昼の休憩時に美幸が社員食堂に出向くと、少し離れた四人掛けのテーブルから声がかけられた。
「美幸! ここ空いてるわよ!」
「あ、ありがとう。取ったら行くね」
晴香に軽く手を振って少ししてからトレーを抱えて戻った美幸は、同期が三人座っていたそのテーブルに入れて貰った。
「お昼が一緒になるの久しぶりね。なんだかんだで一月振り位?」
「そうね。段々仕事を任せられてきたから、色々バタバタしてて予定通りにお昼に入れない事が多くなったし」
「バタバタしてるって言えば……、藤宮の所、今大変なんじゃないのか?」
斜め向かいに座る総司が、些か気遣わしげな表情で問いかけてきたが、美幸は一瞬考え込んでからいつもの口調で返した。
「……確かに先週の金曜は大騒ぎだったけど、週明けまで引きずって、他の仕事に支障を来す様な真似はしてないわよ?」
「そうか。それなら良いんだ。今の今まで目立った失点が無かった柏木課長のミスだから、社内で結構噂になっているから」
「ちょっと心配してたのよ。美幸が落ち込んでるんじゃ無いかと思って」
総司に加え、正面に座っている晴香まで如何にも安心したと言った風情で言ってきた為、美幸は思わず苦笑いで返す。
「とんでもない。確かに課長は凡ミスすら珍しいけど、その噂で持ちきりだなんて、裏を返せば普段課長がどれだけ完璧な人間に思われてるかって事じゃない。他人のミスをあげつらう様な低脳な輩の無責任な噂話に、一々付き合う義理は無いわよ」
(なんてね……。土日に怒りがぶり返して、思わず係長に電話をかけて愚痴った時の、受け売りなんだけど。格好付け過ぎかしら?)
密かに照れくさく思いながら定食の味噌汁椀を口に運ぶと、向かい側に座る二人が感心した様にそれに応じた。
「さすが藤宮だな。ちょっと見くびっていた、すまん」
「本当に。少なくとも今日位は大荒れかと思ってたのに、びっくりよ」
「うふふん、見直した? もっと誉めて良いわよ?」
「こら、調子に乗るな」
「あんたは多少へこんでいた方がちょうど良いのよ」
「うわ、晴香ひっどい!」
そんな風に笑い合って楽しく食べていた美幸だったが、ここでそれまで美幸の横で黙りこくっていた隆が、徐に声をかけてきた。
「……なあ、藤宮」
「何?」
「やっぱりこの際、異動願を出さないか?」
「は? いきなり何を言い出すのよ?」
美幸が思わず箸の動きを止めて隆の顔をまじまじと見やると、隆はその視線に一瞬怯む素振りを見せてから、若干顔付きを険しくして言い出した。
「だってさ、やっぱり企画推進部二課って、社内で風当たりきついぞ? 今回の事で良く分かっただろ。それに柏木課長、今度アメリカ支社の北米事業部長になるかもしれないんだろ? そしたら後釜を誰にするかで揉めた挙げ句、二課を解散させるって噂もあるし」
「おい、田村よせよ」
「こんな時にこんな所で、口にする話題じゃ無いでしょう?」
さすがに傍観できなくなった総司と晴香が口を挟むと、その中に自分を責める気配を感じた隆は、些かむきになって言い返した。
「だって本当の事だろ!? 俺は藤宮が配属早々不本意な部署に異動とかになったら気の毒だと思って、言いにくい事だけど敢えて同期の誼で、言ってやってるんじゃないか!」
しかし隆のそんな訴えを、美幸は鼻で笑った。
「じゃあ言わせて貰うけど、風当たりがきつい職場にいて何が悪いの?」
「え? だって仕事がやりづらいだろ? 周りから白い目で見られるし……」
予想外の切り返しに隆の声が心許なくなってくるが、美幸は容赦なく反論した。
「どうしてよ。有能な上司の下で思う存分働けるなら満足だわ。無能な上司の下でゴマをすって、楽したいなんてサラサラ思わないわよ。まさに『余計な親切、大きなお世話』ね、ほっといて頂戴」
「……っ、あのな、俺はお前の為に、親切で言ってんだぞ?」
取り付く島がない美幸の断定口調に隆は一瞬口ごもりつつ、それでも何とか説得を続けようとしたが、そこで背後から笑いを含んだ声がかけられた。
「上出来よ、藤宮」
「俺達が口を挟むまでも無かったな」
「え?」
唐突に会話に割り込んできた声に驚き、美幸と隆が背後を振り返った。するとそこにトレーを抱えた瀬上と理彩を認めた美幸が、何気なく声をかける。
「瀬上さん、仲原さん、どうしたんですか?」
「どうって、昼を食べに来ただけだが?」
苦笑いしながら瀬上が答えたが、ここで理彩が笑いを堪えながら付け加える。
「あんたが席を立ったのを追って来たけどね。課長と係長に頼まれてたから」
「何を頼まれたんです?」
不思議そうな顔で美幸が尋ねると、瀬上が噴き出す寸前の表情で答えた。
「二課で一番導火線の長さが短いと思われるお前が、ちょっとつつかれた程度で暴発しない様にフォローする事」
「……課長も係長も、私の事をどういう人間だと思ってるんですか」
「いじけないの、正当な評価じゃないの」
思わずテーブル側に向き直ってがっくりとうなだれた美幸の背中に、茶化す様な理彩の声がかけられる。そして美幸達と背中合わせに座るテーブルが空いていた為、そこに理彩と共に落ち着いてトレーを置いてから、瀬上がテーブルに背を向けて隆に声をかけた。
