「おはよう」
「おはようございます、課長! もうお身体の調子は宜しいんですか?」
土日を挟んで五日ぶりに出社した真澄が入室して来ると、美幸が立ち上がりながら満面の笑みで挨拶をしたが、何故か真澄は気まずそうに、微妙に視線を逸らしながら応じた。
「え、ええ。もう大丈夫だから……。ごめんなさいね、二日も休んで心配をかけてしまったみたいで」
「いえ、偶には課長もしっかりお休みを取るべきですよ。顔色も良いみたいで安心しました。今日からまた心機一転、頑張りましょうね!」
「そっ、そうね……。あの、ちょっと部長に話があるから失礼するわ」
「……はい」
自分のロッカーに鞄を入れるのもそこそこに、何人かに挨拶を返しながらそそくさと部長室へと向かった真澄に、美幸は首を傾げた。そしてそれは周囲も同様に感じたらしく、美幸の体越しに高須と理彩が囁き合う。
「ねえ、何か課長、様子が変じゃない?」
「確かに、ちょっと落ち着きがなかったような……」
「まだお疲れ気味なのかしら?」
美幸も真澄の態度を不思議に思いつつも椅子に座り、午前中に必要な書類を揃えて始業に備えようとしていたが、幾分緊張を含んだ声で高須が声を上げた。
「……おい、何か部長が顔色を変えて立ち上がったぞ?」
それに美幸が反射的に振り向いて部長室に顔を向けると、透明な壁で囲まれたスペースの中で、椅子に座って真澄の話を聞いていたであろう谷山が、何故か両手を机に付いて立ち上がっていた。真剣な顔つきで美幸達に背中を向けている真澄と何やら話しているらしいが、空調同様防音機能もしっかりしている為、中の会話は漏れ聞こえてこない。
「え? まさか先週に引き続いて、また何かトラブルってわけじゃないでしょうね?」
「でも課長は一昨日に続いて昨日も休みだったんですよ? 問題の起こしようが無いじゃないですか」
「それはそうなんだがな。何なんだろうな?」
先週の悪夢が醒めやらぬ理彩が、思わず顔を引き攣らせたが、美幸と高須がそれを否定しつつ首を傾げる。そして異常に気付いた企画推進部の殆どの者が、部長室を見やりながら不安そうな顔をしていると、始業時間間際になって話を終えたらしい谷山と真澄が、揃って部長室を出て来た。
「皆、ちょっと集まってくれ。今日の業務開始の前に、話しておく事がある」
少し大きめの声で谷山が召集をかけた為、室内の人間は怪訝な顔をしながらも立ち上がった。
「何だ?」
「取り敢えず行ってみるぞ」
そして部長室を半分囲む様に、机と机の隙間に企画推進部の全員が集合すると、谷山は小さく咳払いしてから隣に立つ真澄を促す。
「皆集まったな? じゃあ柏木君、報告してくれ」
「はい。あの……、私事で恐縮な上、突然の事で驚かれるかとは思いますが、昨日入籍しましたので、ご報告します」
「……………………」
そう告げて軽く頭を下げた真澄だったが、その途端室内に沈黙が漂い、誰一人身動き一つできずに固まった。しかし頭を上げた真澄は、淡々と報告を続ける。
「ですが、主人が私の両親と養子縁組した関係で、姓は柏木のままで勤務を続けていきますので、業務上特に支障はないかと思います。今後とも宜しくお願い致します」
「……………………」
報告を終えて再び深々と頭を下げた真澄だったが、あまりの事態にまだ静まり返っている室内を見回した谷山が、幾分困った顔をしながら口を開いた。
「あ~、皆が驚くのも無理はないが。それでだな」
「ちょっと待って下さい、課長!!」
「なっ、何かしら? 藤宮さん」
そこで谷山の話を遮り、人混みを掻き分けて険しい表情の美幸が最前列に躍り出た。そして組み付く勢いで真澄に迫る。
「課長、ついこの前『今お付き合いしている人とかはいない』と言っていたじゃないですか! あれは嘘だったんですか!?」
「う、嘘じゃないわよ? だって夫とは付き合っていなかったし」
美幸の剣幕に押されて真澄がじりっと一歩後退すると、美幸はその分間合いを詰めながら、尚も噛み付いた。
「はぁ!? 何寝とぼけた事を言ってるんですか!? 普通はお見合いとか合コンして、取り敢えずお友達として付き合ってみて、それから結婚を前提にお付き合いして、婚約して、結納して、挙式して、入籍って流れじゃないですか! 何、順番すっ飛ばしてるんですか!? 仕事で手順を省くのとは、訳が違うんですよ!?」
「それは私も重々承知してるし、同じ様な事を、父や祖父に散々言われたけど!」
段々壁際に追い込まれつつ悲鳴混じりに真澄が弁解を続けたが、それを見た他の面々は漸く当初の衝撃から立ち直り、冷静に批評を始めた。
