その朝も、一見勤勉に見える課長代理は、美幸が出社した時には既に机に着いて仕事をしていた。
「あの……、課長代理、おはようございます」
「おはようございます」
「…………」
「何か?」
挨拶を返したのに、自分の机の前で何やら物言いたげな表情で動こうとしない美幸に、清人は怪訝な視線を向けた。すると彼女が恐る恐る問いを発する。
「その……、昨日の宮崎ダイオードの接待は、どうなりましたでしょうか?」
美幸がそう口にした途端、既に出勤していた企画推進部の者達が、ある者は雑談を止め、ある者は書類を整理している手を止めて、一斉に二人に視線を向けた。二課のみならず、他の課からも例外なく好奇心と不安に満ち満ちた視線を向けられた清人は、含み笑いをしながら彼女に説明した。
「ああ、あれですか。全く心配いりません。快くこちらの謝罪を受け入れて頂きました」
「……本当ですか?」
如何にも(信用できない)といった顔付きになった美幸に、清人は肩を竦める。
「疑り深いですね。本当です。ちょっとした一芸を披露しつつ、お互いに問題提起と改善策についての意見交換をして、非常に有意義な時間を過ごしました。城崎係長、そうですよね?」
「……はい。以降は同様の問題は、起こらないかと思います」
ここで唐突に指名を受けた城崎は、清人と視線を合わせない様にしてファイルを捲りながら、淡々とそう述べた。それを受けて、清人が胡散臭い笑顔で再度美幸に言い聞かせる。
「納得できましたか?」
「はぁ……、お手数をおかけして、申し訳ありませんでした」
確かに迷惑をかけた自覚はあった美幸が神妙に頭を下げると、一言だけ注意が為される。
「今回は、確かに藤宮さんの行動にも非は有りましたから、今後は気をつけて下さい」
「十分留意します」
(嘘……、どうしてあれが円満に解決するの? 別にこじれれば良いなんて、当事者の立場としては言えないけど、おかしくない? 第一『一芸』って何? まさか裸踊りとかして、笑いを取った訳じゃないわよね!?)
取り合えずそれで病院送りの件は、表面上は一件落着となった訳だったが、周囲の者達と同様美幸はすっきりしない気持ちを抱えて席に戻った。そして始業時間を過ぎてから、ふとある人物が出社していない事に気付く。
「あれ? そう言えば、川北さんはお休みですか?」
その声を受けて、隣の高須が美幸の出社前の出来事を教えた。
「ああ…、今日は休ませて欲しいと、係長が連絡を受けてたみたいだぞ?」
「そうですか……」
(怪し過ぎる……。課長代理も係長も、余計な事は話す気は皆無みたいだから、昨日の事を川北さんから詳しく聞こうと思ってたのに……)
他の者も同様に気になっていたらしく、事の真相を知りたくてうずうずしている気配がそこかしこに充満していたが、清人と城崎はそんな物には全く頓着せず、いつも通りバリバリと仕事をこなしていた為、誰も不用意に突っ込めずにその日一日の業務が終了した。
「あの……、今回は本当にご迷惑おかけしました!」
その日、「私の気が済まないので、是非ともお詫びがしたいんです!」とかなり強引に城崎を食事に誘った美幸は、密かに(夏のボーナスは無いし、ちょっとお財布が苦しいけど……)と思いながらも、日中押さえておいた中華料理店の個室に彼を連れ込んだ。そしてコースの前菜が出されてから勢い良く頭を下げると、城崎が苦笑いしながら彼女を宥める。
「いや、もう済んだ事だし、寧ろ藤宮は被害者だから気にするな」
「そう言われましても……。どう始末を付けたのか、気になって仕方が無いんですが」
切々と訴えた美幸に、城崎は幾分困った様な顔つきで、ビールの入ったグラスを軽く持ち上げて見せながら嘆息した。
