猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

5月(4)知られざる暗黒道場

公開日時: 2021年7月15日(木) 07:31
文字数:3,371

「おはようございます」

「おはよう藤宮」

 週明け、恐る恐る出勤した美幸は、声をかけてきた理彩に空席になっている人物について尋ねた。


「あの、係長と蜂谷は……」

「二人ともまだよ? 蜂谷はともかく、係長は珍しいわね。ギリギリなんて」

「……そうですか」

「何かあったの? 変な顔をして」

「あったと言うか、あったんじゃないかと言うか……」

「何よ、それ?」

 美幸の煮え切らない態度に理彩が怪訝な顔を向けると、ここで出勤してきた城崎に高須が声をかけた。


「係長、おはようございます」

「……ああ」

 しかし城崎はなおざりに呟いただけでまっすぐ課長席へと向かった。そしてそこに座っていた真澄が、城崎を認めて表情を険しくして立ち上がる。


「あ、城崎さん! 金曜のあれは、一体どういう事!?」

「課長、申し訳ありません!」

「だから謝罪は良いから、納得のいく説明をして下さい!」

「え? 何だ?」

「また何か問題でもあったのか?」

 いきなり悲鳴混じりの声を上げた真澄の机の前で、城崎は鞄を放り出して土下座した。それを見た周囲の者達は動揺したが、ここで城崎が険しい顔を見せながら確認を入れる。


「佐竹先輩から、何も聞いていませんか?」

「蜂谷さんを連れ込んで以来、離れに籠もって出て来ないのよ! その上、清人の大学時代の先輩後輩って人達が入れ替わり立ち替わり家に来るし! そもそもどうして藤宮さんのお義兄さんと城崎さんが、家に蜂谷さんを連れてきたの?」

「それは」

「それは多分、私のせいかと……」

「藤宮さん?」

 ここで恐る恐る右手を上げて会話に割り込んだ美幸に、真澄と城崎が虚を衝かれた様な表情になった。そして周囲からの視線を全身に受けながら、美幸は正直に打ち明けた。


「つい家で、蜂谷の事を愚痴ったら、義兄が『俺に任せてくれたらそいつを半月で使い物にしてやる』と言ったので、それが成功するかどうか、私の夏のボーナス全額を賭ける事になりまして……」

「藤宮さん……」

「何て事をしてくれたんだ……」

 上司二人が揃って項垂れたのを見て、美幸は益々居心地悪い思いをしながらも、知っている限りの話を続けた。


「それで義兄が、課長のご主人に場所を提供しろと連絡したら、課長を可愛がっているツンデレ属性のお祖父さんが、三味線が超絶に下手なくせに浪曲が趣味で、昔練習する為に離れに家族に内緒で完全防音の地下室を作らせたとかで、そこを提供して貰う事になったそうです」

「ちょっと待って。そんな話、初耳よ!? 実の孫の私が知らないのに、どうして一緒に暮らし初めて半年未満の清人が、それを知っているわけ?」

「……すみません、それはご主人に聞いて下さい」

 恐縮して美幸が頭を下げると、真澄は追及先を城崎に戻した。


「それで? 私を含む家族全員を離れから締め出して、清人達は何をやってるわけ!?」

 すると城崎は土下座したままぼそりと呟いた。


「……暗黒道場」

「え?」

「普通は……、武道愛好会入会直後、講義終了から夜までの数時間、数日で終わる恒例の歓迎行事ですが。あいつは寝る時間と食事の時以外ぶっ続け、しかも半月。……絶望的だ」

「あの……、城崎さん。何がどう絶望的だと?」

 流石に不穏すぎる台詞に真澄が顔を強張らせながら問いただすと、城崎は床に頭を付けながら、切羽詰まった口調で謝罪した。


「すみません、課長! 俺は自分の身可愛さに、良心と蜂谷を悪魔に売り渡しました! 正直あいつの為にだけは、身体を張る気にはなれなかったんです!」

「……ええ、それは分かったから、顔を上げてくれない?」

 企画推進部の全員から(そうだろうな……)と同情の眼差しを送られた城崎は、今度は勢いよく頭を上げ、必死の形相で谷山に訴えた。


「部長! 社員が行方不明になると騒ぎになりますので、蜂谷は半月ちゃんと出社している扱いにして、ごまかして下さい! 携帯電話には応答させますし、一人暮らしですから差し障りありませんので」

「十分差し障りがあると思うが……。その、そこは安全なのか?」

「生命に別状はありません。人格は崩壊すると思いますが」

「…………」

 物騒な事をきっぱりと言い切られた谷山は、表情を消して黙り込んだ。そして先程から尋常ではない様子の城崎を目の当たりにして、自分が巻き込んだ責任を感じた美幸が城崎の前に回り込み、屈んで城崎と視線を合わせながら声をかけてみる。


