(平常心平常心。眞紀子さんの言う通り、偶々たちの悪い人に当たっただけなんだから。その人を基準に都内在住の人間が全てそんな人ばかりだなんて考えは、失礼極まりないわよね)
自分自身にそう言い聞かせつつ、出社直後から取り組んで完成させたデータをチェックして貰う為、上司のパソコンに送信した綾乃は、ホッと一息ついた。その拍子につい前日の事を思い返す。
(だけど、本当に昨日は怖かったな。いきなり本人が出て来るんだもの。心臓が止まりかけたわ)
そこで冷静にその時の事を振り返ってみた綾乃は、ある事実に気が付いた。
(でも、あの人、何となく予想してたイメージよりは、乱暴者って感じじゃ無かったけど……。って、あれ? ちょっと待って?)
そして顔色を変えながら、密かに自問自答する綾乃。
(そう言えばあの時……、あの人何か言いながら、頭を下げようとしてたような……。ひょっとして電話で怒鳴った事、謝ろうとしてくれてたとか!?)
そこまで考えた綾乃は、その時の自分の行動を思い出して変な動悸を覚えた。
(私、思いっきり突き飛ばしちゃった……。本当に謝ろうとしていたなら、絶対怒ってるよね? 謝ろうとした分、怒り倍増だよね? 道ですれ違ったら問答無用で殴りかかられるかも!)
本人がそれを知ったら「女相手にそんな事をするか!」とまた怒鳴られそうな事を考えた綾乃は、後ろ向きな考えのまま現実逃避を図った。
(でも……、向こうは私の名前も知らないんだし、また遭遇する可能性は殆ど無いに等しいから、大丈夫だよね? ……取り敢えずあのお店は、もう使わない事にしよう)
そこでこれまで心ここに在らずと言った感じで、ぼんやりとパソコンのディスプレイを眺めていた綾乃は、社内メールが届いている事を示すアイコンに気が付いた。
(あれ? 社内メールが来てる。誰からだろう)
怪訝に思いつつ、殆ど何も考えずに新着メールを開いてみた綾乃は、その中身を確認すると同時に目一杯目を見開き、呻きとも叫びとも取れる妙な声を上げた。
「ふげっ!」
その声に、綾乃の隣席の公子が、些か棘のある口調で詰問してくる。
「君島さん? いきなり何?」
「あの……、いえ、すみません。何でもありませんので!」
狼狽しながら頭を下げた綾乃を見て、公子は先程知らせたメルアドに弘樹が何か動揺する内容を送り付けてきたと容易に見当が付いた為、素っ気なく注意して仕事を続行させた。
「勤務時間中に、変な声を出さない事。周りの迷惑よ」
「申し訳ありません」
そのやり取りを耳にした周囲からは失笑が漏れていたが、綾乃にはそれを気にする余裕など皆無だった。
(えぇぇっ!? だって、どうしてこんなメールが、ここに来てるのよ!?)
そんな動揺著しい綾乃の目の前には、件名〔こんにちは、君島綾乃さん〕から始まる、驚愕のメール内容が表示されていた。
〔実は俺、昨日君に目一杯ど突かれた高木祐司の相方の、遠藤弘樹だけど覚えてる? 覚えていてもいなくても、一時間以内に返信をくれるかな? くれなかったらそこに押し掛けるよ?〕
(ひょっとして……、二人ともここの社員だったわけ? でも私、名乗って無いよね? じゃあ無くて、そんな事よりまず返信しないと! 職場で乱闘騒ぎなんか嫌ぁぁっ!)
ダラダラと冷や汗を流しつつ、綾乃は涙目になりながら震える手で〔覚えています。どの様なご用件でしょうか?〕と返信した。その姿を当人が目にしたなら、「お前のせいで俺まで暴力男扱いだぞ」と友人に毒吐く事確実の状態だったが、そんな事になっているとは微塵も知らない彼からは、何とも呑気なメールが五分も経たずに返ってくる。
〔祐司の奴が、是非例の件について君に謝罪したいって言ってるんだ。だけどあいつの顔をチラッと見ただけで君が遁走しそうだから、まず俺から声をかけてみたってわけ。悪いけど、ちょっと時間取って会ってくれないかな?〕
それを見た綾乃は青い顔を白くして、慌てて再度返信した。
〔いえ、「謝罪はもう結構ですから、お構いなく」と、ご友人の方にお伝え下さい〕
しかし相手も食い下がる。
〔そうは言ってもさ、あいつも同じ社員だし、この先どこで顔を合わせるか分からないから、この際お互い、すっきりさせておいた方が良くない?〕
(やっぱり同じ勤務先だったんだ。……神様の意地悪)
決定的な事実を突き付けられて、綾乃は涙目で項垂れた。そして相手の言う事にも一理あると考えた為、諦めて了承の言葉を打ち込む。
〔分かりました。それでは具体的にどうすれば良いでしょうか?〕
〔お詫びの印に、あいつが食事奢るそうだから。好きな料理やお店を教えてくれないかな〕
(はあ? 別にそこまでして貰わなくても……)
提案された内容に、綾乃は本気で困惑した。その上、極力関わり合いになりたく無いという気持ちも相まって、遠回しに断る意向を伝えてみる。
〔お気持ちは大変ありがたいのですが、同じ社内に居るんですから、休憩時間とかにちょっと頭を下げに来て貰えれば、私はそれで構いませんよ?〕
しかしそれに対し、相手は些か意味不明な言葉を返してきた。
〔それだと却って、君島さんの社内での立場が悪くなるかもしれないから。俺達の事、本当に知らないんだね〕
それを読んだ綾乃は、首を捻った。
〔知らないって、何についてですか? 確かにお二人のお名前以外は存じませんが〕
〔悪い事は言わないから、大人しく奢らせておけば良いよ。あいつと二人きりになるのが怖いなら俺が付き合うし、君も誰か友達を同席させても良い。全員分の費用を負担する様に、あいつに言っておくから〕
宥めすかすその文面に、綾乃は少しだけ眉を寄せて考え込んでから、慎重に一文を打ち込んだ。
〔申し訳ありませんが、少し考えさせて下さい〕
どんな反応はくるかと少し心配しながら待っていたが、すぐに綾乃の元に返信が届いた。
〔了解。気長に待ってるよ。その間あいつには、君に接触させないようにしておくから〕
〔宜しくお願いします〕
一応最後にお礼の言葉をと、綾乃は真面目にその文を打ち込んでから、ぐったりしながらメールボックスを閉じた。
(つっ、疲れたっ……、最近心臓に悪い事ばかり……)
両手を机の縁に付いて突っ伏したい気持ちを懸命に堪えた綾乃だったが、ここで今更ながらの疑問が頭を掠めた。
(私の勤務先が分かったのも不思議だけど、どうして遠藤さんって人に、私の社内メルアドが分かったわけ? それに直接社内で頭を下げるのがまずいって、変にプライドが高い人なのかしら?)
そこまで考えて、綾乃は避けられそうに無い提案を思って、泣きそうになった。
(短気な上、変にプライドが高い人と一緒に食事なんて……。絶対、食べた気がしないと思う……)
そんな現実から意識を逸らす為、綾乃が無我夢中で仕事をこなしていると、あっという間に昼時になり、同僚達は一人二人と席を立って昼食に向かった。
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