猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

4月(2)虎の威を借る狐

公開日時: 2021年9月27日(月) 21:34
文字数:5,967

「このろくでなし!! あたしの服はどこよっ!!」

 勢い良くドアが開けられたと思ったら、般若の形相の由香が企画推進部の部屋に乱入し、まっすぐ清人に向かって突進した為、居合わせた者達は全員驚いた。


「え? 渋谷さん?」

「今日は休みじゃ……」

「それに、何でそんな格好で出社?」

 休みの筈の彼女が出社してきた事は勿論の事、明らかにノーメイク、いつも背後で束ねている髪はバサバサ、ボーダー柄のルームウェアの上下に素足での登場ときては、異常を感じない方がおかしかったが、いきなり罵倒されたにも関わらず、清人は涼しい顔で問い返した。


「おや、渋谷さん。風邪は回復したんですね、良かったです。しかしその服装はどうかと思いますよ? 社会人の常識として、せめて靴位は履いて頂きたいのですが」

「しらばっくれないでよ! 何なの、いきなり部屋に乱入して、私をす巻きにして運び出したあの連中は! このビルの前の歩道に私を放り出しながら、あんたが私の服を持ってるって言ったのよ!?」

 盛大に両手で課長席を叩きつつ、怒声を放った由香だったが、清人は僅かに驚いた表情を見せながら、白々しく述べた。


「それはそれは……、通りすがりの無頼漢にしては、随分と物が分かっている連中ですね。確かに揃えてありますよ? 寝ぼけて部屋着のまま出勤する迂闊過ぎる部下が、万が一いた時の為に準備しておく位、有能な上司としては当然ですから」

「ふざけんじゃないわよ!! あんた、こんな事して良いと思ってるわけ!?」

「不思議な事を言いますね。私はとことん間抜けな部下の、身体に合う衣類を準備しただけですが? それが何か罪に当たるとでも?」

 薄く笑いながら、座ったまま軽く首を傾げた清人に、床は怒りで顔を赤くしながら糾弾する。


「っ!? 私の部屋の鍵を開けて押し入って、私を拉致した事に決まってるでしょう!?」

「証拠は?」

「え?」

「私は定時前に出勤してから、ずっとここで勤務していましたが?」

「あんたが誰か他の奴に指示して、やらせたに決まってるでしょう!?」

「ですから、その証拠は? 警察に知らせて、調べて貰っても構いませんよ?」

「…………」

 淡々と反論されて、由香は黙り込んだ。そして度肝を抜かれたまま事の推移を見守っていた面々が、声を潜めて囁き合う。


「あの人が、下手な証拠なんて残す筈ないよな?」

「元通り鍵も閉めて、監視カメラの映像なんかも無いだろ」

「このビルの前とかエントランスだったら監視カメラに映り込むだろうけど、歩道にって言ってたし」

「絶対カメラの死角、把握してるぞ」

「あの課長代理が、裏で糸を引いてるんだからな……」

「可哀想に渋谷さん。あの格好で一階からここまで上がって来るのに、どうしても他の社員の目に留まってる筈だし」

「昼休みには社内中に、渋谷さんの奇行の噂が飛び交っているだろうな」

 周りの者達が囁いている内容については、自分でも見当が付いたらしく、黙ったままの由香の顔色が今度は青くなった。するとここで清人が、如何にも困ったものを見る様な目つきで声をかける。


「それでは無事、仮病も回復したみたいですので、仕事をお願いします。ここにあなたの貧相な体に合わせた下着から靴に至るまで一式を揃えてありますので、どうぞ使って下さい。ああ、私が勝手に準備した物なので、代金は結構ですし返却も結構ですから」

「…………」

 そう言って自分の斜め後方に、いつの間にか置いてあった小型のスーツケースを指さしながら口調だけは親切に告げた清人を、由香がプルプルと全身を震わせながら無言で睨み付ける。その光景を見た面々は、本気で頭を抱えた。


