「……はい、…………ええ、お伝えしてこちらから折り返しお電話させて頂きます。…………はい、それでは失礼いたします」
「美幸ちゃん、藤澤製作所と丸有カンパニーとの契約書はできた?」
かかってきた問い合わせの電話の対応を終えると同時に呼びかけられたその声に、美幸は慌てて反応した。
「ええっと……、はい、今プリントアウトします!」
「お願いね。それと、こっちは青山照器の即販プラン案の清書ができたから……、ねえ、由佳さん。理彩ちゃんは今どの辺で、後どれ位で帰社できそう?」
そんな事を業務開始直前に林の妻と紹介された祥子が尋ねると、その斜め向かいの席に座っている、同様に土岐田の妻と紹介されていた由佳は、PCのディスプレイから視線を離さないまま答えた。
「そうですね……。予定通りなら今は山手通りを北上していて、十分後に加山さんに小野通販の書類を渡してから帰社ですから、二十分以内には」
「あら、ちょうど良かったわ。五社分すぐ渡せそうね」
「今度の訪問先の所在地データと、担当者名を教えて貰えますか?」
「はい、これ。ルートを割り出しておいてね。後各自への到達予定時刻連絡も宜しく」
「分かりました」
そんな二人の淡々としたやり取りを耳にするにつけ、美幸は一人困惑の度を深めていた。
(課に私しか残って居なくて、全ての電話対応をしなくちゃいけないのは仕方ないんだけど、どうして林さんの奥さんとはいえ部外者に、仕事の指示を出して貰う羽目になってるんだろう……。課長が出る前に何か真剣に話し込んでいたから、知り合いなのは確実なんだろうけど)
そんな事を悶々と美幸が考えていると、祥子が勢い良く立ち上がり、笑顔で室内中に響き渡る声を張り上げた。
「ねえ、たにっちー! この書類全部に景気良く、ポポポンッと承認印を押して頂戴!」
そう言って祥子がヒラヒラと右手に持った書類をかざして見せると、室内の人間の動きが一斉に止まった。
(『たにっち』って……、え? まさか谷山部長の事じゃないわよね!?)
呼びかけた視線の先を追って美幸は真っ青になったが、一課で何やら話し込んでいた谷山が、苦笑いしながら二課のスペースに近づいてくる。
「木野村、お前な……。そのタニシみたいな呼び方は止めろと、あれほど言っただろうが」
「木野村じゃなくて、林よ。そんなに渋い顔しなくても。私とあなたの仲じゃな~い」
僅かに茶化すように言われて、谷山が苦笑を深めつつ右手を差し出す。
「分かった分かった。何でも押してやるからさっさと渡せ」
「やった! ありがとう!」
「……どんな仲なんですか?」
思わず半目で見上げてきた美幸に、書類を受け取った谷山が幾分困った様に弁解してきた。
「単なる同期だ。誤解するなよ? 藤宮君」
「あとプロポーズされて盛大に振っちゃったけどね! そしたら結婚した亭主が小金ちょろまかして降格減俸処分になった挙句、私までこの会社を辞める事になって、踏んだり蹴ったりよ~」
そんな事を明るく言ってのけた祥子に、谷山が意外そうに口を挟む。
「何だ、俺を振った事を後悔しているのか?」
「ちょっとだけね」
「ちょっとだけか。相変わらずだな。元気そうで何よりだ」
祥子の答えを聞いた谷山は、もう笑うしかないといった表情になったが、美幸は本気で驚いた。
「え? ここに勤務されていたんですか?」
「そうよ。ここの秘書課勤務だったの。今日と明日は今の勤務先は休ませて貰って、こっちの応援に来たのよ」
(そうか、だからあらゆる書式が頭に入ってるから、文章作成が無茶苦茶早いし手慣れてたんだ。それを課長も知ってたから、出かける前に色々打ち合わせみたいな事をしてたのね。納得)
そんな事を考えていた美幸に、祥子はサラッととんでもない事を言い出した。
「さあ、たにっちから判子を貰ったら、今度は美幸ちゃんが課長印を押してね?」
「は? な、何でですか?」
「だって課長が戻るのを待ってたら、今日中に出先の皆に届けられないじゃない。だけどさすがに部外者の私が、課長印を押すのは拙いでしょう?」
真顔で、至極当然の事の様に言われた内容を頭の中で反芻した美幸は、両手をブンブンと振りながら盛大に拒否した。
「いえいえいえ、平社員の私が勝手に課長印を押すのも、十分拙いと思います!」
「そんな些細な事気にしないの」
「全然、些細じゃありません!」
顔色を変えて必死に抵抗した美幸だったが、祥子は余裕の笑みで尚も迫った。
「だって美幸ちゃんは、柏木産業の未来の重役なんでしょう? それなら課長や部長なんて単なる通過点よ、つ・う・か・て・ん。予行演習だと思って軽~い気持ちで課長印押しちゃいなさいよ」
「そっ、そんな事言われてもっ! あの、勿論そんな事駄目ですよね、部長!!」
縋り付く様な視線で美幸は谷山を見上げたが、谷山はそんな美幸から視線を逸らしつつ、自分の机へと向かう。
「…………諦めろ。見なかった事にしておいてやる。じゃあ、今押してくるから」
「宜しく~」
「ちょっと待って下さい! 管理職がそんな事で良いんですか!?」
「さあさあ、準備しておきましょうね。課長から机の引き出しの鍵は預かってるし」
(いっ、嫌ぁぁっ! どうしてこんな羽目になるわけ?)
