猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

番外編 暗躍する男~奇襲

公開日時: 2021年7月24日(土) 21:26
文字数:4,725

 形式上、今では直属の上司となっているかつての部下から、内線で一方的に話を伝えられてからほぼ十分後。村上が現在の仕事部屋として与えられている《第三図書資料室》のドアを、とある人物がノックした。


「はじめまして。東京本社、企画推進部第二課係長の柏木真澄です。この度は勤務時間中に貴重なお時間を割いて頂いて、申し訳ありません」

 手狭なその部屋に入ってきた三十前後に見える女性が、スチール製の小さな机を挟んでパイプ椅子に座ったままのこの部屋の住人に挨拶をして軽く頭を下げると、対する村上は微妙に顔を歪めながら忌々しげに吐き捨てた。


「それは皮肉か? お嬢さん。見ての通りここでは仕事らしい仕事はしてないから、時間は割き放題なんだがな?」

「例え本当に皮肉を言われたとしても、小娘呼ばわりした相手に微塵も感銘を与えられない切り返しか出来ないなんて、営業の人間としてどうなのかしら。現場を離れた途端、感性が鈍ったらしいわね」

「…………何?」

 軽く喧嘩を売ってはみたものの、あっさりと自分が口にした台詞の数倍痛烈な皮肉で返され、村上はその顔から表情を消した。しかしそれには一切構わず、真澄がパイプ椅子を軽く引いて座りながら独り言っぽく続ける。


「資料の整理も、過去を客観的に捉えた上で未来の事業に役立てる為の、立派な仕事だと思うけど。寧ろ、手の空いていそうな人間に片手間に任せろ的な姿勢って、企業としてどうかと思うわ」

「つまらん御託は止せ。俺はともかく、あんたは暇じゃないんだろ? ここには出張で来てる筈だしな」

「あら……、良くご存知で。私が名乗った時も大して驚かなかったし、一応話は通っていたみたいね」

 わざとらしく軽く目を見張った真澄に対し、村上は机をダンと拳で叩きながら吠えてみせた。


「そりゃあ、支社中であれだけ噂になってりゃ、誰だって分かるわ! さっさと用件を言ったらどうだ。パパに言われて、非公式に俺に引導を渡しに来たのか? お嬢ちゃん」

 そこで村上は相手を睨み付けつつ盛大に凄んでみせたが、真澄は全く動じない上、村上には全く予想外の事を平然と言い出した。


「それなら単刀直入に言わせて貰いますが、今度の四月に所属する企画推進部二課課長に昇進が決まったので、幾らこき使っても退社しない兵隊をスカウトしに来ました」

「あぁ?」

「返事は?」

 落ち着き払って返答を待つ真澄に、村上はたっぷり十数秒黙り込んでから、それはそれは疑わしげな声を出した。


「……何、考えてんだ? あんた。本気で不祥事を起こした俺を、本社に引っ張るつもりじゃないよな? 上の連中が黙ってるわけ無いだろうが」

「黙らせました。今回の出張は、あなたに会う他には適当な理由をでっち上げて来ましたし」

「正気か?」

 かなり失礼な村上の物言いにも真澄は動じず、雑然と物が積み重なった狭いスペースを見回しながら、呆れた口調で呟いた。


「だけど……、たかだか一千万強で人生を棒に振るなんて、随分馬鹿な事をしたものね。世の中にはもっと高額を脱税して、平然としてる人間なんてゴロゴロ居るでしょうに。しかも入れ上げた女は金だけ持ってさっさとトンズラしただなんて、間抜け過ぎて笑えるわ」

「…………っ! 貴様ぁぁっ!! わざわざ東京から俺をからかいに来やがったのか!?」

 クスッと真澄が失笑したところで、村上が椅子から勢い良く立ち上がりながら怒声を浴びせた。しかし真澄は座ったまま、容赦の無い台詞を言い放つ。


「はっ! 懲戒免職が相当だったところを、上役の恩情で辛うじて籍だけ置かせて貰っている穀潰しのくせに、本当の事を言われた位でガタガタ言うんじゃ無いわよ! 辞めたって退職金は出ないし、再就職だって絶望的だからって、こんな所にくすぶってる人間に凄まれたって滑稽なだけだわ!」

