「あの、藤宮さん。昨日の話なんですけど」
「昨日の話? どの事かしら?」
「その……、藤宮さんがお付き合いしてる課長さんが転勤になって、遠距離恋愛してるって話なんですが」
「ああ……、あの事ね」
よりによってそれの事かと、美幸は内心で何を言われるのかと警戒したが、清香は予想外の方向に話を進めた。
「昨日、その事について矢木先輩と話している藤宮さんを見て、凄いと思ったんです。話を聞く限りでは、全然動じていない様に見えましたし」
「そ、そう?」
「はい。なんかもうお互いの事を分かり切ってるとか、とことん信じ合ってるとか、如何にも年季が違う雰囲気が漂ってていまして」
「……そんな風に見えてたんだ」
内心では(それ、どう見ても誤解だから!)と否定したかった美幸だったが、先輩としての立場と、微塵も疑っていないであろう清香のキラキラした笑顔を見て、曖昧に笑ってみせた。
「はい! さすがにお二人とも真澄さんの部下の方だけあって、急にそんな事態になっても笑って送り出してあげるなんて凄いなぁって、感心してました!」
「いえ、そんなに感心する様な事じゃ……」
(言えない……。便宜上付き合い始めたのが年末からで、ろくに自覚も無いまま城崎さんを送り出しちゃったなんて)
引き攣り気味の笑顔を見せながら、美幸が冷や汗を流していると、ここで急に清香が真顔になって打ち明けてくる。
「実は、私には在学中から付き合ってる人がいるんですけど、その人が一月に急に社内で配置転換になったと思ったら、その直後に香港支社に半年間の出張を命じられたんです」
それを聞いた美幸は、同情しながら問い返した。
「それは大変ね。でもそれなら六月か七月には戻って来るのよね?」
「それが……、当初はそういう話だった筈なのに、何故かそのまま香港支社勤務になってしまいまして。最低一年間は、本社に戻って来れないそうです」
そんな普通だったら有り得ない話を聞いて、さすがに美幸も目を丸くする。
「何それ? 随分無茶苦茶な話ね。彼氏さんの勤め先って、どこのブラック企業なの?」
「小笠原物産です」
「……最近はどこも世知辛いわね」
業界では柏木産業と一・ニを争う優良企業の名前が出てきた為、美幸は思わず清香から視線を外しながら溜め息を吐いた。しかし更に清香の打ち明け話が続く。
「これに関しては、そこはかとなく兄の嫉妬と悪意を感じていまして。聡さんが不憫な上に、申し訳なくて」
「聡さんって言うんだ……。でも幾らあの課長代理でも、柏木産業内の事ならともかく、他社の人事に口出しできないでしょう?」
「そう信じたいです」
「…………」
どことなく諦めた様な口調で語る清香を見て、美幸は思わず清人の顔を脳裏に浮かべた。
(確かにあいつなら、裏で何かやってるかも)
そんな不吉な事を考えてから、それを打ち消す様に美幸が軽く首を振ると、清香は真顔のまま美幸に訴えてきた。
「それで聡さんが大変なのは分かっていたのに、卒業と入社に備えてバタバタしていて、そんな彼を全然気遣ってあげられなかったり、初期研修中にろくに連絡を取らなかったり、友達や真澄さんに聡さんとの事で愚痴ばっかり零してたりしてまして。昨日冷静沈着な藤宮さんを見て、そんな自分の事ばかりにかまけていた我が身を振り返って、心底情けなく思いました」
そんな事を思い詰めた口調で言われた美幸は、少々焦りながら反論した。
「ええと……、やっぱり入社前後は心身ともに忙しないと思うし、彼氏の事が後回しになっても仕方がないと思うわよ? 寧ろ、それで愛想を尽かす様な彼氏だったら、別れた方が良いと思うわ」
「やっぱり藤宮さんは、恋愛面でも私なんかより大人ですよね」
「……どうして?」
急ににこにこしながら言ってきた清香に美幸が戸惑っていると、彼女が落ち着き払って話を続ける。
