「失礼します。上原課長、申請書類を揃えておきましたので、ご確認下さい」
「ああ、ご苦労様」
「広瀬課長、人事部からのアンケート用紙です。無記名で各自記入を徹底させて下さい」
「分かりました」
清川との賭の最終日である金曜日。朝から時折企画推進部の部屋を訪れる他部署の者達は、例外なくチラチラと二課のスペースに目をやり、課長席の横に置かれている殆ど書き込まれていないホワイトボードの記載内容を、さり気なく確認しては去っていくという行為を繰り返していた。
「本当にムカつくわね。朝から来る人間来る人間、全員二課の方を横目で眺めて行って。言いたい事があるなら正面から言ってけってのよ」
「気になるのは分かるんだけど……、こうあからさまだと流石にね」
憤慨しつつも押し殺した声で美幸が悪態を吐くと、隣の席の理彩は溜め息混じりに宥めた。そこで美幸がふと気が付いた様に言い出す。
「そう言えば、昨日から聞こうと思っていたんですけど」
「何?」
「昨日から、あそこに成約社名と成約額を書いていますけど、殆ど百万前後の取引ばかりじゃないですか。どうしてもっと大きい取引を狙わないんですか? 昨日までの段階で成約数が八件、総額一千万弱だなんて、今日一日待っても三千万到達は、かなり厳しいんじゃありません?」
ホワイトボードを指差しながらのその問い掛けに、理彩は一瞬唖然としてから小声で叱りつけた。
「藤宮……、あんた仕事はそれなりにできるのに、何でそんな肝心な事が分かって無いのよ!? 何で皆が火曜から、散々駆けずり回ってたと思ってるわけ!?」
「え、えぇぇ? 私、何か変な事言いましたか? だってチマチマ稼ぐより、大口を捕まえた方が確実じゃ無いですか?」
「そんな一千万単位の取引なら、社内で慎重に検討する時間が必要でしょうが!」
「……言われてみれば、そうですね」
指摘されて改めて気が付いた様に、美幸は素直に頷いた。それを見た理彩は頭痛を覚えつつ、補足説明をする。
「全く……。だけど今回は金曜までって時間が区切られてるから、そんな悠長な事言っていられないの。でも百万単位の案件だったら、各部署の責任者の裁量に任せられる場合が多いから、はるかに取り易い筈なのよ。だから短期間の勝負なら三千万を一件よりも、百万を三十件の方が取れる可能性は遥かに高いわ。というか、そういう取り方をしないと、到底無理よ」
「百万を三十件、ですか……」
そう言われて改めてホワイトボードに目をやった美幸の背中から、理彩が付け加える。
「勿論、売り込んでも成約に至らない所はあるし、それ以上の件数を皆で回っている筈よ。恐らく少なくとも、その倍の件数はね」
そこで会話が少し途切れてから、美幸が口調を改めて再度口を開いた。
「改めて考えると、二課の皆さんって、凄い人達ばかりですよね」
「一番凄いのは課長でしょうけど」
「どうしてですか?」
理彩が異動してきた当初真澄に反感を持っていた事を知っていた美幸は、今ではきちんと上司として認めているとは分かっていたものの、そこまで手放しで誉めるのを少し意外に思いつつ問いかけた。すると理彩は小さく肩を竦めてから、課長席を指差す。
「月曜日、課長は一日PCに張り付いていたじゃない? 多分普段から溜めていた売り込み案の中から、比較的取りやすそうな百万から二百万までの案件をピックアップした上で、簡単に素案を纏めて各自に割り振ったのよ。常にそれだけ引き出しがあって、かつ迅速に行動できるなんて、とても凄い事だと思うわ」
「そうですね。それに課長は勢いで賭けをしたわけじゃなくて、ちゃんと勝算があったって事ですよね」
「そういう事。それに大体一日二日で商談を纏めろって言う方が無茶なんだから、昨日の段階で一千万弱まで到達しているなら上出来よ。あと今日一日、あるんですからね。皆が戻るのを大人しく待っていなさい」
