平日にもかかわらず、珍しく家族全員が揃って食卓を囲み、和やかな雰囲気で夕食を取っていた時、何気なく美野が話題に出した内容に、美幸は戸惑い気味の声を上げた。
「バレンタイン?」
「そう。来週でしょう? 再就職したばかりだし、色々お世話になっている周りの皆さんに、義理チョコ位は贈った方が良いかなと思ったの。でも義理チョコなんて学生時代に渡した事は無かったから、良く分からなくて。法務部は私以外は年輩の男性ばかりでこれまで職場内でのチョコのやり取りなんて無さそうだし、却って気を遣わせるかしら?」
「そう言われても……。私もバレンタインは貰うばかりで、あげた事は皆無だったし。どうすれば良いのかな?」
意見を求められた美幸だったが、咄嗟に返答できずに困惑すると、横から甲高い声が上がった。
「美幸ちゃん、またチョコ貰ったら頂戴ね!」
「ぼくも~!」
「はいはい」
毎年チョコをお裾分けしている甥姪に苦笑しつつ頷いてから、美幸は美野に視線を戻した。
「でも美野姉さん。旭日食品で働いていた期間は? 職場でチョコとかを準備しなかったの?」
ふと感じた疑問をそのまま口にした美幸だったが、その途端美野が、地を這う様な声で恨みがましく呟き始める。
「あの頃……、あの男に手作りチョコを作って、あの男の社内の信奉者に爪弾きにされて、義理チョコを配る集団の中に入れて貰えなかったの。ご丁寧に、私の名前だけ抜けたカードを添付したチョコが、職場内に配られたわ。他は、お父さんとお兄さん達にしか作った事は無いしね……」
(げ、まずっ!)
(あらあら、見事にトラウマスイッチが入ったわね)
(気持ちは分かるがな……)
(全く……。あのろくでなしとの結婚を、もっと強く反対するべきだった)
話題を振ってしまった美幸が焦りまくり、それを見た姉夫婦は苦笑いし、父親は苦虫を噛み潰した様な表情になる。そして一気に重くなってしまった食堂内の空気を一新しようと、美幸が慌て気味に口を開いた。
「美野姉さん! 平凡な日常にメリハリをつけるイベントには、積極的に係わって、とことん楽しまなくちゃ駄目だと思うの! バレンタインのチョコ、職場で配りましょう!」
それを聞いた美野は、すぐにいつもの表情になって確認を入れてきた。
「良いのかしら? じゃあ、お父さん達と同じ様に手作りすれば良い?」
「あまり人数も居ないんだし、それで良いんじゃない?」
「それはちょっとどうかな?」
「秀明義兄さん?」
姉妹であっさりと話が纏まりかけた時、のんびりと口を挟んできた義兄に、怪訝な顔を向けた。すると秀明が冷静にその理由を述べる。
「勿論、家族の俺達は嬉しいけど、他人からいきなり職場で手作りの物を手渡されても困るかもしれないよ? 家に持って帰るのは差し障りがあるかもしれないし。それに貰った類のチョコが苦手でも、目の前で捨てられないだろう?」
「そうか……。それを見た家族が、変に誤解する可能性もあるのか」
「それもそうですね」
美幸と美野が納得した様に頷くと、秀明が義妹達に笑いかけながら提案する。
「だから美野ちゃんの場合、『バレンタインに合わせてお茶請けにチョコを用意しましたから、良かったら食べてみて下さい』とか言って、仕事の合間に既製品のチョコの詰め合わせを出す位でも良いんじゃないかな? 甘過ぎるチョコは駄目でも、ウイスキーボンボンとか、ビターチョコなら大丈夫という人も居るし。『どんなチョコが好きですか』と聞いたら身構えるかもしれないけど、何種類か取り揃えたチョコのどれを食べるか見ておいて、傾向を各自覚えておけば、来年以降も困らないんじゃないかな?」
「なるほど、分かりました。アドバイスありがとうございます、お義兄さん」
「どういたしまして」
そして懸案が解決した美野は秀明と笑い合ったが、その一方で美幸は考え込んでしまった。
「うぅ~ん、私はどうしようかな? 同期の皆はバレンタインだって浮かれ気味なんだけど、二課ってそんな気配が微塵も無いのよね。それ以前に企画推進部全体が、そんな空気が皆無だし」
「規律正しい職場と言う事だろう。結構な事じゃないか」
唸りつつ首を捻った美幸に、父親が感心した様に感想を述べる。しかし何度かフロアを訪れていて、企画推進部の社員構成を知っていた美野は、不思議そうに尋ねた。
「どうしてかしら? 女性が少ない職場なのは分かるけど、美幸以外にも女性は居るでしょう? そもそも二課の課長は女性だし」
それに軽く頷き、美幸は説明を付け加えた。
「そうなんだけど……。周りにさり気なく去年までの事を聞いてみたら、一課と三課に一人ずついるベテランの女性は既婚者で年齢もそれなりだから、今更チョコなんてって感じだし、そもそもうちの課長は義理チョコとかに意義を見出さない人で、就職以来、全く配った事が無いんですって。お金を出し合って渡そうと同僚に誘われても、きっぱりお断りしていたとか」
「それは凄いわね。なかなかできる事じゃないわ」
「確固たる信念の持ち主らしいな。披露宴で顔を合わせるのが楽しみだ」
そこで美幸は真澄を賞賛する言葉を漏らした姉夫婦を眺め、次いで秀明に恨みがましい口調で確認を入れた。
「そう言えばこの前、お義兄さんは課長のご主人の先輩って言っていましたね。新郎側の出席者として、披露宴の招待状が来たんですか?」
そう告げた美幸の顔が如何にも残念そうな表情だった為、秀明は必死に笑いを堪えながら、申し訳無さそうな表情を取り繕って宥めた。
「すまないね、美幸ちゃん。新婦側の社内の招待客は、重役や付き合いが長い人間に限定したそうだね」
「そうなんです。二課からは代表して係長だけで。出たかったなぁ……。課長は妊娠中だから二次会とかもしないみたいだし、凄く残念。係長に『課長の写真を撮ってきて下さい』ってお願いしたけど……」
そう言って、深い溜め息を吐いた美幸を、横から美野が宥めた。
「城崎さんなら、たくさん撮ってきてくれるわよ。話は戻るけど、結局美幸の方は、チョコをどうするの?」
その問いに、項垂れていた美幸が顔を上げ、迷いを振り切った様に告げた。
「ここで悩んでいても仕方が無いし、明日出社したら仲原さんと相談してみるわ」
「そうね。それが良いわよね」
そんな風に二人の間で話が纏まり、続けて別な話題で盛り上がりつつ、藤宮家の夕食は和やかに進んだ。
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