「……大体なぁ、二千万逃しかけた位でガタガタ言ってんじゃねぇ! あくまでも女が仕事が出来ないってほざくなら、週末までに新規契約で三千万取ってやろうじゃねぇか!!」
「……っ、ぐぅっ……、はっ……」
「何をやってるんだ姉さん!? その手を離すんだ!」
未だ谷川の妨害をものともせず清川の喉を締め上げていた姉の姿に、浩一は顔色を変えてその手に組み付いたが、真澄は般若の形相で浩一に向かって吐き捨てた。
「冗談じゃ無いわ。こんな胸糞悪いオヤジと同じ空気を吸ってるのすら、もう一秒たりとも我慢できないのよっ!!」
「姉さん、落ち着いて!」
「五月蠅い! 邪魔するなら、次にあんたを絞め殺してやるわ! それまで黙って見てなさい!」
そこで説得を諦めたのか、浩一は溜め息を吐いて真澄の腕から手を離し、一歩後ろに下がって平然と言ってのけた。
「……分かった。じゃあもう何も言わないで、黙って見させて貰う」
「おい、ちょっと待て!?」
「浩一課長!?」
傍観の姿勢に入った浩一を見て、間近に居た谷川は絶句し、城崎に捕獲されていた広瀬と上原も狼狽した声を上げたが、浩一は軽く腕を組みながら真顔で告げた。
「その代わり、姉さんが絞め殺す寸前で、腕ずくででも俺に変わって貰う。姉さんを人殺しにするわけにいかないから、清川部長へのとどめは俺が刺す」
その場を一気に凍り付かせる問題発言を浩一が口にすると、真澄は驚いた様に弟に顔を向けた。
「……浩一? そんな冗談」
「本気だよ? さあ、心置きなく締め上げてくれ」
薄く笑いながら促された真澄だったが、それで頭が冷えたらしく清川からゆっくりと両手を離した。
「……んげっ。ぐはっ……、はぁっ」
そしてへたり込んで必死で息を整えている清川を完全に無視して、姉弟のどこかのんびりとした会話が交わされる。
「あれ? 息の根を止めるんじゃなかったのかな?」
「それこそ、浩一を人殺しにするわけにいかないわよ。凄く残念だけど止めておくわ」
「そう? それはお互いに何よりだったね」
そこで苦笑した二人に向かって、清川が非難の声を上げた。
「……ま、全く、何をする気だ! 本当の事を言っただけなのに、二千万をフイにしかけたのも反省もせず逆恨みも甚だしいぞ! 第一、浩一君! 私は君の為にだな」
「余計なお世話です」
冷たく浩一にぶった切られた清川は、尚も顔を赤くして喚いた。
「それに柏木課長! 大言壮語も大概にしろ! 週末までに新規契約で三千万なぞ」
「取れますよ? 誰かさんじゃありませんので」
静かにそう述べた真澄に対し、清川は一瞬真顔になってから狡猾そうに笑った。
「……ほう、言ったな? じゃあ取って貰おうじゃないか」
「取れたら何かご褒美が頂きたいところですね」
「はっ! 何でもくれてやろうじゃないか。その代わり、達成できなかったら辞表でも出して貰おうか!」
「望むところです」
落ち着き払って真澄が断言した内容に、課を問わず企画推進部の殆どの者が顔色を変えたが、清川は鬼の首でも取った様に上機嫌で声を張り上げた。
「言ったな? 後で吠え面かくなよっ!!」
「そっちこそ、後でそんな事を言った覚えがないとは言わせないわよ!?」
「大丈夫です課長。一連の会話は、このICレコーダーに録音済みです。後で清川部長に色を付けて払って頂きましょう」
淡々とした口調で会話に割り込んできた城崎に視線を向けると、いつの間にか両手を広瀬達から離し、ICレコーダーを手に掲げ持って不敵に笑っているのを認めた面々は、半ば感心し半ば呆れた。
(係長、いつの間に……)
(やっぱりできる男は違う)
「覚えてろよ!」
そんな捨て台詞を吐いた清川がよろめきつつドアから出て行くと、再度溜め息を吐いた浩一が、谷川達に向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、谷川部長、広瀬課長、上原課長。姉は今ちょっと情緒不安定で、今朝から家出していまして……」
「……何があった」
「家出って、おい」
「最悪だな」
揃って呻く面々に、浩一が如何にも申し訳無さそうに付け加える。
「今週、色々ご迷惑おかけすると思いますが、宜しくお願いします」
相手がそれに諦めた様に頷くのを見てから、浩一は二課の面々にも黙って一礼してから企画推進部を後にした。
その間に真澄は自分の席に戻り、無表情でキーボードに両手を走らせながら短く指示を出す。
「……城崎、取るわよ」
「今日の課長が出る予定の興和薬工との打ち合わせは、代わりに俺が出ます」
「宜しく」
短い指示でも伝わる阿吽の呼吸でやり取りすると、城崎は他の二課の面々に向けて有無を言わせぬ口調で矢継ぎ早に指示を出した。
「全員、金曜までの商談を前倒し。今日と明日午前中までに全て詰め込め。先方がごねるなら、締結金額を百万でも二百万でも、赤字が出ない範囲で値引け。この不況時だ、喜んで食い付いてくる。明日からは新規契約のみの案件にするぞ!」
「了解」
「早速取りかかります」
「課長、決済印をお願いします」
「すみません、柏木産業企画推進部の清瀬ですが……」