「このっ……」

 ギリッと歯軋りをしながら村上は殴りかかりたいのを懸命に堪えていたが、真澄はそれ以上余計な事を口にするつもりは無かったらしく、あっさりと話を纏めにかかった。


「第一線で働く気概と能力はまだ有るかと思ったけど、本社でこれまで以上の晒し者になったり、馬車馬以上にこき使われるのが嫌だって言うなら、この話は断って貰って構わないわ。プライドを切り売りして、定年まで飼い殺しになっていれば楽でしょうしね。……どちらにしても、三日以内にここに連絡を頂戴。それではあなたと違って忙しいから、これで失礼させて貰います」

 話をしながら名刺入れから一枚の名刺を取り出して村上の前に押しやった真澄は、話は終わったとばかりに優雅な動きで立ち上がった。そのまま出て行こうとする真澄に、我に返ったた村上が、焦りながら思わず声をかける。


「おいっ、あんた!」

 しかしそこでドアを引きながら背後を振り返った真澄は、冷え切った表情と声音で応じた。


「私を呼ぶなら柏木係長と呼びなさい。村上俊輔元関西支社営業部営業本部長」

「…………っ!」

 明らかに侮蔑的な口調で言い返され、村上は今の自分の立場を思い知らされて黙り込んだ。しかし真澄は相手を言い負かした事で優越感に浸る風情も見せず、そのまま廊下へと出て行く。そしてその足音が聞こえなくなると同時に、村上は力一杯スチール机の足を蹴りつけて喚いた。


「……くそったれ! あんな鼻持ちならない女の下で働けだと!? 冗談じゃない!」

 電話連絡では「そちらにこれから本社からの客が出向く」としか聞いていなかった村上は、降って湧いた話に激しく動揺した。そして何分が室内をぐるぐると円を描く様に歩き回ってから、椅子に座って何とか落ち着いて考えられる状態になる。


「……俺が本社勤務? 今更冗談だろう、おい」

 口に出した事が全て独り言になってしまうその環境で、村上は終業時間まで誰にも邪魔されずに、頭を抱えて困惑していた。

 そして結論が出ないまま、重い腰を上げて家路についた村上だったが、社屋を出て幾らも歩かない所で、唐突に腕を取られて声をかけられた。


「おい」

「何だ、お前は?」

「柏木産業関西支社の村上俊輔だな? ちょっと顔を貸して貰おうか」

「あぁ? 貴様なんぞに用は無い。離せ!」

 いきなりのその物言いに、流石に村上は気分を害して男の腕を振り払おうとした。しかし優男風の外見とは違い、以外に強い力で掴まれており、容易にその手から逃れる事が出来なかった。


「こっちにはあるんだよ。つべこべ言わずに付いて来い!」

「おいっ!」

 抵抗虚しく、あっさりと路地裏に引きずり込まれた村上だが、自分が柏木産業にとって重要人物である筈が無く、巻き上げる金も持たない事から、半ば開き直って得体の知れない男と対峙した。


「何の用だ、若造」

「柏木産業本社への異動話があるそうだな」

「……それがどうした。貴様には関係無いだろうが」

 いきなり本題に入ったらしい相手をしげしげと眺めつつ、村上は辛うじて虚勢を張った。と同時に相手を注意深く観察する。


(関西支社では見かけない顔だな。コートもブリーフケースも相当品が良い物だが、単なる若造がここまで使いこなせるとは思えん……。それに、今日の話をどうしてこいつが知ってる? あのお嬢様のスーツも相当な物だったが、彼女の関係者か?)

 そう見当を付けた村上が、眉間に皺を寄せつつ(お嬢様同様俺を説得に来たのか? 人に物を頼むにしては、随分と生意気な態度だな)などと密かに腹を立てていると、相手はその想像と真逆の事を口にした。


「無駄話は嫌いだ。これをやるから今週中に退職しろ。勿論、本社異動の話は無しだ」

「は?」

 ブリーフケースから紙袋を取り出した男は、それを村上の胸に投げつけながら横柄に言い放った。胸にぶつかって道路に落ちたそれを、村上は呆然としながらも反射的に屈んで拾い上げ、その中身を覗き込んで絶句する。


