美幸の家で、予想外の人物と予想外の再会を果たして以降も、美幸からは「係長とお秀明義兄さんが、大学で同じサークル出身とは知らなかったです」と驚きの口調で言われただけで、特にトラブルは生じておらず、城崎は心の底から安堵していた。
しかし十月に入ってその事をすっかり忘れた頃に、二課の内部では表面上はささやかな、しかし結構深刻な問題が発生していた。
「課長、こちらの書類に目を通して頂けますか?」
「はい、分かりました」
二十枚程重ねた書類を城崎から渡された真澄は、何気なくそれを受け取ってから数ヶ所に貼られた付箋紙に書き込まれた内容にざっと目を通し、ハッとした様に視線を上げて城崎を見上げる。対する城崎は無言で(宜しくお願いします)とでも言う様に小さく頷くと、真澄も恐縮した様に頷き返した。
上司がこちらの言わんとする事を、きちんと察してくれた事を確認した城崎は、余計な事は言わずに部屋に備え付けてあるコーヒーメーカーに向かう。その時さり気なく席に着いていた清瀬に目配せを送ると、城崎の意図を察したらしい清瀬はさり気なく立ち上がり、休憩を取るふりをして、城崎と同様にコーヒーメーカーのある場所に向かった。
そして企画推進部の片隅で二人でコーヒーを飲みながら、世間話をしているのを装いつつ、小声で会話を交わす。
「係長、急にどうかしたのか?」
その問いかけに城崎は一瞬躊躇してから、慎重に話し出した。
「他の方にも、それとなく伝えておいて欲しいんですが……、最近、課長の仕事に小さなミスが多いんです」
「そうなのか? 特に気がつかなかったが……」
怪訝な顔をした清瀬に、城崎が僅かに眉間に皺を寄せる。
「俺がフォローできる所は注意していますから。ですが、いつもの課長らしくないと思いまして」
自分でも、どう説明すれば良いか分からない様子で語る城崎を眺めた清瀬は、とある懸念事項を口にした。
「……それはあれか? 社内でチラホラ噂になっている、アメリカ支社北米事業部長就任の話のせいか?」
「もう耳に入っていたんですか? まだ水面下での話の筈ですが。それにまだ課長の名前が候補に上がっただけですよ?」
自分は直属の部下の関係上耳にしたが、まだ部課長クラスまでの話だと思っていた城崎は本気で驚いたが、清瀬は皮肉っぽく口元を歪めた。
「それでも二課にとっては、一大事だろうが。ここは課長の為に存在している様な部署だしな。それ以上に他の人間に、俺達を使いこなせるとは思えん」
それで二課の特殊性を再認識した城崎は、それ以上無駄話はせず、苦笑いして話を纏めた。
「確かにそうですね。取り敢えず、そちらで何か気がついた時には、フォローをお願いします」
「おう、任せておけ。苦労性の係長さんにだけ、おっかぶせたりはしないさ。係長がこんな事をこそこそ頼む位だから、課長自身も結構気にしてるんだろう? 皆には俺から、こっそり伝えておく」
「宜しくお願いします」
そうして一足先にコーヒーを飲み終わった清瀬が席に戻り、傍目には従来通り落ち着き払って仕事をしている真澄を、何となく城崎が眺めていると、どこからか戻ったらしい部長の谷山が、目の前を横切りながら声を掛けてきた。
「城崎君、ちょうど良かった。手が空いているならちょっと来てくれ」
「はい、今行きます」
何だろうと思いつつ、カップの残りを急いで飲み干した城崎は、すぐに谷山の後を追って透明なアクリル壁で囲まれた部長室に入った。
「部長、何かありましたか?」
早速子細を尋ねた城崎に、何故か谷山はいつもの闊達さが鳴りを潜めた困惑気味の表情を隠さずに、手元の風呂敷包みを解きながら説明を始める。
「それが……、実は今日、社長経由で君に縁談が来た」
「はい?」
「相手は、旭日食品の藤宮社長の四女だそうだが……」
本気で困惑した声を上げた城崎に、谷山は負けず劣らずの戸惑いを含んだ声で告げた。その内容を聞いた城崎は、慎重に確認を入れる。
「あの……、そうしますと、うちの藤宮の姉に当たる女性ですよね? 確か彼女は五女だと言ってましたし」
「そのようだな。藤宮君から何か聞いてはいないか? そもそも君は、藤宮君の家族と接点が有ったのか?」
「いえ、特に何も。先月藤宮が飲み会で泥酔した時、送って行ってご家族と顔を合わせた位です」
反射的に、妹と比べると印象が薄い美野の顔を思い浮かべながら城崎が正直に述べると、谷山はさも有りなんと言った風情で頷いた。
「その顔だと、そうだろうな。しかし社長を介して来た話だから、無碍には断れん。取り敢えずこれを受け取ってくれるか? 先方の見合い写真と釣書だ。君の分は後ほど準備してくれれば良いから」
「申し訳ありませんが、お断りします。生憎、まだ結婚は考えておりませんので」
はっきりと受け取り拒否をした城崎に、谷山は些か唖然としてから、僅かに焦った様に言葉を継いだ。
「そうは言っても城崎君。君は結婚してもおかしくない年だし、社長の仲介の話を下手に断っては、後々面倒な事になりはしないか?」
至極真っ当な指摘を受けた城崎だったが、元より反骨精神は人一倍で二課に異動する時も躊躇しなかった城崎は、(自分の結婚を上に決められてたまるかよ!)と腹立たしく思いながら、口に出しては幾らかしおらしい表現で断固として拒否した。
「それ位で出世に響く様なら、どの道、大して上には行けないと思います」
落ち着き払ったその台詞を聞いて、谷山もいつもの調子を取り戻し、含み笑いで写真と釣書を元の様に風呂敷で包み始める。
「それも道理か。分かった。これは私から社長にお返ししておこう。君の意向も、きちんと伝えておく」
「お手数をおかけして、申し訳ありません。宜しくお願いします」
ひょっとしたら一悶着あるかもしれない為、谷山に頭を下げてから部長室を退出した城崎は、自分の席に戻ってから他の人間には分からない様に、重い溜め息を吐いた。
(一体何なんだ? 白鳥先輩の嫌がらせか、何かの策略か? ただでさえ職場の状況が不穏な時に、勘弁してくれ)
しかし城崎はそんな堂々巡りの思考からすぐに意識を切り替え、目の前の業務に集中していった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!