「ここだ」
周囲は落ち着いた低層マンションが並ぶ住宅地の一角であり、城崎が示したドアの場所も五階建てマンションの一階だった。敷地面積は十分広いらしく、横幅も奥行きも相当な事が見て取れるが、一般的な店舗とはかなり趣が異なるそれに、同行者は揃って疑問の声を上げた。
「あの……、見事に看板の一つも出ていませんが」
「普通外から店内が見える様にガラス張りなのに、出入口の他は一面壁だし」
「確かに、興味本位の客は入りそうにありませんね」
そんな感想は予め予想していた城崎は、小さく笑っただけで真っ直ぐドアへと進んだ。
「じゃあ入るぞ」
そう言って左右に開いた自動ドアを抜けて城崎が店内に足を踏み入れると、即座に落ち着いた声がかけられた。
「いらっしゃいませ。……あら、城崎、久しぶり。それに両手に花なんて隅に置けないわね」
茶化す様にウインクして来た三十代半ばの、薄化粧ながらキリッとした顔立ちの人目を惹く女性に、城崎は苦笑いしながら挨拶を返した。
「お久しぶりです、富川先輩。今日はお客を連れて来ました」
「城崎推薦なら、変な客じゃ無いわね。大歓迎よ」
「ありがとうございます。美野さん、ここなら客でごった返す事は無いので、周囲を気にせずゆっくり選べますから」
城崎が苦笑を深めて説明すると、美野は早速瞳を輝かせながら一口サイズのチョコやミニケーキがずらりと並ぶガラスケースの中に見入った。
「凄い……、全部で何種類有るの?」
その呟きを耳にした店長のネームプレートを付けたその女性は、黒のブラウスとスカートの上に白のエプロンを着けた姿でケースの横を回り込み、美野に穏やかに笑いかけた。
「ようこそいらっしゃいました。お好きなだけご覧になって下さい。言って頂ければ試食の品もお出ししますので、遠慮なく声をかけて下さい」
「ありがとうございます」
笑顔で早速順に見始めた美野から美幸に視線を移した城崎は、店の奥へと続く通路を指差しながら、提案した。
「じゃあ美野さんが選び終わるまで時間がかかりそうだから、俺達は奥のカフェで待っているか?」
「カフェが有るんですか?」
「ああ。ここの商品も食べられる」
その説明に、美幸は笑って頷いた。
「それならカフェに行ってます。姉さん、ゆっくり選んでいて構わないから」
「分かったわ」
「あ、俺はここで見ています。こういう店に入ったのは初めてで、色々興味深いので」
「じゃあ二人で行っているから」
美幸が素早く食べたいチョコを指定し、本当に興味深そうに店内を見回している高須に断りを入れてから、二人は奥へと進んだ。そして左右に開けた空間に足を踏み入れると、表側とは逆に一面ガラス張りになった向こうに、所々ライトアップされた日本庭園が見えた為、美幸は本気で驚いた。
「うわ……、奥は表とは随分趣が違いますね」
静かなクラシック音楽が流れる中、間接照明でぼんやりと明るい室内をさり気なく見渡して見れば、バラバラに座っている四人の客に全員見覚えがあり、美幸は思わず目を見張った。
「どうだ、穴場だろう?」
「はい。しかも……、お客さんが全員、見覚えが有るような無いような……」
(本の著者近影でしか見た事無いけど、確かあの人、文壇の大御所だし、あの人どう見ても国会議員……。一人で、こんな所に来ちゃって良いの? それに演歌歌手に、プロ野球選手……、だよね?)
囁いてきた城崎に美幸も声を潜めて応じると、城崎は椅子を勧めながら笑って言い聞かせた。
「こういう隠れ家的な場所では、お互いに見てみぬふりをするのが礼儀だから」
「そうします。友達に教えたいですけど……、確かに雰囲気ぶち壊しの人間が乗り込んで来たら、周りの迷惑ですよね。我慢します」
「そうしてくれ」
その時初老の男性が飲み物の注文を取りに来た為、二人で珈琲を頼んでから、ふと気になった事を美幸が口にした。
「そう言えば……、ここに来る途中で、あの美人店長さんが係長の大学時代のサークルの先輩って言っていましたよね。でも係長って以前、大学時代は《武道愛好会》に所属していたとかなんとか言ってませんでした?」
「それで間違いじゃない」
「じゃあ店長さんって、そこのマネージャーか何かされてたんですか?」
「……まあ、そんなところだ」
微妙に口ごもりつつ城崎が答えたが、ここでトレー片手に現れた話題の主が、城崎の台詞を一刀両断した。
「こら、城崎。何、大嘘吹き込んでるのよ。相変わらず性格と根性は悪くないけど、往生際が悪いわね」
「…………」
最悪のタイミングでの登場に、城崎が反論を諦めて黙り込むと、彼女は美幸に「お待たせしました」と愛想を振り撒きつつ目の前にチョコが盛られた皿を置き、悪戯っぽく笑いながら事実を暴露した。
「城崎はね、大学在学中、私の下僕だったの。同好会入会直後に私の跳び蹴りを顎にまともに食らって、ぶっ倒れて脳震盪を起こしてね。その時、『人を見かけで判断しては駄目だ』と言う、ありがたい教訓を得たのよね? ねぇ、城崎?」
(跳び蹴り……、どうやったらそんな事が可能なの?)