「分かりました。せめて事務処理は滞りなく進めておかないと、皆さんに顔向けできませんね」
「そういう事。ほら、さっさとやるわよ」
そこで笑顔を見交わした二人は、時折無遠慮な乱入者を撃退しつつ、順調に書類を片付けていった。
そして午後も遅い時間になってから一人、また一人と二課のメンバーが戻り、成約結果をホワイトボードに記入していった。
通常であれば信じられないペースの成約状況に、一課と三課の者達はそれを遠目にして絶句していたが、当の本人達は若干浮かない表情をしていた。
「……ただいま」
「お疲れ様でした、加山さん」
控え目に帰社の挨拶をしてきた加山に、挨拶をしながら美幸が勢い良く立ち上がり、珈琲を淹れる為歩き出す。その横をすり抜けて、加山はホワイトボードに歩み寄った。
「お疲れ。どうだった?」
「まあまあかな? 本当はもう少し取りたかったが……」
背後からかかってきた声に、成果を書き終えた加山がマジックのキャップ閉めて体をずらしてみせる。そこに書かれた数字を見て、諦めと慰めが入り混じった声がかかった。
「それだけ取れれば十分だろうが」
「あまり欲張るなよ」
「そこの二つ、まるっきり新規だろうが。次に繋がるしな」
「そうは言ってもですね」
「戻りました」
如何にも悔しそうに加山が尚も言いかけた所で、タイミング良く戻ってきた城崎に、美幸がすかさず声をかけた。
「あ、お疲れ様です、係長。今、係長の分の珈琲も淹れますね。加山さん、珈琲をどうぞ。このクッキーは浩一課長からの差し入れです。とっても美味しいんですけど、この間皆さんが味わって食べる暇なんか無かったでしょうから、仲原さんと二人で我慢して取っておいたんですよ? 味わって食べて下さいね?」
「ありがとう。早速頂くよ」
自分の気持ちを引き立たせようとして、些かわざとらしい明るい口調で告げてきた事に気付いた加山は、素直に礼を述べて珈琲とクッキーが置かれた自分の机へと戻った。その間に城崎は自分の成果をホワイトボードに記入し終えて、歯軋りでもしそうな声音で呻く。
「……俺の分を含めて、合計で二千六百八十万ですか」
素早く暗算したらしい城崎の言葉に、僅かに二課の空気が若干重苦しい物に変化した。そして振り向いた城崎は、一番近くの机に居た瀬上に確認を入れる。
「後は誰が残っている?」
「課長と高須です」
「あの、でも……。二人とも昼前に一度戻って、そこに記入してました。その後、食事をしてから再度出掛けて行きましたので」
「それなら、これから三百二十万は、さすがに厳しいか……」
理彩が思わず瀬上の発言に注釈を入れると、その場に更に沈鬱な空気が漂った。しかしそれを振り払う様に、美幸が明るく声をかける。
「係長、お疲れ様でした。珈琲をどうぞ」
「ああ、ありがとう」
そこで取り敢えず城崎が微笑んでから席に着くと、彼と背中合わせの席の清瀬が思い出した様に言い出した。
「ああ、そうだ藤宮さん。これを海外事業部二課の田所課長に渡してきてくれないか? 提携事業の合意文書を今日まで出すと言ってたんだが、後処理で手が離せないから。見れば内容は分かる筈だし」
「分かりました」
「ついでに俺のも頼むよ。これ、交通費の支給申請書」
「俺は営業五課の荏原さんに頼まれてた、取引先のリスト」
「こっちも頼む~。広報課から回ってきてたアンケート用紙をほったらかしてて、今書き終わった~」
「はいはい、纏めてお引き受けしますので。……ちょっと行って来ますね」
思い出した様に次々と差し出される書類等を確認し、美幸が笑顔で二課を後にして数分後、終業時刻まで三十分を切ったところで、真澄が戻って来た。
「お帰りなさい、課長」
「……戻りました」
辛うじて聞こえる程度の挨拶を返し、真澄が無表情でホワイトボードへと歩み寄る。それを見た二課の者達は、揃って肩を落として囁き合った。
