それ以降も、課長たる真澄の不調、もしくは不穏な状態の煽りを密かに被っていた城崎の中では、忙しさに紛れて見合い話を聞いた翌週にはそれをすっかり忘れ去っていた。しかしそれがまだ終了していなかったと城崎に認識させる出来事が、予想外の方向からやって来た。
「係長? 何だか最近お疲れですよね。今日は夕飯を一緒に食べていきませんか? 俺が奢りますから」
自社ビルを出て幾らも歩かない所で追いかけてきた高須にそんな事を言われた城崎は、思わず自嘲的な笑みを漏らす。
「……俺は自分で思っていた以上に、ヤキが回ったらしいな。高須に慰められる羽目になるとは、落ちたものだ」
「ちょっと酷いですよ、係長!?」
「悪い悪い、本気で言った訳じゃないぞ?」
「それ位、分かってますがね」
男二人で並んで歩きつつ、苦笑いでそんなやり取りをしていると、前方に立ちふさがる様に一人の女性が立ち、静かに声をかけてきた。
「今晩は、城崎さん。今お帰りですか?」
「え?」
「あなたは?」
足を止め、思わず当惑した顔を二人揃って相手に向けると、二十代半ばに見えるセミロングの落ち着いた感じの女性は、小さく笑って挨拶してきた。
「お忘れですか? 先日お目にかかりました、藤宮美野です」
そう言って軽く頭を下げた美野に、城崎が慌てて弁解する。
「あ、いえ、勿論覚えてはおりますが……」
「良かった。私、他の姉妹と比べて印象が薄いと常日頃から言われてますから、すっかりお忘れかと思いまして」
多少自虐的な響きが入ったその台詞に、城崎は一瞬(ひょっとしたら嫌味か?)とも思ったが、比較的角が立たない物言いを心掛けた。
「さすがにそれはありません。確かに妹さんは、あらゆる意味でインパクトが有る女性かもしれませんが」
「あの、課長? こちらはひょっとして……」
ここで恐る恐る口を挟んできた高須に、城崎はその場の流れで相手を紹介する。
「ああ、こちらは藤宮のすぐ上のお姉さんに当たる美野さんだ。藤宮さん、彼は部下の高須です。勤続三年目で、妹さんの先輩になります」
「まあ、初めまして。いつも美幸がお世話になっています。美幸は他の方にご迷惑を掛けたりはしていませんか?」
「いえ、ご安心下さい。藤宮が入ってくれて、皆助かっています」
「それなら良かったわ」
にこやかに話しかけてくる美野と笑顔で幾つかの言葉を交わしてから、高須は城崎のスーツの袖を軽く引き、小声で尋ねた。
「係長。何で例のお姉さんが、ここに居るんです?」
「いや、それが俺にもさっぱり」
ボソボソとそんなやり取りをしていると、美野がいきなり爆弾発言を放った。
「ところで城崎さんは、私とのお見合いをはっきりきっぱりお断りされたそうですね」
「……はあ、それは確かに」
「ちょっ……、係長、マジですかっ!? 藤宮の姉さんと、一体どういう関係になってるんですか?」
「どんな関係にも、なってるわけないだろうが! ちょっとは落ち着け!」
狼狽して自分の両腕を掴んで問い詰めてきた高須を、幾らか動揺しながらも城崎が引き剥がして言い聞かせたが、美野のどこかのんびりとした声が続く。
「私……、お見合いで断られた事は何度もありますけど、お見合い自体を断られたのは初めてでしたので、ちょっと出向いて来てしまいました」
「あの……、それで、何でしょうか? 文句を仰りたいとかですか?」
「いいえ? 益々興味が湧いたので、ちょっとお食事をご一緒しようかと思いまして」
(まるで意味が分からん。本当に、何を考えてるんだ、この女性)
(流石藤宮の姉さん。次の行動や思考回路の予測が付かない……)
邪気のない笑顔で誘われた城崎と、その目配せを受けてしっかり空気を読んだ高須は、息を揃えて断りの台詞を口にした。
「あの、せっかくですが、今日は彼との約束がありまして」
「実は、係長と二人で飲みに行く約束をしていまして、ご遠慮して頂けますか?」
「それなら好都合ですわ。是非高須さんの目から見た、普段の美幸の働きぶりとかもお聞きしたいです。支払いは全額私が持ちますから、お二人で思う存分食べて飲んで下さいね?」
「え? あの、ちょっと」
「その……、藤宮さん?」
しかし遠慮するどころか、美野は素早く両手で城崎と高須の腕を掴み、上機嫌で促した。
「さあ、どちらのお店ですか? 決まっていないなら私の行きつけのお店で構いません? すぐそこに車を待たせていますから」
勿論、本来なら鍛えている筈のない華奢な手で握られた位で、大の男二人が動揺する筈もないのだが、無理に振り払ったりしたら相手に怪我をさせるかもしれないという懸念と、美幸の身内相手に揉めて良いのだろうかという遠慮も加わり、二人は進退窮まった。
そして無言で判断を求めてきた高須の視線を受け、城崎は完全に抵抗を諦める。
「……すぐ近くの居酒屋ですので、ご案内します」
「宜しくお願いします」
そうして高須も巻き込んだ変則的な飲み会をする事になった城崎だが、取り敢えずこの日だけで相手の気が済むと考えていたのは、彼らしくない判断ミスだった。
「係長? 往来のど真ん中で何を揉めているんですか? また新しい女と別れ話で揉めてるとかですか?」