「昨日の夜電話して、この事を聡さんに謝ったんです。そうしたら『清香が大変なのは分かってるから、別に気にしてなかったが? 寧ろ色々事情がありすぎる柏木産業に入社が決まって大変な時期に、身近にいて気軽に相談に乗ったりできなくて悪いと思ってる』と言われまして」
「あら、なかなか物の道理を分かってる彼氏さんみたいで、良かったわね。さっきは別れた方が良いなんて言ってしまってごめんなさい」
「いえ、藤宮さんの主張は尤もですから。それで私、藤宮さんには、優秀な先達として色々教えを乞いたいと思いまして」
「え? 先達って、何の?」
「何って、恋愛面でですけど?」
咄嗟に意味が分からなかった美幸だったが、清香から当然の如く言われた内容を聞いた瞬間、激しく狼狽した。
「いやいやいや、それって買いかぶりすぎだから! 優秀な先達って言葉は、課長みたいな人に贈られるべき言葉で」
「真澄さんと兄の恋愛話なんて、参考にも何にもなりません」
「……確実に実情を知ってる実の妹に、そこまで言われるって相当よね」
やけにきっぱり清香が断言した為、(本当に課長と課長代理の組み合わせって謎だわ)と再確認しながら、美幸は呆れて溜め息を吐いた。
「それに友人とか知り合いに相談しても、『面倒くさそうだし、この機会に別れたら?』とか『他のいい男を紹介するから』とか、まともに取り合ってくれなくて」
「それはちょっと、人間関係に問題があるかも……」
「そういう訳ですので、藤宮さんが宜しければ、これから時々相談に乗って頂きたくて。信頼関係の構築とか、依存し過ぎない適度な距離感とか、遠距離恋愛ならではの問題について、話し相手になって頂けないでしょうか? 身近に遠距離恋愛をしている人がいないもので。お願いします!」
そんな事を一気に。しかも縋る様な顔付きで言われてしまった為、美幸は少しだけ逡巡してから、了承の返事をした。
「ええと、その……。参考になるかどうかは分からないけど、話し相手位だったら幾らでもなってあげるから、遠慮しないで?」
「ありがとうございます! じゃあ早速、連絡先を交換させて貰って良いですか?」
「ええ」
そして駅に続く地下道の端で連絡先を交換した二人は、改札口の手前で別れた。それから美幸は、(偉そうに云々言える立場じゃないけど、話を聞いたり相談に乗る位ならできるわよね?)と自分自身を宥めながら、使っている路線の改札口へと向かった。
その日、美幸は帰宅して夕飯を済ませて落ち着いてから、城崎に電話をかけた。
「ええと、城崎さん、今はお時間は大丈夫ですか?」
「ああ、構わないが。何かあったのか?」
「なんか予想外の方向に、話が流れました……。ちょっとした同盟発足と言いますか」
疲労感満載の声で美幸が口にした台詞に、素で困惑した城崎の声が帰ってくる。
「え? わざわざ美幸から電話をかけてきたのに、仕事の話じゃないのか?」
それを聞いた美幸は、本気で床にうずくまりたくなった。
(私って、仕事絡みでしか電話しないイメージなんでしょうか!? 恋人としては、完全に清香さん以下じゃ無いですか……)
思わず我が身を振り返り、確かに殆ど仕事絡みが多かったかもと更にへこみながらも、美幸は気合いを振り絞って会話を続行した。
「会社はちょっとだけ関係ありますが、目一杯プライベートです」
「取り敢えず、聞かせて貰おうか」
不思議そうに促されて、美幸は前日の食堂での騒動から、清香と連絡先を交換した事まで、順を追って説明した。それに城崎は時折相槌を打ちながら聞いていたが、美幸の話が一通り終わった所で、しみじみとした口調で感想を述べる。
「……気の毒に」
その台詞に、美幸は全く同感と言わんばかりに語気を強めた。
「ですよね!? 全く、蜂谷の奴!」