先ほどショーケース越しに二人が立っていた光景を思い返し、身長差20センチ強、体格は言うに及ばずのスレンダーな女性を見上げて美幸は本気で首を捻ったが、当時を思い返したのか、城崎が幾分身体を小さくしながら軽く頭を下げた。
「……その節は、色々と御教授をありがとうございました」
「あら、素直になったわね。それとも可愛い彼女の前だからかしら? はい、それじゃあいつもの奴ね」
そして城崎の前にも皿を置いた彼女は、「どうぞごゆっくり」と言ってからコロコロと笑いながら店の方に戻って行った。その背中を見送った美幸は、城崎に視線を戻してからしみじみと呟く。
「……本当に、人は見かけによりませんね」
「ああ、それにあの人は、人使いが荒くてな」
「店長さんもそうですけど、係長もここに結構いらしてるんですよね? 係長はお店で特に注文しなかったのに、さっき店長さんが『いつもの』って言って、普通に置いて行きましたし」
その指摘に、城崎は思わず苦笑いした。
「そっちの方か。確かに、この図体で甘い物好きと言うのは似合わないだろうな」
「そんな事ありませんよ。それに係長は何処でも食べる訳じゃなくて、こういう落ち着いた雰囲気の店限定だと思いますし。係長の雰囲気に合ってて、逆に納得できます」
「そうか。ありがとう」
多少ムキになって反論すると、城崎が僅かに照れくさそうな表情になりながら、静かにカップを口に運ぶ。そして周りの客同様、チョコと店内の雰囲気を静かに堪能しているのを見ながら、美幸は改めて思った。
(うん、やっぱり係長に似合うよね、このお店。それにこれ、本当に美味しいし。連れて来てくれた係長に感謝しないと)
そんな事を考えながらほぼ食べ終えた所で、漸く美野と高須が美幸達のテーブルにやって来た。
「お待たせしました」
「ああ、終わったか」
「はい、今美野さんが頼んだ物を包装して貰っていますが、俺も少し味わいたくなりまして」
「私は結構試食させて貰ったんですが、違う物をもう少し食べたくなって」
幾分照れくさそうに述べた高須と美野に、美幸は思わず笑ってしまった。
「美野姉さんったら、結構欲張りだったのね」
「だって、本当に美味しいんだもの」
そしてカフェには二人掛けのテーブルだけの為、美幸達の隣のテーブルに落ち着くと、入れ替わりに美幸が立ち上がった。
「すみません、電話をかける所があるのを思い出しました。ちょっと店の外で電話をかけて来ますので」
「ああ、分かった」
そうして店舗スペースに戻った美幸だったが、そのまま表には出ずに、カウンターの内側に声をかけた。
「あの……、すみません」
「はい、何でしょうか?」
明るい笑顔を振り撒く相手に、美幸は奥のカフェにまで声が響かない様に、小声で尋ねた。
「その……、係長はここの常連みたいですけど、好みとかはご存じですか?」
「はい。顧客データは五百人分程度は頭に入れてますから。購入履歴も把握していますし」
(五百人分……、さすが係長の先輩。それに係長が言ってた通り、ある意味変人かも)
そんな事を事も無げに言われた美幸は、内心で舌を巻いた。
「えっと、それならお願いがあるんですが……」
取り敢えず頭の中に浮かんだ内容は綺麗に封印し、美幸は手早く依頼内容を伝えて再びカフェへと戻った。
そして美幸が戻るのとほぼ同時に、城崎が立ち上がった。
「それじゃあ俺達は先に出るか。高須と美野さんはまだ食べ始めたばかりだから、もう少しゆっくりしていてもいいだろう」
「あ、そうですね。そちらはもうお済みでしょうから、お引き留めするのも申し訳ありませんし。今日は素敵なお店を紹介して頂いて、ありがとうございました」
立ち上がって頭を下げた美野に、城崎は笑って頷いた。
「いえ、納得がいく買い物が出来たなら良かったです。じゃあ藤宮、一足先に帰るか。送って行くから」
「はい。じゃあ姉さん、後でね」
そこで二手に別れたものの、店のカウンターで会計をどうするか城崎と美幸の間で一悶着あったが、最終的に「俺がカフェの方に誘ったんだから」と城崎が押し切り、奢る事になった。
「じゃあ今のうちに、ちょっとお手洗いに言って来ます」
そう断りを入れた美幸がカフェとは別方向の通路に入ると、会計を他の店員に任せた店長が奥から姿を現し、小さな紙袋を手渡される。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます」
その場で代金を渡し、受け取った品物を鞄にしまい込んだ美幸は、何食わぬ顔で城崎の元に戻り、店を出て通りを歩き出した。
「さて、このまま帰るのもな。何か食べて行くか?」
その問い掛けに、美幸が多少考え込む。
「そうですね……。普段歩かないエリアに来ましたから、食べて行くのも有りですかね。この近辺で、係長おすすめの店とかあります?」
「和食とイタリアンと中華だったらどこが良い?」
「チョコを食べた後なので、和食でしょうか?」
真顔でそう告げた美幸に、城崎が小さく笑った。
「理由になっていない気がするが……、じゃあこっちだ」
「はい。じゃあ食べて帰る事を、家に連絡しますね」
(やっぱり係長って、大人で何事に関してもそつがないわよね……)
城崎に対してそんな事を再認識しながら二人で食事を済ませ、美幸は気分良く帰宅した。
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