そうして何とか無事に会議を終え、終業時間まで何事も無く過ごす事ができた美幸は、気分良く家路についた。しかし自社ビルを出た所で、追いかけてきたらしい城崎が、若干息を切らしながら美幸に声をかけてくる。
「藤宮、歩きながらちょっと話があるんだが……」
「はい、構いませんけど、何でしょうか?」
並んで最寄駅までの道を歩きながら、美幸は城崎の言葉を待ったが、何故か相手が一分程歩いても無言を保っている為、怪訝そうにその顔を見上げた。
「あの~、係長?」
「その……、昼間の入札の件なんだが、やっぱり止めないか?」
その台詞に、美幸は無意識に顔を顰める。
「どうしてですか? 私にはあれは無理だと言うんですか?」
「いや、そうじゃない。力量は十分にあると思う。思うんだが」
そこで困った様に尚も言い募ろうとした城崎だったが、何やらスーツのポケットからメロディーが聞こえてきた。
「ちょっと待っていてくれ」
断りを入れてスマホを取り出した城崎を、美幸は釈然としない気持ちで眺める。
(何なんだろう……、この煮え切らなさ。全然係長らしくないんだけど?)
ぼんやりとそんな事を考えていると、いきなり城崎が奇声を発した。
「げっ!!」
「は?」
思わず美幸が城崎の顔を見上げると、城崎はそれで我に返った様に慌てて自分の背後にスマホを隠した。
「い、いや、何でも無い! 絶対何でも無いから!!」
「はぁ……」
その必死過ぎる否定っぷりに、自然と美幸の視線と意識が、城崎の背後に回された両手に向かう。
(何? 課長の顔、夜目にも青を通り越して、何か白いけど……)
そんな美幸の視線を察知した城崎は勢い良く背後を振り返り、慌ただしくスマホを何か操作してから、誰かに電話をかけ始めた。
「あんたって人はっ!! いきなり人のスマホに、何送り付けてくれてやがんですか!! …………はぁ!? あんたエスパーかよ、ふざけんな!! …………いえ、すみません、今のは動揺のあまり、つい口が滑りました。何卒、何卒平にご容赦ください……」
(係長……、思いっきり変。このままこっそり帰って構わないかしら?)
いきなり電話の相手を怒鳴りつけたかと思ったら、次の瞬間何もない所に向かってペコペコと何度もお辞儀をしだした城崎を見て、周囲の通行人は遠巻きにしながら通り過ぎて行く。美幸も一瞬、挙動不審な城崎を放置して帰ろうかと思案したが、我慢して通話が終わるのを待った。そして何やらボソボソと話を済ませてから、傍目にもげっそりした風情で城崎が振り返る。
「ええと……、すまん、待たせて悪かった、藤宮」
「お話は終わったんですか?」
「ああ、何とか」
「それで、どうしてあのお仕事を私がしてはいけないんですか?」
そう問いかけた美幸に対し、城崎は一瞬言葉を詰まらせてから、先程までの立場とは百八十度異なる事を口にした。
「その話なんだが……、やっぱり藤宮がやってくれ。できるだけ俺もフォローするから」
「本当ですか? 宜しくお願いします」
「いや、こちらこそ。それじゃあ……」
「はい、お疲れ様でした」
何となく狐につままれた様な顔になりながら、美幸は城崎を見送ったが、(なんだか係長、足取りがフラフラしてるけど、大丈夫かしら?)とその後ろ姿を眺め、理由が分からない為ちょっと不安になってしまった。
その日は珍しく早目に帰っていた秀明と、美幸と美野は食堂で一緒に夕食を食べる事になった。配膳した後は秀明の横に座ってお茶を飲み始めた美子を含め、和やかに雑談していた最中、美幸はふと昼間の不愉快な情景を思い出し、美野に洗いざらい報告する。その会議室での一悶着を高須から全く聞いていなかった美野は、すっかり驚いて聞き入った後、ゆっくりと口を開いた。
「……会議の前に、そんな事があったのね。いきなり山崎さんが課長さんと法務部に出向いて来たから、何事かと思っていたのよ。今まで全然音沙汰が無かったのにいきなり謝罪してくるから、法務部の皆さんにどういう事かと尋ねられたし。それには課長さんが丁寧に説明して、『私の指導が行き届きませんで』と頭を下げていたけど、それで余計に皆が、何とも言えない顔を山崎さんに向けていたわ」
