「それでは田所製作所に行って来ます。商談が終わりましたら、そのまま直帰しますので」
「藤宮さん」
「はい、村上さん。何でしょうか?」
二課に居る面々に声をかけながら立ち上がった美幸の肩を、偶々傍を歩いていた村上が軽くその肩に手をかけながら、年長者らしい重々しい声で言い聞かせてきた。
「俗に、『沈黙は金、雄弁は銀』と言うから」
「はい?」
いきなり言われた内容に美幸が戸惑っていると、少し離れた所から枝野と加山も真顔で声をかけてくる。
「それに『名を捨てて実を取る』とも言うな」
「『負けて勝て』って言葉もあるぞ? 気楽に行って来い」
そこで美幸は、皆が何故口々にそんな事を言い出したのかを悟って、不本意そうな表情になった。
「皆さん……、どうして私と山崎さんで組むと、衝突するって前提で話をするんですか?」
「『人の振り見て我が振り直せ』とも言いますね」
そこで淡々とコメントをしてきた清人に、美幸の顔が傍目にも引き攣る。
「……柏木課長代理。喧嘩を売ってるんですか?」
「いえ、単に思い付いた事を口にしたまでで、他意はありません。気を付けて行って来て下さい」
「そうですか、他意は無いんですか……、それでは行って来ます!」
にこやかに微笑んだ清人に、美幸は怒りを堪える表情で背を向けて、足音荒く部屋を出て行った。それを見送った全員が不安を隠しきれない表情だったが、書類を提出しつつ瀬上が清人に問いかける。
「課長代理……、どうして彼女と営業一課の山崎を組ませて、共同プロジェクトの商談先に出向かせたんですか?」
その懸念に対し、清人は事も無げに答えた。
「城崎さんも高須さんも、今日は外に出る用事が有って都合が付かなかったんです。山崎さん一人で出向かせても良かったんですが、何事も経験ですから」
「どんな経験をさせる気なんですか……。酷い経験にならなければ良いんですが」
思わず瀬上は心の中で美幸に同情し、残り少ない今日一日、彼女が無事に過ごせるように願った。そんな懸念通り、美幸が一階エントランスで待ち合わせていた山崎は、美幸の姿を認めるなり悪態を吐いた。
「遅い」
「……まだ約束の時間の、五分前の筈ですが?」
さすがに美幸がムッとしながら言い返すと、それが益々気に入らなかったらしい山崎が、更なる嫌味を口にする。
「後輩なら先輩の前に着いて、待って居るのが常識だろうが。これだから女って奴は」
「行かないんですか? 喋っている間に、約束の時間になりそうですが?」
「そんな訳あるか。行くぞ」
(相変わらず、いけ好かないっ! 取引先に頭を下げるならともかく、少しばかり早く入社したからって、何がそんなに偉いのよ!)
素っ気なく美幸が指摘すると、山崎は取り敢えず口を閉ざして先に立って歩き出した。予想通り自分の歩く速度など気にも留めずに先を急ぐ彼に、後について歩きながら美幸はむかっ腹を立てる。しかしそのうち、ある事を思い出した。
(でも……、よくよく考えたら、他の部署ではこういうのって当たり前なのかしら? 晴香も随分愚痴ってた時期があったしね。桑原君も一緒飲んだ時に、すっごく荒れてた時があったっけ……)
同期の酒の時の話を思い返しつつ山崎の後姿を眺めてから、改めて二課の職場環境について考えてみる。
(うちは年上のベテランばかりだけど、各地各部署で干されていた事情が事情だから、皆腰は低いし頭ごなしに叱られた事なんて無いし、優しい人ばかりだもの。妬まれたり邪険にされた事も無いものね。高須さんには何かと注意されたり小言を言われたりしているけど、あれは一番年が近いから面倒をみてくれてる一環だって分かっているし、改めて考えてみても二課ってやっぱり良い職場だわ)
うんうんと軽く頷きながら納得した美幸は、先程の不機嫌さを忘れたように自分自身を納得させる。
(そう考えると、偶には他の部署との共同の仕事で嫌な思いする事位、何でもないか)
そんな事を考えているうちに、自然と足の運びが遅くなったのか、気が付くと山崎から何メートルか遅れて歩いていた。それに山崎が気が付き、舌打ちしながら呼びかけてくる。
「おい! ボーっとしてるな。置いていくぞ!」
「……すみません」
(くあぁぁぁっ! いっ、一々嫌味な奴ぅぅっ!! ……怒っちゃ駄目よ、美幸。平常心平常心。これも精神修行の一環と思えば、腹も立たないわ)
そして二課の面々が予想した通り、美幸の忍耐力が試される機会となったが、商談先に出向いた後、美幸はそれまでの怒りなど半ば忘れて、殆ど呆れていた。
「……そういうわけで、ここの回転部分を支える為には、NPG合金の加工に優れた技術を持つ、こちらに手掛けて頂くのが最善の選択なわけでして」
「はぁ……、それは分かりますが」
(村上さん……、本当に『沈黙は金、雄弁は銀』って言葉の意味が、良く分かるシチュエーションです)
商談をするための会議室に通され、椅子に座ってから既に一時間近く。予め山崎から「お前は余計な事は喋るな」と半ば恫喝されていた為、お手並み拝見とばかりに傍観を決め込んでいた美幸だったが、何かのスイッチが入ったかのようにひたすらしゃべり続ける山崎に、唖然としていた。