「うわぁ……、『貧相な体』とか言っちゃったよ……」

「もう、完全にセクハラだろ」

「だがそんな事、誰も課長代理に指摘できないぞ。お前、するか?」

「冗談だろ!?」

「そう言えば、あのスーツケース、何日か前から置いてあったよな?」

「ああ、何だろうとは思ったが、課長代理の私物だと思ってたから聞かなかったんだが……」

「そろそろ彼女が嫌気がさして、ズル休みするのを見越して、嫌でも出社する様に手配してたって事だよな?」

「本気で課長が復帰するまで、生かさず殺さず彼女をこき使う気だぞ」

 そんな囁き声が漏れる中、由香が地を這う様な声で呻いた。


「……使わせて頂きます」

 何とか声を絞り出した感の彼女は、軽く清人に一礼してからその机の横をすり抜け、窓際に置いてあったスーツケースのハンドルを握ると、無言でそれを引きながら部屋を出て行った。

 それを何とも言えない顔で見送った美幸が、自分の席に座ったままこの事態を静観していた様にしか見えない城崎の机に視線を向けながら、小声で悪態を吐く。


「何やってんのよ、あのど腐れ野郎……。女性の一人暮らしの部屋に押し入って拉致して放り出すって、明らかに犯罪行為でしょうが! それなのに係長は、どうして黙ってるのよ? ここは課長代理に、ビシッと言ってしかるべきじゃないの?」

「それには俺も同意見だ。だから藤宮、ここはお前に任せた」

 座ったまま椅子少し滑らせて来た高須が、真顔で自分の肩を叩いた為、美幸は顔を引き攣らせた。


「……どうして私なんですか?」

「お前だったら、虎の威を借る狐になれる。この間のあれこれから察すると、課長代理はお前の姉夫婦に対しては頭が上がらないらしい。と言うか、マジで腰が引けてる」

「確かに、それは何となく察していますが……」

「だからこの二課の中で、あの課長代理に意見できるのは、真の意味でお前だけだ。係長も含めて他の人間がやったら、返り討ちか闇討ちか配置転換か即解雇だ。大丈夫だ、お前ならできる。自分を信じろ!」

 力強く断言された美幸は、(虎の威を借る狐になれって)とちょっと遠い目をしてから、素早く文章を打ち込んでメールを一通送信してから、徐に立ち上がった。


「ちょっと行って来ます」

「頑張れ。陰から応援してるぞ」

「……本当に陰からですよね」

 課長席から直接見えない様に、上半身を伏せながら顔を上げて激励してきた高須に文句を言う気も起きず、溜め息を一つ吐いてから彼女は清人の元へと向かった。


「課長代理、少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」

「はい。何でしょうか、藤宮さん」

「あなたが証拠を残る様な仕事をしたりさせたりする筈は無いので、告発しても明るみに出ないでしょうが、今日渋谷さんにしたあれこれは、明らかに犯罪行為です。以後、この様な事は慎んで下さい。色々な方面に、支障が出るかと思いますので」

 何気なく顔を上げた清人に対して、美幸が真っ向から非難の声を上げた瞬間、広い企画推進部の室内全体に緊張が走り、静まり返った。しかしそれに対して、清人が微笑み返す。


「面白い事を仰いますね、藤宮さん。色々な方面とは、具体的には?」

「企画推進部二課の評判が落ちます」

「既に業績はともかく、社内評判はあまり良くないと思うのですが」

「それでも、です。それに私の家での評判ですが」

「……どういう意味でしょう?」

 ここで清人が笑みを消し、剣呑な視線を自分に向けてきたのを認めた美幸は、(ビビるな、美幸! ここで手を抜いたら、なめられっぱなしだからね!?)と自分自身を内心で鼓舞しながら、話を続けた。


「例えば、ですが……。一家揃っての家族団欒の時に、就職してからは良く会社での事を話題に出すんです。そこで『明らかな犯罪行為を目にして、出勤するのが怖いの』とかうっかり零したりしたら、一番上の姉が『まあ、大変。あなた、どうしましょう』とか義兄に相談しないかな~、とか」

