「係長!」
「意識は戻ったとはナースステーションで聞いてきたが、大丈夫そうだな」
「はい。ご心配おかけしました」
ベッドに寝たまま挨拶をしてきた美幸に、安堵した様に表情を緩めた城崎だったが、横から高須が控え目に声をかけた途端、瞬時に顔が強張った。
「係長、お疲れさまです。その、会社の方は……」
「俺は、もう帰って良いと言われてな。先輩方はまだ活動中だが」
「……そうですか」
(活動中って何? それに……、顔は怒っている様に見えないけど、係長の周りの空気が、何だか変……)
互いに何となく含む物が有る様な微妙過ぎるやり取りに、美幸は疑問を覚えたが、ここで美野が高須を促しながらそそくさと荷物を纏めて立ち上がった。
「ええと……、じゃあ美幸。状態も安定してるしここは完全看護だし、私達帰るから。明日は美子姉さんが、着替えとか必要な物を揃えて持って来るって言ってたわ。今夜はちゃんと休んでね」
「あ、うん。皆によろしく」
(って、ちょっと! こんな不気味な空気を醸し出してる係長と、二人きりにしないでよ!)
反射的に笑顔で二人を見送ってから、室内にちょっと気まずい空気が満ちている事を認識して、美幸は僅かに狼狽した。そのまま沈黙が続いたものの、自分から何と言えば良いか分からなかった美幸は無言を貫く。するとベッドサイドの椅子に腰を下ろした後は膝に両手を載せて俯いていた城崎が、深々と溜め息を一つ吐いてから、ゆっくりと顔を上げて美幸に視線を合わせながら声をかけてきた。
「今回は、本当に災難だったな」
しみじみと気の毒そうに言われて、美幸はできるだけ深刻にならない様に、明るい声を出してみた。
「え、ええ。山崎さんがあれほど度し難い馬鹿だとは、思いませんでしたね。あ、あはは。でも幸い命に別状はありませんでしたし」
「バイクは所持していたが、車は持っていなかったので、ここにくる途中にディーラーに寄って、契約を済ませてきた」
「はい?」
唐突な話題の転換に、美幸は戸惑った声を上げたが、城崎は真顔のまま淡々と話を続ける。
「納車は一ヶ月先になるが、諸手続を済ませて駐車場の賃貸契約も結ぶとなると、ちょうど良いだろう。藤宮の退院まで一ヶ月はかかるという話だし」
「退院って、私の、ですよね? それと係長が車を購入する話と、何がどう繋がるんですか?」
全く訳が分からなかった為、説明を求めた美幸だったが、城崎は目線を彼女から外しながら、ボソリと付け加えた。
「……社にやって来た白鳥先輩に、『お前が気を付けると言っても、この程度か? 退院後も暫くは不自由だろうし、通勤で不自由な思いをさせない為に、車での送迎位するよな?』と軽く嫌味を言われた」
「え? まさか係長が車を購入した理由って、その為なんですか!? すみません! 係長にまでご迷惑を。でもそんな事、気にしないで下さい」
(義兄さん! 可愛がってくれてるのは分かるけど、もう子供じゃないんだし、わざわざ職場でそんな嫌味や無理難題言わないで!)
時々予想外の行動に出る義兄に対し、美幸は軽い頭痛を覚えたが、そこで話は終わらなかった。
「それで『お前達が揃いも揃って社内で大して抑止力を行使出来ないなら、美幸ちゃんは辞めさせて、柏木産業を潰す』と真顔で言い出したんだ」
「何ですか、その『辞めさせる』だの『柏木産業を潰す』だの! 秀明義兄さんったら何を横暴な上、荒唐無稽な事を!」
「だから浩一課長と課長代理と俺で、善後策を講じる事にした。そういう訳で俺と君は、社内的には現在進行形で付き合っている事にするから」
「……え?」
思わず呆れた声を上げた美幸だったが、次いで淡々と口にされた報告事項らしい内容に、美幸の思考は完全に停止した。しかし真顔の城崎の説明が続く。
「以前、改めて口説くと言ったが、事情が事情だ。このままだと下手したら課長が育休から戻って復帰する前に、柏木産業が傾きかねない。先輩方も同意見で、週明けまでに社内中に噂をばらまく手筈を整えた」
「ちょっと! 何、本人の意向丸無視で話を進めてるんですか、あんた達は!?」
驚愕から立ち直り、上司達に向かって非難の声を上げた美幸だったが、城崎の決意は固かったらしく微塵も動揺しなかった。
「俺が荒事に慣れてて腕が立つのは、社内のちょっとした事情通には知られている事だからな。だから今後は社内で、その彼女に表立って危害を加えようなんて考える馬鹿は、出てこないだろう」
「危険回避の為って事ですか? でも馬鹿っていうのは、他の人間が思う通りに動かないから馬鹿なんですよ! 第一表立ってじゃなくて、裏でコソコソといびられる可能性の方が高いじゃないですか! 去年係長と噂になった時、女子トイレで吊し上げられた事、まさか忘れたとか言いませんよね!?」
「そんな事になったら、その都度手段を選ばす各個撃破して、柏木産業から追放する。この際男だろうが女だろうが、容赦しない。先輩方も同意見だ」
「追放って……」
(さっきから淡々と話してるけど、いつもの係長と明らかに違う。何か色々振り切れた感じ? それに明らかに本気の係長に加え、社長令息の浩一課長とあの課長代理の手にかかったら……、私に手を出したその日に首を切られそう。じゃなくて、切られるわね。絶対に)
思わず寒気を覚えて黙り込んだ美幸に、軽く息を吐いて険しい表情を緩めた城崎が問いかけた。
「一応聞いておくが、付き合う相手として、俺ではどうしても不満か?」
幾分心配そうに顔を覗き込まれて、真正面から視線が合ってしまった美幸は、狼狽しつつ言葉を返した。
「か、係長に対して、不満とかそういう事はありませんが、その、付き合う事に至った過程が、ちょっと想定外過ぎると言いますか何と言うか」
僅かに顔を赤くしてベッドに横になったままじたばたしている美幸を見て、城崎は微笑しながら鞄片手に腰を上げた。
「じゃあ追々慣れてくれ。明日は土曜日だし、また来る。ゆっくり休んでくれ」
「あ、はあ……。お疲れ様でした」
そして唐突に病室に一人取り残されてから、美幸は普通に動かせる右手を口に当てて考え込んだ。
(どうして本人が知らない所で、社内でそんな噂が広がる事態に……)
白い天井を見上げながら、城崎との会話一通り反芻してから、これ以上自分にはどうしようも無い事だと、早々に諦める。しかし、愚痴っぽい呟きが漏れるのまでは防げなかった。
「まあ……、確かに係長は仕事はできるし頼りになるし、そこら辺の軟弱男とは比べるのも申し訳ない位の人だけど……」
そこで美幸は全く納得できないと言った口調で、義兄についての論評を口にした。
「何だか柏木産業を守る為に、なし崩しに付き合う事なったみたいで納得しかねるし、第一どうして係長達は、そんなに秀明義兄さんを怖がるのよ?」
自分達姉妹には甘い義兄の対外的な評価を、共に生活してきても未だ知らない事がどれほど幸運な事なのかを、その時の美幸は全く理解していなかった。
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