「あの……、係長? 人格が崩壊って、ちょっと大袈裟じゃないですか? それに何だか顔色も悪い……、うひゃあぁっ!! ちょっと、係長! 何するんですか!?」

 顔を覗き込もうとした瞬間、城崎に腕を掴まれて勢い良く引き寄せられた美幸は、そのまますっぽりと城崎の腕の中に収まった。そして美幸を抱き込む形になった城崎が、唖然とする周囲を全く気にせず、悪態を吐き始める。


「もう駄目だ……、佐竹先輩と白鳥先輩だけでも手に負えないのに、宮内先輩に葛西先輩に丹波先輩に北野先輩に日高先輩に榊先輩まで……。あんたら今ではそれなりに社会的地位も有るってのに、いい年してろくでもない事に、手を出してんじゃねぇぞ!?」

「え、えっと……、係長?」

「大体、加藤に本郷に君島に上野に寺田……、お前ら金曜の夜だぞ? 何嬉々として集まってくるんだ、もっと他にやる事があるだろうが! 憂さ晴らしに首突っ込んでくるんじゃねえ!!」

「あの、少し落ち着きましょう、ねっ?」

 常にはしない乱暴な口調に、城崎が平常心を失っている事が美幸には十分過ぎる程分かったが、宥めようとする言葉も城崎の耳には全く届いていないらしかった。


「最大の誤算は……、課長の家に連れて行くと分かって、あそこだったら《歩く常識》《武道愛好会最大の良心》《最終ストッパー》の柏木先輩が居るからと、それに一縷の望みをかけていたのにっ……」

 そこで如何にも悔しそうに言葉を途切れさせた城崎が、次の瞬間、ひたと真澄に視線を合わせながら涙声で叫んだ。

 

「どうして三月から、柏木先輩が家を出ているんですか!? そんな事、全然聞いていませんでしたよ、課長!!」

「え? 柏木先輩って、浩一課長の事ですよね? 課長、本当ですか!?」

「ごめんなさい。プライベートだし、一々周囲には言っていなくて……」

 美幸を含めて周囲は皆驚いた表情になったが、非難がましい訴えを聞いた真澄は、思わず謝罪の言葉を口にした。すると城崎は真澄から再び床に視線を戻し、美幸に抱き付いたまま乾いた笑いを漏らす。


「ふふ、はははっ……。大学時代だけであれは済んだと思ったのに、どうして縁が切れないんだか……」

「……か、係長? あの、気を確かに」

「俺は何かに憑りつかれてるのか? 思えば大学入学直後が、俺の人生の頂点だったな……」

「か、かちょおぅぅ~」

 何やら現実逃避に走ったらしい城崎が、虚ろな目つきでブツブツと呟き続けている為、抱きつかれたままの美幸は顔だけ真澄に向けて助けを求めた。しかし真澄は黙って城崎の様子を観察してから、両手を合わせて美幸に頼み込む。


「上がったら下がるのが自明の理……。はは……、これ以上下がりたくは無いぞ、おい」

「……藤宮さん。城崎さんが随分精神的に疲弊しているみたいだから、城崎さんの気が済むまで精神安定剤代わりに、暫くそのまま抱きつかれていて頂戴」

「はい?」

「その間、仕事は免除するから安心して。……さあ、皆さん! 始業時間は過ぎました。今日の業務に取りかかって下さい!」

「分かりました」

「課長、早速ですが、こちらのチェックをお願いします」

 真澄の号令を受け、企画推進部全体が何事も無かった様に通常業務に移行した事を受けて、城崎と共に取り残された美幸は狼狽した声を上げた。


「あのっ、課長!? 良いんですか?」

 それに真澄が答える前に、近くにいた村上が美幸の肩を叩きつつ言い聞かせた。


「大丈夫だよ、藤宮さん。予定では係長は午前中に商談が一件入ってる。係長が仕事に穴を開けるわけは無いから、あと最長一時間で正気を取り戻すから」

「そうですか……、って! まさかそれまでこのままですか!?」

「……これも仕事だ。頑張れ」

「あの後、散々言われたよな……、顔付きが変わったとか、洗脳されたとか……」

 一瞬安堵したものの、動揺しっぱなしの美幸を放置して村上は席に戻り、教えられた通り商談先に出向く時間になって城崎が自制心を取り戻すまで、美幸は周囲から生温かい目で見られ続ける羽目になった。


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