「いかがでしょう? 確かに従来の汎用品とは形状が異なりますが、こちらで以前に作っていた、このRC-12の形状の応用と考えて頂ければ、工期も短縮できると思うのですが」
「……例え形が似ていても、それをすぐできるかと言えば、そうでは無いんですが」
(『負けて勝て』って言われましてもですね、正直、勝とうとする気もおきないです)
山崎が嬉々として提案するも、根っからの技術畑らしい課長が如何にも難しそうな顔をするのを見て、美幸は密かに溜め息を吐いた。
「ですが、ここで新規開拓をしておけば、後々の受注の幅が広がる事確実です。絶対貴社の損にはなりませんよ!」
「……お説ごもっともですが、きちんとご希望道理の物ができるかどうか、今の段階では分かりかねますので」
(『人の振り見て我が振り直せ』って言われても……。私、絶対あそこまで喋り捲らないから。でもこれから、押し付けがましい喋りはしない様に、心がけよう)
何度目かの堂々巡りの議論を聞きながら、美幸は思わず遠い目をしてしまった。当然そんな美幸の姿など視界に入れていない山崎は、諦めずにしつこく畳み掛ける。
「どうでしょう、三橋課長。この計算書の強度を保持した図面通りの物を、来年の四月までに納入して頂けませんか?」
「ですから、一応当社の設計部に確認しない事にはなんとも……、この形状の物は初めて手掛けますので、納期の設定もお約束できかねますし……」
(そうだよね。今日はこれ以上ごり押ししても、どうしようも無いと思うんだけど。無理強いして心証を悪くしたら、今後の交渉にも差し支えるんじゃない?)
黙っていろと言われた手前、部屋に通されてから無言を貫いていた美幸だったが、ここで向かい側に座っている相手が、何となく落ち着きが無い事に気が付いた。非礼の無い程度にチラチラと腕時計に目をやって時刻を確認し、段々気がそぞろになって山崎の話を聞き流している風情にも見えてきた為、美幸は首を傾げる。
(課長さん、なんだか困って苛々してるって感じじゃなくて、そわそわしている感じがするのよね。もう終業時刻近いし、ひょっとしたらこの後誰かと約束とかあるのかしら?)
そんな事を考えていると、会話の切れ目に、三橋が唐突に美幸に声をかけてきた。
「ええと……、その、藤宮さん、でしたか?」
「はい、何でしょうか?」
「いえ、先程から黙っていらっしゃるので、藤宮さんからも何かお話があるのでしょうか?」
真顔でそんな事を尋ねられた為、美幸は一瞬何の事を言っているのかと訝しんでから、すぐにその質問の意味を理解した。
(ひょっとして、私が黙りっぱなしだったから、山崎さんの次に私が話すつもりかと思われたのかしら? そりゃあ、今から山崎さん並みに喋られたら、帰れなくなるものね。心配になるわけだわ)
思わず笑い出したいのを堪えると、美幸に相手の関心が移ったのが面白くなかったのか、山崎がムッとしながら口を挟んだ。
「いえ、こいつは単に付いて来ただけで」
「勿論、お話がありますが、一言で済みます。この仕事をやり遂げられるのは、田所製作所さんだけです。プロジェクトの成功は、こちらに参加して頂けるか否かにかかっています」
「藤宮さん?」
山崎の台詞を遮り、きっぱりと断言した美幸に、三橋は驚いた様に目を見張った。すると次に美幸は、悪戯っぽく笑って掌で山崎を示しながら、三橋の懸念を軽くする台詞を口にする。
「勿論、納品先の都合もあるでしょうが、何と言ってもうちにはこの山崎の様な、弁が立つ者が揃っていますので。こちらの都合に合わせて、納期スケジュールはできるだけ調整します。大船に乗ったつもりでいて下さい」
「それは心強いな」
今まで散々山崎の営業トークを聞かされた三橋は、それに思わず苦笑して頷いた。そして相手の表情が和らいだのを認めて、美幸は座ったまま頭を下げる。
「それでは今日は長々とお時間を頂きまして、ありがとうございました。資料はこのまま置いていきますので、改めてご検討下さい」
「分かりました」
「おい! 何を勝手に」
「そう言えば三橋課長は、今日これから何かお約束でもあるんですか? お急ぎの様でしたし」
「え?」
場を仕切られて声を荒げかけた山崎だったが、続く美幸の問いかけに当惑した表情になった。すると三橋が軽く頭を掻きながら、若干照れ臭そうに白状する。
「失礼、分かってしまいましたか。実は今日は結婚記念日でして。会社の近くで待ち合わせて、妻と二人だけで食事に行く予定なんです。子供は母に預かって貰って」
「それじゃあ残業なんかしていられませんね。でも夫婦仲が宜しい様で、良いですね。私の姉夫婦も、毎年結婚記念日には出かけています。普段お世話になっているので、子供達は私とすぐ上の姉が面倒見ているんです」
「そうですか。……それではこの件に関しては、なるべく早くお返事致します。上司の方に宜しくお伝え下さい」
そう言って三橋が頭を下げてきた為、これ以上ごり押しもできず、山崎は不満げな顔をしながらも頭を下げた。
「分かりました。本日はお時間を頂き、ありがとうございました」
「それでは失礼します」
そうして二人揃って立ち上がり、一礼してその場を立ち去った。
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