「……何か、すっごい違和感」
「ええ、普段ぶっ飛んでる藤宮が、真っ当な事を言ってますからね」
「藤宮君、やっぱり良いとこのお嬢さんらしいな」
「そうか、ああいう手順踏まないと、藤宮的には駄目なんだ」
「課長、全く反論できなくて、藤宮に追い詰められていますよ」
そんな事を囁かれているなどとは知らず、美幸が遠慮なく追及を続ける。
「まさか課長、変な男に騙されて、デキ婚とかじゃないでしょうね!? もしそうだったら相手の男、殺してやるっ!!」
「ちっ、違うから! もともとお互い相手の事が好きだったのが分かったから、単にそのままの勢いで婚姻届出しちゃっただけで!」
何となく腹部を手で隠しつつ涙目で真澄が弁解したが、美幸は益々気に入らない様に声を張り上げた。
「勢いってなんですか、勢いって! 課長って面倒見が良いタイプですから、まさか知り合って数日でブッサイクなバツイチのコブ付き男に同情して、うっかり入籍したとかじゃ」
「違うから! 知り合って軽く二十年は経過している、年下で独身の、美形で人気作家の義理の従兄弟だから!」
「なんですかそれ!? 自慢ですか? 職場で惚気て良いと思ってるんですか!?」
「だから惚気ているわけじゃなくて!!」
「おい、柏木。それってひょっとして……、いやひょっとしなくても」
「佐竹先輩の事ですよね?」
「え、ええ……」
そこで唐突に強張った顔で口を挟んできた広瀬と城崎に、美幸は一瞬追及するのを忘れて振り返る。
「は? 広瀬課長、係長も、課長の結婚相手を知ってるんですか?」
「ああ……。そいつ、俺達の大学の後輩で、城崎には先輩に当たるな。そうか、やっとか……、長かったなぁ……」
「課長……、本当にあの人で良いんですか? って、もう入籍済みなんですから、今更ですよね……。ははは……」
何故か腕を組んで感慨深く頷いている広瀬と、どこか遠くを見ながら乾いた笑いを漏らしている城崎に美幸が怪訝な顔を向けると、谷山が美幸と真澄の腕を取り、些か強引に移動を始めた。
「柏木、藤宮。二人ともちょっとこっちに来い」
「え? 部長?」
「部長! 邪魔しないで下さいよ!」
戸惑う真澄と憤る美幸に構わず谷山は応接セットがある一角に二人を誘導し、そこのソファーを指差して指示した。
「邪魔はせん。だが、お前らが仕事の邪魔だ。ここで好きなだけ喋ってろ。城崎、柏木の今日の外出予定は?」
「十三時からです」
「そうか。それなら藤宮。午前中、好きなだけ柏木に質問しておけ。俺が許す」
「ありがとうございます!」
「ちょっと部長!」
そして谷山は美幸に腕を掴まれた真澄を見捨て、他の部下に始業時間を過ぎた事を告げる。
「ほら、他は散った散った。もう始業時間過ぎたぞ、とっとと仕事しろ」
「はい、分かりました」
「課長、おめでとうございます」
「私も仕事……」
「大丈夫です、係長が引き受けてくれますから。それで、結婚相手が社長と養子縁組ってどういう事ですか。なんか政略結婚の臭いプンプンなんですけど!? あの社長、自分のポカを娘売り飛ばして穴埋めする気!? 一回ボコッてやる!!」
立ち上がって自分の席に戻ろうとした真澄をしっかり捕まえたまま美幸が問い質すと、真澄が顔を引き攣らせながら弁解する。
「自社のトップを、ボコるとか言わないの! それに政略結婚とかじゃないから。彼は別に取引先とかの人間じゃないし!」
「だって幾ら親戚付き合いしてたからといって、いきなり無関係な人間を養子縁組っておかしくありません?」
「まるっきり無関係じゃなくて、実はここの外部取締役で、柏木家以外の個人株主としては、上位クラスの人間だったりするから」
「何なんですかそれは!?」
そしてソファーに縫い付けられた様に動けなくなった真澄と、彼女をどこまでも追及する美幸を横目で見ながら、室内の人間は小さく溜め息を吐いた。
「すげえ、藤宮さん、容赦なく問い詰めてる」
「個人情報まで、粗方聞き出しそうだ」
「あの柏木課長がタジタジだぞ」
「商社じゃなくて、マスコミ関係に就職してもやっていけたな」
「暫くあれをBGMに仕事するか。俺達、どうせ昼になったら他の部署の連中に掴まって、根掘り葉掘り聞かれるぜ?」
そんな事を囁き合った企画推進部の面々は、苦笑いしつつ二人の会話に聞き耳を立てながら仕事を開始した。
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