「それはそうだよな……、だから手元不如意な時期に『これ』か」
「はぁ……」
自分の財布の中身まで見透かされてしまった美幸はがっくりと項垂れたが、それを気の毒そうな目で眺めてから、城崎は何か決意した様に語り出した。
「藤宮は当事者だし、話しておくか。だが、くれぐれも他言無用で頼む」
「勿論です。どう考えても円満解決なんて、有り得ませんから」
力強く頷いた美幸に、城崎は朝の会話を持ち出して説明を始めた。
「課長代理が言ってただろう? 『一芸を披露した』って」
「はい。そこからして意味不明なんですが」
「三時間弱、延々と怪談をやった」
「は?」
思わず呆けた表情になった美幸から視線を逸らし、グラスの中のビールを一息に煽ってから、城崎は手酌でビールを注ぎつつ愚痴っぽく零した。
「あの人は腐っても作家なんだ……。と言うか、とっくの昔に腐れ切ってる作家だから、言葉責めなんてもう得意中の得意で。あの畜生ドS作家。あんなのがベストセラーを何冊も出しているのかと思うと、日本の未来は本当に大丈夫なのかと、時々もの凄く不安に駆られる」
「あの……、怪談って、言葉責めって、何か意味が違うんじゃ……」
半ば呆然と美幸が呟いたが、それを無視した城崎の独白が続く。
「最初神妙に頭を下げて、謝罪の言葉を口にしたんだが、それが済んでから、『次はてめえのねじ曲がった根性を矯正してやろうじゃねぇか。出血大サービスだ。ありがたく思え!』とか何とか言いながら鎌田部長に掴みかかって、瞬く間に服を脱がせてトランクスだけにして手足を縛り上げた上、ガムテープで口を塞いで騒ぎ立てられない様にした」
「あの……、係長? それを黙って見ていたんですか?」
流石に非難がましい口調で美幸が問い質したが、城崎が淡々と続けた。
「あの人の指示で、俺は宮部課長を縛り上げて口を塞いだ。服は着せたままだったが」
「…………」
もう何も言えなくなった美幸が黙り込むと、城崎が溜め息交じりに状況説明を続ける。
「それから課長代理は、空の押し入れの下段に鎌田を押し込んで自分も一緒に入って、川北さんに部屋の電気を消して貰った。そして真っ暗な中で鎌田部長に馬乗りになったあの人が、蝋燭の明かりで延々と怪談をやらかしやがってな」
そこまで話して再びビールを煽った城崎に、美幸は恐る恐る尋ねてみた。
「……因みに、その間係長と川北さんは、どうされていたんでしょうか?」
「俺は宮部課長が騒がない様に押し入れの上段に押し上げて、一緒に入って下から不気味に響いてくる怪談を聞いてた。俺は耐性が有ったから十八話全て聞いたが、宮部課長は首を振りながら涙目で聞いてて、確か五話目辺りで意識が無くなってたな」
「……川北さんは?」
(宮部課長、とんだとばっちりでしたね。係長、立派な共犯です)
言いたい事は色々あったものの、美幸は宮部同様巻き込まれた川北の安否について尋ねた。すると城崎が淡々と答える。
「川北さんは三話目位で『すみません、先に帰らせて下さい』と襖越しに泣きが入った訴えをしてきたから、先に帰って貰った。腰が抜けていた様だったから、女将にタクシーを読んで貰う様に伝えて、襖の隙間からタクシーチケットを渡したから」
「そうですか……」
(明日川北さんが出社してきたら、真っ先に謝ろう……)
その時の川北の心情を思って、美幸は思わず涙ぐんだ。そこで城崎の乾いた笑いが漏れる。
「宮部課長みたいに、早々に気絶できれば楽だったのにな……。鎌田の野郎は気絶する度に身体に蝋燭の蝋を垂らされて、声にならない悲鳴を上げてたぞ。あの人、どんな畜生顔でオリジナルの怪談話をやってたんだか」
そこで次の料理の皿が出て来た為、一端話を中断して食べ始めた二人だったが、美幸は考え事であまり味が分からなかった為、少ししてまた尋ねてみた。
