猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

7月(1)似非紳士の面の皮

公開日時: 2021年7月29日(木) 22:55
文字数:3,716

 柏木清人が課長代理に就任し、二課を取り仕切る様になってから約三週間後。仕事中呼びかけられて課長席に歩み寄った美幸は、目の前の仮初の上司から前日提出した書類を返されつつ説明を受けた。


「藤宮さん。この高科繊維の不織布を売り込む予定の会社ですが、ここには既に競合社の類似品が納入されています。それを覆すのは難しいですし、この不織布の特性を本当に活かすつもりなら、新たな販路を探った方が良いのでは無いでしょうか?」

「はぁ……」

 書類を受け取りながら美幸が不満げな表情をすると、彼は更に言い聞かせてくる。


「これまでは高科繊維の商品納入先は衣類メーカーに限定されていましたが、この強度と均一性を特性として売り込むなら、医療用基材、インテリア用品、手工業品素材としても使用できる可能性はある筈です。先方の開発担当者と、再度売り込み先の検討をお願いします」

「……分かりました」

 確かに従来の販路では大幅な需要増加は見込めないと思っていた矢先であり、美幸は書類片手に大人しく引き下がった。そして自分の席に戻るなり参考になるデータを探し始めたが、その合間に窓際に座る男をこっそりと横目で見やる。


(くうっ……、何か笑顔が胡散臭くてどこかいけ好かない奴だけど、仕事はできるのよね。有り得ない事に。本当に作家なんてやってたのかしら?)

 忌々しげにそんな事を考えつつ、美幸はふと手を止めて考え込んだ。

(でも……、何かどこかで会った様な気がするのよね。いつだったかな? 学生時代ではないと思うんだけど……。そうすると就職して、皆さんに付いて外回りに行った時とかかしら?)

 そこで一年ほど前の記憶を丹念に掘り起こした結果、今まで完全に忘れ去っていた、とある出来事を記憶の底から引っ張り上げた美幸は、清人を指差しつつ勢い良く立ち上がり、室内の隅々にまで響き渡る大音響で叫んだ。


「ああぁぁぁっ!! そうよ! いつかどこかで見た顔と、聞き覚えのある声だと思ったら! やっと思い出した!! あの時の痴女と美人局変態カップルの片割れじゃない、あんたっ!!」

 その台詞に城崎が顔を蒼白にして勢い良く立ち上がり、他の者達もギョッとして一斉に美幸に視線を向ける中、美幸は課長席に座る清人を指差しつつ詰問する。


「ちょっと、この変態! 白昼堂々女に女を車に引っ張り込ませて、一体何をする気だったのよ!?」

「……藤宮さん。申し訳ないが、何の事を言っているのか皆目見当が付きませんが? 取り敢えず、自分の仕事をして貰えませんか?」

 しかし清人は余裕の笑みで椅子に座ったまま書類を処理し続け、それが余計に美幸の勘に障った。


「白々しいわね。じゃあはっきり思い出させてあげるけど、去年……、ぅぐっ。もがぁっ! って、きゃあぁぁっ!!」

 そこで素早く美幸の元に駆け寄った城崎が、美幸の後ろから抱き留める様にしながら片手で口を塞ぎ、背後にずるずると引きずった。そしてスペースが空いている場所まで来ると、素早く彼女を肩に担ぎ上げて清人に申し出る。


「柏木課長代理! 申し訳ありません! 藤宮は朝から体調が悪いらしく、意識が朦朧としている様なので、このまま医務室に連れて行きます!」

 周囲の者達は唖然としてその光景を見やったが、清人は微塵も動揺せず、鷹揚に頷いてみせた。


「ああ、そうだったんですか。体調ではなく、頭が悪いのかと思っていました。これ以上騒がれると他の方の仕事にも支障が出ますので、ゆっくり休ませてあげて下さい」

「なぁんですってぇぇぇっ!?」

「失礼します!」

 清人の物言いに、美幸は担がれたまま顔を上げて憤慨したが、城崎は軽く頭を下げてそのまま部屋を足早に出て行った。


「ちょっと係長! 降ろして下さい!! どうして私が荷物担ぎされなきゃいけないんですか!? ふざけないで下さいよっ!!」

 怒りに震えながら自由になる両手で城崎の背中を叩きつつ絶叫した美幸だったが、城崎は無言でそのまま廊下を進んだ。


「係長! いい加減降ろして下さい!」

「分かったから、そう喚くな」

 すれ違う社員達の驚きの視線に構う事無く城崎は歩き続け、フロアの端、昼前の時間帯では人気の無い休憩スペースに辿り着いた。そこで漸く肩から慎重に美幸を降ろしたが、その途端に彼女が盛大に喚き出す。


