猪娘の躍動人生

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2月(6)移籍の真相

公開日時: 2021年9月20日(月) 16:28
文字数:4,420

「おはようございます。皆さん、何を棒立ちになっているんですか?」

「あ、いえ……」

「おはようございます、課長代理」

「城崎係長、例のコラステアのシリコンプレートの件はどうなりましたか?」

 その問いかけに、城崎は通常業務の顔になって、瞬時に応じる。


「その件なら、昨日倉橋硝子にサイズと形状を変更した物を持ち込んで、検討して貰った結果、継続購入の申し入れがありました。他の商品にも利用したいので、別規格も考えて貰いたいとの事です」

「それは良かった。早速コラステアとの開発協議に入って下さい」

「なっ? それって!?」

 何故か由香が驚いて目を見張ったのを見て、周囲は何事と思ったが、城崎達は構わずに会話を続けた。


「それに加えて、三住建材のDIY用の貼付材ですが販路拡大の一歩として、l&Kグループでの流通契約を纏める予定です」

「そうですか。流石ですね。そのまま進めて下さい」

 そして至極満足そうに微笑んだ清人は、聞き慣れない社名を聞いて二課の面々が首を傾げている中、由香に向かって満面の笑みで礼を述べた。


「これは渋谷さんのおかげですよ。営業三課から渋谷さんが異動する時に、向こうの青田課長が『うちでは人手が足りなくて管理が難しくなるので、ぜひそちらで引き受けて欲しい』と言われて、コラステアと三住建材の、契約継続権と交渉権を譲渡されましたので」

「そんな話、聞いてないわよ!」

「おや? 青田課長から話があったと思ったのですが。まあ、そんな事はどうだって良いです。せっかく譲られた権利ですから、営業三課時代の従来の取引だけに拘らず新規契約締結を目指したら、半月足らずですこぶる優秀な城崎係長が、新規で年間五百万強の契約を取ってくれそうです」

 再び真っ赤になって怒鳴った由香の前を横切りながら、課長席に向かった清人を眺めつつ、美幸は真顔で考え込んだ。


(それって……、営業三課でできなかった事をうちでできたって事だから、社内で益々向こうの評価が下がって、こっちの評価が上がりそうなんだけど。でもそれって……)

 ある考えに思い至った美幸が、密かに戦慄していると、ここで蜂谷が勢い良く挙手しながら清人に向かって問いを発した。


「ご主人様、おはようございます! 一つ、質問させて頂いても宜しいでしょうか?」

「構いません。何でしょうか? 蜂谷さん」

「ご主人様達の話を伺っていますと、ご主人様が夏木係長と組んで、わざと渋谷先輩の周囲に根も葉もない噂を流して、あっさり引っかかって人事評価を最低ランクに下げた渋谷先輩を、営業三課の評価を益々下げると持て余した青田課長に、ご主人様が親切ごかして『仕事を譲るなら足手まといの社員を引き受けても良い』とか持ちかけて、それを口実に営業三課では宝の持ち腐れの金のなる木を、体良く奪い取った様に聞こえるのですが?」

 密かに心の中で思っていた内容を、あっさりはっきり垂れ流した蜂谷に向かって、その場に居合わせた企画推進部の面々は、強張った顔で驚愕の視線を送った。


(蜂谷! あんた本当に怖いもの知らずよね!? それに馬鹿なのに頭の回転はそれほど悪くない人間が、単なる馬鹿より余計に始末に終えないって事が、もの凄く良く分かったわ!)