「それで、その怪談って、やっぱり相当怖いんですか?」
その問いに城崎は箸を止め、真顔で言い聞かせる。
「夜道を歩けなくなるから、覚悟と予備知識無しに聞くのは止めておいた方が良い。それに間違っても課長代理に『面白そうなので聞かせて下さい』とか言うなよ? 因みに帰り道で聞いたが、蜂谷の奴には《煩悩消滅阿鼻叫喚百八地獄巡り語り》を二十時間ぶっ続けで聞かせて、性格を矯正したそうだ」
それを聞いた美幸は、本気で驚愕した。
「蜂谷に二十時間!? 延々としゃべり続けたんですか!?」
「いや、これまでに趣味でこつこつ吹き込んで溜めておいたデータを、真っ暗な部屋で途切れさせずに再生させて聞かせながら、ちょっとでも眠ろうとしたら容赦なく目を覚まさせる様な数々の責め苦を」
「いっ、いやぁぁぁっ!! もういいです係長! 聞くだけで怖いですっ!!」
「そうだろう。あの蜂谷の変貌ぶりを直に知っていれば、余計に怖いよな」
両手で耳を塞いで盛大に首を振って訴えた美幸に、遠い目をしながら同意した城崎は黙々と食べ進め、固まっている美幸に気が付いて付け加えた。
「鎌田の奴は、もうセクハラ行為はしないだろう。それに第一、当面は夜遅くまで活動出来ないだろうから、必然的に夜の接待をする必要は無くなった。ついでに本契約を結ぶ様に、くれぐれもお願いしておいたから安心してくれ」
「『お願い』ですか……」
「表に出なければ、手段はもうどうでも良い。宮部課長にも意識が戻った後、それなりの対応をして貰える様に依頼しておいた」
「良く分かりました」
(『依頼』が『脅迫』に脳内変換できるわ……)
密かにそんな事を考えて頭痛を覚えた美幸だったが、勿体無いのでそれからは目の前の料理に意識を集中し、食べ進めた。そして料理も終盤に差し掛かった所で、城崎がしみじみと言い出す。
「それで……、今回は災難だったな」
唐突に言われて戸惑ったものの、殆ど当初の出来事を忘れかけていた美幸は、苦笑いで答えた。
「え? ええ、まあ……、ちょっとびっくりしましたけど、どうって事無いですよ? 減るものじゃありませんし」
「減るとか減らないとか、そういう問題じゃ無いだろう。少なくても俺は不愉快……、と言うか、腸が煮えくり返った。泣きながらいきなり電話がかかってきてら、心配するだろうが」
眉を顰めて、真剣に言い聞かせてきた城崎に、美幸も思わず神妙な顔付きになる。
「えっと……、はい、ご心配おかけしました。……ですが、あれはどちらかと言えば、セクハラが嫌だったというよりは、商談をぶち壊しかけた事が心配になった為で」
「どっちでも良い。正直、同じ職場で色々やりにくいと思う事はあったが、今回は上司で良かったと思った」
「どうしてですか?」
「俺の知らない所で何をされてるのか分からないなんて、心配でしょうがない。上司の立場だから、きっちり自分の手で報復措置が取れて良かったって事だ」
「係長?」
そんな事をしみじみとした口調で言われて、美幸は戸惑った。そこで城崎が急に表情を緩めて、笑いかけてくる。
「あの時、真っ先に俺に電話してくれたんだろう?」
唐突なその問いかけと、先程までとは一転した穏やかな微笑に、美幸はかなり動揺しながら弁解らしきものを口にした。
「え、えっと……。それは、まあ……。産休中の課長にご心配をかけるわけにいきませんし、お手を煩わせるのは言語道断ですし、課長代理に連絡したら問答無用で嫌味垂れ流しで終わらせられそうでしたし」
「それがかなり嬉しかったからな。気合いを入れて、課長代理の報復の片棒を担がせて貰った」
「はぁ……」
(何か、そんなに嬉しそうに微笑まないで下さいよ……。話題は結構殺伐とした内容なんですが?)