それを聞いた兄夫婦は、揃って苦笑の表情になった。
「あらあら、さっさと美野に頭を下げておけば良かったのにね。こちらにとっては、とっくに済んだ事だったのに。余計な恥をかいてしまって」
「そうだな。寧ろ例の件で美野ちゃんと高須君が纏まって、こちらは感謝している位だが」
「そうですよね~」
「美幸、あのね!」
茶化す様に美幸が応じた為、美野は顔を赤くしてから妹に文句を言おうとしたが、ここである懸念を思い出し、真顔で確認を入れた。
「でも、そんな呑気な事を言っている場合なの? 美幸と優治さんは、これからも暫くは山崎さんと同じプロジェクトのメンバーでしょう? また八つ当たりされたりしないか、心配だけど」
美野は真剣に訴えたが、美幸は食べる合間に淡々と応じた。
「仕事だし、そんな事一々気にしてないわ。それにこれに懲りて、少しは大人しくしているんじゃない?」
「そうかしら?」
「正直、そんな事より、課長代理から任された、新しい仕事の方が気になるのよね」
そこで思わず箸を止めて眉間に皺を寄せた美幸に、美野が驚いた様に問いかける。
「何? 何か問題でもあるの?」
「ううん、そうじゃなくて……。全然問題なさそうなのに、係長が渋い顔と言うか、やって欲しく無さそうな顔をするのよね……。帰りがけにもそんな事を言われたし。だから余計にわけが分からなくて」
「城崎さんが? 陰からサポートしてくれるならともかく、意味も無く人の仕事に口出しをする様な人には見えないけど」
美野まで怪訝な顔になって考え込んでしまったが、ここでテーブルの向かい側から秀明が声をかけてきた。
「美幸ちゃん、因みにどんな仕事?」
「区役所業務の外部委託の共同入札への参加です。あ、家で資料をもう一回見ようと思って、持って来たんだった」
そして「食事中に行儀が悪いわよ?」と美子に叱責されつつ立ち上がった美幸は、少し離れた椅子に置いてあった鞄を開け、中からクリアファイルを取り出した。そして「これなんですけど」と秀明に差し出すと、それをパラパラと捲ってみた秀明は、一分もせずに明らかに苦笑の表情になる。
「……へえ? ああ、なるほどね。良く分かったよ」
その反応に、美幸はすっかり困惑した。
「え? お義兄さんは、係長がどうして変な言動をしたのか、これだけで分かったんですか?」
「そうだね」
「それってどうしてですか?」
「悪いけど、城崎が口を割っていないなら、俺が教えるわけにはいかないな」
あっさりと断られた美幸だったが、ここで食い下がろうとした所で、横から秀明の手元を覗き込んでいた美子が、会話に割って入る。
「要するに、城崎さんって、美幸には結構甘い方だって事でしょう?」
「はぁ?」
「分かるか? 美子」
面白そうに秀明が顔を向けると、美子は夫と同じ笑顔で頷いた。
「ええ、多分あなたと同じ事を考えていると思うわよ? 察するにあなたの後輩の課長代理さんって、時間を無駄に使わないタイプの方なのね?」
「加えて人遣いが荒くて、自分に厳しい以上に他人に厳しいタイプだな」
「間に挟まれた城崎さんが、ちょっとお気の毒」
「かなり気の毒レベルだな」
何やら夫婦で分かり合っている会話を交わされ、美幸は呆然としてから、気を取り直して再度尋ねた。
「あ、あの~、要するにどういう事?」
「さっきも言ったけど、それは自分で考えようか?」
「ヒントだけあげましょうか。俗に『名を捨てて実を取る』って言うわよね?」
「美子、お前も結構美幸ちゃんに甘いぞ?」
「そうかしら?」
そしてこれ以上尋ねても無駄だと悟った美幸は、微笑んでいる長姉夫婦から視線を外し、隣の美野に尋ねた。
「美野姉さん、分かる?」
「全然。意味不明よ。分かったら教えて?」
そして本気で首を捻っている美幸と美野を眺めながら、秀明と美子は暫くの間、苦笑を堪えていた。
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