新入社員の合同初期研修が終了し、それぞれの配置部署での勤務初日。企画推進部、その中でもニ課はとんでもない厄介事の種を抱え込む羽目になった。
「……それでは、今年2課と3課に新たに配属になった者を紹介する。名前を呼ばれたら一歩前に出て、名前と抱負を簡単に述べてくれたまえ。それでは2課に配属になった、蜂谷隼斗君」
「ふぁ~い」
「…………」
定例の朝礼で、部長の谷山から声をかけられた蜂谷が、気怠そうに一歩前に出た。その前から彼から感じる全体的にだらしない印象に、その場全員が呆れ、かつ不安に思っていたが、本人が発した台詞でそれが決定的になった。
「蜂谷隼斗です。抱負とかは特になし。よろしく」
ボソッとそう言ったきり、首だけ曲げてさっさと元の位置に戻った彼を見て、密かに初めての後輩を迎える立場になった美幸は色々期待していた分憤慨し、年長者達は頭を抱えた。
(何なの? このやる気皆無の態度に挨拶は!? しかも立ち姿は崩れているし、まともに礼もできないわけ? 人事部はどういう基準で、こんなダメ人間を採用したのよっ!?)
(ここまでダメダメだと、突っ込む気にもならない……)
(去年の藤宮さんもなかなか強烈だったが、彼は別な意味で強烈だな)
(そうだよな……。まともな人間が、2課に配置になる筈が無かったか)
(藤宮さんは予想以上に使い物になったから良かったが、蜂谷君はどう見ても……)
城崎もさすがに前に立つ真澄に物言いたげな視線を向けたが、真澄は無言で首を軽く振った。そして谷山も内心では呆れていたが、そこで叱りつけて中断させる様な真似はせずに、取り敢えず話を続ける。
「それでは次に、3課に配属になった渡部和枝さん」
「はい」
そこで蜂谷の隣に立っていた渡部は、一歩前に出て綺麗に一礼してから、はきはきと抱負を述べた。
「今日から企画推進部三課配属になりました、渡部和枝です。一日も早く仕事を覚えて、社内でも業績は群を抜いている企画推進部の一員として、頑張っていきたいと思います。宜しくお願いします」
先程の挨拶とは雲泥の差であり、思わずその場全員が救われた思いで拍手していると、それが面白く無かったのか、蜂谷がボソッと吐き捨てる様に口にした。
「けっ、いい子ぶりやがって。女は愛想笑いしてりゃいいから、楽だよな」
「…………」
拍手の音と重なっていた事もあり、その悪態を耳にしたのは前方に居た部長、課長、係長、その他一部の社員だけだったが、揃って険しい視線を蜂谷に向けた。中でも言われた当人の渡部は僅かに顔を強張らせて蜂谷を振り返ったが、言った本人は薄笑いをして平然と見返す。偶々前列に並んで居た為、そんな二人を目の当たりにした美幸は、怒りを静める為に深呼吸をしてから、いつも以上の笑顔をその顔に浮かべつつ、渡部に声をかけた。
「渡部さん、ちょっと良い? 2課の藤宮美幸ですけど」
「はい、藤宮さん、何でしょうか?」
慌てて美幸の方に向き直りつつ渡部が応じると、美幸は笑顔を崩さずに提案した。
「渡部さんに早速一つ、仕事をする上での心得を教えてあげようかと思ったの。私の経験上、吠える犬は噛まないのよね。基本、負け犬だから」
「え?」
「はぁ?」
いきなりの話に渡部は当惑したが、蜂谷も怪訝な顔をした。しかし美幸は蜂谷には目もくれず、渡部だけに視線を合わせて楽しげに告げる。
「思った事全て垂れ流しだと、ただでさえ頭が悪く見えるけど、意外と本人は分かって無いのが困りものなのよね。だからそこら辺を、気を付けた方が良いわよ?」
「はぁ……」
「まあ、底無しの馬鹿だったら嫌味を言われても分からないだろうけど、渡部さんだったらそれを含めてちゃんと理解できそうだし、あまり心配要らないとは思うけどね」
最初戸惑ったものの、蜂谷に対する痛烈な皮肉を言っているのだとすぐに理解できた渡部は、笑いを堪えながら美幸に頭を下げた。