「妹さんも災難だろうが、その彼氏の方が不憫だ」
「でも仕事ですから、ある意味仕方がないですよね?」
「いや、多分あのシスコンが、裏で手を回していると思う」
妙に確信した口調で言われた美幸は、去年出会った時にいい年をして手を繋いで歩いていた兄妹の姿を思い返して、思わず声を潜めながら確認を入れた。
「……私もチラッと思いましたが、やっぱりそうでしょうか?」
「十中八九」
「…………」
咄嗟にコメントに困って黙り込んだ美幸だったが、そんな重苦しい空気を払拭する様に、城崎が明るい口調で言い出した。
「うん、まあ……、それを考えたら国内、しかも移動時間が三時間程度で行き来できる所だからな。俺の方がまだまだマシか。確かに上を見るとキリが無いが、下を見てもキリが無いな」
「一人で何を納得してるんですか?」
自分に言い聞かせる様に語られた言葉に、美幸が怪訝そうに問いかけた。それに城崎が気負い無く答える。
「こっちに来て、色々考える事もあったからな。正直『どうして俺がこんな苦労をしなくちゃならないんだ』と悪態を吐きたくなった事もあるし」
「それはそうですよね……」
「だが、自分自身で決めた事だからな。否応無しに社命で海外に出されたり、身内に足を引っ張られている訳でもない。慣れない介護や家事で奮闘しているであろう三田村さんの苦労に比べたら、内容の違いはどうあれ同様の仕事をしている俺の苦労なんて、物の数に入らないさ」
「確かに、そうかもしれません」
「柏木課長が産休に入る時に、課長代理が課長の椅子は自分が守ると言ったそうだが、俺も三田村さんが戻るまで全力で課長の椅子を守って、必ず無事に引き渡してみせるからな」
「…………」
そこで無言になった美幸に、城崎が訝しげに声をかけた。
「どうかしたのか? 急に黙り込んで」
「城崎さん……」
「何だ?」
「格好良いです」
「…………」
無意識に美幸が感想を漏らすと、今度は電話の向こうが無言になった為、不思議に思って呼びかけてみた。
「あれ? もしもし? 電波が切れちゃったかな?」
「……頼むから」
「あ、繋がってた」
「不意打ちで、そう言う事を言うな」
微妙に懇願口調で言われて、美幸は事も無げに言葉を返した。
「はい? 格好良いとかですか? でも『格好良いって言いますよ?』って宣言してから言う物でも無いと思うんですけど」
「……分かった。それに関してはもう良いから」
「それと、さっき『悪態を吐きたくなった』云々と言ってたじゃないですか。愚痴位幾らでも聞きますから、遠慮無く電話してきて下さいね? 年下にそんな事言うなんて格好悪いとか思うかもしれませんが、城崎さんが格好良いのはこれまでのあれこれで知り尽くしてますから、ちょっとやそっと聞かされても、幻滅なんかしませんから!」
笑顔で美幸が宣言すると、電話越しに苦笑する気配が伝わってきた。
「そうか……。うん、元気が出てきた」
「そうですか? それなら良かったです」
「ついでに、もう少し元気が出そうな事を頼んで良いか?」
「何ですか?」
それから城崎は美幸と幾つかの話をしてから、断りを入れてきた。
「じゃあちょっと明日の準備をするから、そろそろ切らせて貰うが」
「そうですね。お仕事頑張って下さい」
「ああ、おやすみ」
そして通話を終わらせた美幸は、忘れないうちにと先程言われた内容をメモし、それを再確認しながら力強く頷いた。
「これでよし。これからちゃんと、こっちから城崎さんを支えてあげないと。私は同じ職場で勤務できて、順風満帆なんだものね」
そう決意も新たに一人頷いた美幸だったが、実はその職場では新たな企みが静かに進行中だった。
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