「誰だこんな時に……、瀬上?」
忌々しげに携帯を取り出した城崎は、ディスプレイに浮かび上がっている発信者名を見て、無視する事も出来ずに不機嫌な顔のまま応答した。
「もしもし?」
「係長、すみません! 藤宮は一緒に居ませんよね!?」
「いきなり何だ? 勿論ここに、藤宮は居ないが?」
勢い込んで呼びかけてきた瀬上に、城崎は顔を顰めながら問い返したが、瀬上は切羽詰った口調で話を続けた。
「藤宮の携帯にかけても、全然繋がらないんです。自宅にかけてみても、まだ帰宅していないみたいですし」
「瀬上? 携帯が繋がらない位で何だ? 仕事が終わってから緊急の用事がある訳でも無いだろう?」
「そうじゃなくてですね! ついさっき、藤宮と去年藤宮の姉さんと離婚したって男に酷似した二人連れが、ラブホに入るのを見まして」
「は? 藤宮と美野さんの元夫に良く似た二人がホテルに入って行ったって……、どういう事だ?」
ここで城崎が怪訝そうな顔つきを一変させ、電話の向こうに凄むと同時に、聞くともなしに電話のやり取りを聞いていた美野がはっきりと顔色を変えた。そして電話の向こうでは瀬上が緊迫した口調で話を続ける。
「見間違いかも知れませんが、どうしても気になって。商談先で出くわした時、藤宮は凄く嫌そうにしてましたし」
「商談先で出くわしたって……、そんな話は初耳だぞ」
「すみません、すぐに別れましたので大した問題ではないかと。しかし絡まれた藤宮が話を聞くと約束していましたし、さっき見た藤宮らしき女性の方がしっかり歩けない泥酔に近い状態で、気になりまして。係長から藤宮に連絡を取れないかと」
「ちょっと待て。今ここに美野さんもいるから、彼女からも連絡を取っ……、おい!」
振り返って美野に尋ねようとした城崎だったが、ここで必死の顔付きの美野に携帯電話を奪い取られてしまった。そしてそれで、美野が瀬上に向かって、叫ぶように確認を入れる。
「もしもし? 瀬上さんですよね!? あの屑野郎、東京に来ているんですか!!」
「美野さん、ちょっと返して下さい」
「うるさい! 邪魔よっ!」
「…………っ!」
「係長!? 大丈夫ですか?」
美野が渾身の力を込めて突き上げたらしい拳は、城崎の顎にクリティカルヒットし、思わず城崎は口元を押さえて呻いた。それを高須が顔色を変えて見守る中、美野は瀬上と慌ただしくやり取りをする。
「それで今、どこに居るんですか? …………ええ、はい、分かります。…………今から、急いで向かいます。……………そこから一歩も動かないで、待っていて下さい!」
叫ぶ様に話を終わらせた美野は、素早く閉じた携帯電話を握り締めて、二人に向かって頭を下げた。
「城崎さん、高須さん、急用ができましたので失礼します!」
そうして車道に向かって走り出した美野を、呆然と見送りかけて城崎が慌てて後を追った。
「……あ、美野さん! 俺の携帯を返して下さい!」
早速タクシーを止めて乗り込もうとしている美野に城崎が駆け寄ると、同様に走りながら高須が問いかけてきた。
「係長、何か藤宮絡みでトラブルですか? 元夫とかホテルとかなんの話です?」
「恐らくだが……、藤宮が美野さんの元夫に、ホテルに連れ込まれた可能性がある」
「何ですかそれは!?」
「話は後だ」
流石に聞き捨てならない内容に高須が顔色を変えると同時に、閉まりかけたタクシーの後部ドアを押し開きながら城崎が中に向かって吠えた。
「美野さん! 変な誤解の件もありますし、同行しますよ!?」
有無を言わさぬ迫力の城崎に、美野は恐れ気も無く指示した。
「それなら早く乗って下さい! おじさん、さっき言った場所に十分で着けたらチップで十万払うわ。それより一分早く着く毎に、一万上乗せよ。目一杯飛ばして!」
「よっしゃ。ちゃんと払って下さいよ! 飛ばすんで、シートベルトをして掴まっていて下さい!」
城崎に続いて当然の如く助手席に高須も納まると同時に、タクシーは勢い良く発進してスイスイと車の流れをすり抜けて行った。そして何となく無言になった車内で、城崎が横に座る美野に顔を向け、静かに声をかける。
「……美野さん。今のうちに、聞いておきたい事があるんですが」
「何でしょうか?」
「俺のとんでもない趣味嗜好の話の前に、確か『あんなのは一度でたくさん』云々とか仰いましたね? 藤宮は以前、その……、何か被害にあった事があるんですか?」
はっきりと言葉にする事は躊躇われた為言葉を濁した城崎だったが、当然美野には言わんとする事は伝わり、小さく頷いてから固い声で答えた。
「確かに盗撮をされた事が有って、それに伴う被害を受けた事がありますが、本人は気が付いていません。私と家族で隠蔽しましたので。それで、その犯人が私の元夫です」
「美野さん!?」
衝撃的な話の内容に、思わず助手席の高須が後ろを振り返ったが、城崎はすこぶる冷静に話の続きを促した。