「あの変態似非紳士野郎! 何涼しい顔してんのよっ!」

「だから落ち着け! 一体課長代理が何をした!?」

「女を使って私を待ち伏せして、その女に車に引きずり込まれて襲われそうになった所を、殴り倒して撃退しました!」

 真顔で一息に報告された内容に、城崎は盛大に顔を引き攣らせた。


「それはいつの話だ?」

「入社して1ヶ月後位だったかと思います。その挙句『見境の無い女好きじゃないらしいから良い』とか何とか訳の分からない事を言って、女と二人で逃走しまして。私とした事が……、サングラス如きで誤魔化されて、三週間も気付かないなんてぇぇぇっ!!」

「そんな話、今まで職場でした事はなかったよな?」

 悔しさの余り再び絶叫した美幸に、城崎は一応確認を入れてみたが、素っ気ない答えが返って来る。


「余りにも馬鹿馬鹿しくて話す気にもなれませんでしたし、実害は無かったですし、それ以降は影も形も無かったので、別に支障は無いかと思いまして」

「……そうか」

「あの時は、単なる通りすがりの《痴女と美人局の変態カップル》だと思っていたのに……」

 もう色々諦めた城崎の横で、美幸がプルプルと拳を振るわせてから、怒りが再燃した様に城崎に掴みかかった。


「その片割れが、どうして課長と結婚してるんですか!? 納得のいく説明をして下さい! 絶対何か知ってますよね? と言うか、係長は何年も前からあの課長代理の手下ですよねっ!! 是非、納得のいく説明をっ!!」

 両腕を掴まれてガクガクと揺すぶられながら、城崎は哀願の眼差しを美幸に向けた。


「手下…………。確かにそう見えるかもしれないが、あの人と十把一絡げにしないでくれ。頼むから」

「じゃあ取り敢えず、パシリと言う事で」

「…………」

 ここに第三者が居たなら(手下とパシリとどう違うんだ?)と盛大な突っ込みが入りそうであったが、生憎二人きりの上、美幸が大真面目だったので、それに対するコメントを城崎は慎重に避けた。そして言い難そうに口を開く。


「藤宮があの人にちょっかいを出されたのは、ひょっとしたら、と言うか……、恐らく九割位は、俺の責任だ」

「どうしてですか?」

「当時、あの人に『最近職場で何か変わった事は無いか』と聞かれて、つい正直に『危ない位課長が大好きな、新人の女性が入った』と報告をした経緯があって……」

 美幸から視線を逸らしながらそう述べた瞬間、城崎は彼女に渾身の力でネクタイを締め上げられた。


「係長! 私は純粋に課長を尊敬して敬愛しているのであって、疚しい気持ちなんか当時も今もこれっぽっちも有りませんけど!? 」

「今は分かり過ぎる程分かってる! だがやっぱり当時、君の課長に対する熱愛ぶりが気になっていたんだ!」

「それのどこが悪いんですか!?」

「いや、どこも悪く無い。本当にすまん!」

「って言うか、それ以前にあのろくでなしに私を売った事になりますよね? 私の事が好きだとか一目惚れした云々は口からでまかせですか!?」

「でまかせなんかじゃないから! 現に口を滑らせた後、酷い事はしない様に自爆覚悟で懇願したし! 君も職場で何も言ってなかったから、本当に何も無かったと思ってたんだ!」

「言い訳になりますか!!」

「すまん! あの人は本当に、昔から病んでるから!」

 美幸の手を押さえつつ、結構切羽詰った叫びを城崎が上げると、美幸は途端に怪訝な顔になった。


「はぁ? 課長代理ってどこかどう悪いんですか? と言うか、それが今の話に、何か関係があるんですか?」

「あの人は課長に関して徹底的に頭の中が病んでいるから、課長に少しでも不穏な臭いのする人間が近付くのは、看過できないんだ」

 城崎が真顔で断言した内容を頭の中で反芻した美幸は、一拍遅れて半眼になりつつ、城崎のネクタイから手を離した。


「…………なんだか、もの凄く納得できました」

 そう美幸が呟くと、城崎がネクタイを直しながら、あからさまにホッとした様な顔で話を続ける。


「そういう事だから、あの人は《そういう人間》だと諦めてくれ。だが基本的に優秀な人だし、下手に刃向かったりしなければ、俺達は《課長の部下》で《課長の手足》だから、今後さっき言った様な手出しはされない筈だ。それは保証する」

「はぁ……」

 美幸がそれを受けて曖昧に頷くと、城崎は慌ただしく財布を取り出し、そこから五千円札を一枚取り出して美幸に握らせつつ早口で指示を出した。


「とにかく、君は医務室で休んでいる事にしておくから、二時間位外で気分転換して落ち着いたら戻って来てくれ。もうじき昼時だし、これは好きに使って良いから。友達とでも食べてくれば良い。じゃあ悪いが俺は戻る」

「係長? ちょっと待って下さい!」

 そうして引き止める隙も無く、城崎は走り去って行った。


「行っちゃった……。どうしよう」

 確かに今職場に戻っても、以前の事を蒸し返しそうで冷静に仕事はできないかもしれないと思った美幸は、手の中のお札を見下ろしながら少しの間考え込んだ。


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