「そこの君、確か営業一課の人間じゃ無かったかな?」
「はい、営業一課の田村ですが、あなたは……」
素直に頷いた隆が戸惑いつつ問い返すと、瀬上は見事なまでの営業スマイルを披露した。
「企画推進部二課の瀬上だ、宜しく。ところで……、さっき藤宮の為云々と言ってた内容、元々は自分で考えた内容じゃ無いだろう?」
「え? いえ、俺が……」
何故かそこで口ごもってしまった隆に美幸が怪訝な視線を向けたが、そんな二人に構わず瀬上は話を続けた。
「察するに君、職場の先輩辺りに心配顔で言われたんじゃないかな。『あそこの新人はお前の同期だろう。配属早々転属になったりしたら気の毒だ。今のうちに異動願でも出す様に説得した方が良いんじゃないか?』とか親切ごかして」
「それは……」
隆が何か反論しかけた、ここで理彩が会話に割り込む。
「普通、今年入ったばかりの新人が、他部署の管理職の異動話を気にかけるなんて有り得ないわよね。今の時期なら、皆自分の仕事を覚えるのに精一杯で、それどころじゃないでしょうし。それとも何? 営業一課はそんなに暇なの? それともあなたが個人的に、仕事を適当に放り出して、社内の噂話の収集に血道を上げているのかしら?」
「そんな事は!」
焦って否定しようとした隆だったが、そこで二人が容赦なくたたみかけた。
「面白半分に真面目で素直な後輩に異動話を持ち出させて、藤宮が激昂して騒ぎを起こせば、二課の評判を更に落とす事ができて思う壺」
「万が一、藤宮が説得されて異動願を出したりしたら、新人すら二課を見限ったって噂になって、高笑いが止まらないんでしょうねぇ」
「ショボすぎる計算だけどな」
「計算倒れも良いとこですよね」
そこで美幸は淡々と述べて軽く肩を竦めた瀬上と理彩から視線を戻し、隆を睨み付けつつ軽く凄んだ。
「……あんた、まさかそんな事、本気で考えてたわけ?」
「いやっ! 俺はそんな!」
途端に青い顔になって狼狽し、全身で否定する隆を見て気の毒になったのか、ここで瀬上と理彩が再び口を挟んできた。
「止めとけ、藤宮。そいつは単なる使い走りの手駒に過ぎないんだから、これ以上苛めるな。それにさっきのは、本気でお前に対する善意から言った台詞だろうし。頭が回らなくて悪気が無い分、余計にタチが悪いがな」
「そうそう。先輩が右向けって言ったら右しか向けない、まだまだ新人のお間抜け迂闊君の言う事を、一々気にしないの。右向けって言われて三百六十度見渡す様な、斜め上の反応をするあんたとは、そもそも格と出来が違うわ」
(何か、隆を庇ってくれている様で、結果的に目一杯こき下ろしてるよな?)
(流石美幸の同僚。一筋縄ではいかないみたいね。田村君、立ち直れるかしら?)
総司と晴香が密かに頭を抱える中、後から来た二人は話を止めてテーブルに向き直りながら美幸達に注意した。
「ほら藤宮、無駄話してないでさっさと食べろよ?」
「あなた達も、時間は大丈夫なの?」
「はい、そうですね。じゃあ食べるか」
「もぅ~、田村君がつまらない話題を出すから。さっさと食べるわよ!」
「……ああ」
そして幾分ぎこちない空気は残ったものの、美幸達は取り敢えず昼食を食べ終えてそれぞれの職場へと戻って行った。
そして美幸が企画推進部のフロアに戻ると、出入り口のドアの横で鞄を手にした城崎と真澄が何やら話し込んでおり、美幸の目の前で城崎は中に、真澄はエレベーターホールに向かって歩き出した為、美幸は反射的に声をかけた。
「課長、今からお昼ですか?」
「ええ、その後そのまま商談に向かう予定なの。それじゃあね」
「ご苦労様です。行ってらっしゃい」
笑顔で軽く頭を下げた美幸に、真澄は軽く手を振って応じて立ち去った。その背中を見送りながら、美幸は改めて考え込む。
(朝もちょっと感じたけど、課長、何となく元気がないかな? うん、こんな時に余計に下手な騒ぎを起こさなくって良かった)
そんな風に密かに自分自身を褒めながら室内に入った美幸は、自分の席に着いていた城崎の元に歩み寄り、軽く睨む様にして相手を見下ろした。
「係長、今日瀬上さんと仲原さんに、私の監視を頼みましたよね?」
「そんな事を聞くって事は、何か社食でやらかしたのか?」
軽く眉を顰めながら城崎が顔を上向けると、美幸は小さく笑って胸を張った。
「逆です。冷静に対処できたって誉められました」
「そうか、それなら俺も誉めてやろうか?」
「結構です」
(全く、二課って揃いも揃って食えない人ばかりなんだから。これまで以上に頑張らないとね)
どこか冷やかす様な笑みを向けてきた城崎に、美幸も多少拗ねた様な笑みを見せてから自分の席に戻る。そして戻るなり早速村上と午前中の首尾について議論し始めた城崎の様子を盗み見ながら、美幸は神妙に午後からの仕事の準備を始めた。
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