「どうやら単なる、離婚云々の話では無かったようですね。……五分で纏めて話して頂きましょうか」
「分かりました。他言無用でお願いします」
「勿論です」
そうして目的地まで到達する僅かな時間の間に、先程の動揺など微塵も見せずに、美野は順序立てて説明をした。
美野にけしかけられたタクシーの運転手は、嬉々として道路交通法違反ギリギリの運転テクニックを披露し、目的地とは至近距離の幹線道路沿いに、九分後に停車した。そこで運転手を労いつつ、美野が約束通り十一万を支払ってタクシーから歩道に飛び降りる。それより一足先に、城崎がタクシーから降り立って通りの奥に向かって走り出し、運転手の「ご利用ありがとうございます!」上機嫌な声を背に受けながら、高須と美野も並んで走り出した。
「瀬上!」
幹線道路とは並行して続く一つ奥の繁華街を横切り、更にもう一つ奥の通りの角を曲がってすぐ、城崎は見慣れた人物の姿を認めて駆け寄りながら大声で呼びかけた。するとそれを聞きつけた相手は、顔に幾分安堵の表情を浮かべながら、言葉を返す。
「係長、ここです!」
「瀬上さん、そこですね!」
「あの、やっぱり美野さんも一緒、ですね……」
しかし城崎の背後から、少し遅れて血相を変えた美野が高須を引き連れて駆け寄って来た為、電話で一応話はしていたものの、瀬上は横に居る理彩と共に微妙に顔を引き攣らせた。そして到着した城崎が目の前のラブホテルの入口を睨み付けつつ何やら考え込んでいる間に、追いついた美野が瀬上達に軽く頭を下げて、忙しげに問いかける。
「瀬上さん、お知らせ頂いてありがとうございます。因みに二人がここに入ったのは、何分前でしょうか?」
「ええっと……、大体二十分から三十分位かと……」
「出来るだけ正確に」
「二十三分前です」
美野の気迫に瀬上がたじたじとなっていると、横から理彩が腕時計で時間を確認しつつ、正確な時間を告げた。
「ありがとうございます、助かります。じゃあ行きます」
そう言うなり、勢い良くホテルの入口に駆け込んだ美野を見て、その場の全員が仰天して後を追った。
「行きますって……、美野さん!?」
「どこの部屋か分かりませんよ?」
「分からなければ聞くまでです!」
「あのっ! でもこういう所って、直接顔を見てやり取りする事は無いですし!」
「そもそも部屋番号なんて教えて貰えませんよ!!」
「どこに行くんですか!?」
背後の悲鳴混じりの訴えを無視し、美野は受付も素通りして迷わず奥へと進み、≪STAFF ONLY≫のプレートが取り付けられているドアを、力一杯押し開けつつ叫んだ。
「スペアキーを出しなさい!!」
「なっ、何だ?」
「誰ですか、あんた?」
幾つか事務作業用の机が並べられた、壁に幾つかのモニターや機械が設置されている部屋の中には、二十代から三十代の男が三人存在しており、いきなり押し入った挙句絶叫した美野を呆れた表情で見やった。しかしそんな視線に頓着せず、美野は高飛車に再度要求を繰り出す。
「ネタは割れてるのよ。この人達がここの出入りを監視していて、今から二十三分……、いえ、ここに入る間に二十四分前にはなったわね。その時間に入ったカップルは、私の夫と愛人よ! あんた達、入室記録を見れば、どこが該当するのか分かるわよね。私の言う事が分かったら、これから部屋に踏み込むから、さっさとそこの鍵を渡しなさい!!」
「ちょっ……、美野さん」
「静かに。黙って話を合わせて下さい」
とんでもない事を言い出した美野に後を追ってきた面々は絶句し、城崎は流石に美野を止めようと小さく声をかけたが、美野は鋭く小声で囁き返した。それで城崎は美野に何やら考えがあるらしい事を悟り、暫く傍観する事にする。するとその間に驚きがおさまったらしい男達は、美野に向かって薄笑いを浮かべながら、嫌味っぽく言い返した。、
「奥さん、困りますねぇ。私達は真っ当に仕事をしているだけですよ?」
「どの部屋を誰がどう使用しても、お客様の勝手ですし。家庭内の問題なら尚更の事、ご自宅でお話し合いなり、取っ組み合いなりして頂きたいものですがね?」
しかしそんな嫌味を、美野は鼻で笑い飛ばした。
「はっ! そんな生意気な態度を取ってタダで済むと思っているなら、あなた達はホテルのランクにお似合いの、低脳揃いね」
「……何だと?」
「ふざけてんのか、てめぇ?」
凄みを効かせながら、如何にもガラが悪そうな男二人が立ち上がって美野を恫喝したが、美野が負けじと言い放つ。
「本当の事を言って、何が悪いのよ。この人達の顔を知らないなんてそれだけ下っ端、かつ間抜けって事じゃない。警視総監のおじさまは、可愛い姪のちょっとした頼みなら、所轄署の生活安全課の刑事を何人か動かす位、どうとでもないのよ!」
「なっ……」
「刑事!?」