「おい、課長の顔が怖いぞ」
「やっぱり、駄目だったか……」
「こんなつまらない事で、課長を辞めさせられません。いざとなったら責任を取って、俺が辞表を出します」
「城崎君、早まるな。辞めるのは年上の俺達からだろうが」
部下達が小声でそんな事を言い合っている事など気にもせず、真澄はホワイトボードにとある社名と数字を書き込んだ。
《稲葉トイアース 三百八十万》
それを目ざとく見つけた村上が、周囲に注意を促す。
「……おい、ちょっと待てお前ら。あれを見ろ」
緊張した声で呼び掛けられた面々は、その数字を見た瞬間驚愕し、次いで喜びを露わにして叫びかけた。
「……え? おい、マジか?」
「信じらんねぇ」
「本当に、三千万取れちまったぞ」
「やりましたね、課長!」
「ふっ……、うふっ、ふふふふっ……、ふふふふ……」
「あの……、課長?」
マジックを手に持ち、ホワイトボードに身体を向けたまま、常より低い声で突然笑い出した真澄に、城崎は一応声をかけてみた。しかしそれを綺麗に無視した真澄の不気味な笑い声が、企画推進部内に静かにこだまする。
「……うふふっ、ふふふふふふふふふふふ……」
「え、えっと……、俺、ちょっと煙草吸ってくるわ」
「俺はトイレに……」
「ふふぅっ、うふふふっ……、ふふふふふふ……」
「ああ、経理部に申請しないといけない事があったな……」
「……外で私用電話、かけてきます」
「ふっ、うふふふふふふふふふふふ……」
「そこの灯りちらついてるし、替えを貰ってくるかな……」
「そう言えばコピー用紙も残り少なかったですよね。纏めて庶務課から貰って来ます」
そうして真澄以外の二課の者達は、適当な口実を口にしつつ次々立ち上がり、何処かへと姿を消して行った。そして二課に限らず、一課と三課の人間も一人二人と席を立ち、部内には数える程しか人がいなくなる。
そして更に数分後。気が済んだのか漸く笑うのを止めた真澄が席に着くとほぼ同時に、外回りから高須が、社内のあちこちで用事を済ませた美幸が、二課に戻って来た。
「……戻りました! あれ? 人が全然居ない」
「もう終業時間近いのに、まだ皆戻って無いのか?」
「いえ、課長も帰って来てますし、後は高須さんだけでしたよ?」
「変だな。何で揃って出払ってるんだろう?」
「偶々、用事が重なったんでしょうか?」
人気の無い室内を見回し、美幸と高須は首を捻りつつそんな事を話していた為、その時自分の机から広瀬と上原が(お前ら、命が惜しかったら入ってくるな!)と必死で目配せを送っていた事に気付かなかった。
「さて、どれだけ取れたかのな、っと」
そして神妙な顔付きでホワイトボードに向かった高須は《満谷電機 百二十万》と書き込んでから、それまで書かれていた項目に目を通すと、その内容に目を見開いた。
「……えっと、あれ? 俺が書く前に、既に三千万越えてるじゃないか!」
「え? って事は、課長が取り付けた商談で、目標到達だったんですね! 凄い、本当に取れるなんて!?」
驚いて声を上げた高須に、横から覗き込んだ美幸も満面の笑みを浮かべる。
「俺だってビックリだよ! まさか本当にやれるとは思わなかった!」
「えぇ~? 高須さん、課長の事を信用しないで働いてたんですか?」
「それとこれとは別だろうが!」
そこで二人が全身で喜びを露わにしていると、時計で時刻を確認した真澄が、静かに立ち上がって声をかけた。
「高須さん、藤宮さん。ちょっと手伝って頂戴」
「え?」
「行くわよ」
「は、はいっ!」
「今、行きます!」
唐突な指示に戸惑った二人だったが、重ねて指示されて高須は半ば鞄を放り出し、美幸も持ち帰った書類を乱暴に机に置いて慌てて真澄の後を追った。
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