猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

10月(5)二課の屈辱

公開日時: 2021年6月4日(金) 21:26
文字数:4,072

「今回の《ランドル》の企画は、工業用品の試薬を日用品の消臭剤に転用する試みで、自社開発でのプライベートブランド商品の目玉商品を探してた大型チェーン店の《パルム》を引っ張り込んだデカい仕事だったんだが……、当初向こう側が、なかなか乗り気じゃ無かったらしい」

「どうしてですか?」

「企画案を出して、率先して話を進めていたのが、課長だったからだ」

「はい?」

「意味が分かりません」

 美幸と理彩が揃って首を傾げると、瀬上は如何にも言いにくそうに説明を続けた。


「その……、《パルム》の現場担当者の上役が結構な男尊女卑思考の持ち主で、『女にこんな大きな仕事が任せられるか』と言ってたらしい」

「何ですっ、ぅぐっ!」

「ふざけ、むぐぅっ!」

「ただでさえ室内の空気が沈鬱なのに、喚き立てるな!」

「商談毎にチクチク嫌味言われながら、課長は黙って話を進めてたんだぞ?」

 瀬上が理由を述べた瞬間、女二人は血相を変えて瀬上に詰め寄ったが、完全に予想範囲内の行動だった為、予め珈琲入りのカップをそこら辺の机に置いておいた瀬上と高須が、素早く二人の口を手で塞いで小声で叱責した。それで取り敢えず二人が怒りを押さえ込んだのを見て、瀬上と高須が取り敢えず手を離し、溜め息混じりに話を続ける。


「それで、今回課長達が商談の席をすっぽかしたのはとても誉められた事じゃないが、《ランドル》と《パルム》の担当者の間では『残念ですがまた日にちを改めて』と言う方向で解散しかけたんだ。そこに課長を目の敵にしている、その上役がやって来たらしくてな」

「担当者達は謝罪の一つもしてくれれば良いと思っていて、現に慌てて課長が電話で謝罪したら苦言を呈してから快く許してくれたみたいだけど、例の上役が『それ見たことか、女にこんな重大な事を任せられるか!』とかほざいた挙げ句、『柏木産業はうちの仕事を女に任せるなんて、うちを馬鹿にしてるのか!?』とうちに乗り込んで怒鳴りつけたらしい」

「最悪な事に、それに対応したのが普段課長を目の敵にしている、社長派浩一課長推進派の重役だったらしくて」

「偶々、課長、係長、土岐田さんが揃って社内に居なかった時に問題が発覚したから、対応が後手後手に回って益々騒ぎが大きくなったし。それでさっきまで課長と係長、重役連中に吊し上げ食らってたんだ」

「谷山部長が何とか二人を引き取って来たみたいだが、広瀬課長と寺本係長まで呼んで、何を話し込んでるんだろうな?」

 そこで透明な壁で囲まれた部長室のスペースに皆が目をやると、確かに谷山の他に真澄と城崎が居るのは分かるとして、一課課長と係長ペアまで揃っているのに、四人は怪訝な顔を見合わせた。しかしここで美幸が慌てて瀬上に確認を入れる。


「じゃあ、この話は無かった事になるんですか?」

 それに理彩が幾分心配そうな顔をしながらも、反論を述べる。

「幾ら何でも、会議を一回すっぽかしただけで、去年から交渉して締結間際の件が反故になったりしないでしょう?」

「確かに、それは無いとは思うが……」

 瀬上が難しい顔をしながらも一応理彩の意見を肯定した時、高須が他の面々に向かって囁いた。


「あ、部長室から皆出て来ましたよ?」

「じゃあ、俺達も戻るぞ」

「そうですね」

 そして何食わぬ顔でそそくさと四人が自分の席に戻ると、何やら小声で会話を交わしながら、真澄達四人が二課のスペースにやって来た。そして土岐田の机の並びに立った真澄が、静かに声をかける。


「土岐田さん、ちょっと良いかしら」

 それに土岐田はすぐさま立ち上がり、顔色が悪いまま口を開いた。

「はい、係長。その……、今回の件は」

「それは日程の変更の連絡を受けた私が、間違えた日付を共通スケジュールファイルに書き込んだ為に生じたミスです。土岐田さんには何の落ち度もありません。申し訳ありませんでした」

 自分の台詞を遮り頭を下げてきた真澄に、土岐田は狼狽しながらも反論しようとした。


「いえ、それは……、あの日程なら、俺が次の最終案締結まで日数が足りない事に気付けば良かっただけの話ですし」

「それで、今後はこの件は全面的に一課に引き継ぐ事になったので、今から谷本係長に資料の引き渡しと引き継ぎをお願いします」

「は?」

 真顔でのいきなりの指示に、頭が付いて行かなかったらしい土岐田は固まったまま何回かまばたきをしたが、真澄はそれには構わず広瀬を促して自分の席に戻る。


「それでは広瀬課長、すみませんがこれを。それから……、私PCに入っている情報は、今広瀬課長にお渡ししますので、確認をお願いします」

「……ああ、分かった」

 真澄が迷い無く棚から取り出したファイルを広瀬に手渡し、淡々とPCのキーボードを操作するのを見て、漸く我に返った土岐田が盛大に声を荒げた。


「ちょっと待って下さい! 何でいきなり引き継ぎなんですか? この仕事は当初から、課長と俺で進めてきた」

「『これ以上女相手に仕事ができるか』とほざく馬鹿が商談相手だから仕方ねぇだろ。黙って言われた仕事しろよ、オッサン」

 いきなり土岐田の声に重なった台詞に、そこそこの広さがある企画推進部の室内全体が凍り付いた。そして一瞬の後、何事も無かったかの様に自分の席に着いて仕事を再開した城崎の様子を盗み見ながら、周囲が押し殺した声で囁き合う。