「ありがとうございます。肝に銘じておきます」
「良かったわ。分かって貰えて」
「…………」
そんなやり取りを他の者達も苦笑して見守っていたが、ただ一人蜂谷だけは、苦虫を噛み潰した様な表情で美幸を睨み付けていた。
そして定例会が終了し、各課のスペースに戻った面々だったが、課長である真澄は慌ただしく幾つかのファイルを取り上げて移動の準備を始めた。
「それでは城崎さん、午前中は蜂谷さんに業務の説明を一通りお願いします。午後からは簡単な事務処理作業等を割り振って下さい」
「分かりました」
その他、細かい幾つかのやり取りをしていた二人の側で、蜂谷が不満タラタラの口調で呟く。
「ちっ……、何で俺が、こんな面汚し連中に混ざって仕事しなきゃなんないんだよ」
その声は真澄と城崎にはしっかりと聞き取れたが二人は何事も無かった様に綺麗に無視し、思わず腰を浮かせた美幸は、両隣の高須と理彩に強引に引き止められた。
それから城崎は蜂谷の席の横に自分の椅子を持って行き、手元の資料を読み上げながら簡単に企画推進部の業務内容を三十分程かけて一通り説明した。その間、蜂谷は要所要所で質問する事はおろか、内容を書き留める事もせずにぼんやりと聞き流しており、2課の面々は全員げんなりとした表情になったが、ただ一人当事者の城崎だけは、傍目には平然としていたが、説明を終わらせると同時に書類を机に置いて、冷静に指示を出す。
「それでは蜂谷さん。一通り説明をしたので、どれだけ内容を把握しているか確認する為に、まず商取引に関する法令遵守事項に関しての説明をお願いします」
そう言われた途端、蜂谷は露骨に顔を顰めてみせた。
「え? そんな事、話してましたっけ?」
「ええ。お願いします」
真顔で再度促した城崎に対し、蜂谷はヘラヘラと笑いながらすっとぼけた。
「無茶言わないで下さいよ。俺、聞いてませんから~」
「そうですか」
(何寝言ほざいてんのよ! 係長は懇切丁寧に説明してたでしょうが!! まさか一文も覚えていないわけ!?)
蜂谷のあまりに傍若無人な態度に、美幸が早くも堪忍袋の緒を切らせそうになったが、冷静に応じた城崎が胸ポケットから何かを取り出して操作を始めた。
美幸を初めとして2課の面々が(係長は何をしてるんだ?)と不思議に思って見守っていると、百円ライターサイズのUSB内蔵のICボイスレコーダーのボタンを操作し、チャプター番号と経過時間から、先程言った内容を語った部分の録音箇所をあっさり探し当てて再生してみせた。
「…………」
思わず無言になった蜂谷に、それまでの丁寧な口調をかなぐり捨てた城崎が、駄目押しをする。
「俺はこの通り、話しているがな。これでも聞いていないと主張するなら、即刻耳鼻科に行って診断書を提出しろ」
そこまで言われても、蜂谷は顔を引き攣らせつつ、悪あがきを試みた。
「タチ悪いですね。配属早々、新人イビリですか? 2課は良くない噂が多いですが、実際にそうだとは思いませんでしたよ」
しかしその程度の事を言われて怯む城崎では無く、逆に凄みのある声で恫喝した。
「勿論、さっき貴様が『聞いてませんから』とか寝言をほざいたのも、録音してあるからそのつもりで。タチが悪いと言うなら、それでも結構。俺の業務時間を無駄に減らしてるお前は、タチが悪い面汚し部署の、箸にも棒にもかからない穀潰しだ。人並みに稼げる様になってから、一人前の口をきくんだな。勿論勤務評定は、無駄口を叩く度に下げていくぞ。俺的には既にマイナスに突入しているが、いっそどこまで下げてくれるか楽しませて貰おうか」
「…………」
立て板に水の如く城崎が言い放つと、蜂谷は悔しそうな顔をしながらも黙り込み、それを耳にした美幸は心の中で快哉を叫んだ。
(さっすが係長! あの馬鹿がぐうの音も出ないわ。係長みたいに見た目迫力がある人間相手には強く出れないなんて、本当に根性が腐ってるわね!)