内心の動揺を押し隠す様に美幸は次々に料理を口に運んだが、続く城崎の台詞に危うく喉に詰まらせかける。
「藤宮から誘って貰って、二人で食事もできたしな。ご褒美としてはなかなかだ」
「うぐっ……、ちょ、ちょっと係長!」
「どうした。大丈夫か?」
「報復のご褒美じゃありませんから! ご迷惑おかけしたお詫びなんですからね? そこの所は間違えないで下さい!」
「それは分かっているから。だが、今後は幾ら仕事でも我慢するなよ? 最初から殴り倒していけ。後始末はどうとでも俺が付けてやるから安心しろ」
「だから、暴力行為を唆さないで下さい! と言うか、私の事をどんな人間だと思ってるんですか!?」
真顔で全力での反撃を勧める城崎を美幸が叱り付けると、堪えきれなくなった様に城崎が腹を抱えて笑い出した。その屈託のない笑顔を眺めた美幸は、(うぅ、そんなに楽しそうに笑わなくても……)と多少恨みがましく思ったものの、(係長がフォローしてくれるなら、安心よね。これからも接待頑張ろう)と今後の仕事に全く不安など抱かずに、また明日から仕事に励む事を自分自身に誓った。
翌朝、出社した美幸は、社屋ビルの一階ホールで、背後から声をかけられた。
「おはよう、藤宮さん」
「おはようございます、川北さん。一昨日はご苦労様でした」
聞き慣れたその声に、美幸が慌てて振り返って軽く頭を下げると、相手も苦笑しながら宥めてくる。
「いや、藤宮さんは被害者だから。俺がすぐフォローできなくて、本当に悪かった」
「そんな事、気にしないで下さい。必要以上に事を大きくしたのは、私のせいですし」
そこで取り敢えず「この件は、これで終わりという事に」と言われて、美幸は川北と連れ立って歩き出したが、どうしても気になっていた事を口にしてしまった。
「そう言えば……、課長代理の怪談って、そんなに怖かったんですか?」
その途端、川北はピタリと歩みを止め、怖い位真剣な顔で問い返す。
「確かに相当な物だったが……。それ、誰から聞いた?」
「係長からです。課長代理が一芸を披露したって。私は当事者だから教えるけど、他の人には他言無用だと言われまして」
「そうか……。因みに、係長の一芸については?」
「……何ですか? それは」
疲れた様に溜め息を吐いた川北が尋ね返した言葉に、美幸は怪訝な顔で応えた。すると川北は周囲の出勤してきている社員達の流れに目をやり、他の者に聞こえない様に通路の隅に美幸を誘導してから、真顔で詳細について語り出した。
「それは聞いていなかったのか……。実は三人で頭を下げて謝罪してから『実はご披露したい芸が有りまして』とかいきなり言い出して、課長代理と二人でいつの間にか部屋の玄関の上がり口に揃えてあったビニールシートを広げてブロックを二つ置いて、それに渡す様に瓦を八枚重ねて瓦割りしたんだ。係長は」
「はい?」
「一発で見事に決まったそれを見ただけでも鎌田部長は真っ青になってたのに、軽く一人や二人殺してそうな物騒極まりない顔でその胸倉を掴み上げながら、目一杯ドスの効いた声で『今度俺の部下にちょっかい出しやがったら、頭蓋骨かち割ってそこら辺の犬に中身を食わせるぞ』って恫喝して。いやぁ、傍で見ていた俺も肝が冷えたわ、あれは」
「……えっと」
目を丸くして絶句した美幸をよそに、川北の告白は続いた。
「それからどこからともなく紐を四本とガムテープを取り出して、課長代理と分担して鎌田部長と宮部課長を瞬く間に縛り上げて口を塞いで。どうしてあんなに手際が良いんだよ、あの二人。相当慣れてるのか?」
「…………」
心底呆れ果てたといった口調にも応じる事が出来ず、美幸はひたすら無言を貫く。そして川北はしみじみと感想を述べた。
「あの怪談もな……、さすがはベストセラー作家だよなぁ……。途中で帰らせて貰ったが、変な冷や汗や動悸が止まらないわ、静かで真っ暗な所が異常に怖くて眠れなくなって、体調を崩して昨日休ませて貰ったんだ。今日はもう平気だが」
「お大事にして下さい」
「そうするよ。本当にニ課は、怖い管理職を抱えているよね」
そうして困った様に笑ってから「じゃあ行こうか」と美幸を促して再び人の流れに戻った川北の背中を、美幸は複雑な思いで見つめた。
(川北さん……。そこで笑ってしまうのが、流石に二課の方って感じがします……。それに係長! 課長代理の事を、あまり強く言えないじゃないですか!?)
そう叫び出したかったものの、とても大っぴらにできる内容では無かった為、危険な上司達の扱いにこれからも苦労しそうな予感を抱きつつ、美幸は自分の職場に向かって再び歩き出した。
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