「初めて聞いたぞ。城崎君のあんな乱暴な物言い」

「幾ら形式上は部下でも俺達は年上だからって、課長同様、これまで丁寧な口調を崩さなかったのに」

「完璧にキレてんな。何をどれだけ言われて来たんだか」

「土岐田、これ以上係長を刺激するな!」

 同僚からの切羽詰まった指示を受け、土岐田は憤懣やるかたない表情ながらも、口調はいつものそれになって、一課係長の寺本に向かって神妙に頭を下げた。


「……分かりました。寺本係長、こちらにお願いします」

「あ、ああ……」

 そして些か居心地悪そうに寺本が土岐田の席で引き継ぎを始めると、美幸と理彩は顔を寄せ、憤慨しつつも声を潜めながら文句を口にした。


「何なんですか一体! 課長が女性に生まれついたのは、課長のせいじゃ無いですよ!」

「全くだわ。清川同様、今時とんでもない時代錯誤オヤジが居たものよね。会議室に乱入して、水でもぶっかけてやれば良かったわ」

 そんな事を言い合っていると、奥の列に座っている城崎が二人の席の方を振り返り、冷たい声で指摘してくる。


「藤宮、仲原、何を喋っている。今日中に提出する書類の作成は終わったのか? 午後から色々と雑用が多かっただろうから、順当にいけば遅れているよな?」

「もっ、もう少しです!」

「何とか時間内に終わらせます!」

「そうか」

 それきり黙々と自分の仕事を片付けていく城崎に、勿論話しかける者など皆無だった。


 それからは課長の真澄を筆頭に二課の面々が黙々と仕事をこなしている為、部屋全体が重苦しい沈黙に支配されたまま、終業時刻を迎えた。しかし真澄も城崎も微動だにしない為、他の者は何となく立ち上がるタイミングを掴めないまま、時間が過ぎていく。


(うぅ……、今日出張だった清瀬さんや、出先から直帰の川北さんや加山さんが羨ましい……)

 そんな事を考えて美幸が項垂れた時、出入り口のドアを開けて現れた人物が、場違いな声を響かせた。


「やっほぅ~! 真澄、飲みに行くわよぅ~! 良いお店見つけちゃったの~。ほら、割引クーポンもゲット済み~」

 人事部係長である夏木裕子が嬉々として、ダウンロードしたスマホのクーポンの画像を見せつつ課長席に歩み寄ると、真澄は戸惑った声を上げた。


「はぁ? 今日飲む約束なんかして無いじゃない。裕子、あなた旦那さんと子供を放置して、突発的に飲みに行くなんて構わないの?」

「旦那は今夜子供を連れて、向こうの実家に行くから。毎月一回は孫の顔を見せに行かないとね~」

 裕子がにこやかにそんな事を言い返すと、その背後から現れた営業部第三課長の鹿角と経理課係長の桜庭が現れ、同期入社の広瀬と真澄を促した。


「広瀬、ほら、わざわざ迎えに来てやったんだから、ちゃっちゃと終わらせろよ?」

「分かってるから、二分待て」

「柏木も、相変わらず辛気臭ぇ顔で仕事してんなよ。花金だぞ? ほら、そっち荷物纏めてくれ」

「了解。真澄、ロッカーの鍵これだよね~」

 上機嫌の裕子が真澄の上着のポケットに手を伸ばし、スルリと中から小さな鍵を取り出した。それを見て、慌てて真澄が立ち上がる。


「ちょっと! 勝手にロッカーを開けないでよ! 第一そんな勝手に予定を決めないで!」

「うるせぇぞ柏木。お前がそんなシケた面していつまでも仕事してたら、下がいつまで経っても帰れねぇ事位気付け! さっさと行くぞ!」

 そこで鹿角に一喝された真澄は、小さく息を飲んで唇を噛んだ。そして俯き加減で応じる。


「……分かったわ」

 そこで真澄の鞄を持った裕子が、真澄の腕を取りつつ室内の人間に向かって明るく別れの挨拶をした。


「じゃあ皆さんお先に~」

「とっとと帰れよ?」

「そうそう、週末なんだし、しっかり休んで頭の中身切り換えようか」

 そうして逃がさないようにするかの如く、真澄を囲むようにして移動し始めた面々に向かって、城崎が立ち上がって頭を下げる。


「お疲れ様でした」

 それを聞いた鹿角が苦笑いして足を止め、鷹揚に頷いて応じる。

「ああ、お疲れ。お前も早く帰れよ、城崎」

「そうします」

 そうして真澄達が去って室内の空気が弛緩すると、手早く荷物を纏めた城崎が周囲に声をかけた。


「それでは俺も、お先に失礼します」

「あ、俺も帰りますので」

「そうだな……、後は来週で良いか」

「ここの所、残業が続いてたしな。早めに帰ろうか」

 城崎の退社宣言に釣られる様にして周りも次々に帰り支度を始め、自然に室内が賑やかになった。そして美幸は城崎を見送ってから慌ただしく自身も帰り支度をして、挨拶もそこそこに部屋を飛び出す。

 廊下に出ると既に城崎はエレベーターで一階に降りた事が分かり、じりじりしながら下りのエレベーターを待った美幸は、漸く来たエレベーターに飛び乗って一階まで降りると、城崎が通勤に利用している駅までの道を、一目散に駆け出した。


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