「藤宮先輩、こちらは宜しいですか?」
その声に斜め上に顔を上げた美幸は、トレーを手にした蜂谷を見てから、テーブルの向かい側の二人に声をかける。
「え? ああ、蜂谷。構わないけど……、矢木さん、清香さん、同席させても構わない?」
「構わないわよ?」
「どうぞ」
「ありがとうございます。失礼します」
そして礼儀正しく会釈してから、隣の席に座った彼に向かって、美幸は呆れた様に声をかけた。
「しかしあんたも相当よね。女ばかりの所に堂々と入って来るなんて」
「すみません。今日はちょっと混んでいるみたいで」
それを聞いた美幸が周囲を見回し、いつの間にか食堂内が満席に近い状態になっているのを認めて、納得した顔つきになった。
「確かにそうね。雨でも降り出した?」
「窓から見た感じでは、まだ降り出してはいないと思いましたが」
そんな会話をしてから黙々と食べ始めた蜂谷を見て、鈴音が軽く身を乗り出しながら、美幸に囁いてきた。
「藤宮さん。そちらの方、蜂谷さんって言った? そして、去年入社して配属された人?」
「そう。うちの部署の後輩」
どうやら去年の彼にまつわる噂を耳にしていたらしい鈴音は、注意深く蜂谷の様子を観察してから、再度美幸に囁いてくる。
「……普通の人ね」
「一応、見た目はね」
そんな事をこそこそと言い合っていると、箸を止めた蜂谷が美幸達に向かって微笑みながら軽く頭を下げた。
「藤宮先輩。そちらの方々はお知り合いの方ですよね? ご歓談中、お邪魔してしまってすみません」
「いえ、構わないから」
「こちらこそ、いつも企画推進部二課で、兄がお世話になっています」
鈴音と同様に清香も笑顔で返したが、その台詞を聞いて蜂谷が怪訝な顔になった。
「兄? ええと、瀬上係長か高須さんの妹さんですか?」
「いえ、柏木清人の事です。私は妹の佐竹清香です。今後とも宜しくお願い」
「ごっ、ご主人様の妹姫様ぁぁ――っ!?」
本当に何気なく清香が口にした台詞を耳にした途端、瞬時に顔色を変えた蜂谷が、絶叫しながら箸を放り出して凄い勢いで立ち上がった。
「……え?」
「ちょっと、何!?」
「蜂谷!」
そして鈴音と清香が当惑し、食堂中の視線を一身に浴びる中、蜂谷は泣き叫びながらその場で土下座した。
「すみません! ごめんなさい! ご主人様のお妹君様と同じテーブルに着くなど、身の程知らずにも程がある無礼な振る舞いを! 何卒何卒、お許し下さいませ!!」
「ちょっと蜂谷! 何やってるの、止めなさい!!」
驚いて言葉も無い鈴音達に代わって、美幸は慌ててしゃがみ込み、蜂谷を叱り付けた。しかし狼狽しきっている彼は、全く聞く耳持たなかった。
「平に、平にご容赦をぅぅっ!」
「ボケ蜂谷! ちょっと来い!! ごめん、矢木さん! そのトレー二つ片付けてくれる?」
「……うん、分かったわ」
「ご苦労様です……」
そして言い聞かせても無駄だと悟った美幸は、唖然としている二人に食器の後始末を頼んだ直後、蜂谷の左腕を掴んで強引に引き上げ、火事場の馬鹿力で引きずりながら食堂からの脱出を図った。
「お姫様ぁぁっ! 哀れな下僕を、お許し下さいませぇぇっ!!」
「もう黙んなさい! 一切口を開くな!!」
(あぁぁっ! もうこの後、食堂内がどうなってるか、想像したくない! 本当にごめんなさい、矢木さん、清香さん!)
そして食堂から蜂谷を引きずり出し、二課に戻ってから休憩時間の残り全てを使って蜂谷に説教した美幸は、鈴音達に対して罪悪感を覚えた。その後恐る恐る社内メールで鈴音に連絡してみると、「ちょっと驚いたけど大丈夫。後片付けもしておいたから」との返信がきて、美幸は安堵しながら改めてメールで礼を述べた。
しかし残念な事にこの騒動はこれで終わりにはならず、翌日になって企画推進部二課に、台風が襲来した。
「たのも――っ!!」
終業時間を過ぎても殆どの者が残業している中、企画推進部のドアが些か乱暴に開けられたと思ったら、スーツ姿の女性が勢い良く飛び込んで来た。そして一瞬足を止めて室内を見回してから、二課課長席に向かって突進する。
「何だ?」
「誰だよ、あの子?」
「清香さん!?」
「何だ、藤宮。知り合いか?」
前日に再会したばかりの清香を見て、美幸は目を見張ったが、不思議そうに尋ねてきた高須に答える前に、課長席で兄妹の会話が始まった。
「やあ、清香。久し振りだな。入社しても顔を見る機会が無かったから嬉しいな」
「お兄ちゃん! 一体社内で、何やらかしてんのよ!?」
「何の事だ?」
親し気に声をかける清人に、憤怒の形相で迫る清香。そんな二人を見た企画推進部の面々は、不思議そうに囁き合った。
「え? 課長代理の妹!?」
「そんな子が入社してたのか?」
しかしそんな疑問の声を切り裂く様に、清香の怒声が室内に響き渡る。
「惚けるんじゃないわよっ!! 『会長の孫』で『社長の姪』で『柏木課長の従妹』だって事で、これまで同期とか同年輩の人達に遠巻きにされてたけど、昨日のお昼に『柏木課長代理の妹』って周囲に知られてからは、廊下を歩いてると明らかに役付きの偉そうなおじさん達が、私と顔を合わせた瞬間、廊下の壁にへばり付いて道を譲ってくるのよ! 一体どういう事!?」
