猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

三年目はステップアップ

4月(1)不審な反応

公開日時: 2021年9月26日(日) 12:29
文字数:4,460

 社内便で二課宛ての郵便物が課長席に届けられると、それにざっと目を通した清人が、妙に楽しそうに由香に声をかけて呼び寄せた。彼女が無表情で課長席へ向かう中、他の面々がここ暫くの恒例行事かと戦々恐々としていると、予想に違わず清人の皮肉が炸裂する。


「渋谷さん。これがなんだか分かりますか?」

「……宛先不明の為、差出人に返却された封書です」

「この中に入っている書類と資料を送って欲しいとお願いしたのは、確かあなたにだったと思いますが?」

「はい。それで以前からの取引先なので、宛名カードなど無粋な物など使わず、手書きで表記する様にと課長代理から指示を受けました」

 顔を強張らせながら言葉を返す由香に向かって、ここで清人はわざとらしく溜め息を吐いた。


「残念でした。せっかく細やかな心配りを先方に示す筈が、いたずらに日数を浪費する羽目になるとは……」

「ですが! 渡された用紙に書いてあった住所は、確かにこの住所で」

「私は正しい住所が記載された物を渡しましたが」

「そんな筈は!」

「それではその用紙はどこにありますか?」

「それは……、用が済んだので廃棄しまして……」

 そう言いよどんだ由香を見て、清人は皮肉っぽく笑った。


「それではどちらの主張が正しいのかは分かりませんが、そもそも二十三区内に所在している会社の住所なのに、郵便番号が1ではなく2で始まる時点でおかしいと思わなければいけないのでは? 加えて赤坂は江東区では無く、港区に属しているかと思いましたが。しかも番地が1―2―3―4―5とどこまで続くやら。こんなのを平気で書いて何も疑問に思わないとは、迂闊で注意力散漫で社会常識が欠如していると言われても、反論などできないでしょうね」

 清人がそう言ってせせら笑った為、他の者は(それは確かに弁解できないな)と項垂れ、由香はさすがに怒りを露わにした。


「確かに迂闊だったかもしれないけど、何でそこまで言われなくちゃならないのよ!」

「これは、小耳に挟んだ噂ですが……。某大企業の某女性課長が平社員の頃に、愚鈍な上司にでたらめな住所が記載された紙を渡されて、『ここに郵送しておけ』と指示をされたそうです」

「…………」

 これまで、似た様な話を聞かされてきた由香は、表情を消して黙り込んだ。そんな彼女を面白そうに眺めながら、清人が淡々と話を続ける。


「もっともその女性の場合は、常に取引先の住所や連絡先を頭に叩き込んでいましたので、間違いが書かれた紙など無視して、全く問題無く正しい住所に郵送したそうですが。まあ、当然ですよね」

 そこで如何にも馬鹿にした感じで笑いながら、清人は由香を手で追い払う真似をして促した。


「さあ、渋谷さん。さっさとそれを郵送して下さい。それともバイク便にしましょうか? 時間を無駄にしてしまいましたしね」

「……正確な住所を調べて、早速手配します」

「宜しく。席に戻って良いですよ」

 悔しそうに一礼し、封書を手にして席に戻っていく由香を見ながら、この間の課長席でのやり取りに聞き耳を立てていた美幸は、座ったまま椅子を寄せて、隣の席の高須に囁いた。


「高須さん、さっきのあれをどう思います?」

「どうって……、課長代理がわざと渋谷さんに間違ってる資料とかを渡して色々やらせて、その結果失敗した事をネチネチ当てこすってるんだよな? これまでにも見積書の桁が間違ってたり、ファイルの分類がバラバラだったり、製造を依頼したサンプルの規格が違ってたり……。こんな露骨な嫌がらせ、いつまで続くんだろうか?」

