翌朝。いつも通りに出勤した弘樹は、他部署に書類を提出してから、ある人物にメールで問い合わせしてみようかと考えを巡らせていた所で、タイミング良くその相手が廊下の向こうから歩いて来るのが見えた為、満面の笑顔で右手を振りながら声をかけた。
「き・み・こ・さ~ん!」
偶々、その光景を目にした社員が、何事かとギョッとした顔で弘樹と相手を交互に見やる中、彼より二回りほど年長の笹木公子は、無言で僅かに顔を顰めながら彼に歩み寄った。
「……何でしょうか? 遠藤係長」
冷え冷えとしたその口調は、(くだらない事で人目もはばからずに呼びかけたんだったら承知しねえぞ、この若造が)との剣呑な空気を如実に醸し出していたが、弘樹は全く恐れ入る様子を見せずに、気安く言葉を返した。
「またまた~、そんなつれない態度を取らなくても。俺と公子さんの仲じゃないか。いや~、ここで会えるとは、正に天の助け!」
「ここは職場ですので、さっさとご用件をお願いします」
「う~ん、そんな公私混同しない、公子さんが好きだなぁ。……実は、半分は職場に関わる事だから、少しだけ融通を利かせてくれると、もの凄く助かります」
台詞の途中で急に真顔になり、軽く頭を下げた相手を見て、さすがに公子は訝し気な顔になった。
「どういう事ですか?」
「社員が一人、辞めるか辞めないかの瀬戸際かもしれないんだ」
「穏やかではないですね。そしてその原因があなただとしたら、もっと穏やかでなくなりますが」
「責任の一端が俺にあるかもしれないけど、大部分はダチだから」
そんな事を言われて、公子は眉間にしわを寄せたが、相変わらず弘樹が真摯な表情で佇んでいる為、話の先を促してみた。
「それで? 私に何をどうして欲しいと?」
「今年の新入社員の中で、『あやの』って名前の女性のフルネームと、所属先を教えて貰いたいんだ」
それを聞いた公子は、極僅かに反応した。
「新入社員で『あやの』?」
「ああ。公子さんだったら、頭の中に新人全員分のデータが入ってるよね? 陰の人事部係長?」
「私に聞かなくても、人事部に問い合わせれば良いでしょう?」
「それも考えたけど、トラブったのは完璧にプライベートだし、それで社員の個人情報を見せろって言ったら、明らかに公私混同になるかと思って」
「弁えているんだか、いないんだか……」
「公子さん、どうしても駄目かな?」
微妙に筋を通す気らしい弘樹の主張に、公子は額に手を当てて溜め息を吐いた。そして顔を上げてから、改めて彼を凝視しながら念を押す。
「信用して良いのよね?」
「勿論。公子さんに迷惑をかけたり、その女性に変な事もしないから」
「それなら教えてあげるけど、今年入った子で『あやの』って名前の人間は、君島綾乃だけよ。因みに配属先は総務部」
そこまで聞いた弘樹は、意外そうな顔になった。
「あれ? そうすると公子さんと同じ?」
「ええ。今現在、私が指導役になって、隣の席にいるわ」
素っ気なく告げられた内容に、弘樹はこれまでで一番の笑顔を見せた。
「ラッキー! いやぁ、聞いてみるもんだな! じゃあ公子さん、ついでにその子の、社内ネットワークアドレスなんかも」
「本当に、ちょっかいを出したり、出す予定とかでは無いのよね?」
「本当だって! 俺の名前に誓うから!」
「……軽っ」
遠慮など微塵も無い、本心からの公子の呟きを受けて、弘樹は情けない表情になりながら訴えた。
「公子さん、酷い……。女性関係で信用が低いのは分かってるけどさ。何か問題が起きたら、即刻親父やじいさんに報告して良いから」
「分かりました。アドレスは、後からメールで連絡します」
「ありがとう、公子さん。絶対、変な事にはしないから。あと、俺の身元が分かって変に委縮されたら困るから、その子の事を公子さんに聞いたって事は、当面内密にね。それじゃあ」
そして意気揚々と自分の職場に引き上げていく弘樹を見ながら、公子は呆れ気味に溜め息を吐いた。
「全く、社内で一体何をやっているのよ」
根が悪い人間ではないし、友人の為だと言っていたから、変な事にはならないだろうと自分自身に言い聞かせながら自分の職場に戻って来た公子は、席に着こうとして、何気無く隣の席の新人を見下ろした。
(それにしても……。この子と弘樹君の接点なんて、どう考えても思い浮かばないんだけど。どういう事かしら?)
そのまま無言で凝視していると、その視線を感じたのか、彼女が若干怯えながらお伺いを立ててくる。
「あ、あの……、笹木さん。何かご用ですか?」
「え? いいえ、別に何も。ちょっと考え事をしていただけだから、気にしないで頂戴」
「はぁ、そうですか」
それから公子は意識を切り替えて業務を再開し、綾乃も与えられていた数値データの入力作業に集中して、順調に処理していったが、それから一時間もしないうちに、状況が一変する事となった。
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