「歩きやすくて結構じゃないか」
「……やっぱり、そうなったか」
「おい、藤宮。どうした?」
しかし妹の剣幕に清人は全く動じずに飄々と言い返し、美幸は自分の机で頭を抱え、それを見た高須が不思議そうな目で見やった。
「それにさっき部長にこっそり呼ばれて、『うちの部は本当に後ろ暗い所は無いから。何か誤解がある様なら、是非君からお兄さんに口添えしてくれないか?』って、涙目で懇願されたんだけど! どうして私が、スパイとか監査役みたいな言われ方をしなくちゃいけないわけ!?」
「本当に後ろ暗い所が無いなら、そんな事は口にしないんじゃないのか? 怪しいな」
「問題はそこじゃないでしょ!? 本当に一体、何やってるの!?」
ここで勢い良く机を叩きながら糾弾してきた妹を見上げ、清人が営業スマイルを振り撒く。
「私は日々、真面目に真っ当に業務をこなしているだけですが。それに定時は過ぎましたがまだ業務中ですので、申し訳ありませんがお引き取り願えませんか?」
その白々しすぎる物言いに、清香はプルプルと全身を震わせてから踵を返し、絶叫しながら勢い良く駆け出した。
「まっ、真澄さんに言い付けてやるぅぅっ!! お兄ちゃんの馬鹿ぁぁ――っ!!」
「あ、おい、ちょっと待て、清香!?」
さすがに拙い事を悟った清人が、慌てて腰を浮かせて引き止めようとしたが、ここで急にジャケットのポケットを押さえて動きを止めた。
「…………っ」
その動作を見た高須は、マナーモードにしてあるスマホが震えて着信を知らせたのだろうと見当を付け、美幸に囁く。
「多分来たな、課長から」
「ですよね。蜂谷発課長宛てホットラインは、しっかり起動しているみたいです」
「しかし、あの妹さんも気の毒に……」
「激しく同感です」
そして机の仕切りに隠れている蜂谷と、何やらボソボソと話しながら廊下に出て行った清人を眺めながら、高須と美幸は心底清香に同情する顔つきになった。
それから少しして、仕事の区切りも良く、先程の騒動でこれ以上の残業をする気になれなかった美幸は、潔く仕事を切り上げて職場を後にした。そしてエレベーターで一階まで下りた彼女は、何か話しながら前方を歩いている女性二人に目を留める。
(ええと、多分あれは……)
そして急いで駆け出し、その二人組に追いついた美幸は、背後から控えめに声をかけてみた。
「矢木さん、清香さん、お疲れ様」
すると二人は振り返り、挨拶を返してくる。
「ああ、藤宮さん」
「お疲れ様です。先程はそちらでお騒がせして、すみませんでした」
「ううん、良いのよ。定時過ぎてたし、皆殆ど仕事の後始末をしていた所だったし」
清香の謝罪に軽く首を振ってから、美幸は恐る恐る二人に尋ねた。
「ところで、その……。昨日、うちの馬鹿蜂谷が食堂で騒いだせいで、色々迷惑をかけたんじゃないかと思って、気になってたんだけど……」
それを聞いた鈴音が、少々やさぐれた口調で応じる。
「迷惑? うん……、迷惑って言えば、迷惑かけられたかなぁ……。ちょっと職場全体の、心労が増えたって感じはするけどね……」
「すみません! 本当に申し訳ありません!」
「良いのよ。佐竹さんが悪いんじゃないんだし。だけどね……」
恐縮しきって頭を下げる清香を宥めてから、鈴音は空いている右手で美幸の肩をガシッと掴み、至近距離で凄んでくる。
「後輩の不手際をフォローするのは、先輩の役目だと思うの。この考え、何か間違ってる?」
常には見られないその迫力に押され、美幸は素直に頷く。
「……いえ。ごもっともです」
「そういう訳だから、この際柏木産業随一と名高い合コンプランナーの手腕を、是非とも発揮して頂きたいわ」
「好条件の男性を選りすぐって、生活環境ビジネス部のフリー女性社員の皆様に、ご紹介させて頂きます」
美幸が真顔で申し出た内容に、鈴音は満足そうに彼女の肩から手を離し、清香に向かってにっこり微笑んだ。
「期待してるわ。……さあ、明日からイケメンゲットを糧にして、仕事を頑張るわよ!? じゃあ佐竹さん、また明日!」
「……はい、お疲れさまでした」
どこか茫然としながら頭を下げた清香に背を向け、鈴音は機嫌よく去って行った。その背中を見送りながら、美幸が思わず遠い目をする。
「矢木さん……。去年までは、あんな事を公言するタイプじゃ無かったのに……」
「同感です。本当に申し訳なくて。それに他部署の藤宮さんにまでご迷惑を……」
「それは構わないから。うちの蜂谷が考え無しな事をしたせいで、大事になっちゃったしね。じゃあ帰りましょうか。清香さんも地下鉄なら、駅まで一緒に行きましょう」
「はい」
明らかに気落ちしている清香を宥めながら、美幸が社屋ビルを出て地下鉄の駅に向かうと、少し躊躇する素振りを見せてから、清香が話しかけてきた。
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