 心底うんざりした顔で愚痴を漏らした高須だったが、美幸は納得しかねる顔付きになった。


「だけど、どうやって渋谷さんのミスを誘発できるんでしょうか? 渋谷さんがこれまでに『この通りやりました』って出した物は、正規の規格や正しい数字が記載されている物ばかりで、それを認めた後、渋谷さんが再度頭を下げる事態になっていましたが。幾ら何でもこれまでの全部が、彼女のミスとも思えませんし……」

「それは分からないが、例えば消えるインクを使っていたり、予め複数の書類を用意しておいて、こっそり差し替えたりとか? あの課長代理なら、全員の机の引き出しの合鍵を作っていても、俺は驚かない」

「……凄く納得できちゃいました。したくありませんでしたが」

 高須が真顔で主張した内容について、美幸はげっそりしながら同意した。するとそこで彼が、しみじみとした口調で話題を変えてくる。


「だけど課長代理がこの前からあれこれ言ってる『某女性課長の平社員時代の話』。あれは絶対、課長が営業三課にいた頃の話だよな?」

 それを聞いた美幸は、憤慨しながら頷いた。

「どう考えてもそうですよね!? 本当にあの万年課長係長コンビ、ろくでもないわ!」

 しかしその訴えに、高須はどこか達観した表情で続ける。


「いや……、俺はむしろ、そんなろくでもないチマチマした嫌がらせを悉く看破して、当時何事も無かったかの様に笑顔で仕事をこなしていたであろう課長を、改めて尊敬した。あの人の下で働けて、幸運だと思う」

「……そうですね」

「それを考えると、課長と比べて渋谷さんが小者過ぎて、気の毒な位だ」

 僅かに眉根を寄せながらの高須の台詞に、これまで清人からされてきたあれこれを思い返した美幸は、溜め息を吐いた。


「確かに……。あの課長代理を向こうに回すのは、きついですよね……。特に精神的に」

「だけど、解せないんだよな……」

「何がですか?」

「幾ら何でも、こんな理不尽な事が続いたら、係長が意見位はするかと思うんだが、この間ずっと沈黙してるだろ?」

 その指摘に、思わず美幸も首を傾げる。


「……そう言えばそうですね。らしくないと言えば、らしくないです。確かに例の談合話の時は、係長は裏が分かっていた上で黙っていましたが、それとも違う気がしますし」

「だよな……。何かすっきりしないんだよ」

 そこで話を終わらせて美幸達は中断していた仕事を再開したが、それからも美幸は仕事の合間に密かに考え込んでいた。


(係長の様子がおかしくなったのは、いつ頃からだったかしら? この一ヶ月以内だと思うんだけど……)

 しかし幾ら考えても明確な答えやその理由が分からなかった為、美幸はその日の夜、城崎に電話で尋ねてみる事にした。


「城崎さん、聞きたいことがあるんですけど」

「何かな?」

「渋谷さんに対する、あの課長代理の嫌がらせをどう思いますか?」

「どうって……」

 挨拶もそこそこに美幸がそう切り出すと、彼女からの電話を受けて嬉しそうに応答していた城崎が、途端に慎重な声音になった。美幸はその微妙な変化に気が付いたが、構わずに話を続ける。


「あれは絶対、腹いせと八つ当たりですよね? 課長が営業三課在籍中に受けてスルーした嫌がらせの数々を、今になって課長代理が渋谷さんを相手にやって、鬱憤晴らしをしてるだけじゃないですか。本っ当に課長が絡むと、ちっさい男ですよねっ!?」