まるで鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で、真澄の机の引き出しを開けて中を覗き込んでいる祥子を止める者など皆無であり、あまりの事態に盛大に顔を引き攣らせていた美幸は、その日一日企画推進部中から憐憫の視線を浴びる事になった。
その日、身体的な疲労よりも精神的な疲労感にまみれて帰宅した美幸は、夕飯を食べ終えて九時過ぎになってから城崎の携帯に電話してみた。常とは異なりなかなか応答に出ない事に首を傾げていると、漸く相手が出て安堵する。
そして挨拶の後、美幸は反射的に時刻を再確認してから、相手の現在位置を尋ねてみた。
「係長……、もうホテルに引き上げましたか?」
「……ああ、仕事は切り上げたから、話をしても大丈夫だが?」
「それなら良かったです」
美幸が上がる前には美幸と理彩以外の者が全員職場に詰めており、引き上げる気配も無かった為、ひょっとしたらまだ仕事中かと懸念したのだが、それを聞いた美幸は安心して話を続けた。
「その……。実は私、今日、課長印を押しまくっていたんですけど……」
それを聞いた城崎は、すぐに日中の状況を悟って深い溜め息を吐いた。
「そうだろうな。今日一日、まともに課に居たのは藤宮さんだけだったろうし」
「良いんですか!?」
叱責も否定の言葉も返ってこなかった事に、美幸は思わず声を裏返させる。
「良くはないだろうが、非常時だからな。大丈夫だから気にするな」
「気にしますよ!」
「まあまあ、火・水で攻勢かけて、木・金で再訪と交渉の上、商談成立って流れだから、書類等の作成が忙しいのは明日までだから。だから祥子さんと由佳さんも明日までしか来ないし」
いつもの勢いはどうしたと、泣き言っぽい彼女の口調に笑いを堪えながら城崎が応じると、ここで思い出した様に美幸が尋ねてきた。
「そう言えば、由佳さんって今日一日何をしてたんですか? ずっと座ってPC画面を見ていたみたいですが」
「後ろに回って見たりはしなかったのか?」
「一日中、そんな余裕、一欠片も有りませんでした!」
不思議そうに城崎が問い返すと、盛大に美幸が噛み付いてくる。それに再度笑いを誘われながら、城崎が解説した。
「はは……、そうか。由佳さんは普段はタクシー会社の配車担当の仕事をしてるんだ。俺達全員の動きを経時的に把握しつつ、電車とかの遅延情報を押さえて迂回経路の連絡をしてくれたり、書類の受け渡し等にちょうど良い場所や時間を仲原に指示してくれていたんだ。だから各自からのメール連絡の集約と、各公共交通機関のチェック等をしていた筈だ」
それを聞いた美幸が、納得して頷く。
「そう言えば……、仲原さんが戻る度に、由佳さんと話してました」
「恐らく書類を受け渡しする経路と場所を、分刻みで指示されてたんだろうな」
「確かに仲原さんの顔が強張ってた様な……。それも嫌ですね」
がっくりと項垂れた美幸の姿が見えたかの様に、ここで城崎が口調を普段より柔らかくして慰めてくる。
「さっきも言ったが、こんなに慌ただしいのは明日までだから。藤宮さんと仲原さんに関しては、木曜からは普通に事務処理をこなす程度になる筈だから頑張ってくれ」
そう言われて、美幸は何とか気持ちを切り替えつつ頷いた。
「うぅ……、頑張ります。外回りしている係長達と比べたら、何てこと無いですよね」
「いや、残っているのもなかなかきついと思うがな。興味本位で様子を見に来る連中とか居なかったか?」
「確かにポロポロいましたが、広瀬課長と上原課長を筆頭に、一課と三課の人達が追い払ってくれましたので大丈夫です」
昼間の様子を思い浮かべながら美幸が答えると、電話越しに微かに笑う気配が伝わる。
「そうか。それなら後で礼を言っておかないとな」
「はい、それでは明日も早いと思いますので、失礼しますね」
「ああ、おやすみ」
そうして通話を終わらせた美幸は、(やっぱり明日も私が課長印を押さなきゃいけないみたいね……)と一人で項垂れつつ、翌日に向かって気合を入れ直した。
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