「これは……」

 強張った顔で問いただすと、相手はさも馬鹿にした口振りで言い切った。

「五百万ある。どうせこのまま定年まで勤め上げても、退職金なんぞ出ないんだろう? 少しでも貰える時に貰った方が良いぞ? 社長令嬢直々の要請話を断ったら、社内の居心地が益々悪くなるだろうからな」

(俺をあのお嬢の下で働かせたくないのか? そうだとすると……)

 咄嗟に村上は社内の派閥勢力を思い浮かべ、苦々しい顔付きになって確認を入れた。


「どうして俺が見ず知らずの人間に、指図されなければならないんだ。あんた見ない顔だが、反社長派の犬か? 尻尾振ってかなり小遣いを貰っているらしいが」

「俺を、あんなゲス野郎共と同一視するとは、良い度胸だな屑野郎……」

 村上としては軽い皮肉をぶつけたつもりだったが、予想に反して相手は瞬時に目つきを険しくし、村上の胸元を掴み上げながら鋭い視線で恫喝してきた。それを目の当たりにして、村上は混乱して恐怖におののきつつ必死で考えを巡らせる。


(この殺気……、本物だ。ちょっと待て、じゃあ反社長派では無いとすると……)

「あんた、あのお嬢の手下か? だから脛に傷持つ人間と同一視されるから、冗談じゃないってクチか? 挙げ句の果て、俺が要請を辞退したらお嬢さんに恥をかかせるから、不自然でないようにこの際会社を辞めろってか? これをあのお嬢は知ってるのか?」

 思いついたまま一気に疑問を口にすると、男は忌々しそうな顔付きのまま手を離し、最初と最後の質問にだけ答えた。


「この事については、彼女は一切知らない。加えて俺は彼女の手下でもないから、俺の事を本人に聞いても知らないとしか言わないな」

「じゃあどうしてお前はこんな真似をするんだ?」

「単に彼女の趣味の悪さに唖然としただけだ。何が面白くて、穀潰しばかりを部下にかき集めようとするか、理解に苦しむ」

 如何にも不愉快そうに吐き捨てた男を見て、村上は納得し、完全に腹が据わった。

(今日似た様な台詞を聞いたのは二度目だから……、比較的冷静に聞けるな。こいつは……)

 そこで村上は、冷笑をその顔に浮かべつつ口を開いた。


「何だ、要はお前は俺に嫉妬してるのか? 柏木係長から俺にはお声がかかったのに、てめぇは存在すら気付いて貰えないみたいだからな」

「……もう一回言ってみろ、このクソオヤジ」

「ああ、何度でも言ってやる。俺は彼女の下で一兵卒をやれるが、お前は良くてコソコソ彼女の周りを嗅ぎ回ってる番犬止まりだろうが。それが悔しいんじゃないのか? 生憎だが犬野郎に睨まれてもまるで怖くないぞ。一昨日来やがれ!!」

 言うだけ言って渾身の力を込めて両手で突き飛ばすと、男が二・三歩後ずさった。そして怒らせたであろう相手からの反撃に備えて精神的に身構えたが、何故か「くっ……」と小さく吹き出した相手は、満足そうに微笑して踵を返す。


「頭の働きは悪くないし、それだけ気概があれば十分だな。錆び付いて無い様で何よりだ。……じゃあ、お前の好きにしろ」

「ちょっと待て!!」

「うん? ……おっと」

 言うだけ言って立ち去ろうとした男の背中に、村上は未だに手に掴んでいた紙袋を投げつけた。その衝撃を受けた男が、意外そうに村上を見やる。


「忘れ物だ。それは持って帰れ。退職はせん」

「後悔するぞ?」

「誰がするか!! とっとと失せろ!」

「了解」

 どこか小馬鹿にする様な笑みを浮かべながら、男は素直に紙袋を拾い上げ、鞄に入れてその場を立ち去った。その後ろ姿を睨み付けていた村上は、その姿が見えなくなってから疲れ様に肩を落とす。


(全く……、今日は色々有り過ぎだ。何だったんだ一体)

 しかしそこで考え込んでも埒があかない為、村上は自宅に向かって歩き出した。


(しかし東京か……。これまで散々振り回しておいて、また苦労をかけさせるのもな。今度こそ、愛想を尽かされるかもしれん……)

 そんな事を考えているうちに自宅に到着した村上は、重い気分で自宅玄関のドアを開けた。


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