相当城崎が腹に据えかねているのが分かった周囲が静まり返っている中、城崎が冷え切った声で淡々と次の指示を出した。
「もう一度だけ説明する。頭が悪くて詰め込めないから、何かに書き取っておけ。去年の新人はそんな事を一々言われなくても自主的にそうしてたし、それ位常識だ。まさか筆記用具とノート位は持参しているよな?」
「書くのは有りますが、紙は無いです。俺用のパソコン位有るでしょう?」
開き直ってそんな事を言った蜂谷に、殆どの者は呆れかえり、一部の者はその空気の読まなさっぷりに逆に感心すらしてしまったが、予想に反して城崎は怒り出したりはせず、不気味な笑みを浮かべた。
「俺の話を、そのままのスピードで打てると? じゃあやって貰おうか。パソコンはこれを使え。起動させるまで説明は待ってやる」
そこで城崎が見せた獰猛な肉食獣を思わせる笑みに周囲は肝を冷やしたが、実際に城崎が再度説明し始めてから、その思いを強くした。
(うわ……、係長、容赦ないな。さっきより絶対一割増し以上のスピードで喋ってる)
(しかもスピードを上げた分、さり気なくさっき説明した内容より項目を増やしてるし)
(あの臨機応変さは、係長ならではだな。あいつにはそこら辺、分からないだろうが)
(それ以前に、何かまともに打ってる様子じゃないんだよな。オロオロしてるし)
(やっぱり底無しの馬鹿だ。素直に謝っておけば良いものを)
一同が遠巻きに城崎と蜂谷の様子を窺っていると、再度説明し終えた城崎が、冷え切った声で指示を出した。
「さて、どの程度内容を把握できたか確認するから、打ち込んだ内容を一部プリントアウトしろ。一部で良い」
しかし蜂谷はパソコンの画面を見つめたまま、小さな声で拒否した。
「……できません」
「寄越せと言っている。それとも人に見せられる内容じゃないのか? 初期研修で何を教わって来た?」
容赦なく追い詰める城崎に、ここで蜂谷が逆ギレして立ち上がりつつ、相手を盛大に非難した。
「だっ、大体! こんなのは最初に文書に纏めた物を、渡してくれるんじゃ無いのか!? 何の嫌がらせだよ!」
「悪いが、うちは実力主義でな。そんな優しくは無いんだよ。さっさと移動願いを出すか? どこでも使い物にならないという評価を付けて、いつでも人事部に差し戻してやるぞ?」
「…………」
自分の難癖をあっさりと切り捨て、ゆっくり立ち上がって190cm近い長身から見下ろしてきた城崎の明らかな蔑みの視線に、蜂谷は顔を引き攣らせて黙り込んだ。その様子を眺めた城崎は、幾分疲れ気味に小さく息を吐いてから、理彩に向き直って声をかける。
「仲原さん、ちょっと良いですか?」
「はい、係長。何でしょうか?」
仕事の手を止めて視線を向けた理沙に、城崎は明らかに蜂谷に対する言葉遣いとは違う、いつも通りの口調で指示を出した。
「申し訳ないが、今日から暫くデータ入力と解析作業、対外業務一般、書類作成の手順を一通り彼に指導して下さい。それから藤宮さん、これから仲原さんの業務に支障が有る場合、フォローをお願いします。二人とも今、大きな仕事は有りませんね?」
「はい、大丈夫です」
「分かりました」
理彩と美幸は内心(面倒だし、こんなののお守りなんて御免だわ)と思ったものの、が揃って頷いたのを見て、城崎は幾らか安堵した表情で小さく頷いてから、背後を振り返った。
「それでは宜しく。俺はこれから商談に出むく準備をしますので。俺が出ている間に何か有ったら、村上さん、お願いします」
「了解しました」
そんなやり取りを耳にしながら、理彩は一応先輩として愛想良く蜂谷に声をかけた。
「さあ、それでは蜂谷さん。初期研修で基本的な処理作業は習得している筈なので、それほど難しくは無いと思います。どんどんいきますよ?」
「……ああ」
如何にも面白く無さそうにぼそりと呟いた蜂谷を見て、理彩は笑顔のままこめかみに青筋を浮かべ、横で見ていた美幸も内心で憤慨した。
(何なの、さっきから傍若無人なあの態度! 係長には一応しおらしく見せてたくせに、女相手だと舐めてかかってるわけ? 教えて貰ってるんだから、「宜しくお願いします」位言いなさいよ!)
それでもこの一年でだいぶ忍耐力が増した美幸は、蜂谷を怒鳴りつける様な事をせずに我慢した。更に、当面2課のお荷物の世話をする羽目になった理彩に深く同情し、そのフォローに回る事を決意したのだった。
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