 吐き捨てる様に美幸が同意を求めると、城崎が何やら色々諦めた様な声で呟く。


「そうだな……。課長が絡むと、本当に一気に心も視野も狭くなるよな、あの人は……」

「そこまで分かってるなら傍観していないで、城崎さんから課長代理にガツンと言ってやって下さいよ!」

 しかし城崎はそれにすぐには答えず、少ししてからぼそりと口にした。


「その……、美幸」

「なんでしょうか?」

「あの人のあの行為で、二課の空気がギスギスしているのは良く分かっているし、倫理上もどうかと思うんだが……」

「はい、それで?」

 再び途切れた会話に、美幸が首を傾げていると、電話越しに城崎の沈痛な声が伝わってくる。


「すまん……。ちょっと今、他人の事に関して色々配慮する精神的余裕が無い」

「はい?」

「一通りの嫌がらせが済んだら落ち着くだろうし、少なくとも課長が復帰するまで渋谷さんを辞めさせないと言っていたから、勤務に関しては問題ないと思う。もうちょっと辛抱してくれ。それじゃあ、おやすみ」

「あ、ちょっと、城崎さん!? まだ話は終わって無いんですけど!」

 言うだけ言って切る気配を察した美幸は慌てて呼びかけたが、既に城崎は通話を終わらせた後だった。


「……切れた。まさかの放置状態」

 呆然と携帯を見下ろした美幸だったが、どうせすぐにかけ直しても相手があっさり事情を吐かない事は分かっていた為、追及を諦める事にする。


「本当に、何なのよもう! 課長代理の奴、裏で何をこそこそやってるわけ!?」

 そして八つ当たり気味に携帯をホルダーに差し込んで充電を始めた美幸だったが、その翌日に誰もが予想し得なかった出来事が起こった。



 ※※※



「……お待たせしました。柏木産業、企画推進部二課、藤宮です」

 翌朝。一番乗りでの出勤直後、課長席の電話が鳴り響いた為、慌てて駆け寄った美幸が受話器を取り上げて応答すると、幾らか安堵した様な口調で声が返ってきた。


「……藤宮さん? 渋谷ですけど」

「あ、おはようございます、渋谷さん。どうかされましたか?」

「ええ……、ちょっと風邪をひいてしまったみたいで、熱が出てるの。今日と明日は休むと伝えて貰えるかしら?」

「はい、分かりました。明日までお休みですね、他の方に伝えておきます。お大事に」

「ええ、宜しく」

 事務的に会話を終わらせた美幸は、受話器を戻すと、まっすぐ壁に掛けてあるホワイトボードに向かった。そして課員全員の名前が書いてある、各自の一日の予定や動向を記載しておくそれに、由香の欄に《有休》と、翌日の日付も併せてマジックで記入する。


「渋谷さんは、有休っと。精神的に色々きてたみたいだったから、体調も崩れるわよね。気持ちは分かるわ。……あいつ、陰険だし」

「おはようございます」

「うひゃあぁぁっ! お、おはようございますっ!」

 突如として至近距離から聞こえてきた声に、美幸は悲鳴を上げながらも挨拶を返し、勢い良く百八十度回転してホワイトボードにへばり付いた。その反応を見て、清人が苦笑する。


「藤宮さんは、今日も元気ですね。ところで『陰険』と言うのは誰の事ですか?」

「そっ、それは……」

 この場をどう切り抜けようかと、ダラダラと冷や汗を流しながら考えを巡らせた美幸だったが、ホワイトボードに視線を向けた彼が、不思議そうに問いを発した。


「おや? 渋谷さんは今日お休みですか? しかも明日まで?」

「はい。先程電話で連絡を受けたのですが、風邪をひいて発熱しているそうです。予め明日も休みたいと言ってくる位ですから、すぐに下がる様な感じでは無いみたいですね」

「そうですか、分かりました。連絡ありがとうございます」

 そこであっさり清人は課長席に向かった為、美幸は胸をなで下ろした。


(話題が逸れて良かった。朝からネチネチ言われたら、たまらないもの)

 そして彼女も自分の机に向かい、早速仕事の準備や作成しておいた書類のチェックに取りかかった。それに集中していた為、清人が机に鞄を置いてすぐにどこかへと姿を消し、始業時間まで戻ってこなかった事に関して、不審にも思わなかった。

 そして十時少し前の時間帯に、騒動が勃発した。


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