画期的な商品開発が最近出来ていないわで、上層部で最近の商品開発部の有りようが密かに問題視されてたんだよ。それで親父がライティシリーズの原案を家で俺から聞いた時、『こんなショボい物を認めて進める気なら、力量も自ずと知れるな』と考えて、素知らぬ顔で『良いんじゃないか?』とか言いやがって、永瀬部長に注意深く部内の状況を探らせていたそうだ。勿論、上層部には損失覚悟って事を了解済みでな。全く、真面目に売り込んでた連中は、好い面の皮だぞ」
「なっ! じゃあ社長は損失覚悟で、敢えてあの馬鹿な企画を潰さなかったって言うんですか? 私はすっかり、社長のバカボン贔屓だと思い込んでましたよ!」
思わず驚愕して叫んだ幸恵に、弘樹は溜め息で応じた。
「誰が『バカボン』だ……。だから、宣伝費がいつもより認められなかったって言っただろ? 結果、あの案をベタ誉めして開発推進して、売り込みかけた青山課長は、秋の人事異動で責任を取らされて北海道支社に異動決定。同様に杉崎主任、勝又、秋田、夕神、瀬川も他に異動で、支社とかから集めて、新しい奴と入れ替える。あ、これはまだオフレコな?」
「はぁ……」
(あのしょうもないシリーズを売り出した裏に、そんな企みが有ったわけ? 呆れて物が言えないわ)
こんな事をやっている勤務先は大丈夫なのだろうかと、幸恵が密かに不安を覚えていると、弘樹がさらっと聞き捨てならない事を口にした。
「ああ、それで荒川。この際ついでに言っておくが」
「何ですか?」
「最後まであれの商品化に頑強に反対してたお前が、同じ秋の異動で主任昇格な」
「はぁあ!?」
「当然だろ? 十分、物を見る目を持ってるんだし」
思わず幸恵が絶句して固まると、タイミング良く店員が長方形の盆を両手で捧げ持って声をかけてきた。
「お待たせしました。ご注文の品をお持ちしました」
「どうも」
そして弘樹が愛想笑いで応えると、二人の前に同じ盆が置かれ、早速弘樹が容器の蓋を外して食べ始める。
「ああ、旨そうだな。ほら昇任の前祝いだ、食え」
そうして鰻や肝吸いに手を伸ばして満足そうに食べ始めた弘樹を見て、幸恵ものろのろと手を動かし、静かに食べ始めた。しかし二口、三口食べたところで、ぼそりと呟く。
「……どうして、あんな話をしたんですか?」
大体の理由は分かっていたが、何となく問い詰めずにはいられない心境の幸恵がそんな事を口にすると、弘樹はそっけない口調で理由を告げた。
「だってお前、この間、有象無象の奴らに叔母夫婦のコネで入社したんじゃないかとか、お前の企画が通ってたのは、社長に手心を加えられてたんだろうとか陰口叩かれて、結構気にしてただろ。このタイミングで主任昇格の話が出たらまた五月蝿いだろうから、今のうちに言っておこうかと思っただけだ。それにお前、もっと引っ込み付かなくなってるだろ、綾乃ちゃんの事」
言われた幸恵はピクリと肩を動かしたが、弘樹は敢えてそれを見なかったふりをした。
「あの子が祐司と噂になったのも、あの場で祐司が庇ったのも面白くなくて、余計に口が滑ったんだろ? そうでなけりゃ、お前ならもう少し冷静に対処してた筈だ。別れた男に未練たらたらでいる位なら、最初から別れるなよ。ど阿呆が」
そう言って再び黙々と弘樹が食べ始めると、少ししてから項垂れていた幸恵から、僅かに湿っぽい声が聞こえてきた。
「言われた事位、一々他人に言われなくても分かってます。と言うか、今回の事で、否応なく理解させられました」
「それなら良かったな。ほら冷めないうちに食え」
「いただきます」
「……だから、辞めるなよ?」
「はい?」
気持ちを切り替えて食事に専念しようかと思った矢先、唐突に口にされた言葉に、幸恵は思わず箸の動きを止めて弘樹を見やった。すると弘樹が常には見られない真剣さで、幸恵を見返してくる。
「人員入れ換えで、ただでさえごたつく時に、戦力が居なくなると困るんだよ。物の分からん連中からの色眼鏡とかやっかみなんぞ、ハナから無視してろ」
そう言い捨てて再び黙々と食べ続ける弘樹を、何気なく観察し続けた幸恵は、ふいにある事に思い至った。
(色眼鏡とかやっかみって……、親の七光りとか散々言われているこの人が、一番言われてるわよね? 実は普段結構気にしているから、私があまり気にしないように言ってくれたわけ?)
そして何とも言い難い顔で黙り込んだ幸恵を見て、何を思ったか弘樹は不愉快そうな表情で口を開いた。
「……何だ? 言っておくが俺に惚れるなよ?」
「あ?」
「今現在、可愛い恋人達を整理して、難攻不落な女を攻略中なんだからな。仕事はともかく、プライベートでお前に構ってる暇はない」
(何ほざいてんのよ、このバカボンが! 一瞬でも見直しかけた私が馬鹿だったわ!!)
真顔で盛大に勘違いされた事を言われた幸恵は、途端に顔を引き攣らせ、怒りまくって相手を怒鳴りつけた。
「ふざけるんじゃ無いわよ、このチャラ男!! 誰が、ショボい案しか出せないあんたになんかに惚れるか!! せめて私を唸らせる位の仕事をしてから、寝言を言いなさいよね!?」
「お前、奢って貰ってその態度は何だ!?」
「馬鹿に、阿呆呼ばわりされる筋合いは無いって言ってるのよ!」
「なんだと!?」
その怒鳴り合いで、店側から控え目な抗議を受けてしまった後、二人は肩身の狭い思いをしながら、食事を済ませる羽目になった。
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