 もうこれからどうなるのか見当も付かないまま、美幸が様子を窺っていると、清人は嘘臭さ全開の笑顔を振り撒きつつ、蜂谷に言い聞かせた。


「蜂谷さん、まさかそんな……。私はそこまで腹黒くはありませんよ。そうですよね? 城崎係長?」

 その問いかけに、城崎が白々しい口調で答える。


「はい。それに青田課長は、進んで業務を譲って下さいましたし。過去に営業三課に私が所属していたのはご存知ですから、私だったら更なる業務拡大を狙えると見込んで下さったんでしょう」

「そして城崎係長は、見事にその期待に応えただけです。蜂谷さん。まるで渋谷さんが、仕事を譲って貰ったついでに、おまけで付いて来たみたいな言い方はしないで下さい。彼女に失礼ですよ?」

 やんわりと注意されて、蜂谷ははっと気が付いたらしく、慌てて由香に向き直って真摯に頭を下げた。


「はいっ! 渋谷先輩! 著しい誤解の上の発言を、お許し下さい!」

「……別に」

「さあ、皆さん、始業時間ですよ? 今日も一日頑張って下さい」

 予想外の事ばかり聞かされて、既に顔色を無くしていた由香は、素っ気なく応じて自分の席に戻った。そんな彼女に、周囲の者達はすっかり憐憫の眼差しを送っていたが、美幸自身も溜め息を吐いて業務を開始する。


(慇懃無礼って言葉の意味が、良く分かる光景だったわね。色々言いたい事はあるけど、取り敢えず……)

 そして美幸は業務の合間に、素早く社内メールでやり取りして、昼休憩時の段取りを整えた。


「やあ……、ここ、良いかな?」

 休憩時。社員食堂で一人で食べていた美幸は、斜め上方からかけられた声に、呆れ気味に言い返した。


「お疲れ様です、係長。何を白々しい事を言ってるんですか?」

「いや、何だか怒っているみたいだし」

「怒ってませんよ。心底呆れているだけです」

 手振りで勧められた向かい側の席に座った途端、美幸が溜め息を吐いて見せた為、城崎は苦笑いで尋ねた。 


「渋谷さんの事か?」

「それ以外に、何があるって言うんですか。渋谷さんの異動の話を部長から聞いた時、全然聞いてないなんて言っておきながら、大した役者ですよね?」

 今度は軽く睨まれて、城崎は慌てて箸の動きを止めて弁解した。


「ちょっと待て。あの時点では本当に聞いて無かったんだ。その後彼女が正式に異動してくる前に、課長代理から裏事情についての説明は受けたが。……全く、あのろくでなし。課長とどういう交渉をしたんだか。仕事と彼女とどっちがメインなのか、未だに分からん」