そう叫ばれた男達は流石に美野の背後に立つ城崎達に目をやって動揺したが、刑事呼ばわりされた面々も同様だった。しかし美野に軽く一睨みされて、何とか無言を貫く。すると美野が冷淡な口調で城崎に告げた。
「城崎さん。遠慮は要らないわ、やって頂戴」
「……分かりました、奥様」
事ここに至って美野の意図が読めない城崎では無く、不気味な笑みを湛えつつ、無言で男達に向かって足を進めた。そして固まっている男達が無意識に壁際に追い詰められると、何故か城崎は壁に掛けられているホワイトボードに手を伸ばし、そこに置かれていた黒の水性マジックを手に取る。そして(何をする気だ?)と訝しんでいた男達の目の前で、城崎は右手に握り込んだマジックを目にも止まらない勢いでホワイトボードに叩き付けた。
「ひっ……」
「げっ……」
「お、おいっ!」
衝撃で本体に付けたままのプラスチック製のキャップが破裂音と共に無残に砕け散り、マジックの芯が本体にめり込んで使い物にならなくなったばかりか、本体もどこか裂けるか割れるかしたらしく、ボードに接している所から黒いインクが不自然に滲み出る。更にその衝撃を受けたホワイトボードも、マジックが接している所を中心にへこんでいるのが明らかで、男達は一気に顔色を無くした。そんな哀れなマジックを男達の足元に放り出した城崎が、わざとらしく両手を組んで盛大に指を鳴らしながら、芝居がかった地を這う如き声で恫喝する。
「俺達としても、通常業務以外でこき使われるのは、勘弁して欲しいんでな。お前達、さっさと吐いた方が身の為だぞ?」
「…………」
しかし衝撃のあまり、まだ固まって黙り込んでいる男達に向かって、城崎は携帯電話を取り出して、どこかへ連絡する様な素振りを見せた。
「それとも、有る事無い事罪状を付けられて、しょっぴかれたいのか? どうせ上は下っぱなんぞ切り捨てるからな。そうか、そんなに寒空の下、無職で年を越したいか。それにお前は学生のバイトだろ。問答無用で退学だな」
「それはっ!」
「ちょっ、困りますよ!」
「冗談じゃねぇぞ!」
冷たく言い切られて漸く喚き出した男達に、美野が鋭く二者択一を迫る。
「それならさっさと部屋番号を教えて、鍵を渡しなさい。そこで何があっても朝まで黙認してくれるなら、所定の宿泊料は支払うし、私に対する先程の暴言は聞かなかった事にしてあげるわ。それが嫌なら、問答無用で留置所行きよ。さあ、どうするの?」
そこで三人は顔を見合わせたが、結論を出すのは早かった。素早く入室記録を確認し、該当する部屋のマスターキーを取り出して美野に手渡す。
「……こちらです」
それを受け取った美野は、代わりに机に一万円札を何枚か無造作に置いた。
「ありがとう。お金はこれだけあれば十分よね」
「口止め料込みだ。いいか? そこから何が聞こえてきても、俺達の邪魔はするなよ?」
「は、はいっ!」
「分かりましたっ!」
美野の台詞に続けた城崎の凶悪過ぎる睨みに、男達が真っ青になって頷く。それを確認した美野は、入り口付近で呆然と事の成り行きを見守っていた高須達を促して部屋を出た。
「それでは行きましょう」
そして固い表情のままエレベーターに乗り込んだ面々だったが、五階のボタンを押して上昇を始めると、その気まずい雰囲気を幾らかでも解そうかと、理彩が美野に声をかけた。
「でも知らなかったです。美野さんは、警視総監の姪だったんですね」
「私そんな事、一言も言ってませんよ?」
「え? でもさっき……」
素っ気なく否定されて理彩は本気で面食らったが、美野は淡々と話を続けた。
「警視総監に就任してる方って、だいたい五十代半ばから後半ですよね。その年頃の方に対する呼びかけなら、私達の世代だと『お兄さま』とか『おじいさま』とかじゃなくて、『おじさま』が妥当じゃありませんか? それに警視総監でも、可愛い姪には甘いだろうという、一般論を口にしただけです。勝手に勘違いした向こうに非があります」
「えっと……」
咄嗟に続ける言葉を失った理彩だったが、冷静な美野の解説は続いた。
「確かに、皆さんが所轄署の刑事と紹介したのは明らかに嘘ですが、身分証を確認もせず鵜呑みにした連中が迂闊なんです。向こうがさっさと部屋番号を教えて鍵を渡せば良かっただけの話ですから、私自身にもあなた方にも非はありません。さあ、行きますよ!」
(やっぱり大人しそうに見えて、間違いなくあの藤宮と血の繋がった姉だ、この人……)
五階に到着したエレベーターの扉がスルスルと左右に開くとほぼ同時に、美野は緊迫した表情のまま廊下に足を踏み出し、ずんずんと奥へと進んだ。そしてその背中を見ながら、他の者は全員心の中で同じ感想を覚える。そして何部屋も通り過ぎないうちに、目的の部屋に辿り着いた。
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