帰宅しようとして社屋ビルから出た所で、瀬上は前方で若い女性と何やら話し込んでいる上司の横顔を認めて、眉間に皺を寄せた。城崎の有能さは同じ職場で働き出してから、嫌というほど分かっていたが、それが想い人の元恋人となるとかなり複雑な心情になるのは、仕方のない事である。
しかし今は職場から離れたプライベートな時間かつ場所であり、嫌味の一つもかましてやろうと声をかけながら近寄ったのだが、何故か振り向いた城崎は、瀬上に喜色満面で呼びかけた。
「瀬上! 遅かったじゃないか!」
「え?」
予想外の反応に瀬上が当惑すると、以前と同様城崎の腕を掴んでいた美野が、ちょっと考え込む素振りをしてから口を開く。
「瀬上さん? ひょっとして……、美幸の同僚の方ですか?」
「美幸、と仰いますと……、あなたは藤宮さんのご家族か何かですか?」
瀬上の問いかけは美野と城崎、双方に対しての問いかけだったのだが、城崎はその問いを綺麗に無視した。
「仰る通りです。実は今日は、彼と今後の仕事の話をしながら食事をする約束になっていまして」
「は? 何を言ってるんですか。俺はそんな約束」
「したよな、瀬上!?」
「……しましたね」
質問に答えない上、予定になかった事を口走る城崎に瀬上は当惑して口を挟もうとしたが、その途端明らかに殺気を含んだ視線で念を押され、思わず視線を逸らしながら素直に頷く。しかし美野はそんな微妙な空気などお構い無しに前回同様瀬上の腕も確保し、笑顔で二人に申し出た。
「それならお二人ご一緒に。他のお客に気兼ねなくお仕事の話ができる様に、中華料理店の個室を押さえますから、思う存分意見を戦わせて下さいね? その合間に美幸の仕事ぶりを、瀬上さんの口からもお聞きできれば嬉しいです」
「はぁ……、え? あの、係長?」
「…………」
もはや諦めの境地で一言も発しない城崎と、困惑しきりで抵抗するきっかけを失った瀬上を連れて、美野は意気揚々と馴染みの店に向かったのだった。
そんな事があった翌週、同僚達から簡単に事情を説明された理彩が、憤慨した様子で自社ビルから表通りへと足を踏み出した。
「全く、大の男が揃いも揃って、女一人に何手玉に取られてるのよ、情けないったらありゃしない!」
「ですが仲原さん、何かあの人笑顔が怖くて」
「腕掴まれたら、どうしてだか振り払う気が起きなくて」
「得体が知れない圧迫感と言うか何と言うか……」
「それ位、あの規格外の藤宮の姉なんだから当然でしょうが!? 人類外生物に遭遇した訳じゃあるまいし、何をぐだぐだ言ってるのよ。ところで……、その藤宮の姉さんって美人なの?」
半分好奇心、半分対抗心から出た理彩の問いに、ぞろぞろと周りを歩いていた男達は、真顔で答える。
「それはまあ、それなりに?」
「藤宮とは、また違ったタイプの美人だな」
「俺としては、藤宮より寧ろ彼女の方がタイプですね」
「お、本気か高須!? そうか~、ちょっと得体が知れなくても、ああいう見た目の女が好みか~」
「それなら俺から部長に頼んで、俺の代わりにお前との見合いを進めて貰うか?」
「ちょっとやめて下さい、瀬上さん、係長まで!」
「黙んなさい!」
高須がポロッと漏らした一言に食いついて盛り上がった三人を一喝し、理彩は「全く……」と愚痴を零した。流石に自分達の尻拭いをさせる為に理彩を引っ張り出した事を思い出し、三人も神妙な顔付きになる。そこで例によって例の如く穏やかな笑顔の美野が現れ、城崎達に向かって声をかけてきた。
「今晩は、城崎さん。皆さんもお揃いなんですね。職場の人間関係が円滑な様で、結構ですこと」
「初めまして。藤宮さんのお姉さんですね? 私、仲原理彩と申します。藤宮さんとは、最近一緒に働き始めたばかりですが」
城崎達が何も言わないうちに、理彩が一番前に進み出て名乗りを上げ、相手にきちんと引導を渡そうとしたものの、何故か美野は今まで高須や瀬上に見せた事がない明るい笑顔で、嬉々として理彩の手を取った。
「嘘!? 女性の同僚の方がいらしたの? 美幸ったら家でそんな事、今まで一言も言ってなかったのに!」
「え?」
「仲原さんと仰いましたね? 是非あなたの口から職場の話を色々お伺いしたいわ。ええ、今すぐこれから!!」
「え? あの、ちょっと!!」
言うだけ言って待てないとばかりにグイグイ手を引っ張る美野に、流石に理彩が狼狽した。しかしそれには全く構わずに、美野が別れの挨拶を告げる。
「じゃあ城崎さん、瀬上さん、高須さん、今夜はこれで失礼しますわね。またの機会にお食事をご一緒しましょう。ごきげんよう!」
「どうも……」
「ちょっと係長!?」
「……大丈夫、会計は向こう持ちだから」
「瀬上さん!」
「お疲れさまです」
「高須君まで! 何考えてんのよ、裏切り者ぉぉっ!?」
華奢な外見に似合わず、自分より上背のある理彩を引きずっていく美野を何とも言えない表情で見送った三人は、恨みが籠った理彩の叫びを耳にして、軽く溜め息を吐いた。
「……まあ、大して実害は無いだろう」
「そうですね。明日黙って恨み言を聞きますから」
「明日、仲原さん用の差し入れ持参して出勤します」
そうして顔を見合わせた三人は、互いに「お疲れ様」と挨拶を交わして帰宅した。
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