「藤宮さんの義理の兄上は、お若いのに大企業で既に役職付きの立場でいらっしゃいますから、清濁併せ持つ潔さを、心得ていらっしゃると思われますよ? その様な事を口にしたら、『それ位で出社拒否してはいけないよ』と、やんわりと窘められるのではないですか?」

 余裕で言い返してきた清人に、ここで美幸は不気味な笑みを見せた。


「そうかもしれませんね。例の談合の屑仕事を任せられた時も、私が知る前に義兄は正確に裏を把握していましたが、私には黙っていましたし」

「そうだったんですか?」

「ええ。ですがあの後、『美幸ちゃんが成長する為だと思って、敢えて口にはしていなかったが、頑張ったのに残念だったね』と謝ってくれた上に、高級フレンチの一番高いフルコースを奢ってくれました。その時に、言ってたんですよね……」

「何をです?」

 思わせぶりに話を途切れさせた美幸に、清人が僅かに眉を顰めると、彼女は彼から目を離さないまま淡々と言ってのけた。


「『大目に見るのは今回だけだから。今後美幸ちゃんに理不尽な仕事を強要したり、目の前で不快な事をしているのを目にしたら、いつでも俺に言うんだよ? 一か月以内に、美幸ちゃんの半径二百キロ以内に、そいつが存在しない様にしてあげるから』って。冗談だと思われるなら実行して頂いても、私は痛くも痒くもありませんが」

「…………」

 それを聞いた清人は、無言で目を細めた。その物騒な気配に周囲が戦慄する中、美幸は臆せずわざとらしく付け加える。


「ああ、そう言えば、一番上の姉もその直後に言ってたんですよね。『今回の事で、ちょっと柏木産業の仕事内容について興味が出てきたから、課長さんとお話ししてお友達になって貰ったの。私、会社勤めなんかした事ないから、色々興味深いお話が聞けて嬉しいわ』って」

「……聞いていないが」

 微妙に驚いた表情を見せながら呟いた相手に、美幸は真顔で言い返す。


「女同士の交友関係にまで、一々言わないんじゃありません? それに姉が『ご主人には内緒にしておきましょうね』って課長を丸め込んでいても、私は全然驚きません」

「…………」

「それで、どうされますか? 今後、我が家の中での企画推進部二課の評判……、というか、主に誰かさんの評価を地に落としたくなかったら、これからどうすれば良いのか、東成大卒の英邁な課長代理であれば、これ以上余計な事は言わなくてもお分かりだとは思いますが」

「…………」

 そこで無言で睨み合う事数秒。何かに気付いた清人が、上着のポケットからスマホを取り出し、そのディスプレイを見てから、僅かに眉を顰めて美幸を見返した。


「明らかな不法行為は慎む」

「ご理解頂けて嬉しいです。それでは失礼します」

 言質を取り付けた美幸はそれ以上ごり押しせず、一礼して席に戻った。と同時に清人が席を立ち、無言のまま廊下へと出て行く。それを見送ってから、美幸は緊張の糸が切れた様に自分の机に突っ伏した。


「つっかれた~」

「お疲れ! よくやったぞ、藤宮! 今日の昼飯は奢ってやる。ちょっと高い所でも良いぞ!」

「そうですか、それじゃあ遠慮なく。……あ、そうだ、蜂谷! グッジョブ!」

「ありがとうございます、藤宮先輩!」

 何かに気が付いた様にのろのろと身体を起こし、机の衝立越しに少し離れた蜂谷の席に目をやった美幸は、目が合った彼に向かって親指を立てた拳を突き上げながら、声をかけた。それに喜色満面でぶんぶんと右手を振って応えた彼を見て、高須が怪訝な顔になる。