常に年長者に対して敬語を使用している城崎がいきなり命令口調で指示を出した事にも驚いたが、周囲がそれに微塵も動じずにPCや電話に取り付き、慌ただしく部屋を行き交い始めた事に、美幸は呆然となった。そして思わず声を漏らす。
「いっ、一体何事?」
「課長と係長が本気になったんだよ! 五日で三千万取るぞ!」
見ると隣席の高須まで血相を変えてファイルを捲りつつ受話器を取り上げており、流石に美幸は反論しかけた。
「ちょっ……、幾ら何でもそれは無理」
「藤宮。今日中にこれのデータを項目毎に纏めて、定型書式で作成」
「は?」
自分の背後を土岐田が通り過ぎながら机に乱暴に放り投げていった書類の束を見て、美幸は固まった。しかしその驚きが醒めやらぬうちに、あちこちから声がかかる。
「藤宮、作成しておく書類のリスト、今メールで送ったからな。明日までやっとけ」
「三十分以内に、宮越精機から預かってるサンプルを揃えとけ」
「はあぁ?」
思わず間抜けな声を美幸が上げた時、コピーを取りに立ち上がった城崎が、理彩の席の後ろで立ち止まった。
「仲原。明日はバイクで出勤しろ。好きなだけ走らせてやる」
見下ろしながらのその一言で察したらしい理彩が、盛大に顔を引き攣らせる。
「あの……、まさかバイク便をやれと?」
「ガソリン代も通行料も全部出してやる。山手線内ならどこでも二十分以内に到達できると豪語したのを、証明して貰おうじゃないか。ただし……」
そこで理彩の机にダンッと乱暴に片手を付きながら、城崎が理彩を冷たく見下ろしつつ念を押した。
「飛ばすのは構わないが、捕まるなよ? 追われても手段を選ばずに振り切って、相手に書類を渡し終えてから捕まれ」
「……分かりました」
強張った顔で辛うじて理彩が返事をすると、城崎は何事も無かったかの様にコピー機に向かい、美幸が理彩に体を寄せて囁いた。
「仲原さん、バイクに乗れるんですか?」
「……ええ、係長もよ。以前は一緒にツーリングしてたし」
「ああ、なるほど。それで知ってたんですね」
半ば呆然と受け答えする理彩から自分の机に視線を戻した美幸は、今日からの五日間を思って、暗澹たる気持ちになった。
(皆、今までに無い位殺気立ってる。それにこの分量。下手すると全員の事務処理が、全部回って来てるんじゃ……。全く、あのボケ清川のせいで!)
そんな不満を抱えながら、とにかく仕事に取りかかった美幸だったが、午後になって二課に見慣れない人物がひょっこりと顔を出した。
「こんにちは。頑張ってる? えっと……、今年入った藤宮さん、だったわよね?」
「は、はい。あの、どちら様ですか?」
主だった面々は全員出払い、理彩も他部署に書類を届けに行き、美幸の他は真澄が課長席で微動だにせず作業をしている所に、四十代半ばと思われる女性から明るく声をかけられて美幸は当惑した。すると両手に重そうなビニール袋を提げた彼女は、荷物を空いている机に乗せると美幸に向かって軽く頭を下げる。
「初めまして。加山恵美と申します。いつも主人がお世話になっております」
「い、いえ、こちらこそ、いつもお世話になっております!」
(加山さんの奥さん!? どうしてこんな時にいきなり職場に来るわけ?)
そんな美幸の戸惑いなど気にしない風情で、恵美はにこやかに話を続けた。
「課長さんがお忙しそうなので、他に人も居ないしあなたにお願いしたいんだけど」
「はい、なんでしょうか?」
「このリストをコピーして、全員に配っておいて貰える? 押さえた部屋番号と、その部屋割りなの。各自の部屋に、夕方までに四日分の着替えと、その他必要品を届けてあるとも伝えてね。独身の三人は、自分で持ってくるしかないけど」
「へ?」
受け取った用紙に目を通すと、そこには柏木本社ビルから徒歩三分のシティホテルの名前と男性陣全員の名前と、その横に部屋番号が書かれてあった。
「それから、主人に伝えておいて欲しいんだけど」
「何を、でしょうか?」
もう殆ど反射的に美幸が身構えると、恵美はにっこりと笑いつつ容赦が無さ過ぎる台詞を口にした。
「『三千万取るまでは帰って来なくて良いから。過労死しても保険金で当面の心配は要らないけど、死ぬなら来週以降よ』って。それじゃあこれはペット茶で、こっちは各種ドリンク剤。こういうのって、人によって拘りがあるから、色々買って来ちゃった」
「えっと、あの……」
「私ができるのはこれ位だし。明日は祥子さんと由佳さんが来てくれるそうだから、私なんかより遥かに役に立ってくれる筈よ。じゃあ頑張ってね!」
「あの、ちょっと! 待って下さい! 祥子さんと由佳さんって誰ですか!?」
慌てて美幸は立ち上がって引き止めようとしたが、持参したビニール袋の中身を説明し終えた恵美は、疾風の様に駆け去って行った。
そして美幸が呆然と立ちすくんでいると、戻ってきた理彩が怪訝な顔で声をかけた。
「何突っ立ってるのよ、藤宮。あれだけの量の契約書の作成、もう終わったの?」
「終わってないんですけど……。今週は、予想以上に過酷になりそうです」
「何を今更な事を……」
そこで女二人はうんざりとした顔を見合わせつつ、無言で項垂れた。
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