 ブチブチと、最後は愚痴めいた呟きになった城崎に、美幸は控え目に意見してみた。


「でも、係長? この間、何も言って無かったですよね? 何も今朝の様に、当て擦る言い方をしなくても良かったんじゃないですか?」

 それを聞いた城崎は、如何にも後味悪そうに弁解した。

「本当は、あんな風に言うつもりじゃ無かったんだ。各種の契約が正式に決まったら、課内にはそれとなく報告する気でいたし」

「それならどうしてですか?」

 訳が分からず引き続き尋ねた美幸を見て、何故か城崎は溜め息を吐いた。


「……やっぱり、気が付いて無かったか」

「何がです?」

「俺達がチョコのやり取りをし始めた辺りから、課長代理は廊下に居たぞ」

 予想外の事を言われて、美幸は驚きに目を見張った。


「え? 本当ですか?」

「ああ。気配があった。面白がって見てたんだろう」

 苦虫を噛み潰した様な表情で頷いた城崎に、美幸は一瞬疑わしげな眼を向けてから、憤慨した様に吐き捨てる。


「気配で分かる物なんですか? でも、本当に性格悪いですよね、課長代理って!」

「そこで見当違いな内容を放言した上、課長を罵倒する人間が居たら、どうなると思う?」

 冷静に城崎が指摘した途端、美幸は怒りを静めて何とも言えない表情になった。


「…………もれなく制裁対象ですね。あれは完全にわざとですか」

「ああ。あそこで下手に彼女を庇ったりしたら、こっちに矛先が来る。そんなのはまっぴらごめんだ」

「はぁ……」

 そこで美幸が曖昧に頷いた為、城崎はさり気なく尋ねてみた。


「冷たいと思うか?」

「多少は。ですが彼女にしてみれば自業自得ですし、私がどうこう言うつもりは無いです。でもこの短期間で、良く新規契約までこぎ着けましたね?」

 ちょっとした疑問を美幸が口にすると、城崎は苦笑いをして事情を打ち明けた。


「実を言うと、今回引き受けた会社の仕事は、元々課長と俺が営業三課に居た頃に取った仕事なんだ」

「そうだったんですか?」

「ああ」

 意外な話を聞かされて、美幸の箸の動きが完全に止まる中、城崎は冷静に説明を続けた。


「勿論、俺達が移籍する時に他の人間に引き継いだが。それ以降は、ただずるずると既存の契約を継続するだけで、新規商品の開発を提案したり、新たな販路開拓もしていなくて、前々から勿体ないと思っていてな」

「それ、課長代理に言ったんですか?」

「俺は言って無いが、何かの折に課長が喋ったらしい。『幾らでも取り引きの種類と量を増やせるのに、勿体ない』とね」

「納得できました」

 真澄に絶対服従の気配を醸し出している清人の姿を脳裏に思い浮かべた美幸は、真顔で深く頷き、最後にもう一度確認を入れる。


「それで? 表向き人員確保と見せかけて、抱き合わせで契約先を分捕ったと?」

「そう言う事だ」

「本っ当に容赦ないですね、課長代理は。分かってはいたつもりでしたが」

 ほとほと呆れ果てた美幸は、それで一度話を終わらせ、食べる事に集中した。それは城崎も同様で、まず目の前の丼の中身を減らす事に集中したが、数分してから美幸が何気なく言い出す。


「だけど係長もさすがですよね? 以前に手掛けた仕事や、交渉した事があった会社とは言え、十日足らずで新しい企画を纏めて、契約まで持ち込むなんて凄いです。他の人には真似できませんよ!」

「そうか?」

「はい! 仕事ができる人って、尊敬しますし素敵ですよ!」

 真正面から笑顔で力一杯誉めたのに、何故か城崎が一瞬驚いた顔つきになってから、僅かに俯いて小さく呻いた。


「……勘弁してくれ」

「はい? どうかしましたか? 私、何か変な事を言いましたか?」

「いや、そうじゃなくて……」

 俯いたまま小さく首を振った城崎は、ゆっくりと顔を上げて幾分困惑気味に告げた。


「出社直後に堂々とチョコを渡された事でも少し狼狽したのに、面と向かっていきなりそう言う事を言われると、さすがに動揺する」

 それを聞いた美幸は、忽ち不思議そうな顔つきになった。


「動揺、してるんですか? 朝も今も、それほど動揺している様には見えませんが」

「面には出さない様にしているだけだ」

「へぇ~。そうなんですか~」

 そして、面白い事を思い付いた様な顔付きになった美幸は、トレーに箸を置いて両手を組み合わせ、ご機嫌な口調で言い出した。


「やっぱり城崎係長は格好良いですよね? 仕事ができる男は、隠しても滲み出るオーラが違う違う!」

 それを見た城崎は、額を押さえて項垂れる。


「藤宮……。面白がってるだろ?」

「はい! 係長を動揺させられる事なんて、そうそうありませんから!」

 満面の笑みで美幸が断言すると、城崎は今度は僅かに赤くなった顔を隠す様に、口元を覆いながら横を向いて彼女から視線を逸らした。


「課長代理よりタチが悪いぞ……」

「ちょっと係長! 今の台詞、聞き捨てなりません!! ちょっとこっちを向いて下さい!」

 そんな城崎と、彼に絡んで何やら訴えている美幸の姿を、少し前からトレーを抱えながら観察していた理彩と瀬上は、呆れた口調で感想を述べた。


「バカップルだ……」

「バカップルが居るわね。向こうで席を探しましょう」

「そうだな」

 更に美幸達の様子を、由香も昼食を取りながら眺めて、悔しさで歯軋りしていたが、それに気付いた者は殆どいなかった。


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