「え? 蜂谷がどうかしたのか?」

「直談判に行く前に、蜂谷に頼んで課長に事の次第をご注進させたんですよ。最近知ったんですけど、何か課長がリアルタイムで課内の報告を受ける為に、あいつに特別なメルアドを教えてるみたいで。さっき課長代理が席を立ったのって、事実を知った課長からのお叱りメールか電話ですよ」

「おい、良いのか? 課長、そんな特殊なメルアドを蜂谷に教えて」

 思わず驚いて尋ねた高須だったが、美幸は若干遠い目をしながら淡々と述べた。


「あいつ、根っからの忠犬ですから、他に漏らしたりしませんよ。それに変に頭が切れない分、事実をそのままスパッと報告しますし。あれですよ、『馬鹿と鋏は使いよう』って言いますよね?」

「……お前も課長も、結構酷いな」

 高須が思わずうんざりした顔で囁いた時、着替えを終えた由香が強張った表情でスーツケースを引きつつ戻って来た。

 室内にいた全員が、何となく気の毒さと申し訳なさから彼女から目を逸らしていると、理彩が無言で立ち上がり由香に声をかける。そして手招きしながらロッカーに移動し、自分のロッカーを開けて何かを取り出した彼女は、由香に話しかけながら何かを手渡した。それを神妙に聞いていた由香は小さく頭を下げ、スーツケースを席近くの壁際に残してから再び廊下に出て行ったが、彼女が近くを通り抜けた時にその手にあった物を見て、理彩が何を言ったのかを悟った。


「仲原さん、流石です。あの課長代理でも、流石に化粧道具一式はすっかり忘れてたんですね」

 入室して来た由香を見ても、自分が咄嗟に気が付かなかった事に気付いて、すかさずポーチを貸した理彩に対する褒め言葉を美幸が口にすると、隣の席に戻った彼女が皮肉っぽく返した。


「寧ろ、それまで抜かりなく入っていたら、課長代理の女装癖を疑うわ。でもしっかりスーツケースに部屋の合鍵と、昼食や帰宅に必要な額の現金は入っていたそうだから、流石よね」

 それを聞いた美幸は、無言で顔を引き攣らせたが、その背後から高須が声をかける。


「藤宮、お前の所にも係長からメールが入ってる筈だ。確認しろ」

「え? あ、はい。今見ます」

 何か業務連絡かと、慌てて理彩からディスプレイに視線を戻した美幸は、忽ち胡乱な顔つきになって高須に囁いた。


「何なんですか、これ。単なる食事会のお誘いですか?」

「場所と時間を見るとそうとも思えるが、『この間の謝罪と今後の説明をしたいので、是非参加して欲しい』って書いてあるぞ? それに送信先が瀬上さん、仲原さん、俺にお前に、渋谷さんに蜂谷だし、どう考えても、ただおいしく食べて飲む会じゃ無いよな?」

「パスして良いですか?」

「お前、ちゃんと読めよ。『日程的に参加が難しいなら、個別に説明する』って書いてあるだろ。下手に断ったら、どんな面子の時にどんな話をされるか想像できないぞ?」

 それでも良いのかと暗に問いかけられた美幸は、確かにそれはちょっと嫌かもと思い直した。


「……出ますよ。でも、何でいきなり今日なんですか」

「そりゃあ、お前が捨て身の行動に出たから、流石に係長が立場無くしたからじゃないのか? 『費用は全額こちらの負担』って書いてあるし」

「責任感じるなら遅いですよ。全く。今夜はたくさん飲んで食べますからね」

「そうしろ」

「その前に、お昼も手を抜きませんから。私、ダイエットなんてした事ありませんので」

「……分かった。昼も好きなだけ食え」

 うんざり顔で頷いた高須から理彩に視線を向けた美幸は、(当然三人の様子が変だった、と言うか何となく精彩を欠いていた理由も説明して貰えるんでしょうね)と無表情で仕事をしている彼女を観察しながら、一体何を言われるのかと疑問に思いつつ業務を再開した。



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